百合短編集

南條 綾

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43 初雪の名前

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 初雪が静かに降り始めた。まるで誰かが空から白い花びらを撒いたみたいに、雪がひらひらと舞い落ちていった。
その静けさに包まれながら、私は大学の図書館の窓際の席に座って、開いたままの本をぼんやり眺めていた。
でも、ページは全然めくられていない。三十分も経ってないのに、頭の中は昨日のことでいっぱいだった。

 昨日、廊下ですれ違ったとき、彼女が小さく微笑んでた。
その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れるような気がして、驚くほど鮮明にその横顔が記憶に残っている。
雪より白い肌、長いまつげに絡んだ光、わずかに開いた唇から漏れた息が白く揺れたことまで、今でもはっきり覚えている。
私どうしたんだろう。ずっとあの人の事を考えてる。

「……はあ」小さなため息が、ガラスの内側に白く広がる。
私は頬杖をついたまま、指先で窓に触れた。
冷たくて、ひんやりとした感触が伝わってくる。
その冷たさが、まるで彼女の声みたいだと思った。

 昨日、廊下ですれ違ったとき、すれ違いざまに「ごめんね」と小さく言われた声が、耳に残っている。
ぶつかりそうになったのは私の方だったのに。

 雪が少しずつ強くなってきた。空から降り注ぐ白い雪が、まるで世界を包み込んでいくようで、キャンパスの銀杏並木が静かに白いヴェールに包まれていった。
その光景をぼんやりと見つめながら、私はゆっくりと立ち上がった。

 本を閉じ、鞄にしまう。
今日はもう、勉強なんてできそうになかった。
頭の中はあの微笑みと、彼女の声でいっぱいだから。

 図書館を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
初雪の匂いがすて、ほんのりと甘いような、少し冷たさを感じる香りを感じてた。
風が、何かしらの変化を知らせるように私の髪を揺らす。
私は無意識にマフラーを巻き直しながら、昨日彼女が歩いていった方向を見た。
あの人はきっと、もう帰ってしまったのかな?
そう思いながらも、私は歩き出した。
雪が私の髪に静かに降り積もっていく。
その冷たさに、思わず手を伸ばして、溶ける前にそっと払った。
まるで触れてはいけないものを扱うように、優しく、そっと。

 角を曲がったとき、「……あ」思わず声が漏れた。
そこに彼女がいたから。
雪の中にひとりで立っている。コートの襟を立てて、空を見上げていた。
その姿が、雪に溶け込むように静かで美しい。

「はぁ~」息が漏れるような声を発してしまった。

 白い息が舞い上がり、雪と混ざって消えていく。
私はその光景に目を奪われ、足が自然と止まった。
彼女も、私に気づいたようだった。
ゆっくりと視線を落とし、私たちの目が合った。
雪だけが、静かに降り続けていた。

 私は、なぜか笑ってしまった。自分でもわけがわからないまま、小さく手を振った。
彼女も驚いたような顔をして、それからふっと笑った。その笑顔が、私の胸を突き抜けるように感じた。
なんで私笑ったんだろう。でも笑い返してくれてすごくうれしい。

 初雪の日に、逢いたい人に会えるなんて、夢みたいだった。
そういえば初雪を一番に見た人は、希望が叶うなんていうおまじないを思い出しちゃった。
雪の中で微笑んでいる彼女は、まるで絵画から出てきたみたいですごく美しかった。

 雪はもう本降りになって、音もなく、世界を白く塗り替えていく。
私は一歩踏み出す。靴底が新雪を踏みしめる音が、か細く響いていた。

「あの……」

 声を出した瞬間、自分がどれだけ震えているかに気づいた。寒さのせいだけじゃない。
彼女は首を少し傾げて、私を見た。
まつげに雪が乗っている。それが溶けないうちに、そっと払ってあげたいと思った。

「昨日、廊下で……ぶつかりそうになって、ごめんなさい」

 私はすごい勢いで頭を下げた。昨日は自分が悪かったのに、謝られたままで終わってしまったことが、ずっと気になっていたから。
彼女は少し目を丸くして、それから小さく首を振った。

