大いなる神秘の鍵

エリファス1810

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第1部 宗教の神秘

第1部 第2条

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ヨハネの黙示録によって描いた大いなるpantacle




第1部 第2条

 第2の問題の解決

 議論の余地が無い様に、真の宗教の存在を確証する事

 真の宗教

 思いやりの様に、宗教は、人性の中に存在する。
 思いやりの様に、宗教は、唯一である。
 思いやりの様に、宗教は、正しい人の魂には存在し、悪人の魂には存在しない。
 しかし、人が、宗教を受け入れようと、宗教を拒絶しようと、宗教は、人性の中に存在する。
 そのため、宗教は、命の中に存在する。
 宗教は、自然の中に存在する。
 宗教は、議論の余地が無い、科学的事実である。
 宗教は、議論の余地が無い、論理的事実ですらある。
 真の宗教は、過去、常に存在していた物、現在、存在している物、未来永劫、存在する物である。
 誰かが、「宗教とは、あれこれである」と言うかもしれないが、宗教とは、存在する通りの物である。
 存在する通りの物が、真の宗教である!
 偽の宗教は、真の宗教を模倣した迷信、真の宗教から盗用した迷信、真の宗教の虚偽の影である!
 真の美術について言える事が、真の宗教についても言える。
 描画や彫刻での厳しい試みは、無知から真理へ到達するための試みである。
 美術は、自身だけで自分の力を示し、自身の輝きで輝き、美の様に唯一であり永遠である。
 真の宗教は美しい。
 美という神性によって、真の宗教は、知と学問が真の宗教を畏敬する事を課し、論理と人の理性による真の宗教への承認を獲得できる。
 知は、真の宗教にとっては真理である教えの仮定をあえて肯定も否定もしない。
 ただし、知は、間違え様の無い性質によって、真の宗教を必ず認める。
 言い換えると、知は、真の宗教が人の魂の大いなる普遍の向上と一致する性質を全て統一しているので、真の宗教だけが「宗教」という名前に値する事を必ず認める。
 全ての者にとって最も明らかに神聖な唯一の物が、世界にあらわれている。
 世界にあらわれている、全ての者にとって最も明らかに神聖な唯一の物とは、思いやりである。
 真の宗教の務めとは、思いやりの精神を引き起こし、保護し、他へ広げる事であるべきである。
 思いやりの精神を引き起こし、保護し、他へ広げるという目的を達成するには、真の宗教は自ら、思いやりの全ての特徴を所有する必要が有る。
 真の宗教が思いやりを体現すれば、人は、「組織的な思いやり」、「思いやりの組織」、「思いやりによる相互扶助組織」という名前を真の宗教に与えて、真の宗教を満足に定義できる。
 さて、思いやりの特徴とは何であろうか?
 コリント人への第1の手紙13章4節から7節で、使徒パウロが、思いやりの特徴を人に教えてくれるであろう。

