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1巻
1-1
しおりを挟むプロローグ
朝、また姉が愚痴をこぼしていた。
オメガの同僚がまた休みをとったとか、上司はオメガ社員には甘いとか。
高槻圭斗は小さく息を吐き出した。洗面所にいても、廊下を挟んだ向こうの部屋で交わされるジメジメとした会話がしっかりと聞こえてくる。
ほとんど毎日、姉はああして愚痴を言い、母親はそれを受け止めている。よく嫌にならないなと思う。自分には到底真似できそうにない。
姉の声をなるべく頭から追いやって、圭斗は鏡をのぞき込んだ。
寝癖だらけの黒髪の、眠そうな男がこっちを見ている。色が白いだけの、ぱっとしない顔立ち。
冷水で顔を洗い、濡れた手で丹念に寝癖を撫でつける。鏡面の裏にある収納スペースからドライヤーを取り出して、温風で髪を整えていく。
友人たちのようにワックスでも使えばもう少し格好がつくのだろうが、柔らかな髪質のせいでへたりやすいし、どこをどんな風に整えたら自分の見栄えがよくなるのか正直わからない。
それに、「女の子からの視線を気にして身なりを整える自分」というものを意識すると、途端に気恥ずかしさが勝ってしまって駄目なのだ。朝は時間も限られるし。
心の中で何百回と繰り返した言い訳を今朝も上塗りしているうちに、結局いつも通りの地味でぼやっとした自分が仕上がっていく。
歯を磨き、身支度を整えてから、白シャツの上にグレーのパーカーを羽織った。廊下に置いておいたリュックサックをつかんで玄関に向かう。
重たい玄関扉が閉じる直前、圭斗は小さく「いってきます」と口にした。けれど、その声が母親や姉の耳に届いたのかどうかはわからない。
手にしていた黒いリュックサックを自転車の前かごに突っ込み、家の狭い敷地を出てからサドルにまたがった。
アスファルトの道には、茶色くなった花の残骸がところどころに落ちている。
少し前まで住宅街を彩っていた遅咲きの桜やハナミズキは散ってしまって、今は瑞々しい若葉が風に揺れている。
駅までは自転車で十分ほど。緩やかな坂道を下っていく。晴れ渡った青い空が街を見下ろしていた。
(今日はアイツ……来るかなぁ)
ふと、あるゼミ仲間の顔が脳裏をよぎった。
大学三年に進級し、今年度から新たに所属することになったゼミには、同い年のオメガの学生が一人いる。
そいつは先週ずっと講義を休んでいた。彼はオメガ性だから、もしかしたら発情期だったのかもしれない。
ゼミのことで、早めに彼と打ち合わせしておきたいことがあった。今日こそは会えたらいいのだが。
「……大変だよなぁ、オメガって」
思わず口をついて出た言葉は、頬を撫でる春の終わりの風にさらわれて、青い空のかなたへと飛ばされていった。
1
大学近くにあるコーヒーチェーン『三春珈琲店』は、今日も多くの客でにぎわっていた。
広々とした明るい雰囲気の店内には、従業員の活気ある声が飛び交い、軽快なジャズのメロディが会話の邪魔にならない程度の音量で流れている。
ほどよい高さのパーテーションで区切られた客席には、思い思いに過ごす人々の姿があった。楽しげに談笑するシニア世代のマダムたちもいれば、真剣なまなざしでノートパソコンを叩くサラリーマンや学生もいる。
平日の午前中ということもあってか、講義の空き時間を潰しにやってくる学生客の姿がとりわけ多かった。