「いいえ、私の方こそ、気づくのが遅くなっちゃったから」そう言いながら彼女がふっと微笑んでくれた。

「雪、すごいね」彼女がぽつりと言った。声は低くて、少し掠れている。
それが耳に心地よくて、思わず耳を澄ませてしまう。
私は頷いた。言葉が出てこない。

 私達は、自然と並んで歩き始めた。
行き先なんて決めていない。
ただ、足が向いた方向に、なんとなく一緒に歩いている感じだった。

「図書館にいた?」

「……はい」

「私も。今出てきたところ」

 あんなに彼女の事を考えてたのに気づかなかったなんて、すごくもったいないことをしてしまった。
でもそのおかげでこうして話せてるのだからよかったのかな。 

 雪がコートの肩に静かに積もっていく。
彼女がそっと手を伸ばして、私の肩に積もった雪を払ってくれた。
その指先が触れた瞬間、心臓がぎゅっと跳ねた。

「ありがとう……ございましゅ」
なんで、何でここで舌を噛むの
私の顔がどんどん赤くなっていくのがわかる。すごく恥ずかしい。

「髪にも雪が乗ってるよ。そんなに慌てなくていいからね」

 そう言われて、私は慌てて頭を振った。変な事でも気を遣わしてしまったよ。
彼女がくすっと笑う。その笑顔が、なんだかとても温かく感じた。

「名前、聞いてもいい?」突然の問いに、私は思わず息を呑んだ。

「……綾です。一年、文学部の綾です」

「綾ちゃん」

 彼女が「ちゃん」と呼ぶその響きに、私は顔が熱くなるのを感じた。
雪の中で、先ほどよりも頬だけが燃えるように熱くなった。
ホッカイロとかマジでいらない。
もう体全体が自家発電だよ。

「私は雪乃。二年、美術学部」

 雪乃さん。その名前を、私は心の中で何度も繰り返した。
舌の上で転がすたび、甘い響きが感じられた。


 正門の方へ向かって歩きながら、言葉を交わしていた。
雪はますます強くなり、街灯の光がその雪の粒を浮かび上がらせる。まるで星が降ってきたみたいだった。
雪乃さんはすごく輝いていてどこかの国のお姫様のように素敵だった。

「駅まで一緒に行っていい?」

 雪乃さんが聞いてきた。
私は激しく頷いた。首がもげそうなくらいに、力いっぱい。

 駅までの十分ほどの道のり、二人はほとんど言葉を交わさなかった。
でも、沈黙は不思議と苦にならなかった。
雪乃さんが時々、私の歩幅に合わせて歩調を緩めてくれるのがわかる。
お互い、何も言わずにただ歩いているのに、どこか心地よかった。


 改札の前で立ち止まったとき、私は初めて寂しさを感じた。
次にどうすればいいのか、少し迷ってしまう。
もう少し痛いのにそうしたらいいのかな?
これでお別れなのかな?
どうしたらもっと一緒にいられるんだろう?

「じゃあ……」

 雪乃さんが、名残惜しそうに言った。
そんな風に言われると、私もなんだか切なくなった。
私は必死で勇気を振り絞って、思い切って口を開いた。

「あの……!」雪乃さんが振り返る。

「LINE、交換してもらえませんか……?」

 声が少し裏返ったけど、言えてよかった。震える手を何とか押さえた。
これしかないと無意識に閃いて伝えてみた。反応がめっちゃ怖いんだけど。
雪乃さんは一瞬驚いたような顔をして、それからにっこり笑った。

「もちろん。いいよ」
スマホを取り出して、QRコードを見せてもらう。
手が震えて、何度か失敗してしまったけれど、やっと交換が終わったとき、雪乃さんが優しく言った。

「今日は、会えてよかった」

 その一言が、私の胸をぎゅっと締めつけた。
まるでその言葉が、心の奥に響いてきたみたいだ。

 電車がホームに入ってくる音が遠くから聞こえた。
雪乃さんが小さく手を振りながら、改札を通っていく。
まるでその背中を見送るだけで、時間が止まってしまったような気がした。

 私はその背中をじっと見つめながら、スマホを胸に押し当てた。
画面には、新しい連絡先が表示されている。『雪乃さん♡』
ハートをつけてしまったことに気づいて、慌てて消そうとしたけれど、結局そのままにしておいた。
きっと、今はそれが一番自然な気がした。

 雪はまだ降り続いていた。
私はゆっくりとくるりと振り返り、夜空を見上げた。
口から漏れた白い息が、嬉しさで少し震えているのがわかる。
初雪の夜、世界が少しだけ、変わった気がした。
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