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69)ブランジュ <敗北2>
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「こ、こんにちは、ダンテスク」
ブランジュはベッドで横になっている青年に向かって、明るい口調で声を掛けた。
シユエトの言葉に嘘はなかったようだ。本当にダンテスクは、何かの深刻な病に侵されている。それは別に同情を引くための作戦でもなかった。
ブランジュはそれが嘘ではなかったことが嬉しかったのかもしれない。そのせいか、自分でも驚くほど心が浮き立つような気分だった。
それに何よりあの魔法使いの提案。
あれはあまりに気前が良すぎて、今でも信じることが出来ないのだけど、この取引が成立するということは、もうこれ以上誰も死なないということ。
シユエトやダンテスクには友情も仲間意識も感じはしないが、だからと言って死んで欲しくもない。
彼女はその事実が嬉しくて、自然と心が弾んでいるのだろうと思う。
青年はブランジュの呼びかけに応じなかったが、これまでイヤーカフから聞こえていた知的な凛々しい声のイメージと、ベッドの上の青年は重なるものがある。
彼があのダンテスク、そしてガリレイ。
「ベッドに寝たまま、塔を手に入れた魔法使いは君だけだろうな」
魔法使いもその青年に声を掛けた。
ダンテスクのそれほど狭いというわけではない部屋に、シユエト、ブランジュ、アンボメ、そしてあの魔法使いが立っている。
さっきまで壮絶な殺し合いを演じてきた者が、まだ警戒するように距離を取ってはいるが、一堂に会している。
「ねえ、あんたの名前なんだっけ?」
けっこう性格の良さそうな人だから、名前くらいは覚えておこう、ブランジュはそんなことを思いながら魔法使いに声をかけた。
「君たちには危うく殺されるところだったんだ、教えたくないね」
魔法使いはそんなことを言いながら窓際のテーブルに座り、自分の前に水晶玉を置いた。
そして自らの耳にも貝の形のイヤーカフを装着した。
「そんなケチなこと言わないでよ。名前くらいいいじゃないの」
「プラーヌスという名前だ、ダンテスクが今、教えてくれた」
息を切らせながら、シユエトが言った。何かの攻撃を受けたわけではないようだけど、シユエトはさっきからずっと肩で息をしている。
「プラーヌス?」
それを認めたからなのか、その魔法使いは肩をすくめながら自分の作業を進める。
「やあ、ダンテスク。僕の声は聞こえているかな?」
やがて水晶玉の中に男の姿が映った。ベッドに寝ている青年と全く同じ姿の男性だ。
ブランジュはベッドの青年と、水晶玉の中の青年を見比べて確認する。水晶玉の青年は、すなわち魔界に居るダンテスクの姿。その意識の物象化。
「君がこれまでに書いた魔法のプログラム、その全てを用意してくれただろうか」
その水晶玉に向かってプラーヌスは語りかけた。
――五十七のプログラムがある。俺がこれまでに書き上げた魔法だ。
少しの沈黙のあと、そのような声がプラーヌスの装着しているイヤーカフから漏れて聞こえてきた。
やはり、いつものダンテスクの声だ。
水晶玉の中のダンテスクは、大きなトランクを手に持っていた。彼はそれを開けて見せる。
「五十七か、凄いね。この僕ですら、全く新しい魔法は、十を幾つか越えたくらいしか発明出来ていない。君は本当に天才だよ!」
プラーヌスは本当に心の底から感心していると言った口調で言った。
ブランジュも魔法のプログラマーの端くれだ。ダンテスク、というかその頃はガリレイという偽名を名乗っていたが、彼と一緒に魔法のコードを書いたことがあるので、ダンテスクのその凄さはよくわかっている。
間違いなく彼は特別な存在。そんなダンテスクだから、こうやって塔を手に入れたとしても、不思議なことではないのかもしれない。
「君は魔法で、自分の身体も自由に動かすことも出来るのかい?」
――ああ、ようやく、そのコードを書き上げることが出来た。
