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第三章 忌み人は闇と踊る

忌み人は闇と踊る(7)

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 正面から細い石畳のアプローチを進むと、通りからの視線をわずかに避けるような位置に渋茶色のウォールナット張りの自動ドアがあります。囁きに似た機械音と共にそれが滑るように開くと、包み込むような薄闇と心安らぐアロマの芳香がたちまちあたしたちを迎え入れます。

 あたしはまだ握ったままの手を引っ張るように背伸びして、白兎はくとさんの耳元に囁きました。


「えっと――白兎さん? 最初は何をするんです?」
「希望する部屋のタイプを選ぶんだ。ほら、あそこにパネルがあるだろ?」
「……随分手慣れてるんですね、ふーん」
「まあな。ウチには定番の浮気調査の依頼も来るからな」
「……そういう意味じゃないんですけど」


 ぶすり、と顔をしかめ、いつの間にやら肩に添えられている白兎さんの手を、じろり、と一瞥いちべつしてからもごもごとつぶやくあたし。ぴと、と白兎さんに寄り添うように立っているのは薄暗がりが不安を誘うからで、何だか頬が熱いのははじめて足を履み入れた『オトナの世界』に緊張してるからで。


 だって、制服姿だし。女子高生だし。
 オトコの人って嫌い――だったし。


「灯りが消えてるのは使用中。ほら、好きなの選んでいいぜ? 折角のはじめてなんだから」
「ご――誤解される言い方しないでくださいってば!」
「? い、いや、実際見るのはじめてだろうし、さっき『後学のため』とか言ってただろ?」


 ん? とか、きょとん顔されても困るんですけど。
 芝居じゃなくってどうやら真剣大真面目っぽいから余計にイラつくんですけど。

 注がれ続ける視線に耐え切れず、適当に眼についたパネルをぶっきらぼうに指差します。


「……ここでいいです」
「普通だな。もっと違う部屋でも良いぞ。こっちなんかプール付き、温泉宿風ってのも――」
「嬉野、何だか無性に無闇に人を殴りたくなってきました。構いませんよね?」
「わ――分かった分かった! ちょっとからかってみただけだってば!」


 ぎりぎり、と万力のごとく締め上げられる右手の痛みにたまらず悲鳴をあげた白兎さんは、あたしが指し示したパネルの下から名刺大のプラスチック製カードを引き抜くと、エントランスホールのさらに奥へと誘うように歩いて行きます。ルビーの輝きを放つ透明なカードの表面には、ホテル名の『ラ・ハイドレインジァ』、ブーケのように可愛らしくデザインされた紫陽花あじさい、そして『801』の部屋ナンバーが白く彫り込まれています。


「休憩で――」
「かしこまりました」


 当たり前のように手にしたカードを差し出す白兎さんと、当たり前のように恭しく対応する寡黙な男性スタッフのやりとりを目にして、一人動揺をあらわにするのはあたしだけです。


(フ、フロントがあるなんて聞いてないんですけど!)
(ここは、この一帯でも最高級のホテルだからな。対応も何もかもが最高級なんだよ)


 大慌てで耳打ちしようとも、白兎さんは素知らぬ顔で微塵も表情を崩しません。やがて差し出されたICカード型ルームキーを受け取ろうとする白兎さんの指先には、折り畳まれて挟まれた一万円札が見えました。それにすぐに気付いた男性スタッフの手がわずかに止まります。


「少しだけ、いいか? さっきここに一人で来た女の子について聞きたい」
「……わたくしから申しあげられることはないかと思いますが」
「そうかい。なら、お互い独り言ってことなら……どうだ?」


 その問いかけに返ってきたのは無言です。男性スタッフの手は再び動き出しましたが、半ば押し付けるようにルームキーを差し出すだけで、白兎さんが二本指に挟み込んだ紙幣はそのまま残っています。その時、はじめて互いの視線が交差しました。白兎さんが微笑みかけます。


「なあ? 一応断っておくが、俺は警察サツじゃない。人探しをしているだけだ。だから――」
「……お客様。失礼ながら一言申し上げますが」


 低く押し殺したような静かなトーンで、再び視線を下げた男性スタッフが素早くさえぎります。


「当ホテルは最高級である、と我々スタッフ一同自負しておりますし、そうありたいと日々精進しております。無論、それは提供させていただくサービスだけに限らず、全ての面において、です。わたくしが申し上げたい言葉の意図は……お汲み取りいただけますでしょうか?」
「セキュリティもプライバシーも何もかも全て最高級、漏らす阿呆あほうはいない。そういう訳か」


