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12 全力疾走

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 真広は走り、走り、誰もいない校内へと逃げ込む。いまは閉会式を行っている最中だった。部活動さえも投げ打ってしまったが真広にとっては人生で最大で重要なことなのだ。

「なんなんだよ、ちくしょお……」

 ゲタ箱で息を切らし立ち止まる。全力で走ったのは久しぶりだったので、苦しくてしょうがない。ゲタ箱に手をついて息が整うのを待っていると、走ってくる足音が聞こえた。恐る恐る振り返ると、陸が迫ってきていた。
 こんなに必死で逃げたのに、まだ追いかけてくるのかよ、と心の中で悪態をついて真広は靴を脱ぎ捨て、校内へと入っていく。上履きに履き替えている時間なんてなかった。

「真広!」
 目が合った。でも真広はまた前を向いて走り出す。
「真広、走っていいのか!」
 陸の声からは心配そうなニュアンスが滲み出ていた。陸は真広の事情を知らないんだろう。怪我がたいしたことなかった、なんて。

「待てって! 真広!」
「お、追ってくんなぁ!」

 長い廊下を全力で走っているのに、陸の声がどんどん近くなってくる。これだから、現役は。いくら逃げたってかなわないじゃないか。悔しい。悔しい。追いかけてくるな、という思いの中に、追いかけてくれてうれしい、なんて思っている自分がいるのが、悔しい。
 どうしてこんなに陸のことが好きで、諦められないんだろう。
 真広は久しぶりに走ったからか疲労感がいっぱいで、足に力が入らなくなり、やがてへたり込んだ。廊下に両手をついて、はぁはぁと息を乱している。汗がぽたりと落ちた。

「つ、かまえたっ」
「うっ」

 遅れて陸の手が真広の肩を掴む。
 陸の息も乱れていて、お互い呼吸を戻すには時間が必要だった。その間も、真広が逃げないように陸の手はがっちりと真広の肩を掴んでいた。

「なんで逃げるんだよ。そんなに俺にさわられんの、気持ち悪かった?」
「そ、んなんじゃねーけど」
 呼吸が乱れたままなので、うまく言葉が出てこない。
「じゃあ、なんで逃げんの」
「お、お前が変なことするからだろ! あんなこと、男同士ですることじゃねーだろ」
 ようやく息が落ち着いてきた。すると、陸の顔がよく見える。走ってきたからか頬を赤くして、目を潤ませ、今にも泣き出しそうだった。

 泣きたいのはこっちの方だ。
 好きな奴にあんなことされて、そういう気持ちなんてないくせに、ふざけてる。泣き喚いてしまいたかった。

「だって、真広としたかったんだ」
 涙声で陸が言う。
「…………はぁ?」
 思考が止まった。

 陸の頭がおかしくなってしまった。なにをしたいって? 思い当たることはひとつだけだった。でも、陸がそんなことを言うか? もしくは、キスしたことについてじゃないとか……いやでも、やっぱりそれしか考えられない。

「真広、聞いてる?」
 赤い顔をして、涙目のまま、顔をのぞいてくる。
「い、意味わっかんねー! なに? 欲求不満とか?」
「そうじゃなくて!」

 陸が必死の形相で、真広の両肩を掴んだ。
 泣き出しそうなくせに、今にも怒り出しそうで、真広は混乱した。

「真広、ちゃんと聞いて」

 ごくりと喉を鳴らす。
 真っ赤な顔をして、どんな話をするっていうんだ。

「あの、お、俺は、その」
 陸はひどく言いにくそうにしている。もしかして――真広が陸を好きなことがバレてしまったのだろうか。だから抱きしめてキスをしたりして慰めたとか? いや、それにしてはやりすぎた。真広は陸が次の言葉を発するまで考えに考えぬいたが、思い当たるものがなかった。こんなに真剣な顔をしているのに、なにが言いたいのか全然検討がつかない。

