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5章 綾の不幸、栞の提案
17話S 栞の恩返し
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綾さんの手首を掴んだ瞬間、彼が反射的に振りほどこうとしたのが分かった。
あの日みたいな強引な真似はしたくない。今ここでこの手を離せば、彼女はまた私から逃げてしまう。だから私は、彼女の指に自分の指を深く絡ませた。逃げる隙間なんて一ミリも与えないように。
私の顔は今、彼女にどんな風に見えているんだろう。きっと、自分勝手って思っているかもしれない。
「……どこ行くの」
苛立ちの混じった、震える声。私はあえて答えず、ただ困ったような微笑みを返した。でも、繋いだ手だけは絶対に離さない。
巨大なガラスとコンクリートの塊のような、冷え切ったマンションの前に立つ。真夏の熱気を拒絶するようなその無機質な空間は、今の私たちの関係によく似ている気がした。
エントランスを通り、エレベーターに乗り込む。急上昇していく数字を見つめる彼女の、落ち着かない鼓動が、繋いだ手のひらから伝わってくる。
案内板には、最上階は四十階とある。けれど、私は迷わず三十八階のボタンを押した。チーン、という電子音が冷たく響き、扉が開く。私の手の中で、彼女の指先が小さく、怯えたように震えた。大丈夫だよ、と心の中で呟きながら、私は彼女を、私の世界へと引き寄せた。
静まり返った廊下に、私たちの足音だけが不自然に響く。鍵を開け、重い扉を押し開いた。隣を歩く綾さんの視線が、私の用意した部屋を一瞬でなぞり、その広さに気圧されたように強張るのがわかった。
整えられた、空間。けれど綾さんの表情には、ここが自分の居場所ではないという拒絶が滲んでいる。その不安げな横顔を見ていると、無理にでも連れてきた私の胸が、小さく軋んだ。
リビングへ導くと、そこには既に秋子さんがいた。すらりとした立ち姿、無駄のない所作。ただそこにいるだけで空気を支配してしまう彼女。私のよき理解者で姉のような存在の人。
「まずは、飲み物用意するね」
私が声をかけるよりも早く、秋子さんは当然のような顔でグラスを並べ、冷たい飲み物を置いた。綾さんに軽く会釈をし、流れるようにその場を去っていった。多分先ほどの件を香織社長に連絡するためだろう。
秋子さんが消えた後のリビングは、余計に重苦しさを増した。
「まずは、……座って、綾さん。あの人は水無月秋子さん。私のマネージャーさん」
「……ふうん」
綾さんの返事が短い。刺がある。分かってる。分かってるのに、目を逸らせなかった。理由も言わずにつれてきたのだからそうなるのもよくわかる。
「何でこんなところに連れてきたの?見せびらかすため?」
綾さんの声が意地悪なのも分かった。普段とは違う感情がこもった声。多分今の綾さんは普段の余裕がなく頭がいっぱいなんだろうと推測した。
「たまたまなんだけどね。今日、お客として綾さんが働いてるファミレスでご飯食べたの」
「……」
「信じてもらえるかわからないんだけど、トイレに行ってるときに、綾さんの同僚の雑談が聞こえたの。ファミレス、今月でなくなるって」
「それ知って何?栞には関係ないよね」
嘘をつくことも、遠回しに言いくるめることもできる。仕事で培った演技力を使えば、もっとスマートに彼女を丸め込めるかもしれない。
けれど、そんな腹の探り合いは、綾さんに対してだけはしたくなかった。ここまで強引に連れてきておいて、核心を隠し続けるのは、何より卑怯だと思ったから。
私はゆっくりと顔を上げ、彼女の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「綾さん相手に腹の探り合いしたくないから、単刀直入で言うね」
「今日の夕刊にね。綾さんが働いてるガソリンスタンドの親会社が事業の整理をするって記事があったの。綾さんの店も、今月中に閉店になるってことも、もう出回ってる」
その瞬間、彼女の瞳が揺れた。一瞬だけ、視界が狭くなったみたいな顔をして、次の瞬間、声が跳ねた。
