百合短編集

南條 綾

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85 (ギリシャ×百合)  エーゲ海に魅せられて

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 朝の光が、ブラインドの隙間から細く刺さってくる。まだ7時前なのに、もう暑い。夏の終わりとはいえ、アテネのこの辺りは容赦なく日差しを浴びせてくる。
 私はベッドから抜け出して、素足でタイルの上を歩いた。冷たい感触が気持ちいい。キッチンへ向かうと、昨日洗い残したコーヒーカップが二つ、シンクに寄り添うように並んでいる。一つは私の白いマグ、もう一つはソフィアの、底に小さなオリーブの模様が入ったマグ。

ソフィア。

 名前を思うだけで、胸の奥が少しだけ熱くなる。昨夜、彼女がここにいた。いつものようにワインを飲みながら、ソファで膝をくっつけて、くだらないテレビのトークショーを見ていた。彼女の指が私の髪をすくうたび、耳の後ろがくすぐったくて、でも気持ちいい簡易がして癖になりそうだった。

「もう寝なよ、明日早いんでしょ?」

 そう言って、ソフィアは私の額に軽くキスをした。あの柔らかい唇の感触が、まだ残っている気がする。
 私はコーヒーを淹れながら、窓の外を見る。アパートのバルコニーから見えるのは、プラカ地区の白とベージュの建物が重なり合う風景。遠くにアクロポリスのシルエットがぼんやり浮かんでいた。観光客がもう歩き始めているのが、遠目にも分かる。あの丘の上に登る人たちは、いつも同じような興奮した顔をしている。でも私は、もう何年もあの景色を日常として見ている。
 ギリシャに来て、丸四年になる。日本にいた頃は、こんな生活なんて想像もしていなかった。語学学校のアルバイト、翻訳の仕事、少しずつ増えた知り合い。そしてソフィアとの出会い。
 彼女とは、モナスティラキのフリーマーケットでぶつかった。文字通り。私の持っていた紙袋が破れて、中のオレンジが転がり、ソフィアが笑いながら拾ってくれた。

「これ、あなたの?」

 ギリシャ語がまだたどたどしかった私に、彼女はゆっくり、優しく話しかけてくれた。金色の髪が陽に透けて、まるで神話から抜け出してきたみたいだった。
 それから何度か会ううちに、気づいたら一緒にいる時間が長くなっていた。カフェで何時間も話したり、夜のエーゲ海沿いを歩いたり。彼女の手を握るのが、当たり前になっていた。
 コーヒーの香りが部屋に広がる。カップを二つ持って、ベッドルームに戻る。ソフィアはまだ眠っている。シーツが少しずれていて、肩から鎖骨にかけてのラインが露わになっている。私はそっと隣に腰を下ろして、彼女の髪を指で撫でた。

「……ん」

 小さな声。まぶたがゆっくり開く。眠そうな緑色の瞳が、私を捉える。

「おはよう」

「…もう起きてたの?」

「コーヒー淹れた」

 ソフィアは体を起こして、私の肩に頭を預けてきた。まだ眠気が抜けきっていないみたいに、甘えた声で言う。

「優しいね、綾」

 その一言で、胸がぎゅっと締め付けられる。彼女が私の名前を呼ぶたび、いつもこうなる。日本語で「綾」と発音されるのが、なんだか特別な感じがして。

「今日はオフ?」

「うん。午後から撮影だけど、午前中はフリー」

 ソフィアはフリーランスのフォトグラファーだ。主に観光客向けのポートレートや、島々の風景を撮っている。最近は、私をモデルに使ってくれることも増えた。

「じゃあ、一緒にブランチ行こうか。プラカのいつものところ」

「いいね。あそこのギリシャヨーグルト、蜂蜜たっぷりのやつ」

 彼女が笑う。子犬みたいに無邪気で、でも時々、大人の色気が滲み出る。そのギャップに、私はいつもやられてしまう。
 朝食の後、私たちは手をつないでアパートを出た。石畳の細い道を下りていく。ところどころに猫がいて、ソフィアが立ち止まってはしゃぐ。