「真広のこと、好き……だ、から」

 陸の力がぐっと入ったせいで、掴まれている肩が痛む。それよりも、今なんて言った?
「だ、から……さわったり、とか、したかったんだ」
 怒っていたはずの陸は泣きそうな顔をしてまっすぐに真広を見る。
 真広の頭の中はいま真っ白だった。陸の言葉は単語として理解できる。でも意味がさっぱり理解できない。

「真広? 聞こえた? 俺泣きそうなんだけど」
 ぼんやり陸を見つめたままでいる真広の肩を揺らす陸。視点を合わせると、ほんとうだ、陸の目からは涙が溢れてこぼれそうだった。

「お、オレもふつーに好きだけど」
 嘘だった。
 陸に告白をされた、なんて夢みたいなことあるはずがない。騙されているか、からかわれているかどっちかだ。だから勘違いをしないように、自制をした。

「真広とは違う気持ちで、好きなんだ」

 真広の答えを覆していく陸。ずっと真広が言えなくて抱えていた気持ちを、陸の口から聞く日が来るとは思わなかった。

「えっと?」
「まだわかんない?」
「あー、と、その」
 陸の言いたいことはわかる。わかるのに、信じられない。
 だって、あまりにも非現実的だった。真広は好きだけれどこの感情はおかしいものなんだって、ずっと思っていた。こんな気持ち、自分以外の誰も持ったりなんかしないって。

「真広のこと、誰よりも好きだよ」

 改めて陸は、まるでプロポーズのような緊張感と真剣さを持って告げる。目には涙がいっぱい浮かんでいるのに、一粒もこぼれなかった。

「真広? おいってば」
 言葉は、震えて出てきた。
「嘘……だろ? またオレをからかって」

 まだ信じられない。
 陸を信じられない。

「嘘じゃないよ。どうしたら信じてくれんの。またキスしちゃうよ」

 バクバクとなっている心臓が、さらに大きく高鳴った。陸から「キス」だなんて言葉を聞くことになるとは考えたこともなかったのだ。真広は正真正銘初めてのキスだったが、陸はどうなんだろう。今まで誰かとキスをしたことがあるのだろうか。こっそりと真広の知らないところで彼女を作ったりなんかして、真広に嘘をついて。
 そう想像していたら、腹が立ってきた。
 もう嘘でもなんでもいい。
 この先もし気まずくなって言葉を交わすことがなくなったとしても、陸とキスをしたという思い出だけで生きていける気がするのだ。
 陸を、睨むように見つめた。

「い、いいよ」
「え?」
「し、してみろよ。本気だったらな! やれるもんなら、やって……んん」

 言葉が途切れた。陸の顔が近づいてきて、ふにゅりとした感触がくちびるに落ちてきた。むに、と生暖かいものが押しつけられる。経験のない真広でもぎこちないことがわかるくらい、緊張を滲ませているキスだった。

「……ほら、できるだろ? つーかやばいもっとしたい」
「んむ」

 真広の返事も待たずに陸は再びくちびるを重ねてくる。
 小さくふれるキスを何回も。それから、我慢できないといった必死な動きで押しつけられたりもした。その間、真広はどう呼吸をしていいかわからず息をとめていたので、最後の方はくらくらと眩暈がした。

「……はぁ、真広と、こんなことできるの、夢みたいだ」

 目を潤ませたままの陸はゆっくり真広の頬に手のひらを乗せる。撫ぜるように動かされると、くすぐったさで身が震えた。
 陸の目からは、嘘なんて感じ取ることができなかった。目を赤くして泣いて、これが嘘つきの顔だろうか。どこからどう見ても、本気だ。

「オ、オレ、だって」
「え」
 恥をかいてもいい。勘違いだったとしてもいい。
 もう、真広は覚悟を決めた。

「オ、オレもほんとは……」
 長年の思いを告げようとしていると、廊下の向こうから、大勢の足音やがやがやとした声が聞こえてきた。

「わっやば、閉会式終わったのか」
 陸が目を見開き、真広の手をとる。
「真広、こっち! 走れる?」
「あ、ああ」

 せっかくの決意が台無しになってしまったじゃないか。気が抜けてしまう。真広は陸の手に引かれるまま、校内を走った。
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