悪役令息の僕とツレない従者の、愛しい世界の歩き方

ばつ森⚡️8/22新刊

文字の大きさ
表紙へ
3 / 72
1巻

1-3

しおりを挟む
 ケイトが慌てたような声をあげ僕に腕を伸ばしたときには、そこにあったはずの壁がなくなり、ぽっかりと、黒い闇があるだけだった。
 すでに、よろけている僕は、体重を支えてくれるはずの壁が消失したことで、必然的にその闇の中に放り出された。

「……へ?」

 目を丸くして固まる僕の手を、ケイトがガシッと握ってくれた。
 本当になんて頼りになる従者なんだ、と思った瞬間、僕の体重が重すぎたのか、なんとケイトは逆に僕に引き寄せられた。

「ええ!?」

 僕が驚きの声をあげる中、ケイトもさすがに焦った顔をしていた。
「あ、ケイトでも焦ることあるんだな」なんて、驚きすぎてよくわからなくなった僕の頭が、現在起きている事象を処理するのを諦めるのを感じながら、僕たちは、その闇に吸い込まれるように落ちていったのだった。

「ぎゃああああああああああ」


          ◇ ◇ ◇


「いってえ、なんだここ……」

 ケイトが痛がっている声を聞きながら、僕は青い空をあおいでいた。なぜなら、ケイトと同じく僕も倒れていたからだ。起き上がれないほど全身が痛い。
 あの暗闇の中は、暗すぎて全容はわからなかった。だが、滑り台のような、人がちょうど一人入れるくらいの細い管になっており、僕とケイトはその中をひたすら、ぐるぐると滑り落ちてきた。
 その管が曲がるたびに、僕とケイトは頭を打ち、肩を打ち、全身のありとあらゆる箇所を打ちつけながら、文字どおり転がり落ちた。
 最終的に、この空間に放り出された……という訳だ。

(空が綺麗だな。今までは王妃教育が忙しすぎて、ゆっくりする時間なんてなかったからな……。こうして、青空の下、花畑で横になるなんていつぶり……ん? あれ?)
「――え、空?」
「空ですね。ここどこですか」

 驚きのあまり僕は勢いよく体を起こし、全身を走り抜けた痛みに硬直した。もしかしたら服の下はあざだらけかもしれないと思いながら、痛む体にむち打って、僕はきょろきょろと辺りを見渡す。
 まるで雨上がりの朝のような澄んだ空気の中、目の前に広がっているのは、永遠に続いているかのように見える花畑だった。
 一面に、淡い色の花が咲き乱れ、ちらちらと舞う蝶の羽が見えた。まるで春の穏やかな景色のように、青空が広がっている。

「綺麗なところだな……」
「ええ」

 ぼんやりと、その美しい景色に見蕩みとれている僕とは違い、ケイトの声はピリピリとした緊張感をはらんでいた。辺りを見渡す眼光は、鋭い。
 おそらく僕たちは、地下五十階層以上あると言われるダンジョンの、未解明の部分に足を踏み入れてしまったのだろう。
 しかし、あんなにモンスターたちが蔓延はびこっていた一階層の奥に、こんなに美しい場所が隠されているなんて思いもしなかった。
 僕は夢見心地で辺りを見渡した。そして、ぽやんとした思考のまま、ケイトに声をかけた。

「お昼に、しよっか」
「ほんと図太いですね。神経どこいったんですか」

 そ、そんな言い方ないと思う。
 ついに『お尻を痛めたがめつい腰ぬけのへっぽこ』という僕の評価に、図太いまで増えてしまった。
 この図太いという言葉の、本当に太く、たくましい感じが伝わるだろうか。太った平民のおばさんを連想してしまう『図太い』という言葉が、この気高く美しい僕を形容する言葉として、適切であるはずがない。
 むしろ、今までの旅を経て、僕は自分のことを打たれ弱いとすら思い始めているのだ。
 こんなに繊細な僕に『図太い』という評価は受け入れられない。僕が恨みがましい目で見ていることに気がついたのか、ケイトがすべてを悟ったように口をひらいた。

