大いなる神秘の鍵

エリファス1810

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第1部 宗教の神秘

第1部 第4条

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第1部 第4条

 第4の問題の解決

 哲学の反対を真の宗教に役立つ論拠へ変える事

 宗教に対する反論によって(逆に)証明された宗教

 科学か、人の理性か、他の宗教の名前において、人は、真の宗教であるカトリックに対して反論する。

 しかし、科学は、宗教が存在する事実、宗教が確立されている事実、宗教が歴史の出来事に影響を与えた事実を否定できない。
 科学が神の教えに手を出すのは禁じられている。
 神の教えは宗教だけの物である。
 通常、科学は、宗教に対して、一連の事実で理論武装する。
 事実を評価するのは、科学の義務である。
 事実、科学は事実を徹底的に評価する。
 しかし、宗教は、科学よりも更に精力的に、事実を非難する。
 宗教による事実への非難によって、科学は、宗教の正しさと、科学の誤りを認める事に成る。
 科学には、道理、倫理が欠けている。
 科学は、激情を人の精神にもたらしてしまう不具合を明らかにしてしまった。
 科学は、思いやりの精神が科学を絶え間無く矯正して導く必要を認める事に成る。

 人の理性は、神の教えを調べて、「宗教は不条理である」と知る。
 しかし、仮に、宗教が不条理でなければ、人の理性は宗教を理解するであろう。
 そして、仮に、人の理性が宗教を理解すると、もう宗教は未知のものの象徴ではなく成ってしまうであろう。
 そして、宗教は、無限についての数学的な実証に成ってしまうであろう。
 そして、宗教は、有限の無限、既知の未知、計測された計り知れない物、言い表せる言い様の無い物に成ってしまうであろう。
 言い換えると、神の教えは、人の理性から見ると不条理である事をやめて、人の中の信心、知、理性、良識から見ると最も奇形で在り得ない不条理と成るだけであろう。

 他の宗教による異議によるカトリック、キリスト教への反論が残っている。

 ユダヤ教は、宗教的に、キリスト教の前身である。
 ユダヤ教は、(神とイエスと神の聖霊による、神の三位一体によって、)キリスト教が神の単一性を損ねたと非難する。
 ユダヤ教は、不変の永遠の法、律法を変えたと非難する。
 ユダヤ教は、創造主である神の代わりに、被造物の人(に成った神)イエスを敬礼していると非難する。
 ユダヤ教からのキリスト教への激しい非難は、キリスト教に対するユダヤ教による完全に虚偽の自説に基づいている。
 キリスト教の神は、モーセの神であり、唯一の非物質的な無限の神であり、宗教の唯一の対象であり、常に同一の神である。
 ユダヤ教徒の様に、キリスト教徒は、「神は遍在している」と信じている。
 ただし、ユダヤ教徒が信じるべきである様に、キリスト教徒は、人の中でも、生きている、思考する、思いやる神を信じている。
 人といった神の作品によって、キリスト教徒は、神を敬礼している。
 また、キリスト教徒は、神の法、律法を変えなかった。
 なぜなら、ヘブライ人への十戒は、キリスト教徒の法でもある。
 神の法は不変である。
 律法は不変である。
 なぜなら、神の法、律法は、神の作品である自然の中の、神の傾向である永遠の原理に基づいている。
 ただし、変化する人の欲求が、宗教を必要としているのである。
 そのため、宗教は、宗教自身を変えて、人自身による変化に対応する事に成る。
 「人の変化に対応するため宗教が変化する」とは、「言葉が変化する様に、宗教の意味は不変であるが、宗教の形は変化する事に成る」事を意味する。
 宗教とは、神の教えの形である。
 宗教とは、言葉である。
 (ヨハネによる福音1章イエスは神の言葉、神のロゴス)
 もはや諸国民が言葉、宗教を理解しない時に、人は言葉、宗教を翻訳する必要が有る。
 キリスト教徒は、モーセや預言者の宗教を翻訳したが、破壊しなかった。
 人といった被造物によって神を敬礼している時に、キリスト教徒は、人といった被造物自体を神として敬礼してはいない。
 人に成った神イエス キリストによって父である神を敬礼している時に、キリスト教徒は神だけを敬礼している。
 ただし、人に成った神イエスという道を通じて、神は、人性、思いやりと結びついている。
 人性を神聖化して、キリスト教徒は、人の神性を啓示している。
 ユダヤ教徒の神の概念は非人間的である。
 なぜなら、ユダヤ教徒は、人といった神の作品を通じて、神を理解する気が無い。
 そのため、キリスト教徒は、肉だけのヘブライ人よりも、霊的にヘブライ人(が象徴している、正しい人)である。
 キリスト教徒は、ユダヤ教徒と共に、ユダヤ教徒が信じている神を、ユダヤ教徒が信じているよりも、より善く信じている。
 ユダヤ教徒は、キリスト教徒がユダヤ教徒から分裂したと誤って非難している。
 しかし、正反対に、ユダヤ教徒が、キリスト教徒から分裂したい、キリスト教徒と区別されたい、と望んでいるのである。
 キリスト教徒は、心を広く開いて、腕を大きく開いて、ユダヤ教徒が「イエスが人に成った神である」と信じる事を待ち望んでいる。
 ユダヤ教徒と同じく、キリスト教徒は、預言者モーセの弟子である。
 キリスト教徒は、ヘブライ人の様にエジプトの奴隷と成る事を嫌って出エジプトした。
 ただし、キリスト教徒は、神の王国という約束の地に入門した。
 しかし、ユダヤ教徒は、頑なに荒野に留まって、(思いやりが、心が、)死んでいる。