「見て見て、この子、肉球がピンク!」

「ソフィアの好きな色だね」

 私はつい、からかうように言ってしまう。ソフィアは振り返って、にやりと笑った。

「ピンクは好きだけど、いちばん好きな色は――」

 彼女は私の頰に指を当てて、囁く。

「綾の頰の色」

 熱くなった。耳まで赤くなっているのが、自分でも分かる。

「…ばかじゃないの……まったく」

「本当のことなのに」

 ソフィアは私の手を強く握り直して、歩き出す。プラカの路地は、朝なのにすでに花の香りと、焼きたてのパンの匂いが混じっている。角を曲がると、いつもの小さな広場が見えた。木陰のテーブルに座って、私たちはいつものように向かい合う。
 ヨーグルトに蜂蜜を垂らし、フルーツを乗せる。ソフィアがスプーンで一口すくって、私の口元に持ってくる。

「あーん」

「子供扱いなの?」

「可愛いから」

 仕方なく口を開ける。甘酸っぱい味が広がって、思わず目を細めた。
 ソフィアは満足そうに笑って、自分の分を食べ始める。陽光が彼女の髪を照らして、まるで黄金の糸のようだ。私は、つい見とれてしまう。

「何?」

「……綺麗だなって」

 ストレートに言ってしまった。ソフィアの目が少しだけ大きくなる。

「……急に」

「いつも思ってるけど、言わないだけ」

 彼女はスプーンを置いて、私の手を取った。指を絡めて、じっと見つめてくる。

「私も、綾のこと、毎日綺麗だと思ってるよ」

 声が、少し震えていた。

「日本にいた頃は、こんな気持ちになるなんて想像もしてなかった。ギリシャに来て、ソフィアに会って……全部、変わったかな」

 私は言葉に詰まる。胸の奥が熱くて、涙が出そうになる。

「ソフィア……」

「ん?」

「好き」

 シンプルに、でもはっきりと言った。
 ソフィアは微笑んで、私の指にキスをした。

「私もよ。すごく好き」

 広場を吹き抜ける風が、オリーブの葉を揺らす。遠くで、教会の鐘が鳴り始めた。ゆっくりと、穏やかに幸せを奏でる音色が風に乗って聞こえてきた。
 この街で、彼女と過ごす時間が、私の今を、作っていた。
 広場のテーブルで、ソフィアの指が私の指に絡まったまま、時間が止まったみたいだった。蜂蜜の甘い香りと、彼女の体温が混じって、頭がふわふわする。

「綾……」

 ソフィアが小さく名前を呼ぶ。緑の瞳が、いつもより少し潤んでいる気がした。

「ん?」

「今日、撮影の後……一緒にサントリーニ行かない?」

 突然の提案に、私は目を丸くした。

「え、今から?」

「ううん、明日から二泊くらい。急だけど、仕事の合間にチケット取っちゃった。たしかスケジュール、空いてるって言ってたよね?」

 確かに、明後日までは翻訳の締め切りがない。ソフィアは私の反応を待つように、じっと見つめてくる。

「……行きたい」

 素直に答えた。彼女の顔がぱっと明るくなる。

「やった! じゃあ、午後の撮影終わったらすぐフェリー乗ろう。夜のサントリーニ、絶対綺麗だよ」

 ソフィアは興奮気味にスマホを取り出して、チケットの画面を見せてくれた。白い建物と青いドームが並ぶ島の写真が、画面いっぱいに広がっている。
 その日の午後、ソフィアの撮影に付き合った。モデルは私。アクロポリスの麓で、風に髪をなびかせながらポーズを取る。彼女のカメラのシャッター音が、なんだか心臓の音みたいに響く。