「こう、すべてをまるっと含めて、最終的に図太いにたどり着くんですよ」

 一体なにがまるっと含まれて、最終的にその結論に至るのか定かではないが、ケイトがそう思っているなら、もしかするとそうなのかもしれない。
 よくわからないけれども。もしかしたら、僕も、ケイトのように二十五歳になれば、わかるのかもしれないなあなんて、半ば現実逃避をしながら、僕はうきうきと弁当を広げた。

「……そういうところですよ」

 呆れた声を出すケイトを見ながら、「え? どういうところ?」と、首をかしげたら、もう、もはや話してもくれなかった。
 あれ、僕はもしかして、ケイトに嫌われてるんだろうか。
 もし今の状況で、ケイトに嫌われてしまったら、僕はもう生きていける気がしない。
 現実的にも、経済的にも、物理的にも、経験的にも、僕は今、完全にケイトに依存している。そこまで考えて、ハッとした。

(僕は幼なじみのアルフレッドにすら、あんな風に嫌われて……)

 もしゃもしゃとサンドイッチを食べながら、僕は幼いころ、まだアルフレッドと仲睦まじかったときを思い出した。
 きっかけがなんだったのかは、思い出せない。だがある日ケンカをして、そのまま僕とアルフレッドの関係は、戻ることはなかった。
 あのときの僕には、なにが悪かったのか、なにをしてしまったのか、とアルフレッドに尋ね、歩み寄る勇気がなかった。
 ただ、時間が解決してくれると思っている間に、王妃教育が多忙すぎて、一緒に遊ぶ時間はどんどんなくなり、そのまま気まずい想いだけを抱え、婚約破棄という結末を迎えてしまった。

(だめだ。また同じことを繰り返しては……)

 なぜか緊張して、とくとくと心臓の音が速くなった。
 大切な人には、自分にとってその人が大切な人であるということを、きちんと伝えなければならないのだ。もう僕は、同じ失敗は繰り返したくない。
 僕は拳を握りしめ、意を決して、ケイトに言った。

「ケイト、僕はお前が好きだ」
「――は?」
「なにか僕に悪いところがあるのなら、遠慮なく言ってくれ」
「……はあ。じゃあ言いますけど、鼻に、サンドイッチのタマゴついてますよ」

 僕はゆっくりと、慌てることなく、お弁当の包みに入っていたナプキンを取り出した。そして、気品ある優雅な仕草で、そっと鼻をぬぐった。ちらりとナプキンに目をやると、たしかにそこには黄色いタマゴがついていて、僕はふっと笑みを漏らした。
 ――って!!

「そういうんじゃ、ないんだけど!」

 僕がキレ気味にそう言うと、ケイトは、ぶっと吹き出した。
 あはは、とケイトがあまりにも無邪気に笑うから、僕はぽかんと口を開けて固まってしまった。それから、ひとしきり笑い終えたケイトが爽やかに言った。

「オレも弁当、食べることにします」

 なんだよ、結局ケイトだってお昼じゃないか、という文句は言わなかった。ごはんは一緒に食べたほうがおいしいと思うから。
 いつになくケイトがにこにこしているのは、もしかすると、この穏やかな景色のおかげかもしれない。僕とケイトは、その花畑の中で向かいあって、ゆっくりとサンドイッチを堪能したのだった。


          ◇ ◇ ◇


 お昼を食べ終わった僕たちは、花畑を散策し始めた。
 いくら綺麗なところとはいえ、帰り道がわからない以上、僕たちはダンジョンで遭難したに過ぎない。
 花畑には、食べられそうな植物や実もちらほらあったが、こんなところで一生を過ごしたら、僕はいつしか妖精にでもなってしまいそうだ。
 そんなことを考えていたとき、遠くの花々の間で、小さななにかがキラッと光ったような気がした。目を凝らすと、大きな硝子ガラス細工のようなものがあった。