「だとすると、現時点で君は僕を越えている。僕も身体を動かす魔法を研究していたが、さっき使った魔法が限界だ。まだまだぎこちない動きで、成功だとはとても言えない」
しかし彼はそのぎこちない魔法を使って、ダンテスクとシユエトを欺き、鮮やかに勝利を収めたのだ。
それはいくらか皮肉なことだとブランジュは思った。魔法のコードの質では負けているのだけど、実際の戦いに勝ったのはぎこちのない魔法の側。
「ではこのトランクごと、ここのアドレスに送ってくれ」
プラーヌスは石盤に文字を書いた。「それを見届けたら、こっちも約束の物を送る」
「送った。届いたはずだ」
間髪置かずにダンテスクから返事が来る。プラーヌスが石盤に何か書き込むと、水晶玉に映っていたダンテスクの姿は消え、その代わり、大量の数式とアルファベットが、上から下に流れていった。
「おお、何というエレガントなコードだ!」
それを読みながらプラーヌスが感動の声を上げた。水晶玉に点滅する光が、彼の端正な横顔を照らしていて、白いはずの肌が不気味な色に光っている。緑色、赤色、黄色と。
「本当に嬉しい、君と出会えたことを感謝する」
文字の流れが速くて、ブランジュにはほとんど読み取ることが出来なかった。
しかし今ここで読むまでもない。ブランジュはダンテスクの書くコードの美しさをよく知っている。それは宝石の結晶のように均整が取れていて、特別な日の夕焼けのように特別だ。
コードが美しいかなんて、魔法の威力や独創性とは無関係のはずである。
そもそも数式、文章で出来ている無機質な物に過ぎない。しかしその美が、知性やそのコードの書き手の美学を示す指標でもある。
「君の書いたコードをじっくりと読み込めば、僕もその発想を真似することも出来るだろう。君と同じレベルの魔法のコードが書けるはずさ」
「それでかまわない。俺はこれで夢が叶った。しばらく魔法の研究とは無縁の人生を生きたい。ただ人生というものを楽しんでみたいんだ」
「そうだね。これまで寝たきりだったのならば、きっと自由な人生に感動するはずだ」
では、僕からの約束の品物を送ろう。
魔法使いは立ち上がった。そして彼はふと視線を下に向けた。
その瞬間、偶然、太陽が雲に隠れでもしたのか、さっきまで窓から明るい光が差し込んでいた部屋が暗く翳った。
魔法使いのその横顔にも暗い影が落ちてきて、彼の優美な目鼻立ちが黒い闇に塗りつぶされる。
闇の中、彼の表情はまるで見えなくなったが、その魔法使いは何やらゴソゴソと動いている。
持っていた傘を掲げ、宝石を放り投げた、ようだ。
わずかな光を集めて、宝石が闇の中できらめいた。おそらくダイヤモンドの結晶だ。
そのダイヤモンドが砕け散った。それと同時にダンテスクが横になっているベッドの下から硬い刃物が突き出してきて、彼の心臓の辺りを突き上げた。
(え?)
ブランジュは自分の目を疑った。何かの間違いかと思ったのだ。
しかしその刃先に彼の心臓は引っ掛かっていて、血液を垂らしながら、少しずつその動きを弱めていく。
一方、シユエトはすぐに何が起きたのか理解したようで、魔法使いの近くから逃げようと身体を翻す。しかしそれも二歩までで、三歩目には彼の首だけが床に転がり落ちていた。
「ちょ、ちょっと・・・」
ブランジュは何とか声を搾り出して、そうつぶやいた。「な、何してるのよ?」
「二人とも夢見たまま死んでいったはずだ。いや、シユエトだっけ? 彼は僕の殺意を見てしまったかな。でもダンテスクのほうは何も見なかったはずだ。塔を手に入れたと思い込んだまま、死んでいったよ。夢が叶った人生の絶頂で死んだんだ」
さすがに魔法使いの声は沈んでいる。自分がとてつもなく非道な裏切りをしたというを自覚しているようだ。
その声は地獄の底から響いてくるように暗かった。
「で、でも」
「二人とも甘過ぎた。彼らでは塔の主の座を守り続けることは出来なかっただろう。いずれ誰かに塔を奪われていたはずだ。これで良かったんだよ」
「で、でも!」
ようやく大きな声が出た。ブランジュはプラーヌスの非道さを詰るために、声の限りに叫んだ。
しかし内心では、ただ怖かった。ひたすら、目の前の邪悪な魔法使いが怖くて堪らなかった。