「だから何?栞には関係ないじゃない!」
大きい声。多分初めて私は綾さんのこんな声を聴いたかもしれない。完全な怒りと拒絶の声を。それでも私は先に進める、そうじゃないとここまで連れてきた意味がないから。
「私、綾さんとは友達だと思ってる。綾さんは違うっていうかもしれないけど」
自分で言っておきながら、あまりに真っ直ぐすぎる言葉だと自覚していた。綾さんの顔が、さらに強張る。きっと、彼女はこんな言葉を向けられた経験がほとんどないのだ。
「友達」……普通に生きていれば、誰もが当たり前に手に入れ、使い古していく言葉。でも、私の目の前にいるこの人は、その温かさを知らないまま大人になってしまったのではないか。そう思えてくる。
私が予想していた通り、彼女は戸惑っている。それ以上に、その概念自体に怯えているようにも見えた。
私の世界は、偽物の友情や打算的な笑顔で溢れているけれど、綾さんの世界は、誰とも交わらないことで自分を守る、空っぽで静かで孤独な場所だったに違いない。
「私は綾さんの過去、何も知らない。どうして一人暮らしなのかも、家族がどうなのかも。疑問はあるよ。でも、人には色々な事情があると思う」
肺の奥が熱い。一度吸って、吐く。カメラの前で台詞を言うのとはわけが違う。結末がはっきりしている台本ではなく全てがアドリブでやらないといけないのだから。
「綾さん、これからどうするつもり?」
「栞に関係ないでしょ」
即座に返ってきた言葉は、冷たく突き放すための壁だった。そのセリフは予想範囲。
「うん、関係ない。でも心配はする。勝手だけど、友達だから」
「友達って……たまたま偶然で関わっただけでしょ」
綾さんの言う通りだ。私たちが関わった時間に、特別な積み重ねなんてまだ何もない。
「うん、そうだね。それでも私は、綿津見綾さんと友達になりたいと思ったの。理由はないよ。友達になるのに理由はいらないから」
一瞬、綾さんの胸が詰まったように見えた。その微かな動揺を逃したくなくて見つめると、彼女はすぐに、強すぎ
る拒絶で押し返してきた。
「友達の押し売りをする栞は、どうしたいの?」
――押し売り。
その表現が、妙に胸に刺さった。心の中にずかずかと入り込もうとしている私を、これ以上ないくらい的確に言い表している。なんてユニークで、痛烈な拒絶なんだろう。
「押し売りか……そうだよね」
私の言葉を受けて、綾さんはじっと黙り込んだ。その瞳の奥で、困惑とも違う、複雑な感情の揺れがはっきりと見て取れた。
この人から本音を引き出すなら、ここしかない。今しかない。私は勝負に出た。
「勝手な推測だけどね。もし身寄りがないとか、保護者がいない状態なら、給付型の奨学金を申請できるから、高校は通えると思うの。本来なら、こんなにバイトしなくてもいいようになってるはずなのに……綾さんがそれを申請してないのが、私には不思議で」
綾さんの呼吸が止まったような気がした。核心。触れてはいけないはずの、彼女の生活の歪み。彼女が必死で隠してきた現実を、私は暴こうとしていた。
そこまで言いかけたとき、部屋の外から、静かで迷いのない足音が近づいてくるのが聞こえた。
さっき席を外した秋子さんが戻ってくる。空気が切り替わるのをはっきり感じた。
「母……いえ、社長から許可を得ました。栞さん、その条件でいいそうです。ここからはわたくしがお話しますが、よろしいですか?」
戻ってきた秋子さんは、迷いのない足取りで私と綾さんの前に向き直った。落ち着き払ったその声に、私は小さく頷く。綾さんも、すぐには席を立たなかった。今はまだ「聞くだけは聞く」という頑なな態度だけれど、納得がいかなければいつでも断る……そんな強い意志がその瞳に宿っている。
「改めて。水無月プロダクションでマネージャーをしております、水無月秋子と言います。よろしくお願いします」
綾さんの視線が、一瞬だけ鋭くなった。
「水無月」という珍しい苗字。プロダクション名との一致。そして秋子さんの「言い直し」から、彼女が社長の身内であることに即座に気づいたはずだ。
秋子さんは、逃げ場を塞ぐように真っ直ぐ綾さんを見据えた。
