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〈5 錯綜クインテット〉
ep98 希望を抱いても、抱いても
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不審なバイクから逃げていると、足がもつれて転んでしまった。手のひらと膝が、すりむいてひりひり痛い。全身水の中にもぐったみたいにぐっしょりで、靴の中もぐしゅぐしゅで、顔中、涙やら鼻水やらが雨に混ざって、人に見せられないくらいにはぐしゃぐしゃだった。
精神的にも体力的にも、走り続けるのはもう限界だ。重くて足が上がらないし、頭はガンガンして、目の前も真っ白なくらいにチカチカ光って、心臓も肺も、破けるんじゃないかってくらいに痛くて、それでも、バイクのエンジン音が聞こえると、さっきの不審なバイクが追いかけてきたんだと思って、わたしは必死に足を動かし続けた。
せめてどこか、隠れられる場所を探さないと……。この辺は人通りも少ないし、住宅街で逃げ込めるような場所もない。たしかこの辺は、ちなちゃんの家が近かったはず。
さっきは、友達じゃないって言われちゃったけど、きっとちなちゃん、まだ怒ってるんだ。ちゃんと謝ったら許してくれるかな。もう、篠原くんと関わったりしないって。桜花咲のことは諦めるって言えば、また仲良くしてくれるかな。
ちゃんと話せば家に匿ってくれるはず……ちなちゃんはやさしいし、昔から友達思いだったから。ちなちゃんならきっと、助けてくれるはずだ……。
ようやくちなちゃんの家の屋根が見えてきて、わたしはほっとしながら、ちなちゃんの家を目指した。
ちなちゃんの家の前には、ちなちゃんと、篠原くん、そして山口さんが立っていた。
こんな雨の日に、3人で何をしているのかなんて考えている余裕は、今のわたしにはなかった。ずっとひとりで怖い思いをしてたから、知り合いに会えたことが嬉しくて、わたしは疲れているのも忘れて、みんなの方へ走った。
「最初から津田さんを親友だなんて思ったことはなかった。自分でそう言っただろ!」
篠原くんの怒鳴り声に、わたしは足を止めた。
*
髪の毛の先を雫が垂れた。身体はすっかり冷えてしまって、寒くて寒くてたまらなかった。うすく皮がむけてひりひり痛む膝を抱えて座る。濡れた制服が身体にまとわりついて、靴の中が冷たくて気持ち悪い。
あの場にいられなくなって、咄嗟に逃げてきてしまった。
公園にあるトンネル型の遊具にもぐって雨をしのぐ。中は落ち葉とか虫の死骸があって、あまり居心地のいい場所じゃないけど、まだ不審なバイクがこの辺を走ってるかもしれないし、家まで帰る体力ももうないし、雨の中を歩きまわっているよりはましだ。
投げ捨てたカバン、後で取りに行かなくちゃ。まだあるかな。中にはスマホが入ってるのに、誰かに持っていかれたりしてないかな。もしかしたら、雨に濡れてスマホはもう壊れちゃってるかも。スマホを壊したなんて言ったら、お母さんに怒られちゃうな。
本当にちなちゃんは、わたしのこと、親友だなんて思ってなかったのかな。親友だって言ってくれたのは、なんだったんだろう。でも、そうだよね。わたしと違って、ちなちゃんには友達が沢山いるんだもん。わたしよりも大切な友達だっているだろうし、考えてみたら、わたしなんかがちなちゃんの一番の友達なわけがなかったんだ。バカだなぁ、わたし。親友なんて社交辞令みたいなものだったんだ。それを鵜呑みにして浮かれちゃってさ。ちなちゃんにとっては、沢山いる知り合いのひとりでしかなかったのに。
明日、学校どうしよう。遠藤さんが怖い。またいじめられるのが怖い。明日もあの高校生たちが、わたしをさがしているんだろうか。やだ、怖いよ。学校に行きたくないよ。
こんなときこそ冷静になろうと思うのに、冷静になろうとする気持ちと、ごまかしようのないほどの心の痛みが、綱引きみたいに引っ張り合って、身体が左右真っ二つに引き裂かれてしまいそうだった。
