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08.
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その瞬間。
「バカにしないで! さいってい!」
女の子の声が食堂内に響き渡ったと思った瞬間、今度はパァン、小気味の良い音が響いた。何事かと美加と優花は一瞬目を見開いて互いを見る。そして声が聞こえて来た方へ視線を向けると、ちょうど女の子が水が入ったコップを向かいに座っていた男性の頭上へと持っていき、そして水をかけた。
「あらまぁ……」
「えぇ……」
美加の驚きの声、そして優花は若干引き美味に声を出した。いつもと違って遅い時間に相田が食堂にいたことにも驚いたが、それどころではない。周りにいた人もざわつき始める。女の子はそのままコップとバッグを持って食堂を出て行ってしまった。水をかけられた男性を見てみる。その男性は優花が見ても分かるブランドもののスーツをオーダーメイドでぴしっと着こなしていた……相田だった。
「水掛けられたのって外商担当の相田さんじゃない?」
「うわぁ。高級なスーツも水かけられたら台無しだな。あれじゃ午後も仕事にならないだろ」
「良く聞いていた噂って本当だったのかしらねぇ。女性にだらしないなんて恥ずかしい」
若手の女子社員からアパレル系の男性スタッフ、そしてパート社員の年配の女性の声が順番に聞こえてきた。確かにそこにいたのは優花も美加もよく知る人物、相田だ。相田はポケットはからハンカチを取り出すと、顔や髪の毛を軽く拭いてスーツの水気を払った。
「相田さん……」
「はぁ、いつかこんなことになるんじゃないかと思ってたけど、意外と早かったわね」
美加は我関せずといった様子で手元に残った珈琲を飲み干した。優花は周りの声を気にせず身なりを整えている相田が気になって仕方無かった。
「美加さん、私ちょっと行ってきます」
「え、自業自得なんだから放っておきなさいって!」
優花はバッグを持って相田の元に向かっていった。バッグの中からまだ使ってないフェイスタオルを差し出した。
「相田さん、大丈夫ですか? よかったらこれ使って下さい。まだ今日は使ってないですから」
「……井波さん」
優花が声をかけると相田は顔をあげたが、すぐに怪訝な表情を浮かべた。何故ここにいるんだと言わんばかりの表情に優花は安心させようと微笑んで見せた。
「使わせてもらう」
それだけを言うと相田はタオルを取って髪の毛をふいた。優花はほっと息をはいた。そうしているうちに掃除担当のスタッフがやってきて、椅子や床に零れた水をふくから別の休憩室に行ってくださいと言われ、二人は場所を移したのだった。
食堂から売り場までの間にある小さな休憩室には誰もいなかった。優花は内心ほっとしながら相田にかかった水が粗方乾き始めたことを確認すると、今更ながら何をしてしまったのだろうと自分の行動に驚く。けれど、あの雰囲気の中、困った人を放っておくことはできなかった。それが元カレだったとしても、どんなに評判が悪い人だったとしても、好奇の目にさらされて平気な人なんていないと思うからだ。
「あの、余計なことしてたらすみません、そのタオル返さなくていいので……。私、もう戻りますね! それじゃあ……」
あれだけ会いたくないと思っていたはずなのに、今はなんとも思わなかった。それよりも、助けてあげなきゃと思う気持ちが出てくるほど、相田のことをなんとも思っていない自分にも驚いていた。颯太のおかげで全て吹っ切れたのだ。
改めてそのことを実感して、ちゃんと颯太に自分の気持ちを伝えようとそう決心して休憩室を出ようとした。
「同情、ですか?」
「え……?」
背後から相田の声が聞こえた。優花が振り向くと立ち上がった相田が優花の元へ向かって歩いてきた。その声色はどこか震えているよう聞こえて、優花は相田の纏っている雰囲気に悪寒を感じた。
「哀れみを施してくれてどうもありがとうございました」
そう微笑んだ相田の瞳の色はどこか淀んでいた。いつもの営業スマイルではない、何か他の感情を孕んでいる瞳だ。優花は後ずさりをして相田と距離を取ろうとする。