 イスラム教徒は、イスラエルの未婚の子達である、と言うよりは、ヤコブの兄エサウの様に、イスラエルの遺産を相続していない人達である。
 イスラム教徒が信じている事は、非論理的で支離滅裂である。
 なぜなら、イスラム教徒は、「イエスは、大いなる預言者である(と言える)」と認めるが、キリスト教徒を不信心者ども、異教徒ども、反イスラム主義者ども、として扱う。
 イスラム教徒は、「モーセは、神から霊感を与えられた」と認める。
 けれども、イスラム教徒は、(「モーセは、神から霊感を与えられた」と認める)ユダヤ教徒を同胞と見なさない。
 イスラム教徒は、盲目の預言者ムハンマド、運命論者ムハンマド、進歩と自由への反対者ムハンマドを盲目的に信じている。
 それでも、キリスト教徒は、偶像崇拝者であったアラブ人の中で神の単一性を主張した栄光をムハンマドから奪うなかれ。
 イスラム教の聖書クルアーンには、「神の他に神は無し」という清らかな崇高な言葉が存在する。
 「神の他に神は無し」という言葉を読めば、人は、イシュマエルの子孫であるアラブ人と共に、「神の他に神は無し。ムハンマドは神の預言者である(と言える)」と言えるかもしれない。
 天には、神の国の国民への、3人の預言者のための、3つの王座が存在する。
 ただし、時の終わりに、預言者であると言えるかもしれないムハンマドから預言者エリヤへ交代するであろう。
 イスラム教徒は、キリスト教徒を非難するなかれ。
 イスラム教徒は、キリスト教徒を侮辱している。
 イスラム教徒は、キリスト教徒を「犬」が語源である「giaours」、「不信心者ども」、「異教徒ども」、「反イスラム主義者ども」と呼んで侮辱している。
 キリスト教徒は、イスラム教徒からの侮辱に対して何も応えない。
 人は、トルコ人やアラブ人といったイスラム教徒の誤りを証明するなかれ。
 人は、イスラム教徒を教育して文明化する必要が有る。

 反カトリックのキリスト教徒が残っている。
 言い換えると、反カトリックのキリスト教徒は、神の単一性という結びつきを破壊して、カトリック教会の思いやりから外れた者という正体を現してしまっている人達である。