ぼろぼろと涙がこぼれて、ぬぐってもぬぐっても溢れ出てくる涙に、息を殺して泣きじゃくる。痛くて、悲しくて、苦しくて、辛くて、悔しくて。なんで自分はいつもこうなんだろうって、情けなくて、怖かった。
雨が降り続いている。まだ止む気配はない。立ち上がる気力もない。
「津田さん、見つけた」
突然かけられた声に、わたしはびっくりして肩が震えた。顔を上げると、傘をさした篠原くんが、腰をかがめてトンネルの中を覗いていた。
わたしと目が合うと、篠原くんは優しい顔で微笑んだ。
「津田さん、ごめんね。津田さんを見つけるの、少し手間取った」
「……」
篠原くんから目を逸らして、膝の上に顔をうずめる。何も話したくはなかったし、話す元気もない。
「怖いかったね、大丈夫? 膝、怪我してる。このままだと風邪を引いちゃうよ。家に帰ろう?」
「……カバン」
「ん?」
「……カバン、取りに行かないと」
だから、篠原くんは帰っていいよ。カバンを取りに行かなきゃいけないから。
「探してくるよ。落としたのは、どのあたり?」
探してほしいなんて、言ったつもりないのに。
「……良いです。あとで取りに行きます」
「取りに行くよ。津田さんは、待っていてくれればいいから」
わたしが何を言っても、取りに行くつもりの篠原くんに、わたしは観念してトンネルの遊具の中から這い出た。
「わたしも、一緒に行きます」
不審なバイクと遭遇した場所まで篠原くんと戻ってくると、カバンはそのまま、投げ捨てた場所に転がっていた。
今日、天気予報を見るのを忘れてた。折り畳み傘くらい、入れておけばよかったな……。
家に向かって歩き出すと、篠原くんはわたしが雨に濡れないように差し出した傘を傾けた。
「……遠藤さんのこと、守ってあげられなかった。ごめんね」
何も言わずにただ地面を見つめて歩いていると、恐る恐る、篠原くんが謝った。
「それから、本田さんの家の前で言ったことも」
「……ごめん」篠原くんにしては珍しいくらいに弱々しい声で謝る篠原くんに、わたしは地面に視線を落としたまま「篠原くんに怒ってることなんて、何もないですよ」とこたえた。
篠原くんは、何も悪いことをしていない。遠藤に関してはわたしの不注意が招いた結果だし、ちなちゃんに友達じゃないと言われたことは、わたしとちなちゃんの問題だ。ちなちゃんの家の前で篠原くんが言った言葉は、きっとちなちゃんの本心だと思うから。
「……もう……いいんです」
雨粒が傘を叩くたびに、小さなおもりを乗っけられているみたいだ。心が今、すごく重たい。
なんだかもう、疲れちゃった。
「……桜花咲を受験するの……やめますから……」
翌日、わたしは39度の熱を出して学校を休んだ。
布団の中で朦朧としたまま、何度も目が覚めては眠ってを繰り返した。その時に見る夢は、大抵が悪夢だ。見ていて一番きつかった夢は、学校で誰にも気づいてもらえない夢だった。
智子ちゃんに話しかけても、西田くんに話かけても、篠原くんに話しかけても、ちなちゃんに話しかけても、誰もわたしに気付かない夢。まるで自分が、幽霊にでもなったみたいだった。西田くんと智子ちゃんが楽しそうに話しているのに、内容が全く聞き取れなくて、何をそんなに楽しそうに話しているのかわからなかった。篠原くんとちなちゃんも、わたしには全く目もくれず、普通の日常生活を送っている。わたしはみんなに気づいてもらおうと必死で、名前を呼んだり、肩を揺さぶったりするけれど、誰もこっちを見てくれない、そんな夢。
そんな悪夢を見て目を覚ましては、喉がカラカラに渇いているのに気づいて、ふらふらとした足取りで水道まで行って水を飲む。そんな3日間だった。
熱が引いた後も、学校を休んだ。一週間が過ぎて風邪が完全に治っても、学校に行かなかった。
失くしたと思っていたスマホは、西田くんたちが届けてくれた。篠原くんも、毎日お見舞いに来てくれた。でも、わたしは誰にも会うことができなかった。