「はーっ、腹立つ! あいつら絶対、オメガ相手ならなんでも言っていいって思ってるし! 大体さ、僕だってベータの男にしつこくされて迷惑してたんだよ? なのになんで僕があの男の彼女に文句言われなきゃいけないのっ?」
意味わかんない! という言葉とともに華奢な拳がカウンターテーブルに落とされる。ドンッと鈍い音がして、グラスの中のアイスコーヒーが小さく揺れた。
九藤ノゾムは両手を固く握りしめ、沸き立つ怒りに身体を震わせている。繊細で甘やかな彼の美貌は、今は超絶不機嫌なふくれっ面をつくっていた。
「まあまあ九藤。気持ちはわかるけど」
「ベータの高槻にこの悔しさがわかるもんかっ」
「そう言われてもさ」
カウンター席の隣に座る圭斗がなにをどう言っても、つんつんとした態度で打ち返される。
九藤の左手がドンッと荒ぶるたびに、圭斗の胃のあたりがひえっとなるのだが、それを口にすることはできそうになかった。
それに、さっきから周囲の視線がこちらに向けられているようで、背中がゾワゾワする。怖くて背後を振り向けないが、とりあえず、心の中で周囲の皆さんに謝っておく。
「はーあ。僕に怒鳴りつける前に自分の彼氏を疑えっての。高槻が止めなければ、あの女に一発くらいお見舞いしてやったのに」
周囲のことなんて眼中にないらしい九藤は、相変わらず唇を尖らせている。
アイスココアの上に浮かぶソフトクリームに怒りをぶつけるように、スプーンでがしがしと削っては、ココアの海に沈めていく。
――圭斗が今朝、女子学生たちに囲まれている九藤を見つけたのは、大学に着いてすぐのことだった。
正門近くで言い争っていた彼らをどうにかこうにか仲裁したのち、九藤をさらうようにしてこの店に引っ張ってきたのが十数分前のこと。
最近、九藤が他学部の男子学生にしつこく声をかけられ、迷惑そうにしていたことは知っていた。
その男には彼女がいたそうで、彼の恋人を名乗る女子学生から、彼氏を誑かすなとかなんとか、九藤がお叱りを受けていたらしい。
「いやいや……さすがに一発は駄目だろ。相手、女の子だし」
思わずそう漏らした圭斗を、九藤は鋭い視線でねめつけてくる。
「僕だってオメガだしっ」
「オメガでも男だし、分が悪いって。女の子と喧嘩なんてやめといたら」
わざわざ圭斗に言われなくたって、そんなことは九藤だってとっくにわかっているはずなのだ。
彼は無言でソフトクリームの島を沈めきると、窓の向こうを見つめ、ぽつりと呪詛のような言葉をつぶやいた。
「……人類は進化の方向を間違えたよね。バース性なんて、この世から消えてなくなってしまえばいいのに」
――思春期を迎える頃に判明する二次性――バース性は人生を大きく左右する。
バース性には男女ともにアルファ、ベータ、オメガという三種があって、一番数が多いのがベータ性だ。ベータは人口の約八割以上を占めるといわれている。
少数派のうち、アルファ性は所謂エリートタイプで、集団や社会を牽引するリーダーとしての資質に富んでいるといわれている。容姿端麗で才能にあふれているため、財を築いて豊かな暮らしをしている者が圧倒的だ。
一番数が少ないとされているのがオメガ性で、こちらは繁殖のために進化した性だともいわれている。庇護欲をそそる繊細な美貌を持つ者が多く、彼らは性成熟すると三ヶ月に一度、発情期といわれる定期的な発情状態がやってきて、強い性衝動を促すフェロモンを数日間にわたって周囲に放出する性質がある。そして女性はもちろん、男性であっても二次性がオメガであれば妊娠、出産が可能なのだ。
