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【第一鐘〜夜の少年と真白き少女〜】
18 望みの果て
しおりを挟む光が色を失い、凪いで行く空気の動きに、あれほどの念波の奔流は、何事もなかったかのように収束して行った。
叫ぶようにトゥリアが呼んだ筈の名前。そこにあった青い水晶の結界障壁がなくなり、支えを失ってしまったかのようにスフィルの身体がトゥリアの方へと倒れ込んで来る。
何かを思う余裕はなかった。
トゥリアは自分もまたふらつきかける身体を、叱咤する勢いにまかせて動かし、スフィルのその身体を、自身の血のまみれた手でしっかりと受け止めて支える。
そんなトゥリアの視界、白いスフィルの肌と服に、鮮烈な赤い色彩が散る光景。
ーヨゴシテシマッター
必死な行動とは裏腹な茫然とした意識の奥底。赤い色彩の残光が滲む、暗い澱みのような場所で、トゥリアはそんな“聲”を聞いたような気がした。
トゥリアの瞬かせる双眸。
トゥリアがどうにかしようとして吹っ飛ばされ、黒い子犬が命懸けで壊そうとして出来なかった結界の消失は、あまりにも呆気なかった。
スフィルが起こしたであろう、結界が砕け散ってしまう程の強大過ぎる力の奔流を目の当たりにして、けれどトゥリアの表情にスフィルの力に対する恐れはない。
トゥリアの視界を淡い光が彩っていた。
トゥリアとトゥリアが抱くスフィルの身体。そこにいる二人の上へと等しく降り注ぐ、燐光のように仄かな青色の光は、砕けた結界障壁の欠片だろうか。
光は瞬き、繊細に煌めいていて、それは余りにも幻想的で神秘的な光景だった。
けれど、トゥリアはその光景を美しいとは思わなかった。
自分の腕の中にいるスフィルの存在に対する安堵も、歓喜もなかった。
取り返しのつかないものを目の当たりにした時に受ける衝撃と、止めなければならなかった行動を止められなかった事への後悔が、トゥリアの表情から感情と言うものを奪い去ってしまっていた。
だって、そうではないかと、考えたくないと思うのにトゥリアは考えてしまう。
スフィルの力が砕いた青色の水晶障壁。けれど、同時に、スフィルを捕らえておける程のものをスフィル自身が壊したと言う事実に、トゥリアは全身が冷たくなる程の悪寒を覚えずにはいられなかった。
トゥリアはスフィルの方も無事に済む筈がないとそう予感せずにはいられなかったのだ。
「ねぇ、どうして・・・」
掠れる声で、唇は茫然と音を紡ぐが、その先を続ける事がトゥリア自身にも出来なかった。
せっかくスフィルの顔を間近に見る事が出来たと言うのに、浮かべる事の出来ない微笑み。くしゃりと泣き出す直前のような悔恨の表情が、ただトゥリアの顔を歪ませる。
ー・・・・・・暖かいー
沈黙を厭う、囁きよりもひそやかな聲をトゥリアは聞いた。
綺麗で切ない聲で、誰もが心に持つ琴線を振るわせる、そんな何処か懐かしい調べをトゥリアは思った。
そして、支えられて、間近でトゥリアを見るスフィルの表情は何故か酷く安らいで見えた。
「どうして・・・?」
トゥリアはただそう繰り返すが、スフィルの行動の理由が知りたかった訳ではない。
けれど、何がどうしてなのか、トゥリアは自分自身にも、本当は自分が何を聞きたかったのかが分からなかった。
突然の事に、混乱しているのも確かにそうだ。けれど、それ以上にトゥリアは、自分がそれ以上を考えないようにしているのだと、心の何処かで理解していた。
トゥリアが受け止めたスフィルの身体には確かな実態があり、ちゃんと“ここにいる”と実感出来る。トゥリアが知る、物理的な身体を持たない精霊と言う存在とは違う、人間と変わらないと感じる存在感がそこにはあった。
けれど、その身体は今、本当に精霊であるかのように、徐々に透き通り始めている。
スフィルの身体が解けるようにして、砕けた水晶の障壁のものとは異なる、無数の仄かな光の粒は舞い上がって行く。幻想的なこの光景こそが、どうしようもなくスフィルの存在を希薄なものへと変えていってしまっているのだ。
ー私の存在、魔粒子の剥離。・・・乖離を始めてる。ここでの在り方を失うだけ。これは・・・望みの、代償ー
カイの言葉もそうだったが、トゥリアにはスフィルの言っている事の意味が殆ど分からなかった。
ただ、何が起きているのかは分かっている。そしてトゥリアは自分が分かる部分だけでも受け止めるしかないのだ。
スフィルは今、何かを望み、そして、その結果として“こんなこと”になっているのだから。