「綿津見さんがよろしければ、わたくしたちの会社で働きませんか?」
「は?」
綾さんが反射的に声を漏らす。当然の反応だと思う。唐突すぎて、私だって彼女の立場なら同じ顔をしただろう。だから私は口を挟まず、ただ推移を見守った。
「私は芸能人になるつもりはない。愛想も悪いし、向いてないと思う」
「提供するのは、芸能活動ではありません。霧生栞さんの家で、ハウスキーパーをしてほしいのです」
秋子さんの言葉に、綾さんの眉がぴくりと動いた。
「……お手伝いみたいなもの?」
「はい。栞は忙しくなると食事を取らない日がありまして。先日は、綿津見さんにご迷惑をかけたと思います」
綾さんの瞳が小さく揺れた。つられて、私の胸の奥も落ち着かなく揺れる。
「……あの時、そういう理由があったんだね」
呆れたような、けれどどこか納得したような綾さんの声。うん完全な嘘だけど。そういう風にしてくれたんだ。多分私がいなかった時の説明は全部これだったんだろう。
「しかも、それを知られたくないから黙っていてほしいと言い出す始末です」
秋子さんの視線が、ちくりと私に刺さる。会社的にすごい迷惑かけたことはわかってますって。何の反論もできない。私はただ、ばつの悪さを隠すように苦笑いで誤魔化すことしかできなかった。
綾さんは黙ってる。助かる話だって分かってる顔。でも、簡単に受け取っていいのか分からない顔だとは予想できる。
「水無月さん、一ついいですか?」
綾さんの声が、いつもの冷淡な響きに戻った。感情に流されず、状況を冷静に分析しようとする彼女らしいトーン。
「はい何なりと。ご質問ですか?」
「栞の言い分だけど、友達だからって相談したんだろうと思う。そこまでは私でもわかります。でも、利益が発生しないのに会社が動く理由が分かりません。なんで私にここまでしようとするのでしょうか?」
秋子さんが少しだけ目を細めた。一筋縄ではいかない相手だと再認識して、適切な言葉を選び取ろうとしている時の癖だ。
「はい、綿津見さんのお食事は健康的でいいとお聞きしましたので、安心できる点が一つです。でも本音といたしましては、こちらですね。恩返しをしたいと思っているんです。栞を保護していただいた件で」
「恩返し?」
「通常なら警察に通報され、保護される形だったでしょう。そうなると、マスコミの格好の材料になる可能性がありました。栞や会社のイメージに傷がつきます」
綾さんが眉を寄せる。目の前の女性が口にしているのは真実か、それともただの交渉術か。必死に秋子さんの言葉の裏を読み取ろうとしているのが伝わってくる。
「でも私は霧生さんから、もうたくさん返してもらいました。家に滞在してた時、私がダウンした時も、バイトを代わってくれたし、熱中症で倒れた時も助けてくれました。それで恩は返されたと思ってます」
綾さんの口から語られる、私との時間。あの日、私が彼女の代わりにバイトをして、倒れた彼女を必死に介抱したことを告げられた。私としては友達だと思っているのに困っていたら手伝いたくなるのは普通なんだけどなぁ。
秋子さんは静かに首を横に振る。
「綿津見さんと栞の間ではそうですよね。ですがこちらとしては、綿津見さんに恩を返したいと思ったのです。かといってお金で解決というのは、お互い納得がいかないと思うので、綿津見さんに働く場を紹介する。今回はそのような形の方がお互い納得ができるだろうと、社長が判断いたしました」
秋子さんの言葉は、あくまで「会社としての筋」を通すための論理だ。実際は私のわがままを香織さんがやってくれたことだった。私にとってはもう一人の親みたいな人。今回はすごく迷惑かけたと思う。私も芸能活動頑張らないといけないと改めて思った。香織さんも香織さんの打算はあるかもしれないけどそこはお互い様だよね。
「……引っかかるところもありますが、理由はわかりました。契約内容をお聞きします」
綾さんの言葉に、ようやく空気がわずかに緩んだ。秋子さんは待機させていたように、準備していた書類をそっと差し出す。
「こちらをお読みください」
差し出された紙を手に取る綾さんの横顔を、私は祈るような気持ちで見つめていた。