 ローマのカトリック教会の双子の兄弟である、ギリシャ正教は、カトリック教会から分裂してから成長していない。
 ギリシャ正教は、もはや宗教に値しない。
 フォティオス1世以降、ギリシャ正教は、雄弁の霊感を与えられなかった。
 ギリシャ正教は、完全に俗化してしまった。
 ギリシャ正教の聖職者は、ロシア皇帝が政策によって管理する機能でしかなく成ってしまっている。
 ギリシャ正教は、もはやギリシャ正教の法王が理解していない伝説と儀式で飾られた、初期キリスト教の興味深いミイラである。
 ギリシャ正教は、生きている教会の影である。
 ただし、生きている教会が動いている時に、ギリシャ正教は、立ち止まっているべきであると主張してしまっている。
 ギリシャ正教は、生きている教会の、肥大化したが指導者のいない愚かな影絵でしかない。

 プロテスタントは、無政府主義の永遠の調整者である。
 プロテスタントは、神の教えを叩き壊した。
 ダナイデス姉妹のうち、意に反して結婚させられた夫を殺した49人の姉妹が冥界で穴の開いた容器で水を汲む天罰を受けた様に、プロテスタントは、推測で虚無を満たそうと常に試みている。
 プロテスタントは、宗教的な妄想を編み出した。
 プロテスタントの改悪は、実りが無い。
 プロテスタントは、プロテスタントの役に立つ様に、既知よりも良く知られている未知と呼んで、未知をごまかした。
 プロテスタントは、より良く説明された神秘と呼んで、神秘をごまかした。
 プロテスタントは、より多く定義された無限、より多く制御された無限と呼んで、無限をごまかした。
 プロテスタントは、より多く疑える信心と呼んで、信心をごまかした。
 前記の様にして、プロテスタントは、不条理を曖昧にした。
 プロテスタントは、プロテスタントの無政府主義の行動が、完全に在り得ないが、位階制の原理であると誤解して、思いやりを分裂させて、思いやりを裂いた。
 プロテスタントは、(善行せずに、)信じるだけで救われようと望む人である。
 なぜなら、思いやりを分裂させたプロテスタントから思いやりは逃げ去ってしまい、もうプロテスタントは地上ですら思いやりを実現できない。
 なぜなら、プロテスタントの偽の秘跡は、もはや形骸化したミイラでしかない。
 プロテスタントは、神の思いやりをもう与えられない。
 プロテスタントは、神をもう見えるようにしたり手で触れられるようにしたりできない。
 要約すると、プロテスタントは、もう信心の全能の力の象徴ではなく、不信の永遠の不能に圧倒された証拠と成ってしまっている。
 そのため、プロテスタントによる「宗教改革」は、宗教自体に対する抗議であった!
 プロテスタントは、罪悪感の強制を望む思いやりの無い迫害する熱狂に対して抗議のみする権利であった。
 プロテスタントは、宗教に不信を抱く権利、他人よりも少ない信心を抱く権利や、全く信心を持たない権利すら主張した。
 プロテスタントは、少ない信心を抱く権利という情けない特権のために、血を流した。
 プロテスタントは、少ない信心を抱く権利を勝ち取って所有している。
 しかし、プロテスタントは、カトリック教徒がプロテスタントに同情して思いやる権利を奪わないであろう。
 プロテスタントの心を信じたい欲求が占めた時、
プロテスタントの心が、プロテスタントという無力な宗教へ曖昧に従う放心状態に飽きて、プロテスタントの根拠の無い教義による放心状態に飽きて、プロテスタントの虚偽の論理による横暴に反感を抱いた時、
プロテスタントの交流に現実の存在感が無く成り、プロテスタントの教会に神性が無く成り、ついに、神の思いやりを与えられていないプロテスタントの倫理道徳がプロテスタントを脅かした時、
プロテスタントが神を信じる事のなつかしさで心を病んだ時、
プロテスタントは、ルカによる福音15章11節から32節の「放蕩息子」の様に悔い改めて復活して、「父である神よ、神に対して、神の目の前で、プロテスタントは、神への不信を抱くという罪を犯してきました。プロテスタントは、もう『神の子』と呼ばれるに値しません。けれども、神よ、どうかプロテスタントを『神の最も卑しい下僕』として数えてください」と話して、使徒ペトロの後継者であるカトリックの法王の足元に身を投げ出しに来ないか? はい!

