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愛の言葉
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今度こそ去っていくふたりに手を振り、深く息を吐く。朝陽がいるベッドを振り向いた時には、恭生の目にはいっぱいの涙が膨らんでいた。鼻を啜りながら戻り、ベッドにちいさく腰かける。朝陽の肩に頭を乗せると、そっと背中を撫でられた。
早くふたりきりになりたいと思っていた。こうやって朝陽に触れて、朝陽の無事をしっかり感じたかったからだ。体中から力が抜けてゆく。
「朝陽、朝陽……」
言葉が喉に絡まる。医師たちにも森下にも気丈に振る舞ったつもりだが、頭の中はずっと動揺したままだった。涙が止まらないのも相まって、ただ名前をくり返すことしかできない。
「恭兄、せっかくお泊りの予定だったのにごめんね」
「そんなの、謝んな。だって、オレのせいじゃん」
「え? なにが?」
「朝陽が待ってるって分かってたのに。仕事が終わってもすぐに駅に行かなかった。オレのせいで、オレのせいで朝陽は……」
「恭兄。こっち向いて」
「…………」
ささやいた朝陽の手が、両肩に触れる。体を離すと、真剣な瞳がまっすぐに向けられていた。
「恭兄のせいとかないから」
「でも……」
「だって分かんないじゃん。恭兄が早く来てたとして、どうなってたかなんて誰にも分かんないよ。もしかしたら本当に事故に遭わずにいたかもしれない。でもそんなこと言ったら、恭兄の目の前で起こった可能性だってあるよね。俺はなんともなくても、あの子が大変なことになってたかもしれない。そんなの、今だからできる後悔だと思う」
「朝陽……」
「恭兄の選択だけがなにかを引き起こしてるなんてこと、ないよ」
「……そう、なのかな」
「うん、俺はそう思う。俺もお泊まり無くなったこともう謝らないから。あおいこ。ね?」
「……ん、分かった」
「うん」
こんな時に、朝陽が事故に遭った時に、自分のほうが励まされてしまうなんて。情けなくも思うが、朝陽の言葉たちが沁み渡る。今の自分にも、過去の自分にも、だ。
良いことも悪いことも、全て自分に返ってくる。ひとつひとつの自身の選択を重く受け止めてきた過去に、やわらかな朝陽の光が射していく。
「恭兄、もっかいこっち来て?」
「うん」
朝陽に誘われるまま、もう一度肩に擦り寄る。生きていることを確かめるために、鼻を寄せ匂いをかいで、首筋にくちびるを当てて体温を感じ取る。
本当は強く抱きしめて、髪をくしゃくしゃと撫でてやりたいけれど。異常はないとは言え、大事を取って入院するのだ。ぐっと堪える。その代わりにと手を繋いで、指を絡ませる。
「恭兄」
「あ……」
だが、朝陽のほうから抱きしめられてしまった。そんなことをされたら、ますます涙は止まらなくなってしまう。手を添えるように抱きしめ返し、まぶたを閉じる。
どれくらいそうしていただろうか。朝陽の向こうのサイドテーブルがふと目に入った。うさぎのキーホルダーが置かれている。朝陽がゲームセンターで獲った、あのうさぎだ。森下から朝陽のスマートフォンを受け取った時、そこについておらず肝を冷やしたのだった。
「これ……」
「あ。それ、いつの間にか握りしめてたみたいで、スマホから取れちゃった」
「そうだったんだ」
「このうさぎは恭兄のようなものだから。転ぶ時に咄嗟に握ったのかも」
「…………」
「恭兄? また泣いてる?」
「泣くに決まってんじゃん。あー……もう全然止まんない」
「そっか。はは、俺も泣けてきた。恭兄、心配かけてごめんね」
「だから謝るなっての」
「恭兄」
「ん……」
頬に手を添えられ、ゆっくりと朝陽のほうに引き寄せられる。目を閉じれば触れたくちびるが温かくて、また涙がこぼれてしまった。