もう、わたしには、前進するチカラは少しも残っていなかった。高校を受験をする気は、もうない。どうせ進学したところで、学校に通えるわけがないから。勉強もする気にもならない。何もしたくない。
心の中はぐちゃぐちゃで、頭はぼーっとして、身体が怠い。ただ、ベッドの上で横になっているだけで精一杯で、今日も何もしないまま、一日が過ぎた。
精神的にも体力的にも、走り続けるのはもう限界だ。重くて足が上がらないし、頭はガンガンして、目の前も真っ白なくらいにチカチカ光って、心臓も肺も、破けるんじゃないかってくらいに痛くて、それでも、バイクのエンジン音が聞こえると、さっきの不審なバイクが追いかけてきたんだと思って、わたしは必死に足を動かし続けた。
せめてどこか、隠れられる場所を探さないと……。この辺は人通りも少ないし、住宅街で逃げ込めるような場所もない。たしかこの辺は、ちなちゃんの家が近かったはず。
さっきは、友達じゃないって言われちゃったけど、きっとちなちゃん、まだ怒ってるんだ。ちゃんと謝ったら許してくれるかな。もう、篠原くんと関わったりしないって。桜花咲のことは諦めるって言えば、また仲良くしてくれるかな。
ちゃんと話せば家に匿ってくれるはず……ちなちゃんはやさしいし、昔から友達思いだったから。ちなちゃんならきっと、助けてくれるはずだ……。
ようやくちなちゃんの家の屋根が見えてきて、わたしはほっとしながら、ちなちゃんの家を目指した。
ちなちゃんの家の前には、ちなちゃんと、篠原くん、そして山口さんが立っていた。
こんな雨の日に、3人で何をしているのかなんて考えている余裕は、今のわたしにはなかった。ずっとひとりで怖い思いをしてたから、知り合いに会えたことが嬉しくて、わたしは疲れているのも忘れて、みんなの方へ走った。
「最初から津田さんを親友だなんて思ったことはなかった。自分でそう言っただろ!」
篠原くんの怒鳴り声に、わたしは足を止めた。
*
髪の毛の先を雫が垂れた。身体はすっかり冷えてしまって、寒くて寒くてたまらなかった。うすく皮がむけてひりひり痛む膝を抱えて座る。濡れた制服が身体にまとわりついて、靴の中が冷たくて気持ち悪い。
あの場にいられなくなって、咄嗟に逃げてきてしまった。
公園にあるトンネル型の遊具にもぐって雨をしのぐ。中は落ち葉とか虫の死骸があって、あまり居心地のいい場所じゃないけど、まだ不審なバイクがこの辺を走ってるかもしれないし、家まで帰る体力ももうないし、雨の中を歩きまわっているよりはましだ。
投げ捨てたカバン、後で取りに行かなくちゃ。まだあるかな。中にはスマホが入ってるのに、誰かに持っていかれたりしてないかな。もしかしたら、雨に濡れてスマホはもう壊れちゃってるかも。スマホを壊したなんて言ったら、お母さんに怒られちゃうな。
本当にちなちゃんは、わたしのこと、親友だなんて思ってなかったのかな。親友だって言ってくれたのは、なんだったんだろう。でも、そうだよね。わたしと違って、ちなちゃんには友達が沢山いるんだもん。わたしよりも大切な友達だっているだろうし、考えてみたら、わたしなんかがちなちゃんの一番の友達なわけがなかったんだ。バカだなぁ、わたし。親友なんて社交辞令みたいなものだったんだ。それを鵜呑みにして浮かれちゃってさ。ちなちゃんにとっては、沢山いる知り合いのひとりでしかなかったのに。
明日、学校どうしよう。遠藤さんが怖い。またいじめられるのが怖い。明日もあの高校生たちが、わたしをさがしているんだろうか。やだ、怖いよ。学校に行きたくないよ。
こんなときこそ冷静になろうと思うのに、冷静になろうとする気持ちと、ごまかしようのないほどの心の痛みが、綱引きみたいに引っ張り合って、身体が左右真っ二つに引き裂かれてしまいそうだった。
ぼろぼろと涙がこぼれて、ぬぐってもぬぐっても溢れ出てくる涙に、息を殺して泣きじゃくる。痛くて、悲しくて、苦しくて、辛くて、悔しくて。なんで自分はいつもこうなんだろうって、情けなくて、怖かった。
雨が降り続いている。まだ止む気配はない。立ち上がる気力もない。