「こんな形で他人に塔を譲ったとなると、魔法審議会も怒るはずだ。二度と彼らが僕を認めることはないだろう。もはや正当な形では塔を入手出来なくなる。だから塔の権利を他人に譲る馬鹿なんて、この世には居ないのさ。少し考えればわかるはずなんだけどね」
彼らにはわからなかったのか。
邪悪な魔法使いは大きな溜息を吐いた。
「とはいえ、信じるほうが悪い、なんて言わないよ。騙したほうが悪いだろうね。だけどあの寝たきりの青年は魔法で僕の感情を読めたはずだ。本当のところ、彼がこんな嘘に騙されるなんて思っていなかった。僕の下手な嘘を簡単に見抜いて、交渉は決裂するものだと思っていた。しかし彼は、目先の欲に惑わされたんだろうね。冷静に現実を見つめるより、自分の願望にすがりついたのさ。彼がどれだけ未熟な人間なのか、よくわかる。少なくとも戦いには向かない性格だ」
それにしても、これは凄いね。ざっと彼の書いた魔法のコードを見たけど、かなりの代物だよ。魔法のコード書きとしては、とてつもなく優秀な男だ。それは否定しない。彼を尊敬するよ。作戦次第では僕を殺せた。
話を逸らすためなのか、魔法使いは水晶玉に映るコードの羅列に再び目をやる。
「あ、悪魔だわ!」
そんな敵の魔法使いに指を突きつけ、ブランジュは罵声を浴びせかけた。「あんたは本物の悪魔よ!」
この魔法使いへの恐怖よりも、怒りが打ち勝ったのだ。
これほどの卑怯な行いを前にすると、怒りは少し遅れて実感するものなのかもしれない。そして恐怖を凌駕する。
「ああ、そうかもしれないね」
敵の邪悪な魔法使いはブランジュの言葉を意に介した様子もなく、涼しげな表情で言う。
ブランジュは身構える。次は自分が殺される番だから。
しかしそんなブランジュを見て、敵の魔法使いが皮肉な笑みを浮かべ言ってきた。
「君は殺さないよ。生きて、僕の卑劣さを喧伝すればいい。好き勝手にどうぞ」
「ど、どうしてよ?」
「それに君はあの女の子の命を助けたしね。僕の知り合いの女の子」
そう言ってから、敵の魔法使いは怪訝そうに首を傾げた。「あれ? あんな女の子知らないな・・・。そうか、それは彼の魔法で植え付けられた偽の記憶だったっけ? まあ、いずれにしろ人の命を救った君は、生きる価値のある人間さ」
彼の記憶が混乱している。すなわちダンテスクの魔法に、それなりの効果があったということだ。
もしかしたらあの作戦は上手くいっていたのではないか。
少なくとも、幾分かの可能性はあった。それなのに、それを邪魔したのはブランジュである。彼女があの女の子を魔法で異界に飛ばしたのだ。
それで女の子の命は助かったけれど、仲間たちは全員死んだ。
彼女は改めて、あのときの自分の行動の意味について考えざるを得なくなった。それは本当に正しいことだったのか?
そのとき、扉が少し強めの音でノックされた。
邪悪な魔法使いも少し驚いたように扉のほうに目をやる。もちろんブランジュも心臓が止まりそうなほど驚いた。
誰の返事を待たず、扉が開いた。
扉を開けたのは初老の男性だった。彼はいぶかしげに、ブランジュと魔法使いを見てくる。
「先程、大きな声を上げて騒いでいたのは君たちかい? 息子の友達なのかな?」
初老の男性は戸惑いと親密さの間で揺れているようだ。
もし本当に彼の友達ならば、歓迎しようとしてくれているのかもしれない。しかし敵ならば、息子を守るために、武器を握ろうとする覚悟も伺えた。
「消えるよ。早速、頂いた魔法を使う機会が来たようだ」
邪悪な魔法使いはその男性からの問い掛けに答えず、ブランジュを横目で見て、そう言った。
宝石が砕け、まずアンボメが消えた後、彼の姿もかき消えた。初老の老人はそれを見て、激しく取り乱し始めた。
自分の目の前で、人間が二人突然消えたことに驚いているのか、それとも息子が息絶えていることに気づいたのか、どっちなのかわからない。男性はその事実にも気づいたようだ。
「えーと・・・」
ブランジュは何か言い訳めいたことを言わなければと思った。あるいは気の利いた慰めの言葉でも。
しかし何も思いつかなかったので、彼女も消えた。