「あれはなんだろう?」

 僕がそう言ってその方向を指差すと、ケイトがつられて視線をやった。
 少しの間相談し、見に行ってみようということになり、僕はケイトの背中に隠れながら、ゆっくりとその透明ななにかに近づいていった。
 近くで見るとそれは硝子ガラス細工ではなく、クリスタルでできた灯籠とうろうのようだった。明かりをともすであろう場所には、手のひらに乗りそうなサイズの、羽のえた女の子が眠っていた。
 僕は口を押さえて感嘆の声を上げた。

「うわあ、もしかしてこれが妖精か? すごい。本当に?」
「すごいですね。オレもはじめて見ました」

 シンプルな白いドレスから突き出ている、薄く透けた羽は、光を反射してさまざまな色に輝いているように見えた。すよすよと、丸まった背中が、ふくらみ、しぼみ、ふくらみ、しぼみ、と呼吸している様子は、僕を幸せな気持ちにしてくれた。
 ケイトも興味津々で妖精を見ていたが、心なしか目元が優しげにやわらいでいる。ケイトが僕のほうを見たので、僕は、起こさないようにしないとね、という顔でケイトに微笑んだ。
 そのとき、優しい風が辺りをそよぎ、僕たちのもとにふわりふわりと花びらを運んできた。その一枚が僕の鼻先をかすめて――と思ったときにはもう遅かった。

「へ、へぐ、ぶ、ぶあっくしょ!!」
「……」
「わああ! 人間!? どうやってこんなところに??」

 僕のくしゃみで、妖精を起こしてしまった。
 申し訳ないと思ったが、生理現象なのでできれば許してほしい。隣でケイトが、白い目をしているような気がしたが、そちらは見ないように心がけた。
 大慌てで飛び起きた妖精は、ピューッと上に飛び、僕たちと距離を取った。そういえば、妖精をおびきだして捕まえて売ろうとする人間がいると聞いたことがある。だとすれば妖精はきっと、僕たちがいてすごく驚いたはずだ。
 現に、その妖精は信じられないものを見るように、僕とケイトの顔を交互に見ていた。あまりにも驚いた表情をしているから、僕は再び、ものすごく申し訳ない気持ちになった。

「起こしてしまって、すまない。その、くしゃみが出てしまって……」

 悪いことをしたときは、すぐに謝る。
 それはとても大切なことだと、僕は学んだのだ。
 妖精はいまだ驚いているようで、微動だにしない。僕はだんだん心配になってきて、「大丈夫か?」と尋ねた。
 次第に状況を理解したのか、僕たちが害をなすつもりがないとわかったのか、妖精は少しだけ近づいてきてくれた。
 だが、なぜか疑うような視線でケイトのことをじっと見ていて、それにつられるように、ケイトも妙に鋭い瞳で妖精を見つめ返していた。
 二人の間に走る緊張感が漂ってきて、僕は首をかしげた。このかわいい妖精は、どうしてこんなにケイトのことを警戒しているんだろう。
 そう考えたとき、僕は先日のゴライアスの一件を思い出し、ハッとした。

(ま……まさか、ケイトは妖精をも食べようとしているのか……?)

 そんな恐ろしい考えが頭をよぎったが、いくらケイトが食いしん坊だとはいえ、さすがにそんなことはないだろうと僕は首を横に振った。
 しかし現実として、妖精はケイトに怯えているように見える。僕は慌てて、ケイトの前で手を広げ、念のため注意喚起をしておくことにした。

「け、ケイト。妖精は……食べちゃだめだぞ」
「は?」
「は?」

 ケイトと妖精と両方ともが、ぽかんとした顔で僕のことを見た。
 だが、今、この状況を把握しているのは僕しかいないはずだ。この切迫した危機的状況を、僕の俊敏な判断と、叡智えいちによって華麗に回避できたことに、ほっと胸をで下ろした。
 ケイトはなぜかいつもの死んだ魚のような目で僕のことを見ていたが、僕はくるりと妖精に向き直った。
 近くで見ると、小さな顔に、つんとした鼻と小麦色の大きな瞳がついていて、本当にかわいらしい顔立ちだ。僕が好奇心を抱いていることがわかったのか、ムッと気合をいれるような素ぶりをして、妖精は僕に話しかけた。