発情期でなくても、ちょっとしたきっかけで一時的な急性発情を起こし、フェロモンを放出してしまうこともある。そういった特徴ゆえにオメガ性は社会的に冷遇されやすく、またトラブルに巻き込まれやすい。
すべての性の平等が叫ばれる昨今であっても、オメガとして生まれた者がアルファやベータと同じように生きていくことは、まだまだ難しいというのが現状だった。
「そういえばさ、高槻、僕に用事があるって言ってなかったっけ?」
追加注文したシフォンケーキとフルーツタルトは、テーブルに届くやいなや、あっという間に九藤の胃袋へと消えていった。
甘味のおかげなのか、からっとした彼の口調に先程の出来事を引きずる様子はなく、圭斗は胸を撫で下ろした。
「ああ、うん。九藤はこの前のゼミ休んでただろ? 前期に取り組む課題本とグループ分けが決まってさ、俺たち一緒に組むことになったんだ。時間がかかりそうな内容だし、早めに分担とか話しておいたほうがいいのかなって思って」
九藤や圭斗が所属しているのは、国際経済学の分野を学ぶゼミだ。
このゼミでは毎年、前期はいくつかの課題本をもとに討論会をおこなう。
課題本ごとに分担する学生を決め、彼らが要約した内容を全体で共有したあと、それぞれが感じたことをディスカッションしていくのだ。
卒論や就職活動に忙しい四年生はこの分担を免除されるので、ゼミの進行は基本的に三年生が順番で回していくことになっていた。
圭斗は大学図書館で借りてきた課題書籍をリュックサックから取り出した。
自由貿易や貿易紛争について記されたその書籍は分厚く、読破するだけでもかなりの時間を要するはずだ。
そう説明すると、九藤は大きな目をぱちぱちと瞬かせた。本を一瞥し、圭斗を不思議そうに見つめると、彼は小首をかしげた。
「高槻。もしかして、僕と一緒にやってくれるつもりでいるの?」
「え。……もしかして俺と組むの嫌だった?」
「そうじゃなくて……」
あの日ゼミを休んでいた九藤に課題本の選択権がないのは不憫だが、お前とペアを組みたくないと言われても圭斗にはどうしようもない。
そもそもこの課題本は一番の不人気だったので、今更担当を変更してほしいと言ったって誰も応じてはくれないだろう。
「……ううん、なんでもない。よろしく高槻。僕、頑張るね」
思うところはあったようだが、納得したように九藤が笑顔を向けてくれたので、圭斗もほっとして笑みを返した。
「こちらこそ。九藤は優秀だって教授も言ってたから頼りにしてるよ。先に軽く読んでみたんだけど、この本かなり内容が重くてさ。正直、俺一人じゃ絶対つんでたと思うんだ」
「そうなの? 僕も見てもいい?」
うなずくと、華奢な白い手が伸びてきて、テーブルの上から分厚い本をさらっていった。
カウンターに面した窓ガラスの向こう側では、オリーブの木が風に揺れていた。降りそそぐ日差しを浴びて、九藤のミルクティーブラウンの髪が静かに輝いている。
手元に視線を落とす彼の所作には品があった。春らしい薄ピンクのカーディガンを羽織っている九藤の首元――白いインナーの襟からは、オメガ性の必需品であるチョーカーが見え隠れしている。
オメガ性にとって、うなじは急所なのだ。発情した状態でアルファ性にうなじを噛まれると、オメガ性の身体は不可逆的に作り替えられてしまうのだという。そのため、番と呼ばれる特別なパートナーを持たないオメガは、自己防衛のためにチョーカーを着用するそうだ。
九藤はぱらぱらと本の内容を確認すると、元あった場所にそれを戻した。