実は、私自身もその契約内容の詳細は知らない。
秋子さんのことだ。きっとさっき席を外したわずかな時間で、隣の部屋で完璧な契約書を仕立て上げたのだろう。
書類に目を通す綾さんの視線は、何度か止まり、読み返していた。まるで言葉の一つ一つ、そこに込められた意図までも見落とさないように、慎重に、そして真剣に確認しているようだった。
秋子さんはそう言って、二通の契約書を差し出した。一通は綾さんへ、そしてもう一通は私の手元へ。
私は、契約書に目を通した。私自身、詳しい条件は今この瞬間まで知らなかったから。
期間は夏休み終了まで。継続は相談。給与は月額二十万円。八月分と九月の中途分を合わせて、九月二十五日に一括で三十万円が支払われるという。
住み込みが条件なのは私の不規則な仕事のせいだろうけど、契約書には『二十二時から翌朝五時までの労働は一切禁止』これは労働基準法に基づいてるよね。
提示された条件が、一般的なハウスキーパーに比べてかなり破格なのは分かっていた。
実を言うと、この給料は、私のギャラから充ててもらうよう香織さんにお願いしてある。会社にとっては、雇用を増やしつつ支出を抑える形だ。
私が香織さんにお願いそたのは、「綾さんをハウスキーパーとして雇ってほしい」ということだけ。お金は私が出すから、その代わり、社会福利厚生だけは公的な組織としてきちんと整えてほしい。綾さんに対して出来ることを考えたらそれしか思いつかなかった。
「一つ、付け加えるのを忘れていました」
秋子さんがふっと思い出したように言葉を添えた。
「……何ですか?」
「一応、綿津見さんには栞のスケジュールを渡しておきます。もし寝坊していたら、起こしてあげてもよろしいですか?」
「ちょっと、秋子さん! 子供じゃないんだから、一人で起きられるってば」
思わずむっとして言い返すと、秋子さんは「はいはい」とあしらうような目で私を見た。そのやり取りを、綾さんは少しだけ呆れたような、まるで仲の良い姉妹を見守るような眼差しで眺めていた。
それでも、綾さんの頭の中はまだ整理が追いついていないようだった。この条件が、裏があるのかどうなのかしっかり考えたいと思っているようにも思えた。
綾さんはゆっくりと紙を揃え、居住まいを正して静かに言った。
「今日はいろいろありましたので、明日には返事したいと思いますが……よろしいでしょうか?」
「もちろん。いい返事がもらえると嬉しいです」
私がそう言うと、綾さんはゆっくりと立ち上がった。
「栞」
「何? 綾さん」
「……いろいろ気にかけてくれてありがとう。でも、さすがに参ってる。今日は帰る。そっちがよければ、明日の昼あたりに来て返事する」
「うん、わかった。夜遅いから送っていくよ」
「自転車があるから、一人で帰るよ」
やはり私はまだまだ距離が遠いなぁって思ってしまう。
「うん、わかった。夜遅いから送っていくよ」
「自転車があるから、一人で帰るよ」
綾さんは頑なだった。けれど、そこで秋子さんが、妥協案なのか何なのかわからない提案を投げかけた。
「なら、今日は車でお送りします。自転車はうちの駐輪場に置いてかまいませんから。明日もしお断りになるとしても、改めてお迎えにあがりますから。その時に自転車で帰ればいいと思います」
「……迷惑じゃありませんか?」
「先ほどのように考え事をなさって運転される方が心配ですわ。それか、今日はここにお泊まりになりますか? 部屋は空いておりますので」
「帰らせてもらいます。何もない部屋かもしれませんが……もし仕事を受けるのであれば、身支度の整理もしたいので」
帰るという意思は変わらない。けれど、「仕事を受けるのであれば」という言葉が彼女の口から出た。
それは、彼女がこの突拍子もない提案を、自分の未来の選択肢として真剣に数え始めた証拠だったと思いたい。
「了解しました。ならお送りいたしますわ」
秋子さんが満足そうに頷く。綾さんは小さく頭を下げて、秋子さんに促されるように玄関へと向かった。扉が閉まり、静かになった玄関で、私はしばらく動けなかった。