「・・・代償?せっかく出られたのに、”消えてしまったら”、意味なんて・・・・・・」
受け止めると思いながらも、言葉は零れ、自分が発した筈のそんな言葉すらも、閊えて上手く出てこない。
倒れて来たスフィルを受け止めて、けれど、その身体に重さは殆どなかった。そして今、光の拡散と共にスフィルの存在が薄く、曖昧なものになって行ってしまっている事に、気付いていた。
見えなくなるだけで、そこにいると言う通常の精霊の状態とは何処か違う。
“消えてしまう”とそう言葉にしたトゥリアは、自分の感情が分からないまま、けれど、スフィルの身体を受け止めた時から、現在進行形で何も出来ない自分は、何かを思う資格すらないのだと思った。
ー・・・聞いていてー
「え?」
ー私は、この力で誰かを傷付けるだけの存在ではなく、あなたや、あの子のように・・・そばにいて、支えてあげられる、そういう存在でいたかった・・・ー
その表情だけでなく、言葉を綴るスフィルの聲はどこまでも穏やかだった。
微笑みがある訳でも、声音が優しい訳でもなかったが、トゥリアは確かにスフィルの雰囲気に今までにない、もの柔らかさを感じていた。
そして、その穏やかさこそが、トゥリアは怖かった。
そんな、トゥリアの感じている恐怖を知ってか知らずにか、スフィルは、伸ばす手にトゥリアの頬へと触れて来た。
真っ直ぐ瞳を覗き込むようにして見詰められて、夜空を映す藍色の瞳がトゥリアの眼差しを惹き付ける。
視界の端で青白い光の粒が舞い上がって行く。
トゥリアの頬を撫でるように、触れられていると言う感覚は、スフィルの全身から乖離して行く仄かな光の粒子と共に薄れ、消えて行ってしまう。
そして、不意にその光が糸を引き流れが歪んだ。
ー泣かないで・・・ー
「・・・・・・なく?ちがう、よ・・・泣いていたの、は・・・?」
戸惑いがトゥリアの虚を突く。けれど、光を歪ませる濡れた視界が、トゥリアに泣いているのは自分だと気付かせた。
ー精霊としての、“私”はこれで、消えてしまうけれど、想う心は自由・・・・・・世界の境界を超えて、彼方をも逝く魔粒子のひとかけら、そうして、私はいつか・・・・・・ー
「あ・・・」
存在の乖離。
先程のスフィル自身の言葉が、唐突に胃の腑辺りへと落ち込んで来た。
人が肉体を維持するように、スフィルが精霊だと言うなら、精霊としての身体を維持し、構成するものがある筈なのだ。
その何かがこの光。光が解けて行くように、スフィルの身体が、命そのものが失われて行っている。
そしてトゥリアにはそれを止める術がない。それこそが、トゥリアの恐怖の正体なのだ。
「だめだ」
否定、そして拒絶。けれど、そんな言葉に意味はなかった。
言葉が無力だとは思わない。けれど、それでも、トゥリアは今この瞬間、自身の無力を噛み締める事しか出来なかった。
いや、この事態のそもそもの原因であるトゥリア自身には、その資格すら、やはりないのだろう。
ーわた・・・は、そう、セイリ・・・ス。もう、スフィル、の名・・・ちが、・・・ぼえて、て、いつか・・・ー
上手く聞き取る事の出来ない言葉を、それでもトゥリアは遮る事なく聞いていた。
トゥリアへと預けられていた、一人分の体重としては軽過ぎる重さすらも今はもう不確かな感覚だった。そして、そんな言葉を最期に、スフィルの輪郭すらも薄れ、そして最後の光の一欠片が空へと舞う。
淡く、清廉な、スフィルそのものを思わせる光の一欠片。その光もまた、更に微細な、蝶の鱗粉よりも細やかな残滓の瞬きへと転じ、煌めき、仄かな光だったものが、虚空の彼方に在る透明な闇へと飲み込まれるようにして・・・
・・・そしてスフィルは消えてしまった。
「あ・・・」
意味を持たない言葉の欠片。何かを言いかけた訳でもなかったように思うが、そんな自分の事すら今のトゥリアには分からなかった。
分からない事だらけの自分自身がそこにはいた。
彼女の存在を、未だ抱き続けているかのように、下ろす事の出来ない腕。
トゥリアはただ、拒んでいた。
見ていたもの、聞いていた聲。想う事、考え、全ての時を進める事すらも拒絶する。
けれど、直ぐにそんな事は不可能なのだと思い知らされる。
「あの子が、自分からあの封魔の水晶柱から出る事を選んだのか。たった三夜の邂逅でそうさせる何かが、君にはあったと言う事なんだろうな」
淡白な声には、微かな笑みの響きを感じた。
聞きたくないと思いながらも、その柔らかな響きは、トゥリアの停止させようとしていた意識へと少しずつ浸透して来る。
