密教僧・空海 魔都平安を疾る

カズ

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その七 鏡よ、鏡

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田村麻呂は思い出していた。十年前のあの場を。
前の公卿会議。降伏した阿弖流為(アテルイ)と母禮の処刑が決まったあの日。
「それでは将軍は、あの二人を蝦夷に返すというのか?」
公卿会議。降伏し、京までやって来た阿弖流為(アテルイ)と母禮の処遇を話し合う場である。
一人の貴族が驚きの声をあげた。周りもざわめく。
「はい、阿弖流為と母禮との約定にございます。二人は今後、帝の命に服し、帝の民となると誓いました。蝦夷の地を治めるには、この二人の力が絶対に必要なのです」
約三十年に及ぶ蝦夷平定事業。
蝦夷の地。それは今の東北地方。その地を支配下に置こうと、朝廷は度々大軍を派遣してきた。朝廷の支配を嫌う蝦夷の人々は朝廷と戦い、かの地で朝廷、蝦夷双方が数万の死傷者を出してきた。
蝦夷を束ねていたのが阿弖流為と母禮であり、田村麻呂はこの二人と和平交渉を行い、ついにこの戦役を終了さることに成功したのである。
「蝦夷の人々は、今後朝廷の命に服すること」。
「阿弖流為と母禮は今後とも蝦夷の長として、この地を治める事」。
これが田村麻呂が提示した和平の条件であり、阿弖流為と母禮はこれに同意した。
長年にわたる戦いとその被害に、蝦夷の長たる二人も心を痛めていたのだ。
二人は長年戦ってきた田村麻呂の人となりを信じた。
無双な強さを持ちながら決して無道なことはせず、捕虜に対して温かい心配りを行う田村麻呂を信じ、降伏し京に来たのである。
「約定などと。将軍、奴らは人ではないぞ。約定とは人と人が交わすもの。奴らは鬼、獣。そんな者たちと約定とは。武人の考えることは分からぬなぁ」
この貴族の声に多くの者が賛同の声をあげる。
「あの者たちは鬼でも獣でもありませぬ。人です。信義を重んじ、慈しみの心を持つ勇者ですぞ。我らが約定を守れば、必ず蝦夷の者たちは、帝に服し、この国をより富ますことになりましょう」
「そもそもその約定は、将軍と梟帥(タケル。勇猛な種族の長のこと。ここでは阿弖流為と母禮を指す)が勝手に結んだもの。二人を蝦夷に返せば、この三十年の戦は何だったのだ!それこそ帝の御名に傷がつく」
「相手は獣。蝦夷に返せば、すぐにまた反乱を起こすに決まっておろうが。子供でも分かる事。それが将軍には分からぬのかな?」
「将軍は戦は強いが、政(まつりごと)にはとんと疎いのう」
周囲から嘲笑の声があがる。
「皆様が何と申されようが、田村麻呂は反対にございます。ここでこの二人を殺すことは、人としての信義に反します。信義を持たない我らに蝦夷の人々が従いません。この先も何十年と戦は続きますぞ」
「将軍、もう遅いわ。今頃はあの蝦夷たち、首を切られておる」
「何ですと!さてはお前ら、俺を足止めするためにこの会議を開いたのだな!」
田村麻呂が立ち上がった。
温厚な田村麻呂の顔が変わっている。
鬼だ。鬼の形相だ。
「だから、先ほどそう言ったではないか。『将軍は戦には強いが、政に疎い』とな。政はこの仲成に任せればよいのだ」
嘲笑が再び起こり、部屋中が笑い声に満たされた。
プツン!
何かが田村麻呂の中で切れた。
田村麻呂が仲成といった貴族の目の前に走り込み、右拳を顔面に叩きつけた。
仲成は口から血と数本の歯を吹き飛ばしながら後方へ吹き飛んだ。
「仲成卿!」
「田村麻呂が乱心!田村麻呂乱心ぞ!」
貴族たちの悲鳴が聞こえる。
十人を超える兵士たちが飛び込んできた。
その後のことは田村麻呂は覚えていない。
気づいたときには、田村麻呂の足元に何人かの貴族や護衛の兵士達が横たわり、会議の場所は嵐のあとのように破壊されていた。
田村麻呂は素手で何十人という貴族、兵士を打ちのめしたのだ。体中に傷を負いながら。
本来ならば厳罰であるが。桓武帝の「今までの軍功、抜群」との鶴の一声で、不問に付された。
そして田村麻呂は、蝦夷の土地に再び派遣されたのだった。