明日の昼、彼女はどんな顔をしてここに来るだろう。願うしかない。綾さんが、その細い肩に背負った荷物を少しだけ降ろして、私の差し出したのを受け取ってくれることを。
あの日みたいな強引な真似はしたくない。今ここでこの手を離せば、彼女はまた私から逃げてしまう。だから私は、彼女の指に自分の指を深く絡ませた。逃げる隙間なんて一ミリも与えないように。
私の顔は今、彼女にどんな風に見えているんだろう。きっと、自分勝手って思っているかもしれない。
「……どこ行くの」
苛立ちの混じった、震える声。私はあえて答えず、ただ困ったような微笑みを返した。でも、繋いだ手だけは絶対に離さない。
巨大なガラスとコンクリートの塊のような、冷え切ったマンションの前に立つ。真夏の熱気を拒絶するようなその無機質な空間は、今の私たちの関係によく似ている気がした。
エントランスを通り、エレベーターに乗り込む。急上昇していく数字を見つめる彼女の、落ち着かない鼓動が、繋いだ手のひらから伝わってくる。
案内板には、最上階は四十階とある。けれど、私は迷わず三十八階のボタンを押した。チーン、という電子音が冷たく響き、扉が開く。私の手の中で、彼女の指先が小さく、怯えたように震えた。大丈夫だよ、と心の中で呟きながら、私は彼女を、私の世界へと引き寄せた。
静まり返った廊下に、私たちの足音だけが不自然に響く。鍵を開け、重い扉を押し開いた。隣を歩く綾さんの視線が、私の用意した部屋を一瞬でなぞり、その広さに気圧されたように強張るのがわかった。
整えられた、空間。けれど綾さんの表情には、ここが自分の居場所ではないという拒絶が滲んでいる。その不安げな横顔を見ていると、無理にでも連れてきた私の胸が、小さく軋んだ。
リビングへ導くと、そこには既に秋子さんがいた。すらりとした立ち姿、無駄のない所作。ただそこにいるだけで空気を支配してしまう彼女。私のよき理解者で姉のような存在の人。
「まずは、飲み物用意するね」
私が声をかけるよりも早く、秋子さんは当然のような顔でグラスを並べ、冷たい飲み物を置いた。綾さんに軽く会釈をし、流れるようにその場を去っていった。多分先ほどの件を香織社長に連絡するためだろう。
秋子さんが消えた後のリビングは、余計に重苦しさを増した。
「まずは、……座って、綾さん。あの人は水無月秋子さん。私のマネージャーさん」
「……ふうん」
綾さんの返事が短い。刺がある。分かってる。分かってるのに、目を逸らせなかった。理由も言わずにつれてきたのだからそうなるのもよくわかる。
「何でこんなところに連れてきたの?見せびらかすため?」
綾さんの声が意地悪なのも分かった。普段とは違う感情がこもった声。多分今の綾さんは普段の余裕がなく頭がいっぱいなんだろうと推測した。
「たまたまなんだけどね。今日、お客として綾さんが働いてるファミレスでご飯食べたの」
「……」
「信じてもらえるかわからないんだけど、トイレに行ってるときに、綾さんの同僚の雑談が聞こえたの。ファミレス、今月でなくなるって」
「それ知って何?栞には関係ないよね」
嘘をつくことも、遠回しに言いくるめることもできる。仕事で培った演技力を使えば、もっとスマートに彼女を丸め込めるかもしれない。
けれど、そんな腹の探り合いは、綾さんに対してだけはしたくなかった。ここまで強引に連れてきておいて、核心を隠し続けるのは、何より卑怯だと思ったから。
私はゆっくりと顔を上げ、彼女の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「綾さん相手に腹の探り合いしたくないから、単刀直入で言うね」
「今日の夕刊にね。綾さんが働いてるガソリンスタンドの親会社が事業の整理をするって記事があったの。綾さんの店も、今月中に閉店になるってことも、もう出回ってる」
その瞬間、彼女の瞳が揺れた。一瞬だけ、視界が狭くなったみたいな顔をして、次の瞬間、声が跳ねた。
「だから何?栞には関係ないじゃない!」
大きい声。多分初めて私は綾さんのこんな声を聴いたかもしれない。完全な怒りと拒絶の声を。それでも私は先に進める、そうじゃないとここまで連れてきた意味がないから。