ふたりで鼻を啜りながらくり返す。甘ったるい恋人のものというより、魂に触れ合って存在を確認するような、切ないキスだった。
「じゃあ、明日迎えに来る」
「うん。ありがとう」
「朝陽んちのおばさんに、今日のこと連絡しとく」
「うん」
「それで、えっと……なんか変だなと思ったら、すぐナースコールするんだぞ」
「うん」
「ん……じゃあ、また」
できることなら恭生も病院に泊まりたかったが。そういうわけにもいかず、帰ると言ってから十五分は経ってしまった。名残惜しさをどうにか振り払い、病室を出てすぐの壁に背を預け、こっそり鼻を啜る。
帰りの道すがら、朝陽の母親に電話をかけた。久しぶりの会話に最初こそ嬉しそうにしてくれたが、恭生のただならぬ空気が伝わったようだ。すぐに声は潜められ、恐る恐るというように問われた、
「なにかあったの?」
と。
その恐怖が手に取るように分かる。すぐに払拭してあげたくて、なにも問題はないんだけど、と前置きしてから今日の出来事を告げた。
朝陽が生まれた時から溺愛してきた人だ。ひどく混乱するかと思ったが、一度息を呑んだ後は落ち着いた様子が伝わってきた。恭生くんが駆けつけてくれてよかった、だなんて。感謝してもらえるようなことはなにひとつないけれど。朝陽の無事への安堵を共有し合って、また明日連絡すると言って電話を切った。
それから、泊まる予定だったホテルにキャンセルの連絡を入れて。気がついた時には自宅アパートに到着していた。正直、道中の記憶が全くない。ぼんやり歩いていたのかもしれないと思うと、恐ろしいものがある。これではいけないと、両頬をバチンと音が鳴るほどに手で挟んだ。
「ただいま」
返事のない真っ暗な室内に入り、布団の上に倒れこんだ。ベッドヘッドに置いてある柴犬のぬいぐるみを手に取り、胸元できゅっと抱きしめる。もうどれだけ流したかも分からない涙がまた溢れだし、静かにシーツに染みこんでいく。
「朝陽……あー……生きててほんっとよかったあ……」
そんなこと想像すらしたくないのに、朝陽を失うのではと本気で思った。もしも朝陽が死んでしまったら――言葉では言い表せないほどの恐怖が、今も恭生を支配している。
こんな思いは二度としたくない。そこまで考えると、ふと祖父の顔が頭に浮かんできた。
『なあ恭生、俺はなあ、ばあさんが先に死んでよかったと思ってるよ』
なにもこんな時にまで。いや、こんな時だからか。
数週間前、包丁で怪我をしてしまった時に理解できたような気がしていたけれど。今やっと、祖父の心に重なったような心地だ。
朝陽を失ってしまうかもしれない。今日感じた底の見えない恐怖を、自分の身の危険で朝陽に感じさせたくない。たった一ミリも、だ。
自分にもしものことがあったら、朝陽も同じ思いをするだろう。身も心も粉々に砕かれて、息の仕方も分からなくなってしまう。朝陽は必ず苦しむ。
そう思えるのは、朝陽からの愛情をつよく感じているからだ。愛されているからこそ分かる。ひどく悲しませてしまうと。
「じいちゃん、ばあちゃんのことが大好きだったんだな」
祖母を失った祖父も、耐えがたい苦痛に襲われたのだろう。だから思ったのだ、こんな悲しみを妻に味わわせることにならなくてよかった、と。苦しみは全て自分が引き受けようと。
祖母への愛と、愛されていたと自負できる幸せな日々の上にあったのだ。ばあさんが先に死んでよかった、というあの言葉は。
「分かりづらすぎだよ、じいちゃん。子どもには難しいって」
小学生だった自分に理解できるはずもない。いや、朝陽と恋をしなければ、大人になった今もきっとずっと分からないままだった。
祖父へ抱いていた疑念がほどけたら、どっと疲れが襲ってきた。思いがけない出来事だったのもあって、体はずっと強張っていたらしい。
