【1部完】紫微綾の事件簿1 鎖の記憶

南條 綾

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2章 潜入の鎖

潜入 前編

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(今池・夜9時前 - 潜入開始)

 今池の路地は、栄の喧騒から一歩だけ外れてるのに、別の種類のうるささがあった。 
街灯の橙色の光がアスファルトの水溜まりに揺らめき、通り過ぎる酔っ払いたちの甲高い笑い声がビルの壁に反響して、すぐに闇に吸い込まれていく。
雨上がりの匂いと、どこからか漂う安いタバコとアルコールの混じった臭気が、鼻の奥をくすぐる。

 朝から夢見が悪かったのか心臓のリズムが変になった。平気な顔をしてたつもりでも、今こうして一人になると、鼓動だけが勝手に速くなる。

 シートに残る自分の体温と、エンジンの余熱が、じんわりと伝わってくる。
その静けさの中で、白波凛の声が、頭の中で何度も反芻される。

「この事件を終わらせて、先ほどの続きを安心してやろう」
少しタバコが染みついた革ジャンの匂い、彼女自身の体臭が混じった香り。
事務所のデスクに押し付けられたときの、熱を帯びた唇の感触。
柔らかく、でもどこか強引で、息が絡み合うほどの近さ。
割り切りの関係のはずだったのにね。
私は隣に座ってる凜を見た。

 ただの肉体の慰め、感情を挟まない約束だったはずなのに。
いつの間にか、凛や玲奈、千景の存在が、心のどこかに小さな灯りを灯していた。
孤独を埋めてくれる、頼れる支えになっていた。

 でも侵入は一人で動くしかない。
玲奈は警察の捜査で手一杯。千景は情報面で動いてくれてる。
凛は隣で、千景からリアルタイムに飛んでくる情報を整理して、インカム越しに私へ流す役を引き受けてる。必死に支えてくれてるのが分かる。

 この事件を最も早く終わらせる鍵は、自惚れかもしれないけど、私の手の中にある気がしてならない。

 その予感が、胸の奥で熱く疼く。QRコードの欠片を、指先でそっと撫でる。
黒いインクが湿気で滲み、プラスチック片の角が欠けて、指に柔らかく沈む感触。

 千景が教えてくれた情報が頭によぎった。

「OK-2 / 女限定 / 報酬15万 / 場所: 今池地下 / スキャン後3時間有効」女限定。
その言葉だけで、背筋に冷たいものが走る。
息を深く吸い込み、ゆっくり吐き出して、なんとか感情を押し殺す。
ハードボイルドを気取る自分が、こんな路地裏で怯むわけにはいかない。

 車の窓から漏れるネオンの光が、雨に濡れたアスファルトに歪んだ虹を描き、不気味な美しさを放っている。
ポケットからスマホを取り出し、偽QRを仕込んだ画面の青白い光が、濡れた地面に淡く反射する。これから始まるのは、闇への潜入だった。
心臓の鼓動が、少しずつ速くなっていくのを感じながら、私はドアを開けた。

(今池・夜9時前 - 潜入開始)

 改めて自分のスタイルを確認した。
顔の上半分が隠れるだけで、気持ちが少し落ち着くのが悔しい。

 雑居ビルの裏口へ。コンクリの壁は落書きだらけで、赤と黒のスプレーが剥がれかけのペンキに重なってる。
近づくほど、ゴミ箱の腐った匂いが鼻の奥に刺さって、反射で呼吸が浅くなる。
足元でネズミがゴソゴソ音を立てた。気配だけ残して逃げていく。今の私みたいで、笑えない。

 扉の脇に、新しいテープ跡。剥がれかけの紙に貼り付くみたいに、指先で端をそっと触れてみた。
湿気でふにゃっとしてて、当たり前だけど、気色悪い。
その瞬間、スマホが短く震えた。千景から地図が飛んできて、画面に誘導先が表示される。
目で追ってると、耳のインカムが小さく鳴って、凛の声が入った。