「ほんとだね、結構重いというか、文章も読みにくいし時間がかかりそう。僕たちの担当の日はもう決まってるの?」
「六月の四週目。時間はたっぷりあるんだけど、この内容だしさ。余裕をもって準備したほうがいいのかなって」
頭の中でスケジュールを考えながら言うと、九藤も同意してくれた。それからやや苦い表情を浮かべ、彼は肩をすくめる。
「こんなの、読むだけでゴールデンウィーク終わっちゃいそうじゃない? 僕たち大変な本に当たっちゃったね」
「うん。これはかなり頑張らないと」
本を読んで、要約して、データをまとめて、討論の準備をしてとなると、とりあえず――
「「あのさ、連絡先を訊いてもいい?」」
ふと口にした言葉が見事に被ってしまった。
九藤と顔を見合わせて、互いに軽く噴き出す。
彼とはうまくやっていけそうだ。そんな予感が芽生えつつあった。
課題本について打ち合わせを終えてからも、九藤としばらく店で時間を潰していた。
同じゼミに所属するようになってからまだ日が浅く、歓迎会と称したゼミの飲み会も九藤は欠席していたので、これまでは言葉を交わす機会があってもどこか他人行儀なままだった。けれど、いざ腰を落ち着けて話してみると、彼は随分と話しやすい人物だった。
大学以外の話題でも会話は弾み、気付けば次の講義の時間が迫っていた。
「九藤とゆっくり話せてよかった。なんか今までは変に遠慮しちゃっててさ……九藤って目立つし、俺なんかが声かけたりペア組んだりしたら迷惑かなって正直思ってて」
「なにそれ。高槻、そんなふうに思ってたの?」
からからと笑う九藤は、アイドル顔負けの可憐な容姿をしているが、中身は年相応の普通の青年だった。
九藤はこの大学では珍しいオメガ性ということもあって、入学当初から存在感があった。
華やかな外見はトラブルを招くことも多々あるようだが、ベータの男たちが「目の保養だ」とひそひそ噂している場面に圭斗は何度か出くわしたことがある。
「高槻さえよければ、これからは普通に話しかけて。僕ってこの大学にあまり友達がいないんだ。ゼミ以外でも仲良くしてくれると嬉しいな」
「了解。じゃあ友達がいない者同士、これからよろしく」
軽い気持ちで右手を差し出すと、九藤はおかしそうにしながらも応じてくれた。
「なんだか意外だな。高槻って友達いないの?」
「あんまりいないよ。俺がリア充の陽キャに見える?」
「ごめん……見えないや。どっちかっていうとジメジメしてそう」
正直すぎる返答をもらってしまって、圭斗も笑うしかなかった。残念ながら、否定はできそうにない。
「そろそろ行く? 九藤は次の講義なに?」
「僕は比較経済学だよ」
「あ、同じだ。じゃあこのまま一緒に向かおうよ」
それぞれ荷物を持って席を立つ。
会計はどうする、なんて話をしながらレジに向かおうとしたとき、背後から誰かに呼び止められた。
「――あの、失礼」
反射的に振り返る。
そこに立っていたのはビジネススーツを身に纏った、見知らぬ若い男だった。
シルバーフレームの眼鏡をかけたその人は、端整な顔に朗らかな笑みを浮かべ、圭斗たちに話しかけてくる。
「突然呼び止めてしまって申し訳ない。きみたちのことが先程から気になっていたんだ。短時間で構わない、きみたちと話をする時間をおれにくれませんか?」
驚いて、圭斗は九藤と顔を見合わせた。
今から講義に向かうところなので、時間なんてほとんどない。それに――
(この人、もしかしてアルファ性なんじゃ……?)
