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初夏の涼風の章

湖の屋敷にて(その二)

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「あぁ、いまいましい。いまいましい。いまいましい! あれは放っておけ、無理に連れ戻す必要などない!!」

 苛立ちを隠しきれずに、せっかく整えてある前髪を片手でぐしゃりぐしゃりと乱しながら、シグルド・ブレイア・マギシェン侯爵は従僕達に吼えるように命じた。
 しかし、そのようなことを言われてもどうすれば良いのかとおろおろとする従僕達。その彼らに、テオドルが落ち着いた声でこう言い添える。
「大丈夫、このあたりなら危険なことはまずないだろうし。そりゃあ最近大きな遺跡が発見されたけれど、そこの出入り口は冒険者たちが全部おさえてしまっているし、危険な野生動物が出たとしても、その冒険者たちに狩られているだろう。大丈夫だよ。君たちにはウルがあまり遠くに行きすぎないようにちょっと離れたところから見守っててあげてほしいんだ。それと、ウルが夏風邪をひかないようにも、ね」
 テオドルに命じられて、ほっとした様子の従僕達はそれぞれにお辞儀をして、命令を果たすために部屋を去っていった。
 部屋にいるのは、ベッドの上に座ってドールのヴィクトールに靴を履かせようとしているアリアと、力なくソファに腰掛けているシグルド、それにテオドルだけであった。

 テオドルは丁寧に、部屋の扉を閉める。

「シグルド父上、あれでよかったでしょうか」
 ソファの向かいに座って、テオドルは伯父――養父にお伺いを立てた。
「……あぁ、あぁ、あれでいい。あれでよかったのだ。……テオドルよ、お前は本当によくできた子だ。お前がこのマギシェン家の正式な跡取りであることを認めないのは、もはやあの子ぐらいであろう。誰もがお前を認めている、お前は胸を張れ、むやみに自信なさげにすると、人はついてこずに離れてゆくぞ」
 テオドルは苦笑いをして、茶色の髪を右手人差し指で掻いた。
「これが、生まれ持った自分の性格ですから。……シグルド父上のように、生まれつき家督を継承することが決まっていたわけでもありませんし」
「……性格など、あとからどうとでもなる。どうしても無理なら、そのあたりを支えてくれるよきパートナーを見つければいい」
「パートナーですか、それは相棒という意味ですか、それとも」

 そのときだ、アリアがつまらなそうに声をあげた。
「ねぇ、シグルド。まだ難しいお話なのかしら?」

 シグルドはソファから立ち上がって、ぬいぐるみや本を散らかされた床を巧く歩いていき、妻の傍に寄り添う。
 体格のいいシグルドがほっそりとしたアリアの傍にいると、それだけで絵のように美しく調和していると、テオドルは少しだけ羨ましくなる。

「難しい話は終わったよ、アリア。今日は何をして遊んでいたんだい?」
 語りかけるシグルドの声は、とても優しい。
「今日はね、ヴィクトールと遊んでいたの。きせかえをしていたのよ」
「そうか、ヴィクトールと。それは少しだけヴィクトールに妬いてしまいそうだな」
「んー……シグルドも好き。でもヴィクトールも好きなの」
「わかっているよ。そんなに困った顔をしなくていいよ。思わずキスをしたくなってしまうだろう?」
「シグルド、その、キスもいいんだけど、ちょっと別のおねだりしていいかしら?」
 さて、一体どんなおねだりなのだろうとシグルドは首をかしげる。妻は『こうなって』からはドレスも宝石もねだろうとはしないし。
 下を向いてもじもじしたあとアリアはシグルドを見上げる。
 その妻の姿は、こんなにも年齢を経ていてもいつまでも愛らしく美しくシグルドには見える。

「あのね、せっかく都を離れて、涼しいこっちに遊びに来たでしょう? でね、ヴィクトールにも、避暑地で過ごすためのお洋服が欲しいのよ。ヴィクトールのための、夏らしい、もっと涼しげな、可愛いお洋服が欲しいの」
 アリアがそう言うと、シグルドはグレーの瞳をまんまるに見開いた。驚いているのだ。そのあとに、優しく微笑み、アリアの背中を撫でながらこう言った。

「それなら大丈夫だよ。もうすでに頼んであるんだ。花咲く都ルルドにあるドールブティック茉莉花堂にね」

「茉莉花堂? お花の名前のお店なのね」
「そう、ヴィクトールを手掛けた職人の息子が、店主となってドールドレスやドール小物などばかりを集めたお店を開いているそうなのだよ。茉莉花堂は言ってみれば、ヴィクトールの生まれ故郷のようなものだ」
 アリアは夫シグルドの説明に、紅潮した頬で聞き入っている。しかし、何かを思い出したかのようにはっとして、それから寂しげな顔になった。
「でも都はいやよ、戻りたくない。私やヴィクトールを馬鹿にする人たちばっかり、私ここを離れたくないわ。この別荘がとても居心地がいいんだもの」
「大丈夫だよ、アリアがそういうと思って、ドールドレス職人をこちらへ呼んだのだよ」
 アリアの顔がぱあっと明るくなる。
 それを見ているとシグルドの顔もついほころんでしまう。とても苦い感情がすぐ喉元まで迫っていることなど、どうでもよかった。
「それじゃ私、ここを離れなくていいのね! ヴィクトールの新しいお洋服も作ってもらえるのね!?」
「あぁ、そうだよ」

 シグルド・ブレイア・マギシェンは、愛する家族――とりわけ妻のためならば、金も労もおしまぬ男と評判であった。

 ぼんやりと、ソファに腰掛けたテオドルは仲睦まじい己の『父母』の姿を眺めていた。
 たしかに養父シグルドは、家族思い、妻思いの人物だ。
 ――それも、あんな悲劇があったせいだろうか――
 と、そこまで考えたが、テオドルは軽く頭痛がしたので、考えるのをやめることにした。

 大きな窓のそばから、養母アリアの無邪気な声がする。


「見て、お月さまがとても綺麗よ。今日は皆でお月さまを見ながらおやすみ前のお茶にしましょうよ!」
 月は、三日月よりは多少大きさがあり、たしかに今夜の夜空に美しく輝いていた。きっと月女神のご機嫌が麗しいのだろう。

「私はお茶ではなくてブランデーにするよ。テオドル、お前も付き合いなさい」
「はい」

 しかし、どんな強い酒であっても、たとえそれが神より授かった聖なる酒であったとしても、この辛さと苦さとそして痛みが消えることはないのだろうと、テオドルはとりとめもなく思った。



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