「な、なにものなのかしら! こんなところにたどり着くだなんて」
「ここは一体どこなんだい? 僕たちも気づいたらここにいて、困っているところだったんだ」

 妖精はそのかわいらしい顔に似合わず、眉根を寄せながら、「気づいたらここにー?」とケイトをキッと睨み、いぶかしげに僕を見た。
 だが、断じて僕は嘘などついていない。僕が壁の中の滑り台のようなものでここに来た、と説明すると妖精は驚いた顔をした。

「あの通路はよっぽど心の綺麗な人間じゃないと……って、な、なんて綺麗な魂なの!?」
「え、僕?」

 僕の周りをくるくるとせわしなく飛び回りながら、妖精は僕のことを観察していた。だが、綺麗な魂とは……なんだろうか、と首をかしげる。
 現に僕は、婚約者だった幼なじみに故国を追放されるという、要約すれば、野たれ死んでほしいとまで思われている存在だ。そんなことを言ってもらえるほど、僕の魂が綺麗だとは思えなかった。
 しゅん、としぼんでいると、妖精は首をかしげた。

「え、なんかあったの?」

 僕は泣きそうになりながら、「幼なじみだった婚約者に、野たれ死ねと言われて国外追放になったんだ」と言うと、妖精は若干引いたようで、「それは悲惨ね」と、顔を引き攣らせた。こんなにかわいらしい見た目からは想像できないほど、妖精が顔を引き攣らせているのを見て、ふと僕の中に考えが浮かんだ。
 幼なじみだった婚約者に野たれ死ねと言われて、国外追放になるという事象はかなり悲惨だな、と。
 僕がもし、幼なじみだった婚約者にそう言われて、国外追放になった人に会ったら、たしかに顔を引き攣らせて「それは悲惨だな」と思うに違いない。
 今のところ、そんな可哀想な人に出会ったことはない。そんな可哀想な人がいたら、その人はもう生きる希望を持てないかもしれない、と思ったところで気がついた。
 ――僕のことだった。
 僕の目の中から、湧き出る温泉のようにぶわあと涙が広がって、そしてだーっと滝のように流れ落ちた。
 たしかに今の僕は自分が子供のころに願ったような状態ではない。
 しかし、他人が引くほど悲惨な状況にあるんだという事実を客観的に知ってしまったことで、僕の中にあった悲しみが、さらなる質量をもってズンとのしかかってくる。
 これは、ごはんを食べているときに、鏡を見ながら食べると倍の満腹感を得られる、と小太りなコックのジョンが言っていた事象に似ているかもしれない。

「わあああ! え!? え! ごめん! なんか、ごめんって!!」
「え、エマ様!?」

 妖精とケイトが慌てている声が聞こえたが、僕の視界はとぷとぷとあふれ出す涙によって遮られていて、二人の顔はまったく見えない。
 その間にも「うっうっ」という僕の嗚咽おえつにあわせて肩が上下し、涙が止まらなかった。

「か、可哀想! あなた……可哀想だわ!」

 泣きやまない僕を見かねて、ケイトがハンカチらしき物を取りだしたようで、涙は徐々にそのハンカチに吸い取られていった。
 少し見えるようになった視界の中、心配そうな顔をしたケイトと「あわわ」といった顔で焦りながら飛び回っている妖精が見えた。
 僕は悲惨な状態にあって、いまだにその悲しみの中にあるけど、こうして心配してくれる従者がいることや、僕が泣くのを見て慌てる妖精がいることは、それでもやっぱり幸せなことかもしれない、と少し思った。
 そして、いまだ慌てている妖精は、滝ではなく小川くらいの涙の流れになった僕に言った。