 溜息のように吐き出された白兎さんの諦めに似た台詞に、男性スタッフは肯定の意味を含めた軽い会釈を返します。ですが、白兎さんはそこで引き下がるつもりは少しもないようで。


「確か、売春防止法第十一条『売春を行う場所を提供した者は、三年以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する』だったかな? 生憎、法律には明るくないんでね。合っていればいいが」
「………………何が仰りたいので?」


 男性スタッフは探るように視線だけを上げ、とがった怖い眼付きで白兎さんを見つめます。品の良さを感じさせるオパールをあしらったカフスが袖を飾る清潔そうな白のデザインシャツに、カラスの濡羽に似た光沢の漆黒のベストとパンツを併せた彼の細身の身体に、たちまち細波のように緊張が走ります。細いながらも引き締まった長身は、白兎さんより少し高いくらい。

 削ぎ落したようなシャープな顔の中で、一重の長く細い双眸が、すっ、とすぼめられます。


「……あまりこわいこと・・・・・を仰らないでいただけますか。こちらには他のお客様も大勢いらっしゃいますので。何かトラブルや間違いがあってはお困りになると思いますよ……お互いに」


 一貫して低姿勢な態度と口調を貫き通しながらも、男性スタッフの薄い唇から静かに紡ぎ出された不吉な予言めいた台詞はあたしの心を十分に震え上がらせました。もう帰りましょうよ、そう言い出そうとして白兎さんの腕にすがりついて見上げたのですが、



 にやり――白兎さんはこの状況下において、不敵な笑みさえ浮かべていたのです。



「おお、こえぇ。そいつはひょっとしておどしか何かか?」
「わたくしは、お困りになるでしょう、そう申しあげているだけですが」
「だが――否定はしない、だろ?」


 白兎さんは笑みをさっと消すと、あたしが今まで見たこともない獰猛どうもうそうな顔をします。


「さっき女の子が来たことも、痛い目に遭わないうちに帰れって警告もだ。なあ、違うか?」





 しばらくの重苦しい沈黙。
 そして――。





「おぅ……そのくらいにしておけよ、三下さんしたァ……。あんま調子に乗るんじゃねえぞ、コラ」


 一転、男性スタッフの口調ががらりと変わりました。白木の鞘から抜き放たれた刃のごとく凍てつく冷たさが、おののくあたしの頬をひたひたと撫でているかのように錯覚したくらいです。


「これ以上面倒なことにならないうちに、とっとと尻尾巻いて帰れ。てめぇだって制服JK連れの身だ、あの……あれだ、青少年の育成と保護に関するなんたらってのがあるはずだろ?」
「それを言うなら『青少年保護育成条例』な」


 見る間に褐色の肌をドス黒く染めた男性スタッフを尻目に、白兎さんは一本指を立てます。


「あー。ちなみにだ、『青少年とのみだらな性交や性交類似行為の禁止』ってくだりは、第十八条の六にばっちり記載されてる。きちんと覚えとけば、いずれきっと役に立つと思うぜ?」



 ああ、もう我慢の限界です!



 ありったけの力を振り絞り、優越感に浸りきっている白兎さんの薄ら笑いを引き寄せます。


(ちょ――ちょっと、白兎さんってばっ!)
(な、何だよ、祥子しょうこちゃん。そんなに慌てた顔して)
(かんっぜんに怒らせちゃってるじゃないですかっ! まずいですよまずいですって!!)
(なぁに、大丈夫だって。心配しすぎだろ)
(どう考えても、大丈夫なんて言葉、何処にも見当たりません! 馬鹿じゃないですか!?)


 あたしたちが囁き合っている隙をいて、男性スタッフはカウンター越しに素早く白兎さんの胸倉を掴み上げると、見かけにそぐわぬ膂力りょりょくで絞り上げるように引き寄せ、そして――。


「……そこまでです、蛭谷ひるや



 その時、薄暗がりの向こうからゆっくり姿を現したのは――あたしたちの良く知る女の子。



「あなたの気遣いは嬉しいのだけれど、もう十分です。その方たちは……あたしの知人です」
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