「私、綾さんとは友達だと思ってる。綾さんは違うっていうかもしれないけど」
自分で言っておきながら、あまりに真っ直ぐすぎる言葉だと自覚していた。綾さんの顔が、さらに強張る。きっと、彼女はこんな言葉を向けられた経験がほとんどないのだ。
「友達」……普通に生きていれば、誰もが当たり前に手に入れ、使い古していく言葉。でも、私の目の前にいるこの人は、その温かさを知らないまま大人になってしまったのではないか。そう思えてくる。
私が予想していた通り、彼女は戸惑っている。それ以上に、その概念自体に怯えているようにも見えた。
私の世界は、偽物の友情や打算的な笑顔で溢れているけれど、綾さんの世界は、誰とも交わらないことで自分を守る、空っぽで静かで孤独な場所だったに違いない。
「私は綾さんの過去、何も知らない。どうして一人暮らしなのかも、家族がどうなのかも。疑問はあるよ。でも、人には色々な事情があると思う」
肺の奥が熱い。一度吸って、吐く。カメラの前で台詞を言うのとはわけが違う。結末がはっきりしている台本ではなく全てがアドリブでやらないといけないのだから。
「綾さん、これからどうするつもり?」
「栞に関係ないでしょ」
即座に返ってきた言葉は、冷たく突き放すための壁だった。そのセリフは予想範囲。
「うん、関係ない。でも心配はする。勝手だけど、友達だから」
「友達って……たまたま偶然で関わっただけでしょ」
綾さんの言う通りだ。私たちが関わった時間に、特別な積み重ねなんてまだ何もない。
「うん、そうだね。それでも私は、綿津見綾さんと友達になりたいと思ったの。理由はないよ。友達になるのに理由はいらないから」
一瞬、綾さんの胸が詰まったように見えた。その微かな動揺を逃したくなくて見つめると、彼女はすぐに、強すぎ
る拒絶で押し返してきた。
「友達の押し売りをする栞は、どうしたいの?」
――押し売り。
その表現が、妙に胸に刺さった。心の中にずかずかと入り込もうとしている私を、これ以上ないくらい的確に言い表している。なんてユニークで、痛烈な拒絶なんだろう。
「押し売りか……そうだよね」
私の言葉を受けて、綾さんはじっと黙り込んだ。その瞳の奥で、困惑とも違う、複雑な感情の揺れがはっきりと見て取れた。
この人から本音を引き出すなら、ここしかない。今しかない。私は勝負に出た。
「勝手な推測だけどね。もし身寄りがないとか、保護者がいない状態なら、給付型の奨学金を申請できるから、高校は通えると思うの。本来なら、こんなにバイトしなくてもいいようになってるはずなのに……綾さんがそれを申請してないのが、私には不思議で」
綾さんの呼吸が止まったような気がした。核心。触れてはいけないはずの、彼女の生活の歪み。彼女が必死で隠してきた現実を、私は暴こうとしていた。
そこまで言いかけたとき、部屋の外から、静かで迷いのない足音が近づいてくるのが聞こえた。
さっき席を外した秋子さんが戻ってくる。空気が切り替わるのをはっきり感じた。
「母……いえ、社長から許可を得ました。栞さん、その条件でいいそうです。ここからはわたくしがお話しますが、よろしいですか?」
戻ってきた秋子さんは、迷いのない足取りで私と綾さんの前に向き直った。落ち着き払ったその声に、私は小さく頷く。綾さんも、すぐには席を立たなかった。今はまだ「聞くだけは聞く」という頑なな態度だけれど、納得がいかなければいつでも断る……そんな強い意志がその瞳に宿っている。
「改めて。水無月プロダクションでマネージャーをしております、水無月秋子と言います。よろしくお願いします」
綾さんの視線が、一瞬だけ鋭くなった。
「水無月」という珍しい苗字。プロダクション名との一致。そして秋子さんの「言い直し」から、彼女が社長の身内であることに即座に気づいたはずだ。
秋子さんは、逃げ場を塞ぐように真っ直ぐ綾さんを見据えた。
「綿津見さんがよろしければ、わたくしたちの会社で働きませんか?」
「は?」
綾さんが反射的に声を漏らす。当然の反応だと思う。唐突すぎて、私だって彼女の立場なら同じ顔をしただろう。だから私は口を挟まず、ただ推移を見守った。