「か、加護あげるから。ね、泣きやみなさい。私の加護すごいから! ね! すごいやつだから!」

 必死で伝えてくる彼女には悪いが、加護というものがなんなのかわからずに、僕は首をかしげた。
 彼女は小さく笑うと、僕にふうっと優しく息を吹きかける。すると、僕の周りがキラキラと細かい白い光で覆われ、ふわりと優しい花の香りに包まれた。
 目を凝らすと、まるで夢でもみているかのように、僕の周りを光でできた小さな花たちが囲んでいた。

「わあ、綺麗だ……」

 僕の涙はいつしか止まっていた。
 それを見た妖精とケイトが、ふう、と安心したような息を吐くのがわかった。加護がなんなのかはわからなかったが、なんだか心が軽くなったような、なにかに守られているような、そんな不思議な感覚だ。
 そして、妖精はその小さな腕を、僕とケイトに向けて、ふわっと広げた。

「私は妖精王なのよ。加護くらいならあげられるわ! あなたは大変な目にあったみたいだけど、これからの旅路に幸が多からんことを、ここから祈っているわ」

 まさに妖精王の名を感じさせる、慈愛のこもった微笑みだと思った。
 妖精王は、包みこむような笑顔でそう言って、ふと、ケイトに視線を移した。
 ほんの一瞬前まであんなに優しい顔をしていたのに、突然スンと真顔になって、妖精王はケイトを睨んだ。

「――あなたの魂は、普通」
「……そうですか」

 その次の瞬間、視界が真っ白になった。ケイトは慌てて僕の手を握り胸の中に引き寄せ、ぎゅっと強く抱きしめた。
 僕は目をつぶっていたので、なにが起きているのかわからなかった。それでも、あのかわいらしく優しい妖精王のすることだから、怖いことではないような気がしていた。
 そして、目を開けるとそこは――

「だ、ダンジョンの入り口?」
「……みたいですね」

 僕たちは、無事、ダンジョンから出ることに成功したようだった。


          ◇ ◇ ◇


「エマ様。どうしても確認したいことがあるんで、ちょっとだけ待っていてもらえますか?」

 ケイトがそう言い出したのは、ダンジョンで泥だらけになった服を着替えようと、宿屋に戻ってきたあとだった。
 ぽかんとしている僕に向かって、「結界を張っておきますから、絶対に部屋から出ないでください。いいですね」と、オーガのような顔で確認し、闇魔法らしき煙を左手からぶわっと出すと、そそくさと部屋から出ていってしまった。
 しきりに「なんか嫌な予感がする」とブツブツぼやきながら出ていったケイトを思い出し、一体なにを確認しに行ったんだろうと考えていると、トントンと窓を叩く音がした。

「エ~マ~ちゃん」
「……え?」

 次いで甘い声色で名前を呼ばれて、僕は振り返った。
 宿の窓から、見覚えのある赤茶色の髪が覗き、その不思議な青紫色の瞳と視線が交わった。僕の中にぶわっと喜びが込みあげ、衝動とともに名前が口をついて出た。

「テオ!」
「やっぱりエマニュエル様だった」

 よっ、と言いながら、テオは軽々と窓枠を飛び越えて、ふわりと中に入ってきた。テオが降りたつときにトンと床が鳴る音を、幼いころから、僕は何度も聞いたことがあった。

「お前はいつも窓から忍び込んでばっかりだな」

 一瞬、ケイトのオーガのような顔が頭をよぎったが、僕は部屋から出ていないわけなのだから大丈夫だろうと思い直した。
 それに、相手はテオドールである。王妃教育でなかなか外出がままならなかった僕は、商家の息子であるテオがうちに訪れるたびに教えてくれる外国の話を、いつも楽しみにしていた。
 身分差もあったが、二人だけのときは敬語も使わずに話す仲だ。アルフレッドとはまた違う、僕の大切な幼なじみなのだ。

「まさかペルケ王国でも忍び込むことになるなんて、思わなかったよ」

 いつもと変わらない軽口に、ほっとしてしまう。
 テオに限ってそんなことはないと思っていたが、やっぱり婚約破棄されてしまった自分のことをどう思うかは、少し気になっていた。
 テオがにこっと微笑んで、僕も自然と笑っていた。
 だけど、僕を見たテオの顔が、だんだんと真剣なものになる。じっと綺麗な瞳で見つめられて、ドキッと心臓が跳ねた。テオはそっと僕の手を取り、尋ねた。

