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88 曇りの上海で、晴れた君
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湿った空気が肌にまとわりつく。上海の夏はいつもこんな感じだ。
エアコンの効いたオフィスを出た瞬間、蒸し風呂に放り込まれたような息苦しさが全身を包む。
スマホの画面を見ると、もう23時を回っている。残業が長引いたせいで、地下鉄の駅に着くころには、最終が終わっている可能性が高い。
タクシーを拾うのも面倒で、私はいつものように自転車をシェアサイクルから借りて、淮海路沿いを西へ漕ぎ始めた。
夜の上海はネオンが派手で、でもその光は湿気で滲んで、なんだか夢の中にいるみたいだ。
アパートのエレベーターがまた故障中だった。
5階まで階段を上る。鍵を開けると、玄関に脱ぎ捨てられたスニーカーと、甘いミルクティーの匂いが混じっていた。
「遅かったね。綾」
リビングのソファから声がした。彼女、林雨晴はいつものように、膝にノートパソコンを乗せて座っている。画面の青白い光が、彼女の白い頬を冷たく照らしていた。
「今日も残業長かった? また徹夜コースみたいだね」
彼女がパソコンから目を上げて、私に微笑んだ。
私は靴を脱ぎながら苦笑して、「まあね……」と答えた。
最初は、とりあえずルームシェアで家賃を抑えよう。
そんな名目で始まったこの部屋での生活も、もう八ヶ月になる。
初めは、「小晴《シャオチン》」って呼んでたけど、いつの間にか「晴《チン》」と呼ぶようになったのは、いつからだっただろうか?
私は冷蔵庫を開けて、冷えたボトルウォーターを一気に半分飲んだ。
喉が渇きすぎて、冷たさが痛いくらいだった。
「今日も上司に怒鳴られた?」
晴がようやく顔を上げた。長い前髪が目にかかっていて、それを指で払う仕草が、なんだか無防備で、胸がきゅっとなる。
「怒鳴られたっていうか……『もっと効率的にやれ』って、いつものやつ」
私はソファの端に腰を下ろした。彼女の隣。距離は、肩が触れそうで触れないくらい。
「ふーん。相変わらずパワハラ上司だね」
晴はパソコンを閉じて、膝の上に置いたまま、私の方に体を少し傾けた。
「綾は我慢強いよね。私だったらとっくにキレてる」
「キレても何も変わらないよ。中国の職場ってそういうもんだし」
私は苦笑した。実際、去年の冬に一度だけ「もう無理です」って泣きながら帰ってきた日があった。その夜、晴は黙って私の背中を抱きしめて、ずっと耳元で「大丈夫だよ」って繰り返してくれた。
あの時の温かさが、今でも体に残っている。
晴は私の手を取った。細い指が、私の指の間に入り込んでくる。
冷たい。エアコンが効きすぎているんだろう。
「手、冷たいね」
「綾の手が熱いから」
彼女はそう言って、私の手を自分の頬に当てた。ひんやりした肌。少しだけ頬が上気しているのがわかった。
「……今日、なんか変だよ」
私が言うと、晴は目を逸らした。
「別に」
「嘘。目が泳いでる」
「……会社の後輩が、今日、私のこと『お姉さんみたいで素敵』って言ってきた」
一瞬、胸の奥がちくりとした。
「へえ。で?」
「で、って……別に何も。嬉しかっただけ」
晴の声が少し震えていた。私は彼女の手を握り返した。強く。
「私より嬉しい?」
「……バカ」
晴が顔を赤くして、私の肩に額を押し付けてきた。
髪からシャンプーの匂いがする。いつものフローラルな香り。
「綾のバカ」
「私の方がずっとお姉さんだよ。年上だし」
「年齢じゃないよ。……雰囲気っていうか」
彼女の声がだんだん小さくなる。
私は晴の顎を指で持ち上げた。彼女の瞳が、潤んで見えた。
「晴は私のものだって、ちゃんとわかってるよね?」
「……わかってる」
「じゃあ、ちゃんとこっち見て」
晴は恥ずかしそうに、でも素直に、私を見上げた。長いまつ毛が震えている。
私はゆっくりと顔を近づけた。息が触れ合う距離で止まる。