何かに促されるようにして、ぎこちなくもゆっくりと動かす首に、やがて、トゥリアの視界が、夜闇に在る森の木々を背景に、白いフードと長衣に身を包んだ、あの男性とも女性ともつかない、カイと名乗った人物がそこに佇む姿を捉えた。
何時からそこにいたのか、そんな驚きはあった筈だが、トゥリアの表情は動かない。
トゥリアはスフィルの身体を抱き、抱えていた手を表情なく見下ろした。
「・・・・・・」
「あの子は、こうなると知っていた」
「・・・・・・」
「あそこから出るという事が、自分が消えてしまうことだって分かっていて、それでも選び取った想いがあったから、そう、あの子自身が望んだ自由な心を手に入れたんだ」
「想う、自由な、心?でも・・・」
消えてしまったのだと言う実感。
もうトゥリアがスフィルの声を聞く事も、姿を見る事もないのだと言う理解。
トゥリアは緩やかに、持ち上げたままだった手を下ろした。
自身の思いと共に見失ってしまった言葉の先で、トゥリアは今、酷く静かに混乱していた。そして、始末が悪い事に、混乱を収束させる為に思考する事を、何よりもトゥリア自身が拒んでいた。
いや、とそれは自らへと対する否定の意思。
理解に基づいた実感はあったのだ。だから考えてはいる筈で、なのにトゥリアは、それ以上動く事も、声を発する事も出来なかった。
そして、ようやくトゥリアは始めからそこにあった答えへと目を向ける事になる。
一度は下ろした手を持ち上げ、触れる先は自分自身の顔。
濡れた指の感触に、トゥリアは声もなく泣いていた。
身を引き裂く程の痛み。奥歯を噛み締めた悔しさ。嗚咽すらも自らには許さず、けれど、そう、トゥリアはただ悲しんでいたのだ。
「探してあげればいい」
「・・・?」
言われた言葉の意味が分からず、それでも考えようとする意思に、トゥリアは佇むカイへと目を向ける。
視界の中で緩やかに波打ち、揺れる白色がトゥリアの意識を掠う。
痛みも苦しみも、大切だと思ったものですら、等しく染め上げてしまう白月の色。そして、次の瞬間、トゥリアはその沁み入る月白色の中に咲く、紫苑の色彩に満たされた瞳の色合いを見た。
「君は、ああ・・・そう言うことなのかな」
呟くようなその言葉にあるのは、ようやくと言った理解だろうか。
胸もとの方へ、白地の長衣の上を流麗な流れを描いて零れる淡い金色の髪。顔の鼻付近までを覆っていたフードは外され、背中側へと落とされていた。
今、露わにされている顔に、トゥリアを見る紫苑の双方が宿す硬質的な輝きは感情を映さず、けれどその表情には紛れも無い微笑みが形作られている。
髪の色合いや、女性的な線の細さを思わせる印象の為か、白の長衣を纏ったカイのその容貌はどこかスフィルに似ているような気がして、トゥリアの口もとには自然と切ない微笑みが浮かんでいた。
「あるべき時から外れ、君は誰の意思でここにいる?」
そう尋ねられるが、それは答えられない問いだった。
トゥリア自身が持っていない答えに繋がる疑問。それどころか、トゥリアには問われている事の本質が見えなかった。
確かにスフィルのもとへと急いだのはトゥリア自身の意思だ。
だが、最初にトゥリアをスフィルのもとへと導いた黒い子犬の存在がいて、もっと言えば、この場所へと誘われる結果になったのは、イージスの森で崖下に落とされたからなのだ。
走馬灯のような瞬間的な記憶を辿り、その最中、唐突にトゥリアは行き当たる。問い掛けの響きを思わせる言葉に、“君”と言うトゥリアを指すのであろう単語。なのに、問われているのは自分ではないとトゥリアは直感する。
感情を悟らせる事のない紫水晶の瞳と、微笑みの表情。どちらが目の前の人物の本質を写しているのかトゥリアには判断がつかない。
目は嘘をつかないと良く聞くが、微笑みが持つ雰囲気の柔らかさもまた嘘ではないと、そう思えるのだ。
そして、トゥリアが直感の意味を答えにする事なく、見詰め返した眼差しに、そこまでになってしまった。
彼とも彼女ともつかない人物の綺麗な微笑み。見詰めた瞳はスフィルとは異なる黄昏れ時を思わせる紫灰色の彼方、トゥリアはその瞳を微かに過ぎった感情を見た気がした。
けれど、その感情が何だったのかを考えるより前に、トゥリアの視界と意識が陰り、そのまま暗転する。
何か酷く疲れていた。
そしてトゥリアは、闇へと落ちて行こうとする感覚に、抗おうとする考えすら浮かばず身を任せてしまう。
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