「――大丈夫?」
「え?」
「無理してるでしょ。辛かったとき、一緒にいられなくて……ごめん」

 切なげに細められたテオの瞳を見て、僕は息を呑んだ。
 だけど婚約破棄だなんて、普通は想像だにしないはずだ。
 用意周到なケイトはなにかを察知していていろいろと用意してくれたが、テオが気がつかないのは当たり前のことで、謝る必要などどこにもない。
 テオは母上が亡くなられたとき、僕のことを心配して、夜に僕の屋敷に忍び込んできたことがある。あの頃は、「大丈夫だ」とテオに言えるまで、僕はとても長い時間を費やした。テオの中で、僕はまだあの頃のように、幼く、頼りないままかもしれない。
 でも、今は違う。
 僕はきゅっとテオの指先を握り返しながら、言葉を返す。

「追放されてまだそんなに経っていないというのに、王都のことなんて忘れてしまうくらい、いろんなことがあったんだ……」

 今までの人生はなんだったんだと思うくらい、目まぐるしい数日間を思い出して、僕は一瞬遠い目になった。でも、国外追放になったときよりも、ずっと心がやわらいでいた。
 だから目の前で心配そうな顔をしているテオにだって、僕はちゃんと言えるはずだった。

「でも僕は大丈夫だよ、テオ。そこそこ元気でやってる」
「エマニュエル様……」

 幼なじみに国外追放を宣告されたことは悲しかったけど、僕が本当に悲しかったのは、今まで国のためにと思って頑張ってきたことを否定された気がしたからだったように思う。
 微笑みながらテオを見ると、商人が品物を鑑定するときのように、鋭い眼光でじっと観察されて、少しひるむ。
 でも僕は別に嘘をついているわけではない。笑顔でテオをじっと見つめていると、ふっとテオも笑みをこぼした。

「そう……それならよかった。エマニュエル様……ううん、エマ、なにかおいしいものでも食べにいこっか?」

 二人でいるときのような軽口に戻ったテオに、僕は嬉しくて胸の奥が熱くなった。……だが、ケイトのオーガのような顔が頭をよぎり、一瞬で期待は潰えた。

「い、いや、だめだ。ケイトに部屋から出るなと言われているんだ」
「やっぱりあいつか……ねえ、エマ。ケイトにはなにもされてないんだよね?」

 急に怖い顔になったテオに、僕はビクッと体を震わせた。
 なにも、とはなんだろうと考えたとき、湖でのケイトの熱っぽい視線を思い出しそうになり、その思考をかき消すように手をパタパタと扇いだ。
 ケイトが屋敷で働くようになってから、テオは僕に対して事あるごとに「ケイトに注意しろ」と忠告してきた。
 僕にとっては頼りになる従者でしかないが、テオはケイトのことを危険だと思っているようなのだ。「なにもされてないよ」と、くすくす笑いながら言うと、テオはじっと疑いの視線で僕のことを見つめてくる。

「そう? でも、エマ……あいつは絶対になにか隠してると思う。今回のことだって、こんな速さでこの街までたどり着いてるだなんて、思ってもみなかったよ」

 真剣な顔でそう言われて、僕は、うーんと首をかしげた。
 旅の間、ケイトのことで気がついたことと言えば、ずいぶんと高度な闇魔法が使えることぐらいだった。
 心優しいテオがこんなに怪しんでいるのだから、もしかしたら僕が知っていること以外に、なにかケイトは隠しているのだろうか。
 僕はまだ屋敷にいたころのことに思いをせる。
 ケイトの屋敷での勤務態度は普通に真面目だった。というか、かなり真面目だ。
 じいや侍女たちの信頼は厚く、覚えも早く、要領もいい。なぜか僕に当たりが強いという以外は変なところなんて思いつかない。
 だがさっきテオは「なにもされてないか」と心配そうに僕に確認した。つまりテオは、ケイトが僕に対してなにかよからぬことを企んでいると思っているのだ。
 だが、現状、僕は国を追われ財産も奪われた上に、お尻を痛めたへっぽこだと思われている。その僕に唯一残っているのは、「メロン農家になりたい」という誰にも言ったことのない夢くらいしかない。