「地図の誘導に従って。迷わないで、真っ直ぐ」

 着いた先はビルの地下駐車場だった。
罠の匂いがする。でも舞の行方を掴む鍵も、たぶんここだと直感が訴えていた。

 背後で風がビニール袋を転がして、乾いた擦れる音が路地に伸びる。
ふいに孤独感が背中に張り付いて、肩が冷たくなる。
雨が強まって、コートの裾が水を吸って重くなる。
足元が少し滑って、踏み直す。焦るな。呼吸、戻せ。

 鉄の階段を下りる。
一段降りるたび、足音が変に響く。
蛍光灯がチカチカ点滅して、壁の影が揺れた。
カビとタバコの匂いが混じって、鼻の奥がじんとする。
水滴がポタポタ落ちて、その音だけがやけに大きい。

 手すりを掴むと、錆が指にざらっと当たった。
金属の冷たさが骨まで染みる感じがして、肩に力が入る。

「触るんじゃなかった。全く」

 階段の角に、古い血みたいな染みが残ってる。足が止まりそうになる。
一瞬だけ、10年前の記憶が喉元まで上がってきて、吐き気がくる。
違う。今は違う。今は動ける。そう言い聞かせて、もう一段降りる。

 昭和ならいざ知らず、知らんけど。
よく現代でこんな骨とう品みたいな場所が残ってるな、と感心してしまった。
こんな風に思わないと変な考えが頭によぎってくるから仕方がない。

 通路の奥に、コンテナみたいな頑丈な扉が見えた。
錆びた鋼鉄に、赤い文字が擦り切れて残ってる。
薄暗い光が扉の凹凸を拾って、不気味に影を作る。

 QRをもう一度スキャンする。
次の瞬間、ガラリと重い音を立てて扉が開いた。
金属が軋む音が耳に残って、10年前のコンテナの記憶と重なる。
心臓がぎゅっと締め付けられる。息が詰まる。
それでも、足だけは止めない。手のひらに残った冷たさを握り直して、私は前に進む。


(潜入部屋・内部)

 扉が重く閉まる音が背後で響き、薄暗い部屋の空気が一気に肌にまとわりつく。
天井の古い蛍光灯が不安定にチカチカと明滅し、部屋全体をぼんやりとした灰色の光で照らすだけ。
影が壁に長く伸び、動くたびに不気味に揺らめいていた。

 床に座り込んだ十数人の少年少女たち。
男の子たちは汚れの染みついた作業着を着て、肩を落とし、疲れ果てた顔で虚空を見つめている。
目元にくまができ、唇は乾いてひび割れ、まるで魂を抜かれた人形のように無気力だった。

 女の子たちは、安っぽい化粧を厚く塗った顔で、派手だがサイズの合わない服に身を包んでいる。
短いスカートや露出の多いトップスが、寒そうな部屋の中で却って惨めさを強調する。
彼女たちの視線が、私に注がれる。不安と諦めが混じった、濡れたような瞳。
誰かが小さく息を呑む音が聞こえ、部屋の静けさを一瞬破る。

 床はタバコの吸い殻で埋め尽くされ、踏むたびにカリカリと乾いた音が立つ。
壁には、赤黒く乾いた染みがいくつも残り、血痕か、それともただの汚れか?
どちらにせよ、過去の暴力の痕跡を想像させる。

 空気は重く湿り気を帯び、息をするたびに肺に絡みつく。
汗の酸っぱい臭い、古い尿の氨臭、そして安物のタバコと体臭が混じり合った、吐き気を催すような匂いが鼻腔を満たす。
喉の奥がむせ返りそうになるのを、ぐっと堪える。

 中央に男が立ってた。三十代くらい。剃り上げ頭で、首に龍のタトゥーが這ってる。手にはタブレット。
私を見た瞬間の目が、値段をつける目だった。
肌の上をなぞるみたいで、背中に冷たい汗が落ちた。
タトゥーの鱗が汗で光ってるのが、やけに生々しい。