仕立てのいい濃紺色のビジネススーツを隙なく着こなした男は、圭斗が見上げるほど背が高かった。物腰は柔らかいが、堂々とした佇まいをしている。
年齢は二十代後半くらいだろうか。知的な雰囲気を漂わせた、洗練された大人の男だ。
紳士的な笑みを浮かべたまま、彼は圭斗たちの返答を待っている。
圭斗はちらりと九藤のほうをうかがった。声をかけてきた男がアルファ性であるなら、彼の目的は間違いなく九藤だろう。
だが肝心の九藤は、ナンパのようなことをしてきた男に対して、明らかな警戒心を見せている。
「あの、すみません。俺たちこれから講義があって。もう行かないといけないんです」
圭斗は、推定アルファの男と九藤のあいだにさりげなく自分の身体を滑り込ませた。
推定アルファの男は気を悪くした様子もなく、圭斗へ言葉を返してくる。
「では何時に講義が終わるのかな? 今日は都合が悪いというのなら、日を改めてもいいのだけれど」
やんわりと断ったつもりが、男は代案を提示してくる。よほど九藤のことがお気に召したらしい。
「ええと、すみません……そういうのは困るので」
背中にかばった九藤は、相変わらず男を警戒している。
目の前の彼には適当に断りを入れて、さっさと店から退散するのがよさそうだ。
(これ以上つかまってると時間もまずいしな……)
それに、大学構内でのトラブルから逃れてこの店に来たというのに、九藤をまた別のトラブルに巻き込ませるわけにもいかない。
圭斗は九藤にアイコンタクトを送り、先に店を出るように促した。
推定アルファ性の男には「すみません」ともう一度軽く頭を下げておく。九藤を追いかけ、圭斗も足早にその場を離れようとしたのだが……焦った様子の男が後ろから左腕をつかんできた。
「待ってくれないか」
「へ……っ?」
「せめて、きみの連絡先だけでも教えてくれないかな」
思わぬ引き留めにあい、圭斗は一瞬わけがわからなかった。きみの連絡先、と男が口にしたとき、彼の薄茶色の瞳は間違いなく圭斗を映していた。
「……ええと?」
「突然声をかけて驚かせたことは謝るよ。でもきみと、これきりになるのは嫌なんだ。都合が悪いというのなら、せめて連絡先を教えてもらうことはできないだろうか。――どうか頼むよ」
推定アルファの男は圭斗をまっすぐに見据え、なりふり構わずに懇願してくる。
圭斗は困惑した。二、三メートル先でこちらを振り向いた九藤も目を丸くしている。
「あの、ちょっと待ってください。……まさか俺に言ってます?」
圭斗が慌てて問いかけると、推定アルファの男はとろけるような笑みを浮かべ、「当たり前だろう」と肯定した。圭斗を見つめる視線はどこか熱っぽい。
「きみこそ、おれの運命だ。この店に足を踏み入れたときから、おれの本能はきみに囚われてしまった。せっかくこうして出逢えたというのに、そう簡単にきみを諦められるはずがない」
男の情熱的な返答に、圭斗は違和感を抱いた。
――運命? この人、もしかして……
「まさかと思いますけど……俺のことオメガ性だと思ってます?」
「意地悪を言わないでくれ。こんなにも特別な匂いを漂わせておいて、オメガでないなんてあり得ない」
「いや……俺、ベータなんですが」
圭斗がそう告げた途端、男は目を見開いた。
「きみがベータだって? そんなはずが――」
彼は面食らったようにつぶやき、眉根を寄せた。
すん、と匂いを嗅ぐような仕草をすると、いっそう困惑の色をあらわに圭斗を見つめてくる。
わけがわからないのは圭斗も同じだった。
――特別な匂い?
思わず助けを求めて九藤に視線を投げると、こちらのやりとりを注視していたらしい友人も訝しげな顔をしていた。
九藤が小さく首を横に振る。どうやら彼も圭斗の匂いとやらは感じてはいないようだ。
(そりゃそうだ、ベータのフェロモン臭なんて聞いたことがない)
圭斗は推定アルファの男……確実にアルファ性なのであろう男に向き直ると、控えめな愛想笑いを貼り付けた。
「あの、きっと勘違いだと思います。俺は間違いなくベータです。オメガ性ではないので、匂いなんてするはずがありませんし」
「しかし、きみからは本当に特別な甘い香りがするんだよ」
「……えっと、それは彼ではなくて?」
圭斗が困って九藤を視線で示すと、アルファの男は一度そちらへ顔を向けた。
しかしすぐに首を横に振る。九藤のオメガフェロモンと勘違いされている可能性を考えたのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。
九藤は少し離れた場所で足を止めたまま、こちらの状況を見守っている。
(一体、どういうことだ?)