「困っている人がいたら助けるのは普通ですから……」
優花はあくまでも平静を取り繕って相田に対応するが、相田は優花に対して敵意を含んだ言葉を投げかけてきた。
「井波さんは年下の恋人もいますしね。私のことをさっさと振ったと思ったら新しい男。良いご身分ですねぇ」
向けられている敵意にどう対応していいか分からず優花はぐっと下唇を噛んだ。接客をしているとクレーム対応をすることもある。けれど今回は客ではなくて相手も接客を生業としている。ましてや外商担当の相田には何を言っても言い負かされることは分かっていた。かつてもそうやって言いくるめられて、付き合い始めたことを思い出した。
「私は、相田さんとお付き合いしている間、他の女の子と話していることにモヤモヤしてました。でもそれを伝えても相田さんは色々口が上手くて……」
「責任転嫁ですか? 私が悪いと?」
「違います。信じようとしたけど、信じられなかった私のせいです」
「へぇ、それぐらいのことは分かってるんですね」
敬語が不自然なくらい相田の笑顔は引きつっていた。こんな相田の表情を見るのははじめてで優花は恐怖に襲われる。何をされるかわからないなら、上手く自分が悪かったと乗り切るべきだとそう思うのに。
「じゃあその同情心と後悔で、私を助けるつもりで、付き合ってくださいよ」
「なっ、そんな、意味のわからないこと……」
優花がそう反論しようとすると相田にぐっと顎を掴まれた。その瞳は正気ではない、狂気だった。
「ひとつだけ後悔してるんですよ。あなたとセックス出来なかったこと。ねぇ、私を慰めてくださいよ!」
「やっ……」
唇が触れるのではないかというぐらいに顔を近づけられた。優花は顔を背けようとするが相田の力が強くてそれが出来ない。後ろには壁。もうどこにも逃げられる場所はなかった。
「ははっ、身持ちの固い女だとは思ってたけど、年下の男には簡単に股を開くなんてな」
息使いが荒くなった相田を見て気持ち悪いとしか思えない。優花は目を瞑って颯太の名前を心の中で強く呼んだ。
――その時。
「無理矢理っていうのは良くないと思いますよ。年下の僕でもわかるのに、優花さんよりも年上の人がわからないわけ、ないですよね?」
「バカにしないで! さいってい!」
女の子の声が食堂内に響き渡ったと思った瞬間、今度はパァン、小気味の良い音が響いた。何事かと美加と優花は一瞬目を見開いて互いを見る。そして声が聞こえて来た方へ視線を向けると、ちょうど女の子が水が入ったコップを向かいに座っていた男性の頭上へと持っていき、そして水をかけた。
「あらまぁ……」
「えぇ……」
美加の驚きの声、そして優花は若干引き美味に声を出した。いつもと違って遅い時間に相田が食堂にいたことにも驚いたが、それどころではない。周りにいた人もざわつき始める。女の子はそのままコップとバッグを持って食堂を出て行ってしまった。水をかけられた男性を見てみる。その男性は優花が見ても分かるブランドもののスーツをオーダーメイドでぴしっと着こなしていた……相田だった。
「水掛けられたのって外商担当の相田さんじゃない?」
「うわぁ。高級なスーツも水かけられたら台無しだな。あれじゃ午後も仕事にならないだろ」
「良く聞いていた噂って本当だったのかしらねぇ。女性にだらしないなんて恥ずかしい」
若手の女子社員からアパレル系の男性スタッフ、そしてパート社員の年配の女性の声が順番に聞こえてきた。確かにそこにいたのは優花も美加もよく知る人物、相田だ。相田はポケットはからハンカチを取り出すと、顔や髪の毛を軽く拭いてスーツの水気を払った。
「相田さん……」
「はぁ、いつかこんなことになるんじゃないかと思ってたけど、意外と早かったわね」
美加は我関せずといった様子で手元に残った珈琲を飲み干した。優花は周りの声を気にせず身なりを整えている相田が気になって仕方無かった。
「美加さん、私ちょっと行ってきます」
「え、自業自得なんだから放っておきなさいって!」
優花はバッグを持って相田の元に向かっていった。バッグの中からまだ使ってないフェイスタオルを差し出した。
「相田さん、大丈夫ですか? よかったらこれ使って下さい。まだ今日は使ってないですから」
「……井波さん」