終わり。
ブランジュはベッドで横になっている青年に向かって、明るい口調で声を掛けた。
シユエトの言葉に嘘はなかったようだ。本当にダンテスクは、何かの深刻な病に侵されている。それは別に同情を引くための作戦でもなかった。
ブランジュはそれが嘘ではなかったことが嬉しかったのかもしれない。そのせいか、自分でも驚くほど心が浮き立つような気分だった。
それに何よりあの魔法使いの提案。
あれはあまりに気前が良すぎて、今でも信じることが出来ないのだけど、この取引が成立するということは、もうこれ以上誰も死なないということ。
シユエトやダンテスクには友情も仲間意識も感じはしないが、だからと言って死んで欲しくもない。
彼女はその事実が嬉しくて、自然と心が弾んでいるのだろうと思う。
青年はブランジュの呼びかけに応じなかったが、これまでイヤーカフから聞こえていた知的な凛々しい声のイメージと、ベッドの上の青年は重なるものがある。
彼があのダンテスク、そしてガリレイ。
「ベッドに寝たまま、塔を手に入れた魔法使いは君だけだろうな」
魔法使いもその青年に声を掛けた。
ダンテスクのそれほど狭いというわけではない部屋に、シユエト、ブランジュ、アンボメ、そしてあの魔法使いが立っている。
さっきまで壮絶な殺し合いを演じてきた者が、まだ警戒するように距離を取ってはいるが、一堂に会している。
「ねえ、あんたの名前なんだっけ?」
けっこう性格の良さそうな人だから、名前くらいは覚えておこう、ブランジュはそんなことを思いながら魔法使いに声をかけた。
「君たちには危うく殺されるところだったんだ、教えたくないね」
魔法使いはそんなことを言いながら窓際のテーブルに座り、自分の前に水晶玉を置いた。
そして自らの耳にも貝の形のイヤーカフを装着した。
「そんなケチなこと言わないでよ。名前くらいいいじゃないの」
「プラーヌスという名前だ、ダンテスクが今、教えてくれた」
息を切らせながら、シユエトが言った。何かの攻撃を受けたわけではないようだけど、シユエトはさっきからずっと肩で息をしている。
「プラーヌス?」
それを認めたからなのか、その魔法使いは肩をすくめながら自分の作業を進める。
「やあ、ダンテスク。僕の声は聞こえているかな?」
やがて水晶玉の中に男の姿が映った。ベッドに寝ている青年と全く同じ姿の男性だ。
ブランジュはベッドの青年と、水晶玉の中の青年を見比べて確認する。水晶玉の青年は、すなわち魔界に居るダンテスクの姿。その意識の物象化。
「君がこれまでに書いた魔法のプログラム、その全てを用意してくれただろうか」
その水晶玉に向かってプラーヌスは語りかけた。
――五十七のプログラムがある。俺がこれまでに書き上げた魔法だ。
少しの沈黙のあと、そのような声がプラーヌスの装着しているイヤーカフから漏れて聞こえてきた。
やはり、いつものダンテスクの声だ。
水晶玉の中のダンテスクは、大きなトランクを手に持っていた。彼はそれを開けて見せる。
「五十七か、凄いね。この僕ですら、全く新しい魔法は、十を幾つか越えたくらいしか発明出来ていない。君は本当に天才だよ!」
プラーヌスは本当に心の底から感心していると言った口調で言った。
ブランジュも魔法のプログラマーの端くれだ。ダンテスク、というかその頃はガリレイという偽名を名乗っていたが、彼と一緒に魔法のコードを書いたことがあるので、ダンテスクのその凄さはよくわかっている。
間違いなく彼は特別な存在。そんなダンテスクだから、こうやって塔を手に入れたとしても、不思議なことではないのかもしれない。
「君は魔法で、自分の身体も自由に動かすことも出来るのかい?」
――ああ、ようやく、そのコードを書き上げることが出来た。
「だとすると、現時点で君は僕を越えている。僕も身体を動かす魔法を研究していたが、さっき使った魔法が限界だ。まだまだぎこちない動きで、成功だとはとても言えない」
しかし彼はそのぎこちない魔法を使って、ダンテスクとシユエトを欺き、鮮やかに勝利を収めたのだ。