「好きだよ、晴」
「……私も」
彼女の唇が、そっと触れた。柔らかくて、ちょっと震えていて、甘かった。
キスは最初、優しく、探るように。すぐに深くなって、晴の手が私の背中に回ってきた。
爪が少し食い込むくらい、強く抱きしめられる。
「ん……」
小さな声が漏れた。どちらの声かわからない。
私は晴をソファに押し倒した。彼女の髪が広がって、黒い絹みたいにソファに流れる。
「綾……待って、電気……」
「暗い方がいいでしょ?」
私は笑って、彼女の耳元で囁いた。
「恥ずかしい顔、見せたくないんでしょ」
「……意地悪」
晴が唇を尖らせた。でも、そのまま私の首に腕を回して、引き寄せてくる。
服が一枚ずつ剥がれていく音。肌が触れ合うたびに、熱が上がっていく。
晴の胸は柔らかくて、私の手のひらにぴったり収まる。彼女の吐息が、私の鎖骨にかかるたび、ぞくぞくする。
「綾の手……熱い」
「晴の肌が冷たいから」
私は彼女の首筋に唇を這わせた。鎖骨、胸の谷間、ゆっくりと下へ。
晴の体がびくんと跳ねるたび、私の中の何かが疼く。
「だめ……そこ、弱い……」
「知ってるよ」
私は意地悪く微笑んで、そこを舌でなぞった。
晴の声が、だんだん高くなる。指が私の髪を掴んで、引き寄せる。
「綾……もう……」
「まだだよ」
私は彼女の腰を抱き寄せて、もっと深く。
夜は長い。上海の夜は、湿気とネオンと、二人だけの熱で、ずっと続いていく。
翌朝、私は目を閉じて、彼女の温もりに身を委ねた。晴はまだ眠っている。
私の腕の中で、小さく息をしている。長いまつ毛が、頬に影を落とす。 私はそっと髪を撫でた。
それから数ヶ月が過ぎた。
季節は秋に移り、湿気は少しずつ引いて、風が乾いてきた。
会社では相変わらずのパワハラ上司がいるけど、私はもう慣れた。
慣れたというより、帰る場所があるから耐えられるようになった。
晴は最近、フリーランスの仕事が増えてきた。
家でずっとパソコンに向かっている日が多い。
私が帰ると、いつも玄関で「遅かったね」って迎えてくれる。
その声が聞こえるだけで、疲れが半分溶ける。
ある晩、珍しく私が先に帰宅した。
冷蔵庫にビールと、晴の好きなマンゴープリンがある。
ソファに座って待っていると、鍵の音がした。
「おかえり」
私が言うと、晴は少し驚いた顔をしてから、笑った。
「今日は早いね。珍しい」
「上司が急に『今日は早く帰れ』って。意味わかんないけど」
「ラッキーじゃん」
晴はコートを脱ぎながら、私の隣に腰を下ろした。
自然と肩が触れ合う。
この距離が、今では当たり前すぎて、逆に愛おしい。
「ねえ、晴」
「ん?」
「来年、契約更新のタイミングなんだけど……もう一年、ここにいる?」
晴の手が止まった。
ビールのプルタブを開ける音だけが、静かな部屋に響く。
「……綾は?」
「私は、ずっとここにいたい。晴と」
私は彼女の目を見た。
少し潤んでいる。
晴はビールを一口飲んで、ゆっくり息を吐いた。
「私も……ずっと、綾と一緒にいたい」
その言葉で、何かが決まった気がした。
「じゃあ、来年も更新しよう。二人で」
「うん」
晴が私の肩に頭を預けてきた。
髪が頬をくすぐる。
「でもさ、いつか……もっと広い部屋に引っ越したいね」
「広い部屋?」
「うん。ベランダがあるやつ。二人で植物育てたり、夜景見たり」
私は笑った。
「いいね。外灘が見える高層マンションとか?」
「贅沢すぎるよ……。でも、そんな部屋なら毎日デリバリーじゃなくて、二人で料理したくなっちゃうかもね」
私たちはそのまま、ソファで寄り添った。
テレビもつけず、ただ互いの体温を感じながら。
その夜は、いつもより深く抱き合った。
晴はまだ眠っている。私の腕の中で、小さく息をしている。長いまつ毛が、頬に影を落とす。
私はそっと髪を撫でた。「これからも、よろしくね」小さな声で呟く。
晴は眠ったまま、かすかに微笑んだ気がした。
外では、上海の朝が始まっている。クラクション、人の声、工事の音。
でもこの部屋の中は、まだ静かで、二人だけの時間。私は目を閉じて、彼女の温もりに身を委ねた。