 カトリック教徒は、ヴォルテールの批判の詳細について話すつもりは無い。
 ヴォルテールという偉人は、真理と正義への熱烈な愛に支配されていた。
 ただし、ヴォルテールは、心の正しい判断力に欠けていた。
 神を信じる知は、心の正しい判断力を与える。
 ヴォルテールは、宗教を認める事ができなかった。
 なぜなら、ヴォルテールは、思いやる方法を知らなかった。
 (キリスト教の教えとは、思いやる方法である、と言える。)
 思いやりの精神は、思いやりが無いヴォルテールの魂に、思いやりを啓示しなかった。
 ヴォルテールは、ヴォルテールが心の暖かさを感じられなかった家庭の団欒と、ヴォルテールの心の目が光明を見い出せなかったランプであるキリスト教を、激しく批判してしまった。
 仮に、宗教がヴォルテールが誤解した様な代物であれば、ヴォルテールは宗教を口撃する権利を千倍持っていたであろうし、宗教を口撃するヴォルテールの勇気ある英雄的行為の前に人はひざまずく事を余儀なくされたであろう。
 仮に、宗教がヴォルテールが誤解した様な代物であれば、ヴォルテールは良識への救い主、狂信の破壊者ヘラクレスに成ったであろう……。
 しかし、ヴォルテールは、マタイによる福音5章4節で「悲しんでいる人は幸いである」と話している人に成った神イエスを理解するには、イエスを笑いものにし過ぎてしまった。
 ヴォルテールというキリスト教を笑いものにした哲学者は、涙についての宗教であるキリスト教と共通点を持つ気が無かった。
 ヴォルテールは、聖書の言葉、キリスト教の教えの言葉、信心による言葉を改悪し、笑いものにして侮辱してしまった。
 ヴォルテールの改悪した聖書などの言葉によってキリスト教を誤認した人だけが、キリスト教に対して怒れるのである。
 ヴォルテール派は、イソップ寓話の、神ユピテルへ王を与える様に求めたカエルの群れと似ている。
 イソップ寓話のカエルは、神ユピテルが王として与えた丸太が大人しいと知ると、王である丸太の上に飛び乗って笑いものにした。
 ヴォルテール派が、キリスト教という大人しい丸太が笑いものにしてよい王であると誤解するのは自由である。
 ヴォルテール派が、かつてテルトゥリアヌスが笑いものにした、ロバの頭を持つ人の姿をした偽の神がキリスト教の神として誤って描かれているローマの風刺画を再生するのは自由である。
 キリスト教徒は、ヴォルテール派の非行を見て肩をすくめ、キリスト教徒を辱める事ができたと誤って思い込んでいる気の毒な愚者のために神に祈る。
 ジョゼフ ド メーストル伯爵は、雄弁な逆説の1つで絞首刑執行人を地上における神の正義の永遠の化身という神聖な存在として表現して、フランスのフェルネ ヴォルテールで「フェルネの家長」と呼ばれているフェルネを発展させた恩人である老人ヴォルテールのために、絞首刑執行人が絞首刑を執行している姿の像を建てる様に人へ提案した。
 ジョゼフ ド メーストル伯爵の考えは深い。
 実際に、ヴォルテールも、この世で、神が与えた畏敬するべき働きを果たすために、神が無感覚なほどの冷酷さを与えた、神意的な存在であった、と共に、死をもたらす存在であった。
 ヴォルテールは、知の領域、哲学の領域において、神の正義で武装した、絞首刑執行人、(悪人を自滅させる)害虫駆除業者であった。
 神は、神学者ボシュエの精神とナポレオンの精神という2つの精神を分裂させるものを滅ぼして、神学者ボシュエの精神とナポレオンの精神という2つの精神を唯一に統一するために、神学者ボシュエの17世紀とナポレオンの19世紀の間の18世紀にヴォルテールをこの世に派遣した。
 ヴォルテールは、神殿の2つの柱を揺さぶる覚悟が常にある、精神におけるサムソンであった。
 ヴォルテールが知らずに、ヴォルテールがキリスト教の進歩のための石臼に変わる様に、神意は、ヴォルテールの心を盲目にした。
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