コーヒー1杯分のカフェイン

赤宮 里緒

文字の大きさ
4 / 9
カウンターから向かって左奥の指定席

3.

しおりを挟む
 甘い、それでいて爽快感を覚える香りに自然と口元が綻んだ。周囲をくるりと見渡せば、植木に小ぶりの黄色と橙色の狭間を身に纏った花が咲いている。金木犀だった。

「もうそんな季節か」

 呟いた声は誰にも届かず秋の空に溶ける。ノースリーブでは寒いねと横を通り過ぎた2人組の女性が笑った。頬を撫でる風は熱など忘れたかのように心地良い。
今日は休みをもらっているためカフェに向かう必要はない。勉強の為にも人気の店に寄ってみようかと考えたがコーヒーを飲みたい気分でもなかった。とはいえ、平日に休みが重なる友人もいないため1人で過ごすしかない。何かやりたいことが見つかるだろうと外に出たのは良いものの、結局当てもなく街を彷徨っている。ひとりになるのは普通のことなのに、こうも胸がざわざわと曇っているのは秋だからだろうか。妙に、隣に誰もいないことを煩わしく感じた。

 気の向くままに歩いていると、左手側にある本屋が目に止まった。近年は電子書籍の需要が高まったことで閉店が相次いでいるが、この店だけはしぶとく生き残っている。紙製の本も好きだからこのまま存続してほしいが、電子書籍で買う機会が増えているのは否めない。少しでも貢献しようかと自動ドアをくぐって店内へ入る。
広い店内には、所狭しと本が積まれている。客足も良く、立ち読みする人の後ろを通るだけで一苦労だった。目的の場所に行くまで、何度頭を下げ身体をよじっただろうか。目的地に辿り着いた頃にはぐったりしていた。

ひ、人多いな……。

 げっそりしてため息をひとつ吐き、気を取り直して顔を上げる。幸い探し求めたジャンルを眺める人は少なかった。ビジネス書籍の棚には、一冊一冊が分厚く厳かに装丁されている本が並んでいた。箔が押された本にハードカバーのものまで。今までに数冊だけ読んだがまだまだ奥が深い領域だ。学ぶことは多いだろう。適当に目に入った本を引き出して開いてみる。文章ばかりではどうしても疲れてしまうため、図解入りの物を見つけようとあれこれ開いていく。
 紙の重たさと触感は本ならではの良さだなあと内容とは関係のないことを考えながら読む本を選んだ。試し読みを数ページして、興味深そうなものはそのまま持ち合わないと思ったものは棚に戻した。教科書を見つけるのは大変だが、子どもの時に駄菓子を選んでいる時と同じワクワクした気持ちを抱けるため嫌いではない。
三冊ほど選んだ本を持って、レジへ行こうと通路側へ身体を向ける。必然的に目に入る、近くに立っている男性におや、と首を傾げる。見慣れた横顔だったからだ。

「……」

 所々に銀色が混じる黒髪、自分より頭ひとつ分は低い身長、男性にしては少し頼りない肢体の細さ。上着として羽織るベージュ色のカーディガン。

「真哉さん?」

 口から溢れた名前に、その人の身体が大きく跳ねた。持っていた本を半分閉じながら、目を大きく見開いてこちらを見る。見慣れない眼鏡をかけているが、間違いなく自分がよく知っている人だった。

「奇遇ですね! こんなところで会うなんて」

「……え、えっと、そうだね」

 俺の機嫌が急上昇していく。毎週顔を合わせている真哉さんに出会えるのは、またとない幸運だった。読書とコーヒーが好きな人というだけでも好感を持てるのに、加えて毎週来てくれる常連なのだ、好意を持たないはずがない。足取り軽く彼に近づく。

「真哉さんも本を買いに? 俺も経営学の本を見に来てたんですよ」

「そう、なんだ。勤勉なのは良いことだ」

「へへ。真哉さんに褒められると照れますね」

 暢気に頬を緩ませる俺に対して、真哉さんは居心地悪そうに視線をあちこちへ向けている。 持っている本は、手に力が入りすぎて少し紙がよれてしまっているのが見えた。

「……大丈夫ですか? 本が」

「え? あ、紙が」

 真哉さんが持っていた本を見て慌て始める。しっかり折れ目が刻まれた新品の本は、どうやっても元の形に戻すことはできないだろう。悪いことをしたと反省しながら、真哉さんの持っている本に手を伸ばす。

「すみません、俺が急に声かけたせいで……。折角なので俺が買います」

「え」

 真哉さんが俺を見上げる。目を丸くしてぽかんと口を開ける真哉さんはいつもの知的な雰囲気がどこへいったのかと疑うほど間抜けな顔をしていた。そんな顔もできるのかと少し嬉しくなる。

「僕がだめにしたんだ。自分で払うよ」

「いやいや、俺が声かけなかったらこうはならなかったでしょ。俺が買います」

「いやいやいや、元々欲しいと思っていたものだし自分で……」

 お互いに譲らないせいで、本屋ということも忘れてそれなりに大きな声で応酬する。我に返って顔を上げれば、周囲にいる客が何だ何だと興味深そうにこちらを見ていた。真哉さんと一緒に身体を縮こまらせて、口を閉ざした。