これが、私たちの日常。
これが、私たちの未来。上海の空は今日も曇っているけど、心の中は、ずっと晴れている。
エアコンの効いたオフィスを出た瞬間、蒸し風呂に放り込まれたような息苦しさが全身を包む。
スマホの画面を見ると、もう23時を回っている。残業が長引いたせいで、地下鉄の駅に着くころには、最終が終わっている可能性が高い。
タクシーを拾うのも面倒で、私はいつものように自転車をシェアサイクルから借りて、淮海路沿いを西へ漕ぎ始めた。
夜の上海はネオンが派手で、でもその光は湿気で滲んで、なんだか夢の中にいるみたいだ。
アパートのエレベーターがまた故障中だった。
5階まで階段を上る。鍵を開けると、玄関に脱ぎ捨てられたスニーカーと、甘いミルクティーの匂いが混じっていた。
「遅かったね。綾」
リビングのソファから声がした。彼女、林雨晴はいつものように、膝にノートパソコンを乗せて座っている。画面の青白い光が、彼女の白い頬を冷たく照らしていた。
「今日も残業長かった? また徹夜コースみたいだね」
彼女がパソコンから目を上げて、私に微笑んだ。
私は靴を脱ぎながら苦笑して、「まあね……」と答えた。
最初は、とりあえずルームシェアで家賃を抑えよう。
そんな名目で始まったこの部屋での生活も、もう八ヶ月になる。
初めは、「小晴《シャオチン》」って呼んでたけど、いつの間にか「晴《チン》」と呼ぶようになったのは、いつからだっただろうか?
私は冷蔵庫を開けて、冷えたボトルウォーターを一気に半分飲んだ。
喉が渇きすぎて、冷たさが痛いくらいだった。
「今日も上司に怒鳴られた?」
晴がようやく顔を上げた。長い前髪が目にかかっていて、それを指で払う仕草が、なんだか無防備で、胸がきゅっとなる。
「怒鳴られたっていうか……『もっと効率的にやれ』って、いつものやつ」
私はソファの端に腰を下ろした。彼女の隣。距離は、肩が触れそうで触れないくらい。
「ふーん。相変わらずパワハラ上司だね」
晴はパソコンを閉じて、膝の上に置いたまま、私の方に体を少し傾けた。
「綾は我慢強いよね。私だったらとっくにキレてる」
「キレても何も変わらないよ。中国の職場ってそういうもんだし」
私は苦笑した。実際、去年の冬に一度だけ「もう無理です」って泣きながら帰ってきた日があった。その夜、晴は黙って私の背中を抱きしめて、ずっと耳元で「大丈夫だよ」って繰り返してくれた。
あの時の温かさが、今でも体に残っている。
晴は私の手を取った。細い指が、私の指の間に入り込んでくる。
冷たい。エアコンが効きすぎているんだろう。
「手、冷たいね」
「綾の手が熱いから」
彼女はそう言って、私の手を自分の頬に当てた。ひんやりした肌。少しだけ頬が上気しているのがわかった。
「……今日、なんか変だよ」
私が言うと、晴は目を逸らした。
「別に」
「嘘。目が泳いでる」
「……会社の後輩が、今日、私のこと『お姉さんみたいで素敵』って言ってきた」
一瞬、胸の奥がちくりとした。
「へえ。で?」
「で、って……別に何も。嬉しかっただけ」
晴の声が少し震えていた。私は彼女の手を握り返した。強く。
「私より嬉しい?」
「……バカ」
晴が顔を赤くして、私の肩に額を押し付けてきた。
髪からシャンプーの匂いがする。いつものフローラルな香り。
「綾のバカ」
「私の方がずっとお姉さんだよ。年上だし」
「年齢じゃないよ。……雰囲気っていうか」
彼女の声がだんだん小さくなる。
私は晴の顎を指で持ち上げた。彼女の瞳が、潤んで見えた。
「晴は私のものだって、ちゃんとわかってるよね?」
「……わかってる」
「じゃあ、ちゃんとこっち見て」
晴は恥ずかしそうに、でも素直に、私を見上げた。長いまつ毛が震えている。
私はゆっくりと顔を近づけた。息が触れ合う距離で止まる。
「好きだよ、晴」
「……私も」
彼女の唇が、そっと触れた。柔らかくて、ちょっと震えていて、甘かった。
キスは最初、優しく、探るように。すぐに深くなって、晴の手が私の背中に回ってきた。
