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カウンターから向かって左奥の指定席

2.

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 日が暮れて、店内の明かりが眩しいと感じる時間帯。客が退店する度に開閉するドアからは秋にしては冷たい風がひゅうと店内に流れ込んでくる。適温に保っている店内と外の温度差はなかなか厳しいものがあるなとぼんやり思っていると、ぱたんと本の閉じられる音が聞こえた。
 カウンターから見て左奥の個席に座る真哉さんがテーブルに載せていた本を鞄に仕舞っていた。お変わりしたコーヒーも飲み干したようで、帰り支度をしている。テーブルの隅に置いていた紙を持ち、椅子を元に戻してレジへと向かってくる。自然と俺もそちらへ向かう。萌がふふふ、と背後で笑った。

「お預かりします」

 レジの前に立った真哉さんに手を差し出すと、すっと紙を渡してくれた。注文したメニューが記載された紙を元に精算する。レシートが出てくる前に、彼に一言声を掛ける。

「息抜きできましたか」

真哉さんが顔をあげた。しっかり目があった瞬間、ふいと下へ視線を逸らされる。しかし、彼の声は柔らかい。

「おかげさまで」

「良かった。来週もまた来てくださいね」

「ありがとう」

 レシートとおつりを渡す。真哉さんはそっと受け取り、一礼してレジを離れる。俺は少し大股でドアへ向かい、彼の為に開ける。

「暗いからお気を付けて」

「うん。君も、帰りは気を付けて」

 にこ、と真哉さんが微笑んだ。一日の疲れがどこかへ飛んでいくのを感じながらお礼を告げ、彼の背中を見送ってからドアを閉めた。
 閉店間際なこともあり、店内は静かだ。客はもう数人しかいない。皆、鞄を持ったり上着を羽織りながら帰り支度を始めている。テーブルに残っている食器を回収してカウンター裏へ持って行き一枚ずつ洗っていると後輩たちがレジ対応をしている元気な声が聞こえた。閉店の時間を過ぎれば店じまいを始める。表の片付けは後輩に任せて店の裏へと向かう。

 真哉さんも気に入っているこの店『osmanthusオスマンサス』は、祖父が経営していた小さなカフェだ。コーヒー好きが高じて自分で提供する側になりたいと作ったと母から聞いた。オーナーとしてカウンターに立っていた祖父を見ていた俺は祖父に憧れていた。度々、ジュースを飲みに来ては自分もいつか店長になるのだと声高に言っては家族を笑わせた。言霊には力があると言うが、言葉どおり俺は将来、店を継ぐことになった。現オーナーである父はまだ譲るつもりはないと言いつつ俺に経営などの知識を蓄える時間を作ってくれているため、この場所で社員として働きながら日々勉強をしている。

 昭和から平成初期に作られたため内装は少し古めかしい。別の言葉でレトロとでも言うべきか。インターネットが主流の現代においてはいかに若者の流行に乗り、その中で独自の良さを生み出せるかにかかっている。その辺が疎い父ではなかなか店を売り出せず一時期は売上が下がったが、SNSを駆使して映える店として俺が売り込んだことが功を奏して、今では老若男女が集まる場所になった。真哉さんもそのひとりとして、この店に足を運んでくれている。

 従業員である後輩たちも、SNSで見て気になったからと来てくれた客だった。彼女たちも度々客として来るぐらいには気に入っているらしい。
人と話すことが好きで、ひとりでも楽しく、時には静かに過ごせる。自分の性格にぴたりと当てはまった居場所を作りたいという思いが通じたのか、客は異口同音に来て良かったという言葉を残していく。誰もが自分の時間を大切に過ごせるこのカフェを、これからどう動かしていくか。そう考えると高鳴る鼓動を抑えられないのも無理はないはずだ。

宇上うがみせんぱーい。片付けも終わりましたー」

 店じまいを終えて私服に着替えた後輩たちがひょこりと顔を出した。そして、俺の手元にあるパソコンを見て深々と頭を下げた。

「売上の確認ができない私たちのスキルの無さをいつも恥じております」

「そんな大げさに言うなよ。オーナーに任されたのは俺だし。皆には助けられっぱなしだから、感謝すべきは俺の方だ」

今日もありがとうなと言うと、萌たちの表情がぱっと明るくなった。

「お疲れ様でした、先に失礼しまーす」

「おう。気をつけて帰れよ」

 はーい、と元気いっぱいの返事を残して、裏口のドアが開いた音がした。賑やかだった店の中は急にしんと沈黙が下りる。

「俺も早く帰ろ」

 祖父の見舞いの為に店を開けている父の代わりに、出来ることはやるようにしている。いつかオーナーになるのだからこのぐらいはやりたいという思いと、少しでも家族の力になりたいという子ども心からのお手伝い。また明日も、店を訪れる人たちを笑顔で迎えるための仕事ならお安い御用だろう。

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