そばえに咲く傘のはな

くさの

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Act.01 約定、執着、ユウガオ

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 そこからは特に違和感を覚えることもなくいつも通りの一日の流れが過ぎ、窓の外の事も今朝の事さえ思い出すことはなかった。
 講義を終え帰ろうと門を出たところで忘れ物に気が付いたまどかは、一人で最後に講義を受けた講義室に戻る事になった。
 押していた自転車を棟の前に立て置いて中にはいる。まだ学生は残っていて、あちこちから声が響いている。タンタンと一段飛ばしに軽いステップで階段を駆け上がる。くるりと右に曲がり二つ目の部屋まで歩いていく途中で、足元に冷たい空気がまとわりつくような気味の悪さを感じた。一瞬足が止まるも、忘れたものは次に来るまで残っているかがわからないから置いていくわけにもいかない。
 ドアは開いたままでまどかは恐るおそる室内を覗いた。
 長いテーブルが横に三つ、縦に六つ並んでいる。各テーブルに椅子は二脚ずつ。換気に開けられていた窓は開いたままだった。
 ちらりと覗いた時に視界の端に入った長いテーブルのうちのひとつに黒い影があった。ひやっと首筋に冷えた手を当てられでもしたような感覚に縮み上がり、まどかはくるっと背を向けて廊下に立ち尽くした。
 ふと、それ以上はやめておきなさい、と誰かの声がする。声の出どころは分らない。まだ別の部屋や階には学生が居てワイワイガヤガヤざわついているというのに、この階だけはしんと静まり返っている。
 そうしてまどか自身も、近づかない方がいいと何となく思う。あの得体のしれない黒い影をみるにあれは眼を合わせてはいけないものだ。
 けれど、ごくり、と唾を飲み込んだまどかはその声に逆らって一歩いっぽ足を進めた。慎重に、足音を出来るだけ抑えて近づくその間も足にまとわりつく様に流れる空気が、どうやらこの部屋から零れてきていることに気が付いた。
 今日、友晴にきいた噂が一瞬過ぎった。

(枯れ葉が山盛りになってる事があるんだって)

 何もない何も違う、この冷気はきっと気のせい。でもペンケースを忘れるんじゃなかった、いや、思い出したところで取りに戻らずに諦めておけばよかった。戻って来てしまったからには必ず持って帰るけど。
 それだけを考えながらキュッと目を瞑り、ぐっと息を飲む。気持ちを固めて開いた両目で、その黒い影を見た。さっきの講義でまどかが座っていた位置に居るその何か。
 ズルッズルッ。まるで誰かが黒い布でも頭からかぶっているようにも見えたが漂う雰囲気が違う。よく見れば、その妙な塊が椅子に食い込んだ形で漁っているのはどうやらまどかのペンケースだ。
 まどかはそれに気づいてうすら寒くなり、思わず足を引いた。どうにか部屋を出ようとしてドアに向かって足を出すもキュキュッと靴と床が擦れる音が殊更大きく響く。薄く響いていたズルズル擦れる音がぴたりと止まる。
 まどかは足元から弾かれたように顔を上げて、それを見た。ズリズリ音がして、黒い塊が、どうやらこちらを向いた。顔も何もないのっぺりとした塊が、ずるりずるりとすり足でまどかの方へ近づいてくる。
 ぞわりと足元から這いあがった寒気に肌が泡立つ。今朝ピアノの練習をした後、窓の外に見えたあの揺らぎの正体がコイツであると、勘が囁いた。逃げなければ、と思う心とは裏腹に足がそこに根付いてしまって動かない。そうしている間にその黒い塊は机を無視して突き進み、正面にのっそりと立ちまどかを見下した。
 まどかは恐怖で震えながらその影をぼんやりと見上げる。ああ、何かわからないけど食べられる。ぼんやり視界に映しながら考えていると、顔と呼べるかは分からないが目や鼻、口といったパーツが見当たらなかったその黒い塊がおそらくは口と呼べる器官をぐわりと大きく、開いた、のを見た。
 そうして頭から飲み込もうとして上から覆いかぶさるように、まどかに影を作った。まどかの目がぼんやりとその黒い口の中を映し出す。今日バイトなくてよかったな、っていうか食べられたらどうなるんだろうなんて、これまたぼんやりと考える。
 そんな考えを切り裂く様に、聞き覚えのある声が響いた。今朝、耳元で聞こえたあの声だ。

「まったく。年長者の忠告は聞くものですよ。人の子」
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