「私は芸能人になるつもりはない。愛想も悪いし、向いてないと思う」
「提供するのは、芸能活動ではありません。霧生栞さんの家で、ハウスキーパーをしてほしいのです」
秋子さんの言葉に、綾さんの眉がぴくりと動いた。
「……お手伝いみたいなもの?」
「はい。栞は忙しくなると食事を取らない日がありまして。先日は、綿津見さんにご迷惑をかけたと思います」
綾さんの瞳が小さく揺れた。つられて、私の胸の奥も落ち着かなく揺れる。
「……あの時、そういう理由があったんだね」
呆れたような、けれどどこか納得したような綾さんの声。うん完全な嘘だけど。そういう風にしてくれたんだ。多分私がいなかった時の説明は全部これだったんだろう。
「しかも、それを知られたくないから黙っていてほしいと言い出す始末です」
秋子さんの視線が、ちくりと私に刺さる。会社的にすごい迷惑かけたことはわかってますって。何の反論もできない。私はただ、ばつの悪さを隠すように苦笑いで誤魔化すことしかできなかった。
綾さんは黙ってる。助かる話だって分かってる顔。でも、簡単に受け取っていいのか分からない顔だとは予想できる。
「水無月さん、一ついいですか?」
綾さんの声が、いつもの冷淡な響きに戻った。感情に流されず、状況を冷静に分析しようとする彼女らしいトーン。
「はい何なりと。ご質問ですか?」
「栞の言い分だけど、友達だからって相談したんだろうと思う。そこまでは私でもわかります。でも、利益が発生しないのに会社が動く理由が分かりません。なんで私にここまでしようとするのでしょうか?」
秋子さんが少しだけ目を細めた。一筋縄ではいかない相手だと再認識して、適切な言葉を選び取ろうとしている時の癖だ。
「はい、綿津見さんのお食事は健康的でいいとお聞きしましたので、安心できる点が一つです。でも本音といたしましては、こちらですね。恩返しをしたいと思っているんです。栞を保護していただいた件で」
「恩返し?」
「通常なら警察に通報され、保護される形だったでしょう。そうなると、マスコミの格好の材料になる可能性がありました。栞や会社のイメージに傷がつきます」
綾さんが眉を寄せる。目の前の女性が口にしているのは真実か、それともただの交渉術か。必死に秋子さんの言葉の裏を読み取ろうとしているのが伝わってくる。
「でも私は霧生さんから、もうたくさん返してもらいました。家に滞在してた時、私がダウンした時も、バイトを代わってくれたし、熱中症で倒れた時も助けてくれました。それで恩は返されたと思ってます」
綾さんの口から語られる、私との時間。あの日、私が彼女の代わりにバイトをして、倒れた彼女を必死に介抱したことを告げられた。私としては友達だと思っているのに困っていたら手伝いたくなるのは普通なんだけどなぁ。
秋子さんは静かに首を横に振る。
「綿津見さんと栞の間ではそうですよね。ですがこちらとしては、綿津見さんに恩を返したいと思ったのです。かといってお金で解決というのは、お互い納得がいかないと思うので、綿津見さんに働く場を紹介する。今回はそのような形の方がお互い納得ができるだろうと、社長が判断いたしました」
秋子さんの言葉は、あくまで「会社としての筋」を通すための論理だ。実際は私のわがままを香織さんがやってくれたことだった。私にとってはもう一人の親みたいな人。今回はすごく迷惑かけたと思う。私も芸能活動頑張らないといけないと改めて思った。香織さんも香織さんの打算はあるかもしれないけどそこはお互い様だよね。
「……引っかかるところもありますが、理由はわかりました。契約内容をお聞きします」
綾さんの言葉に、ようやく空気がわずかに緩んだ。秋子さんは待機させていたように、準備していた書類をそっと差し出す。
「こちらをお読みください」
差し出された紙を手に取る綾さんの横顔を、私は祈るような気持ちで見つめていた。
実は、私自身もその契約内容の詳細は知らない。
秋子さんのことだ。きっとさっき席を外したわずかな時間で、隣の部屋で完璧な契約書を仕立て上げたのだろう。