圭斗自身や九藤がなんの匂いも感じていないというのに、この男は一体なにを嗅ぎつけてきたのだろう。気にはなるが、真実を見極める時間はなさそうだった。そもそも本当にその匂いとやらが存在しているのかも定かじゃないのだ。
「あの、すみません。俺たちそろそろ行かないと。俺はオメガ性ではありませんし、申し訳ないですけど」
時間を気にしながら圭斗がそう声をかけると、アルファの男は慌てた様子で上着の内ポケットを探りはじめた。
「少しだけ待ってくれ。きみがオメガ性じゃなくてもおれは一向に構わない。とにかく、きみともっと話がしたいんだ。時間があるときにでもここに連絡をくれないかな」
男は焦ったようにそう口にすると、取り出したものになにかを書きこみ、それを圭斗の手に強引に握らせてきた。押し付けられたものを確認する。名刺だった。
――香倉史仁。
大手商社の名前と連絡先が記載されている。ちらりと裏返してみると、そこにも別の携帯番号が走り書きされていた。
(いや、なんで俺がアルファの男に名刺もらってんだろ……?)
困ります、と圭斗はそれを返そうとしたが、男も――香倉も頑なだった。
受け取れないと訴えても彼は取り合ってくれず、圭斗の手からプラスチックの会計札だけを抜き取ると、香倉は困ったように眉尻を下げた。
「時間を取らせてしまったお詫びに、この場はおれが持つよ。だから……それは受け取ってくれないかな?」
初対面の大人の男にそんな風に頼み込まれたら、圭斗は折れるしかなかった。
講義の開始時間も迫っていたので、渋々受け入れる。自分の手に残された名刺に一度視線を落とし、香倉に軽く頭を下げてから背を向けた。
「連絡、待ってるからね」
圭斗の背中に、香倉が言葉を投げかけてくる。
それにも圭斗は軽く一礼だけを返して、通路の先で待たせていた九藤と合流すると、店の出入口に向かっていった。
店から出る直前、圭斗がちらりと視線を向けると、アルファの男は名残惜しそうにまだこちらを見つめていた。
店を出て、急ぎ足で大学を目指す。
「あのさ、高槻ってベータ性なんだよね?」
圭斗の隣を、時折小走りになりながら九藤がついてくる。
遅刻するかもしれないと焦りが先走ってしまい、ペースがかなり速くなっていたようだ。歩調を緩め、圭斗は言葉を返した。
「ベータだよ。家族も親戚も全員ベータの、ベータの超サラブレッド」
冗談めかして口にしてみるも、胸の中に生まれたもやもやとしたものはいつまでも消えてくれない。
……オメガ性だと勘違いされたのは、これが初めてだった。
九藤がオメガらしいオメガ性なら、圭斗はベータらしいベータ性だ。
この国では標準的な黒髪黒目に、平凡な顔立ち。身長はぎりぎりベータ男性の平均値に届くくらい。いくら筋トレをしても筋肉がつかないので、薄っぺらい身体だという自覚はあるが、オメガ特有の線の細さとは種類が違うはずだ。
頭脳や身体能力についても、昔からすべて凡庸だった。
これといった特技も、人を惹きつけるようなオーラもなにもない、地味で平凡な典型的なベータ人間。だというのに、あろうことかオメガ性だと勘違いされる日が来るなんて。
横断歩道の先にある信号機が点滅して、赤に変わる。
もどかしく思ったが、圭斗は足を止めた。ふと横を見ると、九藤がこちらを見上げていた。
「念のために聞くんだけど……高槻、きみ、ベータとして変わってるって言われるようなこと、今までになかった?」
「ベータとして変わってること……?」
九藤に訊ねられて、圭斗は考える。一つだけ、思い当たることがあった。
「ああ、そういえば俺はオメガフェロモンが効きにくいみたい。オメガの人が発情を起こした現場に何度か居合わせたことがあるんだけど、全然影響を受けないんだ」