「……君のせいじゃないから、自分で払うよ」

 周りの視線が離れた頃にようよう真哉さんが言った。頬を少しだけ赤らめて気恥ずかしそうに言う彼に、そうはいかないと俺は首を横に振る。

「俺が払います」

「それは君に悪いよ」

「いいえ、いつもうちに来てくれるお礼だと思ってください」

 それなら文句ないでしょう。

 有無を言わせなかったからか、観念した真哉さんは渋々頷いた。俺は満面の笑みで真哉さんの持っていた本を受け取り、自分用の本と合わせてレジに向かった。会計を済ませて先に外へ出ていた真哉さんに、カバーを付けてもらった本を差し出す。真哉さんはありがとうと微笑んだ。

「しわがあるものですみません」

 彼は本が好きだ。カフェに持ってくる本は、どれも新品同様に状態が良くカバーも掛けてある。古本だと思しき日焼けした本さえ丁寧に扱っているのを何度も見た。紙が折れた本はなかったぐらいだ。

「自分のせいだから気にしないでくれるかい。それに、このページを見る度に今日を思い出せて楽しいから」

 励ましてくれたのか、気遣ってくれたのか。真哉さんはにこにことそう言った。急に声をかけるのではなかったと何度目か分からない反省を脳内でする。

「人付き合いが苦手な僕も悪いから、そんな顔しないで良い」

 真哉さんは目を伏せて呟いた。彼の言葉に内心で納得しながらもおくびに出さず明るく返す。

「あれは俺が悪かっただけですから。真哉さんは気にしないでください」

 俺の言葉に、彼は少しだけ俺の目を見た。黒目がちな両目はすぐに逸らされてしまった。

「ありがとう」

 ふたりの間に沈黙が下りた。気まずい空気が流れて、居心地悪そうに俯く真哉さんに助け船を出そうとわざとらしく携帯を見る。

「あ、もうこんな時間か。俺この後用事あるんで、今日は失礼します」

 人の良い笑顔で言うと、明らかにほっとした様子で真哉さんはそっかと微笑んだ。

「引き留めて悪かったね。……本、ありがとう。大事にするよ」

「どういたしまして。今度感想聞かせてくださいね!」

 じゃあ、と真哉さんに背を向ける。後ろ手に手を振ってその場を離れながら、そっとため息を吐く。俺、真哉さんにそんなに心を開いて貰えてないんだなあと、落胆する感情を込めて。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

BL 男達の性事情

蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。 漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。 漁師の仕事は多岐にわたる。 例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。 陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、 多彩だ。 漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。 漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。 養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。 陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。 漁業の種類と言われる仕事がある。 漁師の仕事だ。 仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。 沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。 日本の漁師の多くがこの形態なのだ。 沖合(近海)漁業という仕事もある。 沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。 遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。 内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。 漁師の働き方は、さまざま。 漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。 出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。 休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。 個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。 漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。 専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。 資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。 漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。 食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。 地域との連携も必要である。 沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。 この物語の主人公は極楽翔太。18歳。 翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。 もう一人の主人公は木下英二。28歳。 地元で料理旅館を経営するオーナー。 翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。 この物語の始まりである。 この物語はフィクションです。 この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。

(無自覚)妖精に転生した僕は、騎士の溺愛に気づかない。

キノア9g
BL
※主人公が傷つけられるシーンがありますので、苦手な方はご注意ください。 気がつくと、僕は見知らぬ不思議な森にいた。 木や草花どれもやけに大きく見えるし、自分の体も妙に華奢だった。 色々疑問に思いながらも、1人は寂しくて人間に会うために森をさまよい歩く。 ようやく出会えた初めての人間に思わず話しかけたものの、言葉は通じず、なぜか捕らえられてしまい、無残な目に遭うことに。 捨てられ、意識が薄れる中、僕を助けてくれたのは、優しい騎士だった。 彼の献身的な看病に心が癒される僕だけれど、彼がどんな思いで僕を守っているのかは、まだ気づかないまま。 少しずつ深まっていくこの絆が、僕にどんな運命をもたらすのか──? 騎士×妖精

魔王の息子を育てることになった俺の話

お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。 「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」 現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません? 魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。 BL大賞エントリー中です。

【BL】捨てられたSubが甘やかされる話

橘スミレ
BL
 渚は最低最悪なパートナーに追い出され行く宛もなく彷徨っていた。  もうダメだと倒れ込んだ時、オーナーと呼ばれる男に拾われた。  オーナーさんは理玖さんという名前で、優しくて暖かいDomだ。  ただ執着心がすごく強い。渚の全てを知って管理したがる。  特に食へのこだわりが強く、渚が食べるもの全てを知ろうとする。  でもその執着が捨てられた渚にとっては心地よく、気味が悪いほどの執着が欲しくなってしまう。  理玖さんの執着は日に日に重みを増していくが、渚はどこまでも幸福として受け入れてゆく。  そんな風な激重DomによってドロドロにされちゃうSubのお話です!  アルファポリス限定で連載中  二日に一度を目安に更新しております

処理中です...