ああ、でもなんだか眠るのが怖い。精密検査の結果は異常なしだと、この耳で聞いたけれど。無理を言ってでも泊まらせてもらえばよかった。ひと時も離れず、朝陽のそばにいたかった。
明日は十時には退院できると聞いているが、なるべく早く出かけよう。
さっき別れたばかりなのに、今すぐにでも朝陽に会いたい。
早くふたりきりになりたいと思っていた。こうやって朝陽に触れて、朝陽の無事をしっかり感じたかったからだ。体中から力が抜けてゆく。
「朝陽、朝陽……」
言葉が喉に絡まる。医師たちにも森下にも気丈に振る舞ったつもりだが、頭の中はずっと動揺したままだった。涙が止まらないのも相まって、ただ名前をくり返すことしかできない。
「恭兄、せっかくお泊りの予定だったのにごめんね」
「そんなの、謝んな。だって、オレのせいじゃん」
「え? なにが?」
「朝陽が待ってるって分かってたのに。仕事が終わってもすぐに駅に行かなかった。オレのせいで、オレのせいで朝陽は……」
「恭兄。こっち向いて」
「…………」
ささやいた朝陽の手が、両肩に触れる。体を離すと、真剣な瞳がまっすぐに向けられていた。
「恭兄のせいとかないから」
「でも……」
「だって分かんないじゃん。恭兄が早く来てたとして、どうなってたかなんて誰にも分かんないよ。もしかしたら本当に事故に遭わずにいたかもしれない。でもそんなこと言ったら、恭兄の目の前で起こった可能性だってあるよね。俺はなんともなくても、あの子が大変なことになってたかもしれない。そんなの、今だからできる後悔だと思う」
「朝陽……」
「恭兄の選択だけがなにかを引き起こしてるなんてこと、ないよ」
「……そう、なのかな」
「うん、俺はそう思う。俺もお泊まり無くなったこともう謝らないから。あおいこ。ね?」
「……ん、分かった」
「うん」
こんな時に、朝陽が事故に遭った時に、自分のほうが励まされてしまうなんて。情けなくも思うが、朝陽の言葉たちが沁み渡る。今の自分にも、過去の自分にも、だ。
良いことも悪いことも、全て自分に返ってくる。ひとつひとつの自身の選択を重く受け止めてきた過去に、やわらかな朝陽の光が射していく。
「恭兄、もっかいこっち来て?」
「うん」
朝陽に誘われるまま、もう一度肩に擦り寄る。生きていることを確かめるために、鼻を寄せ匂いをかいで、首筋にくちびるを当てて体温を感じ取る。
本当は強く抱きしめて、髪をくしゃくしゃと撫でてやりたいけれど。異常はないとは言え、大事を取って入院するのだ。ぐっと堪える。その代わりにと手を繋いで、指を絡ませる。
「恭兄」
「あ……」
だが、朝陽のほうから抱きしめられてしまった。そんなことをされたら、ますます涙は止まらなくなってしまう。手を添えるように抱きしめ返し、まぶたを閉じる。
どれくらいそうしていただろうか。朝陽の向こうのサイドテーブルがふと目に入った。うさぎのキーホルダーが置かれている。朝陽がゲームセンターで獲った、あのうさぎだ。森下から朝陽のスマートフォンを受け取った時、そこについておらず肝を冷やしたのだった。
「これ……」
「あ。それ、いつの間にか握りしめてたみたいで、スマホから取れちゃった」
「そうだったんだ」
「このうさぎは恭兄のようなものだから。転ぶ時に咄嗟に握ったのかも」
「…………」
「恭兄? また泣いてる?」
「泣くに決まってんじゃん。あー……もう全然止まんない」
「そっか。はは、俺も泣けてきた。恭兄、心配かけてごめんね」
「だから謝るなっての」
「恭兄」
「ん……」
頬に手を添えられ、ゆっくりと朝陽のほうに引き寄せられる。目を閉じれば触れたくちびるが温かくて、また涙がこぼれてしまった。
ふたりで鼻を啜りながらくり返す。甘ったるい恋人のものというより、魂に触れ合って存在を確認するような、切ないキスだった。
「じゃあ、明日迎えに来る」
「うん。ありがとう」
「朝陽んちのおばさんに、今日のこと連絡しとく」
