『異界酒場 ルーナ』

みぎみみ

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第1巻

第9話 傘を持たない女

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梅雨の入りかけの夜、ずぶ濡れの女が入ってきた。

三十代後半。髪が張り付いている。トレンチコートから水が垂れている。

「す、すみません、突然」

「どうぞ。タオルを」

ルーカスはカウンターからタオルを出した。女は受け取って、「ありがとうございます」と言いながら少し呆然としていた。

「傘が——折れてしまって」

「そうですか」

「ここ、たまたま見つけて……開いてたので」

「ゆっくりしていってください」

女——後に中村明日香と名乗る——はカウンターに座って、タオルで髪を押さえた。

渇望を見た。

彼女が求めているのは——温度。身体の、ではなく、心の。

「温かいものを作ります」

「……お酒、飲んでいいかな。こんな時間に一人で来て」

「何時でも一人でも、関係ないです」

明日香は小さく笑った。

ホットバタード・ラムを作った。バター、スパイス、ブラウンシュガー、ラム酒。カップに注ぐと、バターが浮かんで香りが広がる。

「……甘い匂い」

「スパイスが入っています。シナモンと、少しだけナツメグ」

「ナツメグって、料理に使うやつですか」

「はい。でもお酒にも合う」

明日香は両手でカップを包んで、一口飲んだ。

「……あったかい。中から」

「そうでしょう」

しばらく黙って飲んでいた。

「実は今日、誕生日なんです」

ルーカスは少し驚いた。顔には出さなかった。

「おめでとうございます」

「一人で、コンビニのケーキ買って、家で食べようと思ってて。帰り道にずぶ濡れになって」

「なかなか壮絶な誕生日ですね」

明日香はふっと笑った。

「そうですね。三十八回目の誕生日」

「誰かとお祝いする予定はなかったんですか」

「……友達はいるんですけど、みんな忙しくて。声かければよかったのかも。でも、なんか言えなくて」

「言えない感じがわかります」

「ルーカスさんにも?」

「私も、ここに来るまで長い間、誰にも何も言えなかった」

明日香はそれを聞いて、少し目を細めた。

「……ここに来るまで?」

「日本に来る前、の話です」

「そうか、外国から来たんだもんね」

「はい」

明日香はカップを飲み干した。

ルーカスは少し考えて、棚の引き出しから細長いものを取り出した。ロウソク一本。

それをカップの縁に立てて、火をつけた。

「……え」

「誕生日なので」

「ここ、そんなことするバーなんですか」

「しません。今日だけです」

明日香は炎を見つめた。

「……吹き消していい?」

「もちろん」

明日香は少し目を閉じて、息を吸った。

それから、ふっと吹いた。

炎が消えた。

「何を願ったんですか」

「秘密です」

「そうですか」

ルーカスはロウソクを片付けた。

「でも、教えてもいいですか」

「どうぞ」

「来年の誕生日は、誰かと過ごしたい、って」

「……いい願いですね」

「そうかな」

「シンプルな願いほど、かないやすい気がします。私はそう思っています」

明日香は少しだけ、ふわっとした顔をした。

翌年の誕生日がどうなったか、ルーカスは知らない。

でも、彼女が帰り際に「また来ます」と言ったとき、なんとなく来年も一人ではないと思った。
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