優花が声をかけると相田は顔をあげたが、すぐに怪訝な表情を浮かべた。何故ここにいるんだと言わんばかりの表情に優花は安心させようと微笑んで見せた。
「使わせてもらう」
それだけを言うと相田はタオルを取って髪の毛をふいた。優花はほっと息をはいた。そうしているうちに掃除担当のスタッフがやってきて、椅子や床に零れた水をふくから別の休憩室に行ってくださいと言われ、二人は場所を移したのだった。
食堂から売り場までの間にある小さな休憩室には誰もいなかった。優花は内心ほっとしながら相田にかかった水が粗方乾き始めたことを確認すると、今更ながら何をしてしまったのだろうと自分の行動に驚く。けれど、あの雰囲気の中、困った人を放っておくことはできなかった。それが元カレだったとしても、どんなに評判が悪い人だったとしても、好奇の目にさらされて平気な人なんていないと思うからだ。
「あの、余計なことしてたらすみません、そのタオル返さなくていいので……。私、もう戻りますね! それじゃあ……」
あれだけ会いたくないと思っていたはずなのに、今はなんとも思わなかった。それよりも、助けてあげなきゃと思う気持ちが出てくるほど、相田のことをなんとも思っていない自分にも驚いていた。颯太のおかげで全て吹っ切れたのだ。
改めてそのことを実感して、ちゃんと颯太に自分の気持ちを伝えようとそう決心して休憩室を出ようとした。
「同情、ですか?」
「え……?」
背後から相田の声が聞こえた。優花が振り向くと立ち上がった相田が優花の元へ向かって歩いてきた。その声色はどこか震えているよう聞こえて、優花は相田の纏っている雰囲気に悪寒を感じた。
「哀れみを施してくれてどうもありがとうございました」
そう微笑んだ相田の瞳の色はどこか淀んでいた。いつもの営業スマイルではない、何か他の感情を孕んでいる瞳だ。優花は後ずさりをして相田と距離を取ろうとする。
「困っている人がいたら助けるのは普通ですから……」
優花はあくまでも平静を取り繕って相田に対応するが、相田は優花に対して敵意を含んだ言葉を投げかけてきた。
「井波さんは年下の恋人もいますしね。私のことをさっさと振ったと思ったら新しい男。良いご身分ですねぇ」
向けられている敵意にどう対応していいか分からず優花はぐっと下唇を噛んだ。接客をしているとクレーム対応をすることもある。けれど今回は客ではなくて相手も接客を生業としている。ましてや外商担当の相田には何を言っても言い負かされることは分かっていた。かつてもそうやって言いくるめられて、付き合い始めたことを思い出した。
「私は、相田さんとお付き合いしている間、他の女の子と話していることにモヤモヤしてました。でもそれを伝えても相田さんは色々口が上手くて……」
「責任転嫁ですか? 私が悪いと?」
「違います。信じようとしたけど、信じられなかった私のせいです」
「へぇ、それぐらいのことは分かってるんですね」
敬語が不自然なくらい相田の笑顔は引きつっていた。こんな相田の表情を見るのははじめてで優花は恐怖に襲われる。何をされるかわからないなら、上手く自分が悪かったと乗り切るべきだとそう思うのに。
「じゃあその同情心と後悔で、私を助けるつもりで、付き合ってくださいよ」
「なっ、そんな、意味のわからないこと……」
優花がそう反論しようとすると相田にぐっと顎を掴まれた。その瞳は正気ではない、狂気だった。
「ひとつだけ後悔してるんですよ。あなたとセックス出来なかったこと。ねぇ、私を慰めてくださいよ!」
「やっ……」
唇が触れるのではないかというぐらいに顔を近づけられた。優花は顔を背けようとするが相田の力が強くてそれが出来ない。後ろには壁。もうどこにも逃げられる場所はなかった。
「ははっ、身持ちの固い女だとは思ってたけど、年下の男には簡単に股を開くなんてな」
息使いが荒くなった相田を見て気持ち悪いとしか思えない。優花は目を瞑って颯太の名前を心の中で強く呼んだ。
――その時。
「無理矢理っていうのは良くないと思いますよ。年下の僕でもわかるのに、優花さんよりも年上の人がわからないわけ、ないですよね?」
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