『異界酒場 ルーナ』

みぎみみ

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第3巻

第30話 月の底の場所

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六月の夜。

ヴァルド王国の王都の、古い街並みの一角。

ルーカスは小さな店を開いた。

地下一階。石造りの壁。カウンターが六席。

看板は小さく、「LUNA」とだけある。

故郷の言葉で「月」を意味する言葉が、その世界でもLUNAに近い発音だった。

深夜零時から夜明けまでの営業。

初めての夜。

最初の客は、若い騎士だった。

「……開いているのか、こんな時間に」

「はい。どうぞ」

「何が飲める」

「何でも作ります」

騎士は席に座った。疲れた目をしていた。

渇望を見た。

——誰かに認めてほしい。

「今夜、何かありましたか」

「訓練で失敗した。上官に怒られた」

「どんな失敗ですか」

「判断が遅かった。危機的な場面で、動けなかった」

「初めてそういう場面でしたか」

「そうだ。分かっているが……情けない」

ルーカスは棚を見た。

蜂蜜酒があった。この世界の、熟成した蜂蜜酒。

「蜂蜜酒を作ります。この国の蜂蜜で作った、時間をかけたものを」

「蜂蜜酒か。子供の頃に飲んだやつだ」

「懐かしい味がするかもしれません」

グラスを出すと、騎士は受け取って、一口飲んだ。

「……懐かしい」

「そうでしょう」

「子供の頃、母が作っていた」

「それは、いい記憶ですね」

「……そうだな」

騎士はグラスを両手で持った。

「失敗した話を、聞いてくれるか」

「もちろんです」

カウンターの向こうで、ルーカスはグラスを磨きながら、聞いた。

石造りの壁。懐かしい匂い。

別の世界のカウンターとは、材質も温度も違う。

でも——聞くことは、同じだ。

人の渇望は、どの世界でも似た形をしている。

認めてほしい。繋がりたい。帰りたい。休みたい。始めたい。言葉を届けたい。

どの世界でも、夜に人は歩く。

夜の底で、誰かを待っている場所がある。

その場所が、ここだ。

騎士が話し終えた頃、グラスは空になっていた。

「もう一杯、いいか」

「もちろんです」

「店主、名前は何という」

「ルーカスです」

「外から来た名前に聞こえる」

「遠い場所にいたので」

「そうか」

騎士はグラスを受け取った。

「また来ていいか」

「もちろんです」

騎士は少し笑った。

ルーカスはカウンターを磨きながら、思った。

東京のルーナのことを。

高橋夫妻が今夜も開けているはずだ。佐野が来るかもしれない。梶原が来るかもしれない。篠田先生が本を紹介しているかもしれない。晴樹が昼間の話をしているかもしれない。

それぞれの夜が、それぞれの場所で続いている。

香月が言った。染み込んだものは消えない、と。

ここにいながら、あの地下室の空気を感じた。

消えていなかった。

「変なものだ」

一人でそう言った。

故郷の言葉で言った。

いつか、あの世界の言葉で言っていた口癖が、この世界の言葉に戻った。

でも——どちらの言葉で言っても、意味は同じだ。

月の底に、場所がある。

夜に迷い込んだ人が来る。

渇望が見える男が、グラスを磨いている。

ここが、ルーカスの場所だ。

この世界でも。

あの世界でも。

夜が続く限り、誰かが来る。

また夜が来る。

また、誰かの渇望に応えよう。
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