それはいくらか皮肉なことだとブランジュは思った。魔法のコードの質では負けているのだけど、実際の戦いに勝ったのはぎこちのない魔法の側。
「ではこのトランクごと、ここのアドレスに送ってくれ」
プラーヌスは石盤に文字を書いた。「それを見届けたら、こっちも約束の物を送る」
「送った。届いたはずだ」
間髪置かずにダンテスクから返事が来る。プラーヌスが石盤に何か書き込むと、水晶玉に映っていたダンテスクの姿は消え、その代わり、大量の数式とアルファベットが、上から下に流れていった。
「おお、何というエレガントなコードだ!」
それを読みながらプラーヌスが感動の声を上げた。水晶玉に点滅する光が、彼の端正な横顔を照らしていて、白いはずの肌が不気味な色に光っている。緑色、赤色、黄色と。
「本当に嬉しい、君と出会えたことを感謝する」
文字の流れが速くて、ブランジュにはほとんど読み取ることが出来なかった。
しかし今ここで読むまでもない。ブランジュはダンテスクの書くコードの美しさをよく知っている。それは宝石の結晶のように均整が取れていて、特別な日の夕焼けのように特別だ。
コードが美しいかなんて、魔法の威力や独創性とは無関係のはずである。
そもそも数式、文章で出来ている無機質な物に過ぎない。しかしその美が、知性やそのコードの書き手の美学を示す指標でもある。
「君の書いたコードをじっくりと読み込めば、僕もその発想を真似することも出来るだろう。君と同じレベルの魔法のコードが書けるはずさ」
「それでかまわない。俺はこれで夢が叶った。しばらく魔法の研究とは無縁の人生を生きたい。ただ人生というものを楽しんでみたいんだ」
「そうだね。これまで寝たきりだったのならば、きっと自由な人生に感動するはずだ」
では、僕からの約束の品物を送ろう。
魔法使いは立ち上がった。そして彼はふと視線を下に向けた。
その瞬間、偶然、太陽が雲に隠れでもしたのか、さっきまで窓から明るい光が差し込んでいた部屋が暗く翳った。
魔法使いのその横顔にも暗い影が落ちてきて、彼の優美な目鼻立ちが黒い闇に塗りつぶされる。
闇の中、彼の表情はまるで見えなくなったが、その魔法使いは何やらゴソゴソと動いている。
持っていた傘を掲げ、宝石を放り投げた、ようだ。
わずかな光を集めて、宝石が闇の中できらめいた。おそらくダイヤモンドの結晶だ。
そのダイヤモンドが砕け散った。それと同時にダンテスクが横になっているベッドの下から硬い刃物が突き出してきて、彼の心臓の辺りを突き上げた。
(え?)
ブランジュは自分の目を疑った。何かの間違いかと思ったのだ。
しかしその刃先に彼の心臓は引っ掛かっていて、血液を垂らしながら、少しずつその動きを弱めていく。
一方、シユエトはすぐに何が起きたのか理解したようで、魔法使いの近くから逃げようと身体を翻す。しかしそれも二歩までで、三歩目には彼の首だけが床に転がり落ちていた。
「ちょ、ちょっと・・・」
ブランジュは何とか声を搾り出して、そうつぶやいた。「な、何してるのよ?」
「二人とも夢見たまま死んでいったはずだ。いや、シユエトだっけ? 彼は僕の殺意を見てしまったかな。でもダンテスクのほうは何も見なかったはずだ。塔を手に入れたと思い込んだまま、死んでいったよ。夢が叶った人生の絶頂で死んだんだ」
さすがに魔法使いの声は沈んでいる。自分がとてつもなく非道な裏切りをしたというを自覚しているようだ。
その声は地獄の底から響いてくるように暗かった。
「で、でも」
「二人とも甘過ぎた。彼らでは塔の主の座を守り続けることは出来なかっただろう。いずれ誰かに塔を奪われていたはずだ。これで良かったんだよ」
「で、でも!」
ようやく大きな声が出た。ブランジュはプラーヌスの非道さを詰るために、声の限りに叫んだ。
しかし内心では、ただ怖かった。ひたすら、目の前の邪悪な魔法使いが怖くて堪らなかった。
「こんな形で他人に塔を譲ったとなると、魔法審議会も怒るはずだ。二度と彼らが僕を認めることはないだろう。もはや正当な形では塔を入手出来なくなる。だから塔の権利を他人に譲る馬鹿なんて、この世には居ないのさ。少し考えればわかるはずなんだけどね」