爪が少し食い込むくらい、強く抱きしめられる。
「ん……」
小さな声が漏れた。どちらの声かわからない。
私は晴をソファに押し倒した。彼女の髪が広がって、黒い絹みたいにソファに流れる。
「綾……待って、電気……」
「暗い方がいいでしょ?」
私は笑って、彼女の耳元で囁いた。
「恥ずかしい顔、見せたくないんでしょ」
「……意地悪」
晴が唇を尖らせた。でも、そのまま私の首に腕を回して、引き寄せてくる。
服が一枚ずつ剥がれていく音。肌が触れ合うたびに、熱が上がっていく。
晴の胸は柔らかくて、私の手のひらにぴったり収まる。彼女の吐息が、私の鎖骨にかかるたび、ぞくぞくする。
「綾の手……熱い」
「晴の肌が冷たいから」
私は彼女の首筋に唇を這わせた。鎖骨、胸の谷間、ゆっくりと下へ。
晴の体がびくんと跳ねるたび、私の中の何かが疼く。
「だめ……そこ、弱い……」
「知ってるよ」
私は意地悪く微笑んで、そこを舌でなぞった。
晴の声が、だんだん高くなる。指が私の髪を掴んで、引き寄せる。
「綾……もう……」
「まだだよ」
私は彼女の腰を抱き寄せて、もっと深く。
夜は長い。上海の夜は、湿気とネオンと、二人だけの熱で、ずっと続いていく。
翌朝、私は目を閉じて、彼女の温もりに身を委ねた。晴はまだ眠っている。
私の腕の中で、小さく息をしている。長いまつ毛が、頬に影を落とす。 私はそっと髪を撫でた。
それから数ヶ月が過ぎた。
季節は秋に移り、湿気は少しずつ引いて、風が乾いてきた。
会社では相変わらずのパワハラ上司がいるけど、私はもう慣れた。
慣れたというより、帰る場所があるから耐えられるようになった。
晴は最近、フリーランスの仕事が増えてきた。
家でずっとパソコンに向かっている日が多い。
私が帰ると、いつも玄関で「遅かったね」って迎えてくれる。
その声が聞こえるだけで、疲れが半分溶ける。
ある晩、珍しく私が先に帰宅した。
冷蔵庫にビールと、晴の好きなマンゴープリンがある。
ソファに座って待っていると、鍵の音がした。
「おかえり」
私が言うと、晴は少し驚いた顔をしてから、笑った。
「今日は早いね。珍しい」
「上司が急に『今日は早く帰れ』って。意味わかんないけど」
「ラッキーじゃん」
晴はコートを脱ぎながら、私の隣に腰を下ろした。
自然と肩が触れ合う。
この距離が、今では当たり前すぎて、逆に愛おしい。
「ねえ、晴」
「ん?」
「来年、契約更新のタイミングなんだけど……もう一年、ここにいる?」
晴の手が止まった。
ビールのプルタブを開ける音だけが、静かな部屋に響く。
「……綾は?」
「私は、ずっとここにいたい。晴と」
私は彼女の目を見た。
少し潤んでいる。
晴はビールを一口飲んで、ゆっくり息を吐いた。
「私も……ずっと、綾と一緒にいたい」
その言葉で、何かが決まった気がした。
「じゃあ、来年も更新しよう。二人で」
「うん」
晴が私の肩に頭を預けてきた。
髪が頬をくすぐる。
「でもさ、いつか……もっと広い部屋に引っ越したいね」
「広い部屋?」
「うん。ベランダがあるやつ。二人で植物育てたり、夜景見たり」
私は笑った。
「いいね。外灘が見える高層マンションとか?」
「贅沢すぎるよ……。でも、そんな部屋なら毎日デリバリーじゃなくて、二人で料理したくなっちゃうかもね」
私たちはそのまま、ソファで寄り添った。
テレビもつけず、ただ互いの体温を感じながら。
その夜は、いつもより深く抱き合った。
晴はまだ眠っている。私の腕の中で、小さく息をしている。長いまつ毛が、頬に影を落とす。
私はそっと髪を撫でた。「これからも、よろしくね」小さな声で呟く。
晴は眠ったまま、かすかに微笑んだ気がした。
外では、上海の朝が始まっている。クラクション、人の声、工事の音。
でもこの部屋の中は、まだ静かで、二人だけの時間。私は目を閉じて、彼女の温もりに身を委ねた。
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