「もっと、こっち見て。……そう、目が合うだけでいい」

 ソフィアの声が優しくて、でも少し熱を帯びていて。私は頰を赤らめながら、彼女のレンズ越しに視線を返す。
 撮影が終わると、夕陽がアクロポリスをオレンジに染めていた。私たちは手をつないで、ピレウス港へ向かった。フェリーの甲板で、風が強くて、ソフィアが私の腰に腕を回してくる。

「寒くない?」

「ちょっと……でも、ソフィアがいるから大丈夫だよ」

 彼女は自分のジャケットを脱いで、私の肩にかけてくれた。ジャケットからは、ソフィアの匂いがする。シャンプーと、少し甘い香水の混じった匂い。
 フェリーが夜のエーゲ海を進む。星がすごく近くて、波の音が心地いい。デッキの隅で、私たちは寄り添って座った。

「綾、覚えてる? 初めて会った日のこと」

「もちろん。オレンジ転がって、拾ってくれた」

「あの時から、なんか……運命みたいな感じしたんだよね」

 ソフィアが私の手を握りしめる。指先が少し震えていた。

「私も。あなたの笑顔を見た瞬間、心臓止まるかと思ったよ」

 静かな海の上で、そんな言葉を交わす。恥ずかしくて、でも嬉しくて。
 サントリーニに着いたのは、深夜近くだった。タクシーでホテルへ。白い建物が連なる崖の上、プライベートバルコニー付きの部屋。チェックインしてドアを開けると、目の前に広がるのは真っ暗な海と、無数の星。

「わあ……」

 思わず声が出た。ソフィアが後ろから抱きついてくる。

「気に入った?」

「うん……すごく綺麗」

 バルコニーに二人で出た。夜風が涼しくて、でもソフィアの体温が背中に伝わって熱く感じた。
彼女が私の肩に顎を乗せて、囁く。

「綾」

「ん」

「キス、していい?」

 心臓が跳ねた。ゆっくり振り返ると、ソフィアの顔がすぐそこに。緑の瞳が、星明かりで輝いている。

「……うん」

 小さく頷いた瞬間、ソフィアの唇が私の唇に触れた。柔らかくて、温かくて、少しワインの味がした。
 最初は優しく、探るように。次第に深くなって、息が絡み合う。彼女の手が私の背中を滑り、腰を引き寄せる。私はソフィアの首に腕を回して、もっと近くに。
 キスが終わると、二人とも息が上がっていた。額をくっつけて、笑い合う。

「好き」

「私も」

 バルコニーの椅子に並んで座って、海を見ながら手を繋ぐ。遠くで波の音がする。時々、彼女が私の指にキスをする。
 朝が来て、目が覚めると、ソフィアがまだ眠っていた。白いシーツに金色の髪が広がって、まるで絵画みたい。私はそっと彼女の頰に触れる。

「おはよう」

 眠そうな声で、ソフィアが目を細めて笑う。

「もう朝?」

「うん。朝日が綺麗だよ」

 バルコニーに出ると、朝焼けの海がピンクとオレンジに染まっていた。ソフィアが後ろから抱きついて、私の耳元で言う。

「この色……綾の好きなピンクみたい」

「そうだね」

 私は笑って、彼女の腕に自分の手を重ねた。
 その日、私たちは島を歩いた。イアの白い路地、青いドームの教会、崖っぷちのカフェ。どこに行っても、手を離さなかった。
 夕方、崖の上のバーでワインを飲む。ソフィアがグラスを傾けながら、ふと言った。

「綾、ずっと一緒にいようね」

「……うん。ずっと」

 太陽が海に沈むのを、二人は肩を寄せ合って見ていた。オレンジからピンクへ、夜の青へ。色が変わっていく空の下で、私たちの時間はゆっくり続いていく。
 ギリシャのこの島で、ソフィアと過ごす日々が、私の永遠の夏みたいに思えた。
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