オメガの身体はコントロールが難しい。発情期の周期が乱れたり、ちょっとしたきっかけで発情を起こしフェロモンを発してしまうことは日常茶飯事だと聞いている。
身近にオメガ性がいなくても、そういったイレギュラーな場面に遭遇することは今までに何度かあった。アルファ性ほど効果覿面ではないものの、ベータ性であっても、あまりに濃いオメガフェロモンを浴びれば影響を受けるものだという。
しかし圭斗は、オメガフェロモンの影響で性衝動を掻き立てられるような経験は、これまでただの一度もなかった。
「去年だったかな。ゼミの飲み会の帰りにさ、発情を起こしたオメガの人に出くわしたことがあるんだ。そのときも俺だけなんの影響もなかったんだよな。ほかの奴もみんなベータ性だったけど、ちょっとしんどそうにしてて――」
ほかのベータの男たちが苦しむほどの濃いオメガフェロモンを浴びても、圭斗は甘い匂いを感知するだけで済んでしまう。
だから、意に添わぬ性衝動に耐えきった友人たちがオメガの悪口を言い合っているときも、圭斗は彼らに共感することができなかった。
公共の場で発情を起こしたら迷惑だよなと頭ではわかっていても、心の底では、いつもオメガ性の彼らに同情してしまうのだ。
「……高槻、それ本当なの?」
圭斗の話に耳を傾けていた九藤は、いつのまにか顔をこわばらせていた。
「それが事実だとするなら……もしかしたら高槻は、二次性の再検査をしたほうがいいのかもしれない」
「え? どうして?」
信号が青に変わった。隣を歩く九藤は、難しい顔をしてなにかを考えている。
「高槻は知らないのかもしれないけど、オメガの発情フェロモンに一番影響されないのって、同じオメガ性なんだよ。それにさっきの男の人、特別な匂いがするって何度も言ってた。僕じゃなくて高槻からするって。嘘を言っているようにも見えなかったし、変だとは思ったけど……アルファは匂いにとても敏感だから、僕たちが感じていないなにかを感じ取っていた可能性もあるのかなって」
圭斗は焦った。まさか、九藤はあの男の言っていたことを真に受けているのだろうか。
「いや、なに言ってるんだよ。俺はベータだって。フェロモンなんて出るわけないし、判定検査もちゃんと受けてるのに、今更オメガだなんてあり得ない」
当たり前のことを言っているはずなのに、自分で口にしたそれがひどく心許ないもののように感じてしまう。――あの男に、あんなことを言われたから?
前を向いたまま九藤はうなずいた。
「うん……僕もそう思ってる。二次性の検査を受けていない人なんていないはずだし、ベータ性だっていう高槻の言葉を疑うほうがおかしいって僕も思うんだ。……だけどもし、あの人が正しかったら? 万が一、あの人が言ってたことが事実だったら、それって一大事だと思うんだ」
真剣な光を宿した瞳が、圭斗の姿をとらえる。
風が吹いて、九藤の艶のあるミルクティーブラウンの髪が無造作に乱れた。道路脇に植えられた街路樹がざわざわと揺れている。
「いや九藤、そんな馬鹿なこと――」
あるはずがない、と言おうとして続けられなかった。そんなフィクションみたいな現実が、まさか自分に降りかかるはずがない。そう思うのに、彼の真摯なまなざしに圧倒される。
「余計なお世話だとは思うけど、僕は二次性の再検査に行くべきだと思う。もしも一人で受診するのが不安なら、僕が一緒に行くよ。なにもしないまま、あの人の勘違いで終わらせることは……とてもリスキーな気がするんだ」
キャンパスはもうすぐそこだった。九藤の言い分すべてに納得することはできないものの、圭斗は「わかった」と返答するしかなかった。
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