ほしのないソラに

浪枝彩佳

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序 8月15日

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ギィ、と金属の軋む音とともに重い扉を開ける。途端に湿ったぬるい空気が肌に纏わりついて来て眉を寄せた。喫煙者が多いこの界隈に対しても分煙の風当たりはきつく、数年前までは平気で楽屋で煙草をふかしていたのが今ではこうして外に設けられた喫煙所でしか煙草は吸えなくなってしまったのだという。一応ロビーにも灰皿は置いてあったはずだが、通りに面したガラス張りのロビーを出番を控えたこの時間帯に利用したいとは思わないだろう。

予想通り探し人はそこにいた。狭い建物だ、ここにいなかったら失踪とも言える。灰皿の隣に座りこんだ人影の隣に倣ってしゃがみこむ。

「おい華音、そんな行儀悪いことしちゃダメじゃん」

「別にいいでしょ、だれも見てないよ」

「いや分からんよ?向うのビルのおじさんとか」

    丈の短いスカートを指して指摘するとこんなに薄暗くちゃ見えないよ、と笑うよく造られた人形のような表情。ステージの上でなら声さえも発しない、華音とはそういういきものだ。元々の中性的な顔立ちには女性向けのメイクをしてもよく映えた。それこそ声さえ発しなければ、長身の女性と見紛うように立ち居振る舞いも異性らしく。妹がいるから、母親が彼女に叱っていたことを留意すれば簡単だと言っていたのだった。ステージの上では「彼」はしっかり「彼女」を演じてきた。この一年半、長いような短いような時間からすれば、ほんの瞬きするような時間だけれど生来の自分を押し殺して振る舞ってきた。

手の中の煙草がちりちりと短くなっていく。もう吸えないそれを、捨てる素振りも見せない愁を不思議そうに見つめる華音のまだ幼さの残る表情。そういえばまだ二十歳にもなっていなかったか。

ベースが、作曲者としての腕が歳のわりに立つものだからもう少し年嵩なものだとばかり思っていた。こればかりは年齢とは比例しないものだと頭では分かっていたはずなのに。それとも、己を顧みて自分がこの歳の頃よりは振る舞いが落ち着いているからだろうか。そう考えて、つい口に出してしまった。

「――なあ、幸弥」

「え、なに。急にどうしたの愁さん」

膝を抱えて困ったように笑う。まるで全部冗談にしたいみたいな、実際そうなのかもしれない。信頼はしている。だけれどあまりお互いに本音を晒すような会話はしてこなかったように思う。お互いにそういう性格だから、というのもあるだろう。のらりくらりと軽口で諸々を躱すスタンスは似通っていたけれど、華音のそれは繊細さからくるもので愁のそれはただ単に面倒を厭っていただけだ。周囲には同じように思われていても、本質的に違うのは相対している自分たちが一番よく分かっていた。

    それを今更覆すような真似をするな、という華音の牽制をやんわりと踏み潰しながら愁は口を開こうとしてしばし逡巡する。はたして、自分はこの子どもに何を言いたいのだろうか。それこそ出会ったばかりの頃、その時はこれしか呼ぶ名前が無かったから呼んでいただけの本名で呼びかけてまで、なにを。

「……お前こそ、なんか用あったの。こんなとこまで来て」

少しだけ迷って出てきたのはそんな言葉だった。今更、なにを言えるというのか。なにを訊けるというのか。年上ぶって偉そうなことを言えるほど、大層な人生を歩んでもいない。いつものようなただの戯れとして収めるしかできない。

「えー、別になんもないよぉ。ただ全然戻ってこないから、どうしたのかなってだけ」

わざとらしく首を傾げておかしそうに笑う顔には明らかに安堵が滲んでいた。なにを自分相手に怯えていたのだろう、怯える必要があったのだろう。首を傾けた瞬間流れた、目に鮮やかな赤い髪が僅かに汗ばんだ白い首に張り付いてた。

「あー、もしや一服中に熱中症でひっくり返ってるのかと心配してくれたわけ?お優しい、さすが」

「そうそう、最近そういうニュース多いからね。シャレになんないって」

肩を竦める彼の額を小突いて、灰皿に煙草を捨て立ち上がった。日は既にほとんど落ちかかっている頃合いだが、分厚い雲に阻まれて分からない。

「こりゃ一雨来るかね」

「どうだろうねえ、でもなんか降りそうな空気ではある気がする」

    また愁に倣ったように横に立った華音は目線だけを持ち上げて空を睨んだ。雨が降る直前の、土が湿ったようなそんな空気のにおいがするのだろう。なぜなら愁の方も同じようなにおいを感じているから。けれども降る、と確定させないのがこの二人らしかった。

せめて終わるまではもってほしい、と呟く華音になぜと問うとなにを当たり前のことを訊いているんだと言わんばかりの非難がましい視線が飛んでくる。

「そりゃあみんな傘なんて持って来ないでしょ、ここアーケードの中じゃないんだから濡れちゃうって」

「あー、それもそーね」

ライブハウスにはできるだけ手ぶらで来るものだ。たしかロビーには一応傘立てのようなものがあったようななかったような、記憶が曖昧だ。それにしたって手荷物は予め駅のコインロッカーにでも置いてくるのがマナーというものだ。たしかクロークのサービスもやっていたような気もするけれど、毎回ではないし。

「それもこれもあっちでやってやれない俺たちが悪いんでしょうねえ」

アーケードの方にあるライブハウス群で演るには、あまりにもこのバンドはキャパシティが足りなかった。この地域ではそれなりに名が知られるようになってきて、関東圏への遠征だって視野に入れられるほどだというのに、ワンマンで埋められるのはこの小箱くらいなものなのだ。

例え、今日のライブに「解散」という特別な箔をつけても。

「まあそこはうちの晴れ男……あれ、そんなのいたっけ」

「え、知らない。誰それ」

    胡乱な目をする華音に愁は所在なさげに目を泳がせる。はたしてそんなめでたそうな人間がうちのバンドにいるか、尋ねられれば疑問しかない。なにせヴィジュアル系なんて晴天の空とは無縁な連中だ、むしろ土砂降りの方が似合う。

「まあともかく、今日もよろしく」

「はいはい。よろしくね、愁さん」

行こう、と引いた扉は相変わらず重い。ろくに冷房も効いてもいないはずの通路だったが、屋内よりはいくらか温度の低い空気に少しだけ肌が粟立ったような、気がした。

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