(なにかを企むにしたって、僕から奪えるものなんてなにも……)

 そこまで考えて、僕はハッとした。
 僕はとある可能性に行き着いてしまった。ひやりと背筋を嫌な感覚が走る。
 もしもこれがテオの危惧することだとしたら、それは由々しき事態であった。その考えにとらわれてしまった僕は、どうしようどうしようと焦ってしまう。
 じわりと手に汗がにじみ、喉が鳴った。

(まさか……ケイトもメロン農家に――!?)

 僕は思わず、バッと両手で口を押さえた。
 脳内で雷が炸裂したかのような衝撃を受ける。
 ずっと僕のことを助けてくれていると思っていたケイトが、将来のライバルになる可能性を秘めていたというのか。そう考え出したら、もう次々と考えがあふれて止まらなかった。
 よく考えてみれば、ケイトはことあるごとに、ポケットからオリジナリティあふれるメロンキャンディーを出してきたではないか。あれはもしや、ケイトの創作だったのかもしれない。
 僕は拳を握りしめ、がくっとうなだれた。

(好き……なんだ。ケイトも、メロンが……!)

 メロンを愛する気持ちは誰にも負けない自信があったけれど、僕にはあんな深い愛とオリジナリティにあふれた、クリエイティブな発想はない。メロン農家になったあと、そんなケイトに勝てるだろうか。
 もはや涙目の僕に、さらにテオの恐ろしい言葉が振りかかった。

「とにかく、エマ。もうちょっとあいつのことは警戒してよ。それに……あいつばっかりずるいし」

 僕は目を見開いた。
 ず、ずるい……とはどういうことだろう。
 テオまでケイトを羨むようなことを言ってきたという事実に、僕は狼狽うろたえた。そして僕の頭の中に、恐ろしい考えが浮かんだ。
 いやまさか、そんなはずはない。僕はその恐怖を断ちきるように、頭をブンブンと振った。だが、その恐怖は僕の中でどんどん大きくなる。嘘だ。信じたくない。まさか……

(――て……テオも!?)

 僕はバッと顔を上げ、びっくりするテオに、衝動のままに尋ねた。

「まさかテオも……好きなのか?」
「へ!? す、好きって……え!!」

 た、大変だ……テオが動揺している。それどころか、普段はふわふわと爽やかに笑っている表情を崩さないというのに、明らかに頬が赤くなっていく。
 突然思っていたことを言い当てられて、慌てている状態に他ならなかった。
 僕は愕然とした。まだメロン農家を始めてもいないというのに、僕の周りにすでに二人もメロン農家を志している人間を見つけてしまうなんて。


しおりを挟む
表紙へ
感想 55

あなたにおすすめの小説

番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か

雪兎
BL
第二性が存在する世界。 Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。 しかし入学初日、彼の前に現れたのは―― 幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。 成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。 だが湊だけが知っている。 彼が異常なほど執着深いことを。 「大丈夫、全部管理してあげる」 「君が困らないようにしてるだけだよ」 座席、時間割、交友関係、体調管理。 いつの間にか整えられていく環境。 逃げ場のない距離。 番を拒みたいΩと、手放す気のないα。 これは保護か、それとも束縛か。 閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。

【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました

いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。 子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。 「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」 冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。 しかし、マリエールには秘密があった。 ――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。 未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。 「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。 物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立! 数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。 さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。 一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて―― 「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」 これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、 ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー! ※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。