彼らにはわからなかったのか。
邪悪な魔法使いは大きな溜息を吐いた。
「とはいえ、信じるほうが悪い、なんて言わないよ。騙したほうが悪いだろうね。だけどあの寝たきりの青年は魔法で僕の感情を読めたはずだ。本当のところ、彼がこんな嘘に騙されるなんて思っていなかった。僕の下手な嘘を簡単に見抜いて、交渉は決裂するものだと思っていた。しかし彼は、目先の欲に惑わされたんだろうね。冷静に現実を見つめるより、自分の願望にすがりついたのさ。彼がどれだけ未熟な人間なのか、よくわかる。少なくとも戦いには向かない性格だ」
それにしても、これは凄いね。ざっと彼の書いた魔法のコードを見たけど、かなりの代物だよ。魔法のコード書きとしては、とてつもなく優秀な男だ。それは否定しない。彼を尊敬するよ。作戦次第では僕を殺せた。
話を逸らすためなのか、魔法使いは水晶玉に映るコードの羅列に再び目をやる。
「あ、悪魔だわ!」
そんな敵の魔法使いに指を突きつけ、ブランジュは罵声を浴びせかけた。「あんたは本物の悪魔よ!」
この魔法使いへの恐怖よりも、怒りが打ち勝ったのだ。
これほどの卑怯な行いを前にすると、怒りは少し遅れて実感するものなのかもしれない。そして恐怖を凌駕する。
「ああ、そうかもしれないね」
敵の邪悪な魔法使いはブランジュの言葉を意に介した様子もなく、涼しげな表情で言う。
ブランジュは身構える。次は自分が殺される番だから。
しかしそんなブランジュを見て、敵の魔法使いが皮肉な笑みを浮かべ言ってきた。
「君は殺さないよ。生きて、僕の卑劣さを喧伝すればいい。好き勝手にどうぞ」
「ど、どうしてよ?」
「それに君はあの女の子の命を助けたしね。僕の知り合いの女の子」
そう言ってから、敵の魔法使いは怪訝そうに首を傾げた。「あれ? あんな女の子知らないな・・・。そうか、それは彼の魔法で植え付けられた偽の記憶だったっけ? まあ、いずれにしろ人の命を救った君は、生きる価値のある人間さ」
彼の記憶が混乱している。すなわちダンテスクの魔法に、それなりの効果があったということだ。
もしかしたらあの作戦は上手くいっていたのではないか。
少なくとも、幾分かの可能性はあった。それなのに、それを邪魔したのはブランジュである。彼女があの女の子を魔法で異界に飛ばしたのだ。
それで女の子の命は助かったけれど、仲間たちは全員死んだ。
彼女は改めて、あのときの自分の行動の意味について考えざるを得なくなった。それは本当に正しいことだったのか?
そのとき、扉が少し強めの音でノックされた。
邪悪な魔法使いも少し驚いたように扉のほうに目をやる。もちろんブランジュも心臓が止まりそうなほど驚いた。
誰の返事を待たず、扉が開いた。
扉を開けたのは初老の男性だった。彼はいぶかしげに、ブランジュと魔法使いを見てくる。
「先程、大きな声を上げて騒いでいたのは君たちかい? 息子の友達なのかな?」
初老の男性は戸惑いと親密さの間で揺れているようだ。
もし本当に彼の友達ならば、歓迎しようとしてくれているのかもしれない。しかし敵ならば、息子を守るために、武器を握ろうとする覚悟も伺えた。
「消えるよ。早速、頂いた魔法を使う機会が来たようだ」
邪悪な魔法使いはその男性からの問い掛けに答えず、ブランジュを横目で見て、そう言った。
宝石が砕け、まずアンボメが消えた後、彼の姿もかき消えた。初老の老人はそれを見て、激しく取り乱し始めた。
自分の目の前で、人間が二人突然消えたことに驚いているのか、それとも息子が息絶えていることに気づいたのか、どっちなのかわからない。男性はその事実にも気づいたようだ。
「えーと・・・」
ブランジュは何か言い訳めいたことを言わなければと思った。あるいは気の利いた慰めの言葉でも。
しかし何も思いつかなかったので、彼女も消えた。
終わり。
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この作品は感想を受け付けておりません。
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