「うん」
「それで、えっと……なんか変だなと思ったら、すぐナースコールするんだぞ」
「うん」
「ん……じゃあ、また」
できることなら恭生も病院に泊まりたかったが。そういうわけにもいかず、帰ると言ってから十五分は経ってしまった。名残惜しさをどうにか振り払い、病室を出てすぐの壁に背を預け、こっそり鼻を啜る。
帰りの道すがら、朝陽の母親に電話をかけた。久しぶりの会話に最初こそ嬉しそうにしてくれたが、恭生のただならぬ空気が伝わったようだ。すぐに声は潜められ、恐る恐るというように問われた、
「なにかあったの?」
と。
その恐怖が手に取るように分かる。すぐに払拭してあげたくて、なにも問題はないんだけど、と前置きしてから今日の出来事を告げた。
朝陽が生まれた時から溺愛してきた人だ。ひどく混乱するかと思ったが、一度息を呑んだ後は落ち着いた様子が伝わってきた。恭生くんが駆けつけてくれてよかった、だなんて。感謝してもらえるようなことはなにひとつないけれど。朝陽の無事への安堵を共有し合って、また明日連絡すると言って電話を切った。
それから、泊まる予定だったホテルにキャンセルの連絡を入れて。気がついた時には自宅アパートに到着していた。正直、道中の記憶が全くない。ぼんやり歩いていたのかもしれないと思うと、恐ろしいものがある。これではいけないと、両頬をバチンと音が鳴るほどに手で挟んだ。
「ただいま」
返事のない真っ暗な室内に入り、布団の上に倒れこんだ。ベッドヘッドに置いてある柴犬のぬいぐるみを手に取り、胸元できゅっと抱きしめる。もうどれだけ流したかも分からない涙がまた溢れだし、静かにシーツに染みこんでいく。
「朝陽……あー……生きててほんっとよかったあ……」
そんなこと想像すらしたくないのに、朝陽を失うのではと本気で思った。もしも朝陽が死んでしまったら――言葉では言い表せないほどの恐怖が、今も恭生を支配している。
こんな思いは二度としたくない。そこまで考えると、ふと祖父の顔が頭に浮かんできた。
『なあ恭生、俺はなあ、ばあさんが先に死んでよかったと思ってるよ』
なにもこんな時にまで。いや、こんな時だからか。
数週間前、包丁で怪我をしてしまった時に理解できたような気がしていたけれど。今やっと、祖父の心に重なったような心地だ。
朝陽を失ってしまうかもしれない。今日感じた底の見えない恐怖を、自分の身の危険で朝陽に感じさせたくない。たった一ミリも、だ。
自分にもしものことがあったら、朝陽も同じ思いをするだろう。身も心も粉々に砕かれて、息の仕方も分からなくなってしまう。朝陽は必ず苦しむ。
そう思えるのは、朝陽からの愛情をつよく感じているからだ。愛されているからこそ分かる。ひどく悲しませてしまうと。
「じいちゃん、ばあちゃんのことが大好きだったんだな」
祖母を失った祖父も、耐えがたい苦痛に襲われたのだろう。だから思ったのだ、こんな悲しみを妻に味わわせることにならなくてよかった、と。苦しみは全て自分が引き受けようと。
祖母への愛と、愛されていたと自負できる幸せな日々の上にあったのだ。ばあさんが先に死んでよかった、というあの言葉は。
「分かりづらすぎだよ、じいちゃん。子どもには難しいって」
小学生だった自分に理解できるはずもない。いや、朝陽と恋をしなければ、大人になった今もきっとずっと分からないままだった。
祖父へ抱いていた疑念がほどけたら、どっと疲れが襲ってきた。思いがけない出来事だったのもあって、体はずっと強張っていたらしい。
ああ、でもなんだか眠るのが怖い。精密検査の結果は異常なしだと、この耳で聞いたけれど。無理を言ってでも泊まらせてもらえばよかった。ひと時も離れず、朝陽のそばにいたかった。
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