書類に目を通す綾さんの視線は、何度か止まり、読み返していた。まるで言葉の一つ一つ、そこに込められた意図までも見落とさないように、慎重に、そして真剣に確認しているようだった。
秋子さんはそう言って、二通の契約書を差し出した。一通は綾さんへ、そしてもう一通は私の手元へ。
私は、契約書に目を通した。私自身、詳しい条件は今この瞬間まで知らなかったから。
期間は夏休み終了まで。継続は相談。給与は月額二十万円。八月分と九月の中途分を合わせて、九月二十五日に一括で三十万円が支払われるという。
住み込みが条件なのは私の不規則な仕事のせいだろうけど、契約書には『二十二時から翌朝五時までの労働は一切禁止』これは労働基準法に基づいてるよね。
提示された条件が、一般的なハウスキーパーに比べてかなり破格なのは分かっていた。
実を言うと、この給料は、私のギャラから充ててもらうよう香織さんにお願いしてある。会社にとっては、雇用を増やしつつ支出を抑える形だ。
私が香織さんにお願いそたのは、「綾さんをハウスキーパーとして雇ってほしい」ということだけ。お金は私が出すから、その代わり、社会福利厚生だけは公的な組織としてきちんと整えてほしい。綾さんに対して出来ることを考えたらそれしか思いつかなかった。
「一つ、付け加えるのを忘れていました」
秋子さんがふっと思い出したように言葉を添えた。
「……何ですか?」
「一応、綿津見さんには栞のスケジュールを渡しておきます。もし寝坊していたら、起こしてあげてもよろしいですか?」
「ちょっと、秋子さん! 子供じゃないんだから、一人で起きられるってば」
思わずむっとして言い返すと、秋子さんは「はいはい」とあしらうような目で私を見た。そのやり取りを、綾さんは少しだけ呆れたような、まるで仲の良い姉妹を見守るような眼差しで眺めていた。
それでも、綾さんの頭の中はまだ整理が追いついていないようだった。この条件が、裏があるのかどうなのかしっかり考えたいと思っているようにも思えた。
綾さんはゆっくりと紙を揃え、居住まいを正して静かに言った。
「今日はいろいろありましたので、明日には返事したいと思いますが……よろしいでしょうか?」
「もちろん。いい返事がもらえると嬉しいです」
私がそう言うと、綾さんはゆっくりと立ち上がった。
「栞」
「何? 綾さん」
「……いろいろ気にかけてくれてありがとう。でも、さすがに参ってる。今日は帰る。そっちがよければ、明日の昼あたりに来て返事する」
「うん、わかった。夜遅いから送っていくよ」
「自転車があるから、一人で帰るよ」
やはり私はまだまだ距離が遠いなぁって思ってしまう。
「うん、わかった。夜遅いから送っていくよ」
「自転車があるから、一人で帰るよ」
綾さんは頑なだった。けれど、そこで秋子さんが、妥協案なのか何なのかわからない提案を投げかけた。
「なら、今日は車でお送りします。自転車はうちの駐輪場に置いてかまいませんから。明日もしお断りになるとしても、改めてお迎えにあがりますから。その時に自転車で帰ればいいと思います」
「……迷惑じゃありませんか?」
「先ほどのように考え事をなさって運転される方が心配ですわ。それか、今日はここにお泊まりになりますか? 部屋は空いておりますので」
「帰らせてもらいます。何もない部屋かもしれませんが……もし仕事を受けるのであれば、身支度の整理もしたいので」
帰るという意思は変わらない。けれど、「仕事を受けるのであれば」という言葉が彼女の口から出た。
それは、彼女がこの突拍子もない提案を、自分の未来の選択肢として真剣に数え始めた証拠だったと思いたい。
「了解しました。ならお送りいたしますわ」
秋子さんが満足そうに頷く。綾さんは小さく頭を下げて、秋子さんに促されるように玄関へと向かった。扉が閉まり、静かになった玄関で、私はしばらく動けなかった。
明日の昼、彼女はどんな顔をしてここに来るだろう。願うしかない。綾さんが、その細い肩に背負った荷物を少しだけ降ろして、私の差し出したのを受け取ってくれることを。
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