「新入りか。OK-2スキャンかよ。高給与コースだな」

 喉が一瞬、詰まる。言葉が出ると揺れる気がして、私は黙って頷いた。
顔の筋肉を固める。表情は出すな。今はそれだけ。

 男はニヤリと口角を上げ、タブレットを操作する。
レンズが私の顔を捉え、冷たいフラッシュが一瞬光る。
スキャン完了のピッ、という無機質な電子音が部屋に響き、位置情報が送信されたことを告げる。
その音が、まるで鎖がかけられた合図のように感じられた。
男の視線が、再び体に絡みつく。

 男の声が、低く粘つく響きで部屋に広がる。

「ルールは簡単だ。女は『接客』。報酬は前払い半分。逃げたら位置追跡で終わり。わかったな?」

『接客だって。その言葉が、鋭い刃のように胸を抉る。
言葉はいいようだと思う。接客という名の売春だろ。

 暗い部屋。男たちの荒い息。鎖の冷たさ。
10年前の記憶が、勝手に目の前に重なってきて、喉が詰まる。指先が震えて、吐き気がこみ上げる。
でも顔には出せない。ここで崩れたら終わりだ。
私は息を飲み込んで、表情だけを凍らせた。まばたきの回数まで、意識して減らす。
ここで崩れたら、終わりだ。従順なそぶりを装い、わずかに視線を上げて色目を使う。

 眼を伏せ、唇を湿らせて、男の虚栄心をくすぐるような視線を投げた。
男は満足げに鼻を鳴らし、言葉を続ける。

「今夜の仕事は金山のクラブだ。客はVIPぞろい。容姿次第でボーナスもある。先日も舞って子が来てな。最近はイイ女がよく来るよ。」

 舞がここにやはりいた。心臓が、喉まで跳ね上がる。
血の音が耳元で鳴り響き、一瞬息が止まる。
「どこに?」声が、意に反して出てしまった。
高く、震えが混じった声。
しまった。動揺が顔に出たと思った瞬間、男がニヤリと下品に笑う。
ただのスケベな笑みだ。
気づかれていない。何とかセーフだった。
胸を撫で下ろすが、心臓はまだ激しく鳴り続けている。

「お友達か?そういうことは仕事終わりに聞けよ。まずは準備だ。」
私は、無言で小さくうなづいた。

 それ以上言葉を発したら、声が裏返りそうだった。
男に肩を掴まれ、狭い控室へと連れていかれる。
扉を開けると、むっとした空気が顔にぶつかる。

 控室に連れられる。
狭い部屋で、蛍光灯がチープな鏡を照らしてた。壁紙は剥がれて垂れ、床にはゴミが散ってる。足元の汚れを踏まないように、つま先で場所を選ぶ。

 男が無造作に投げてよこしたのは、真っ赤なワンピース。
安っぽい生地で、胸元が深く開き、スカートは短すぎる。
それを着替えながら、手早く仕込みを進める。

 スカートの裏地に小型の隠しカメラを縫い付け、太ももに薄いナイフをストラップで固定。
冷たい金属が肌に触れる感触が、わずかに安心を与える。
千景が作ったツールで、偽QRのバックドアはすでにハック済み。
位置情報は逆追跡可能だと思う。
いつでも、私の動きを掴めると信じてる。

 着替えを終え、鏡の前に立つ。
銀髪が乱れ、蛍光灯の光を受けて冷たく輝いている。
赤い瞳が、鋭く、獣のように鏡の中から睨み返してくる。
頰に残るわずかな化粧の跡。

 女の体を武器に、闇に潜る覚悟が、今、再び試される。
息を深く吸い、吐く。
心臓の鼓動を落ち着かせながら、鏡の中の自分に囁く。
お前はもう、10年前のあの子じゃない。
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