「津田さん、見つけた」
突然かけられた声に、わたしはびっくりして肩が震えた。顔を上げると、傘をさした篠原くんが、腰をかがめてトンネルの中を覗いていた。
わたしと目が合うと、篠原くんは優しい顔で微笑んだ。
「津田さん、ごめんね。津田さんを見つけるの、少し手間取った」
「……」
篠原くんから目を逸らして、膝の上に顔をうずめる。何も話したくはなかったし、話す元気もない。
「怖いかったね、大丈夫? 膝、怪我してる。このままだと風邪を引いちゃうよ。家に帰ろう?」
「……カバン」
「ん?」
「……カバン、取りに行かないと」
だから、篠原くんは帰っていいよ。カバンを取りに行かなきゃいけないから。
「探してくるよ。落としたのは、どのあたり?」
探してほしいなんて、言ったつもりないのに。
「……良いです。あとで取りに行きます」
「取りに行くよ。津田さんは、待っていてくれればいいから」
わたしが何を言っても、取りに行くつもりの篠原くんに、わたしは観念してトンネルの遊具の中から這い出た。
「わたしも、一緒に行きます」
不審なバイクと遭遇した場所まで篠原くんと戻ってくると、カバンはそのまま、投げ捨てた場所に転がっていた。
今日、天気予報を見るのを忘れてた。折り畳み傘くらい、入れておけばよかったな……。
家に向かって歩き出すと、篠原くんはわたしが雨に濡れないように差し出した傘を傾けた。
「……遠藤さんのこと、守ってあげられなかった。ごめんね」
何も言わずにただ地面を見つめて歩いていると、恐る恐る、篠原くんが謝った。
「それから、本田さんの家の前で言ったことも」
「……ごめん」篠原くんにしては珍しいくらいに弱々しい声で謝る篠原くんに、わたしは地面に視線を落としたまま「篠原くんに怒ってることなんて、何もないですよ」とこたえた。
篠原くんは、何も悪いことをしていない。遠藤に関してはわたしの不注意が招いた結果だし、ちなちゃんに友達じゃないと言われたことは、わたしとちなちゃんの問題だ。ちなちゃんの家の前で篠原くんが言った言葉は、きっとちなちゃんの本心だと思うから。
「……もう……いいんです」
雨粒が傘を叩くたびに、小さなおもりを乗っけられているみたいだ。心が今、すごく重たい。
なんだかもう、疲れちゃった。
「……桜花咲を受験するの……やめますから……」
翌日、わたしは39度の熱を出して学校を休んだ。
布団の中で朦朧としたまま、何度も目が覚めては眠ってを繰り返した。その時に見る夢は、大抵が悪夢だ。見ていて一番きつかった夢は、学校で誰にも気づいてもらえない夢だった。
智子ちゃんに話しかけても、西田くんに話かけても、篠原くんに話しかけても、ちなちゃんに話しかけても、誰もわたしに気付かない夢。まるで自分が、幽霊にでもなったみたいだった。西田くんと智子ちゃんが楽しそうに話しているのに、内容が全く聞き取れなくて、何をそんなに楽しそうに話しているのかわからなかった。篠原くんとちなちゃんも、わたしには全く目もくれず、普通の日常生活を送っている。わたしはみんなに気づいてもらおうと必死で、名前を呼んだり、肩を揺さぶったりするけれど、誰もこっちを見てくれない、そんな夢。
そんな悪夢を見て目を覚ましては、喉がカラカラに渇いているのに気づいて、ふらふらとした足取りで水道まで行って水を飲む。そんな3日間だった。
熱が引いた後も、学校を休んだ。一週間が過ぎて風邪が完全に治っても、学校に行かなかった。
失くしたと思っていたスマホは、西田くんたちが届けてくれた。篠原くんも、毎日お見舞いに来てくれた。でも、わたしは誰にも会うことができなかった。
もう、わたしには、前進するチカラは少しも残っていなかった。高校を受験をする気は、もうない。どうせ進学したところで、学校に通えるわけがないから。勉強もする気にもならない。何もしたくない。
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