「お前に裏切られた想いが俺をこの世に蘇らせたのだ。お前なんぞを、この国の奴らなんぞを信じた我らが愚かだったわ!憎いぞ、田村麻呂。憎いぞ、憎いぞっ」
母禮の声に田村麻呂の思い出は断ち切られた。
母禮が打ちかかってくる。
田村麻呂の動作が一瞬遅れた。
危ない。
が母禮の体が揺れ、田村麻呂は防御の体勢を取ることができた。
空海である。空海が放った気が母禮を打ったのだ。
それでも母禮は田村麻呂に切りかかる。田村麻呂が受ける。
再び空海が気を放ち、当てた。
「ぐはっ」
母禮が体勢を崩した。
その母禮の胸板に田村麻呂の前蹴りが決まる。母禮が後方に吹き飛んだ。
兵士たちが母禮を取り囲み始める。
怯えた目をしながら、それでも田村麻呂を何とか守ろうとしているのだ。
「母禮、お前に殺されるわけにはいかぬ。俺には、まだやらねばならぬことがある。俺が地獄に落ちるまで待っていろ」
田村麻呂が静かに母禮との間合いを縮める。
空海も身構える。
母禮は兵士たち、そして空海に目を向けた。
哀しみ、憐み、そして慈しみ。
憎悪しかなかった母禮に何か「違うもの」が生まれた。
それは「人間の優しさ」ではないのか。
「愚かだな、敵わぬと知りながら立ち向かう。朋のために命を懸けるか。・・・俺にもそういう朋たちがいた。皆、死んで、いや殺されたがな。・・・ケチがついた、田村麻呂、空海とか言ったな。お前らは必ず殺す」
母禮はそう言うと、空海と田村麻呂に背を向け、悠々と去っていく。
母禮の巨体がたちまちのうちに闇に溶け込み、姿が消えた。
「田村麻呂、感謝しろよ。俺がいなかったら、お前死んでたぞ」
空海は大きく息を吐き、そう言うと田村麻呂に歩み寄った。
「何故ここにいる、空海。・・・これ以上関わるな。今までお前が相手をしてきた奴らとは違う。本当に殺されるぞ」
田村麻呂の表情が硬い。空海はそんな田村麻呂を初めて見た。
「おいおいまずは俺に礼だろう。それが礼儀と言うものだ」
空海はおどけた顔で田村麻呂に微笑んだ。
だが田村麻呂の表情は硬いままだ。
「・・・お前いつもと違うぞ。どうしたというのだ?」
「空海、相手は数万の朝廷軍を手玉に取った戦人だ。蝦夷の英雄。そいつが蘇り、魔性の力も加わっている。今までお前が相手をしてきたのとはわけが違うのだ」
田村麻呂がさらに続ける。
「空海、これはあいつと俺の問題。私怨なのだ。そんな箏にお前を巻き込むことはできん」
「私怨かもしれんな。だがその私怨がこの世に大乱を招くのならば、俺は黙っているわけにはいかん。それにお前を助けたことで、俺を母禮は絶対に許さないだろう。俺が手を引いてもあいつは必ず来る。自分の命を守るために、俺は後には引けんのだ」
そう言って、空海は厳しい顔で田村麻呂を見た。
「お前には密をこの国に広めるという大きな役目がある。お前にしかできん。お前が染んだら密の正統が途絶えるのだ。誰でも学べる大学を造るとも言っていたではないか。それもこれも命あってだ。手を引け、今なら間に合う」
「田村麻呂、俺が何と答えるか。分かっているだろ?」
空海と田村麻呂が互いに見つめ合った。
短い時間だ。
だが互いに十分に理解した。
「頭の良いお前だ。どうすればよいか分かるはずだ。忠告はした。あとは好きにしろ」
田村麻呂はそう言って歩き出した。後ろに兵士たちがついて行く。
空海は夜の京の街に一人立ち、田村麻呂の背中をじっと見つめていた。
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