過労死転生した公務員、魔力がないだけで辺境に追放されたので、忠犬騎士と知識チートでざまぁしながら領地経営はじめます

水凪しおん
BL
過労死した元公務員の俺が転生したのは、魔法と剣が存在する異世界の、どうしようもない貧乏貴族の三男だった。 家族からは能無しと蔑まれ、与えられたのは「ゴミ捨て場」と揶揄される荒れ果てた辺境の領地。これは、事実上の追放だ。 絶望的な状況の中、俺に付き従ったのは、無口で無骨だが、その瞳に確かな忠誠を宿す一人の護衛騎士だけだった。 「大丈夫だ。俺がいる」 彼の言葉を胸に、俺は決意する。公務員として培った知識と経験、そして持ち前のしぶとさで、この最悪な領地を最高の楽園に変えてみせると。 これは、不遇な貴族と忠実な騎士が織りなす、絶望の淵から始まる領地改革ファンタジー。そして、固い絆で結ばれた二人が、やがて王国を揺るがす運命に立ち向かう物語。 無能と罵った家族に、見て見ぬふりをした者たちに、最高の「ざまぁ」をお見舞いしてやろうじゃないか!

愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない

了承
BL
卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

【土壌改良】スキルで追放された俺、辺境で奇跡の野菜を作ってたら、聖剣の呪いに苦しむ伝説の英雄がやってきて胃袋と心を掴んでしまった

水凪しおん
BL
戦闘にも魔法にも役立たない【土壌改良】スキルを授かった伯爵家三男のフィンは、実家から追放され、痩せ果てた辺境の地へと送られる。しかし、彼は全くめげていなかった。「美味しい野菜が育てばそれでいいや」と、のんびり畑を耕し始める。 そんな彼の作る野菜は、文献にしか存在しない幻の品種だったり、食べた者の体調を回復させたりと、とんでもない奇跡の作物だった。 ある嵐の夜、フィンは一人の男と出会う。彼の名はアッシュ。魔王を倒した伝説の英雄だが、聖剣の呪いに蝕まれ、死を待つ身だった。 フィンの作る野菜スープを口にし、初めて呪いの痛みから解放されたアッシュは、フィンに宣言する。「君の作る野菜が毎日食べたい。……夫もできる」と。 ハズレスキルだと思っていた力は、実は世界を浄化する『創生の力』だった!? 無自覚な追放貴族と、彼に胃袋と心を掴まれた最強の元英雄。二人の甘くて美味しい辺境開拓スローライフが、今、始まる。

悪役令息の七日間

リラックス@ピロー
BL
唐突に前世を思い出した俺、ユリシーズ=アディンソンは自分がスマホ配信アプリ"王宮の花〜神子は7色のバラに抱かれる〜"に登場する悪役だと気付く。しかし思い出すのが遅過ぎて、断罪イベントまで7日間しか残っていない。 気づいた時にはもう遅い、それでも足掻く悪役令息の話。【お知らせ:2024年1月18日書籍発売!】

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

人族は一人で生きられないらしい――獣人公爵に拾われ、溺愛されて家族になりました

よっちゃん
BL
人族がほとんど存在しない世界に、 前世の記憶を持ったまま転生した少年・レオン。 獣人が支配する貴族社会。 魔力こそが価値とされ、 「弱い人族」は守られるべき存在として扱われる世界で、 レオンは常識の違いに戸惑いながらも必死に生きようとする。 そんな彼を拾ったのは、 辺境を治める獣人公爵アルト。 寡黙で冷静、しかし一度守ると決めたものは決して手放さない男だった。 溺愛され、守られ、育てられる日々。 だが、レオンはただ守られるだけの存在で終わることを選ばない。 学院での出会い。 貴族社会に潜む差別と陰謀。 そして「番」という、深く重い絆。 レオンは学び、考え、 自分にしかできない魔法理論を武器に、 少しずつ“並び立つ覚悟”を身につけていく。 獣人と人族。 価値観も、立場も、すべてが違う二人が、 それでも選び合い、家族になるまでの物語。 溺愛×成長×異世界BL。 読後に残るのは、 「ここに居場所があっていい」と思える、あたたかな幸福。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。