「思いやりは忍耐強い」
「慈愛は忍耐強い」
「愛は忍耐強い」

 神の様に、思いやりは、忍耐強い。
 なぜなら、神が永遠である様に、思いやりは永遠である。
 思いやりが有る者は、迫害を忍耐し、他者を迫害しない。
 思いやりが有る者は、親切であり、愛情を表し、幼子といった「小さい者」を呼び寄せ、大いなる者を追い払わない。
 思いやりが有る者は、嫉妬しない。
 誰に、何について、思いやりが有る者が嫉妬するというのか? いいえ! 思いやりが有る者は、嫉妬しない!
 他のものが持っているよりも、思いやりには、奪われる事が無い、より良い(神からの)分け前が無いか? はい! 他のものが持っているよりも、思いやりには、奪われる事が無い、より良い(神からの)分け前が有る!
 思いやりが有る者は、言い争いを好まず、陰謀を企まない。
 思いやりが有る者には、傲慢、野心、利己心、怒りが無い。
 思いやりは、悪い事を考えず、不正に勝利しない。
 実に、全ての者は、思いやりによる喜びに理解を示す。
 思いやりは、常に悪は許さないが、全てのものを忍耐する。
 思いやりは、全ての者を信じる。
 思いやりによる真の宗教は、簡潔であり、従順であり、位階制であり、普遍である。
 思いやりは、全てのものを支え、思いやりが先に負わない重荷を他者に負わせない。
 大いなる思索家と殉教者による真の宗教は、忍耐強い。
 イエス キリストと12使徒の様に、ヴァンサン ド ポールの様に、フランソワ フェヌロンの様に、真の宗教は、思いやり深い。
 真の宗教とは、カトリックである。
 真の宗教の信者は、地の位階や物に嫉妬しない。
 真の宗教は、「荒野の教父」の宗教、アッシジのフランチェスコの宗教、ケルンのブルーノの宗教、ヴァンサン ド ポールの「愛徳姉妹会」の宗教、「聖ヨハネ病院修道会」の宗教である。
 真の宗教の信者は、言い争いを好まず、陰謀を企まない。
 真の宗教の信者は、祈り、善行をし、待機する。
 真の宗教の信者は、謙虚である。
 真の宗教の信者は、感じの良い者である。
 真の宗教は、献身と自己犠牲だけを鼓舞する。
 要約すると、真の宗教には、思いやりの全ての特徴が有る。
 なぜなら、真の宗教とは、思いやり、その物である。
 逆に、人は、忍耐が無くて怒り易く、迫害者であり、嫉妬深く、残酷であり、野心に燃え、不公正である。
 人は、中傷に成功した真の宗教の名前、命をもたらす気が無い真の宗教の名前においてすら、自身が忍耐が無くて怒り易く、迫害者であり、嫉妬深く、残酷であり、野心に燃え、不公正であると示す。
 人は滅ぶが、真理は永遠である。
 思いやりは思いやりの娘として真の宗教をもたらし、真の宗教は思いやりの更なる創造主として思いやりを更にもたらす。
 本質的に、真の宗教は、実現する者である。
 真の宗教は、真の宗教による、思いやりといった奇跡を信じる。
 (他の奇跡よりも、他人を思いやれる事は奇跡的である。)
 なぜなら、毎日、真の宗教は自ら、慈善行為を実践して、思いやりといった奇跡を成就している。
 慈善行為を実践する宗教は、慈善行為を実践する宗教が神の思いやりの全ての夢を実現できると自惚れても良い。
 さらに、位階制の教会の宗教であるカトリックは、秘跡の効力によって、神秘主義を現実主義に性質改善できる。
 これ以上、神の思いやりによる力が無い象徴、約束した物を実際にはもたらさない象徴は、いらない!
 真の宗教は、命を全てのものにもたらす。
 ある程度、真の宗教は、全てのものを、目に見え、手で触れられるものにする。
 イエス キリストの例え話ですら、体と魂と成る。
 イエス キリストの例え話は、血肉と成る。
 エルサレムで、人は、ルカによる福音16章19節から31節の例え話の悪い金持ちの家を実際に見る事ができる!!
 科学が打ち倒して信心という命を奪ってしまった、精神を失くした形骸化した古代の宗教の象徴は、エゼキエル書37章で預言者エゼキエルが幻視で見た、色を失った骨が散って覆っている平野に似ている。
 エゼキエル書37章9節で、救い主イエスの精神、真の宗教の精神、思いやりの精神が、色を失った骨の様に形骸化した象徴という塵に息を吹き込んだ。
 イエスの精神、真の宗教の精神、思いやりの精神が形骸化した象徴に息を吹き込むと、死んだ全てのものは、命を再び取り戻して、復活した。
 イエスの精神、真の宗教の精神、思いやりの精神によって復活した、現在、生きているものは、過去、死体であったと、もう人が思い出せないほど現実的に命に満ちあふれている。
 イエスの精神、真の宗教の精神、思いやりの精神によって世界が復活したのに、使徒行伝19章19節で使徒パウロはエフェソスの大衆が秘儀祭司の書物を燃やすのを止めなかったのに、なぜ、象徴が形骸化していたと人は思い出せるであろうか? いいえ! イエスの精神、真の宗教の精神、思いやりの精神によって世界が復活したので、使徒行伝19章19節で使徒パウロはエフェソスの大衆が秘儀祭司の書物を燃やすのを止めなかったので、象徴が形骸化していたと人は思い出せない!
 使徒行伝19章19節でエフェソスの大衆が魔術の書物を燃やすのを止めなかった使徒パウロは、粗野であったか?
 知に対して罪を犯したのか?
 いいえ。
 ただ、使徒行伝19章19節で使徒パウロは、復活した魔術の、過去の遺物という屍衣だけをエフェソスの大衆が燃やすのを止めなかったに過ぎない。
 使徒行伝19章19節のエフェソスの大衆は、復活した魔術の、過去の死を忘れていた。
 それでは、なぜ、現代、エリファス レヴィは真の宗教の教えのカバラ的な起源を思い出させようとしているのか?
 なぜ、エリファス レヴィは聖書の象徴とヘルメスの象徴のつながりを再確認させようとしているのか?
 使徒行伝19章19節でエフェソスの大衆が魔術の書物を燃やすのを止めなかった使徒パウロを非難するためか? いいえ! 真の宗教であるカトリックの信者に不信を抱かせるためか? いいえ!
 なぜなら、実は、真の宗教の信者には、エリファス レヴィの本は不要である。
 真の宗教の信者は、エリファス レヴィの本を読まないであろう。
 真の宗教の信者は、エリファス レヴィの本の内容の理解を望まないであろう。
 エリファス レヴィは、宗教に不信を抱く無数の大衆に、真の宗教が全ての時代の論理、全ての賢者の知と結びついている事を示したいのである。
 真の宗教という神聖な権威が人の自由意思と人の理性を再び迫害できない様にするため、エリファス レヴィは、人の自由意思に真の宗教という神聖な権威を畏敬させたいし、人の理性に真の宗教の根拠を認めさせたいのである。
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