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ワンナイト・アバンチュール
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居酒屋から程近い、おとぎ話にでも出てきそうな可愛らしい外観の建物。最近のラブホテルは女子会プランなんかも組んでいて、女性が入りやすい外観になっているらしい。それにもかかわらずそんな建物に迷わず歩を進める健斗の腕ががっちりと肩を掴んで放さない。放されたところで、まともに歩けやしないのだからおとなしく身を任せるしかないのだが。大きなてのひらが薄い肩を包んでいることに安心感を覚えそうになる。
健斗のてのひらはこんなに大きかっただろうか。こんな接触の仕方をした覚えはなかったから、分からない。
覚束ない足取りで半ば引きずられるように歩きながら、戸惑わずにはいられなかった。
――するのだろうか、本当に。
弟のようにかわいがっていたこの男と。そんなことをしてしまってもいいのだろうか。本当の家族でないにしろ、家族のように過ごした相手と性的な関係を結ぶことにどうしても躊躇いが先行してしまう。
一歩歩みを進めるごとに、二度と戻れない場所に踏み出しているようだった。一歩踏み出すごとに背後の足場が音もなく崩れ去って行ってしまって、振り返ってみれば帰るための道が無くなっている、そんな感覚。
エントランスを抜けて、手慣れたようにチェックインを済ませる健斗の横顔がどこか大人びて見える。本当にいつの間にこんなことを覚えてしまったのだろう。どうせならもっとあたふたしているところに、仕方がないといった顔で導いてやりたかった。そうしてきたはずだった。どこで、どんな人とこういうところに来たのだろう。
離れていた時間について思い知らされるようで、ちくりと胸に刺すような痛みが走ったけれど、昂汰が口を出せる領分ではない。だってふたりはあの頃恋人同士でもなかったし、今だってそうだ。これは一夜の過ち、そう言い聞かせる。
キーに示された番号の部屋へ入ると、丁重にベッドまで誘導された。ベッドに腰を下ろして手が離された瞬間、身体がぱたんと仰向けに倒れた。ぽすんと軽い音を立てて布団に受け止められた体を起こすのは、気持ち的にも体的にも困難そうだ。健斗は指一本触れていない。これほど、こんな風に酔ったのは初めてだ。
そんな昂汰を見下ろしながら健斗は愉快そうに笑った。
「ほんとに弱いなあ、そんなんでよく社会人やれてるな」
「そっちこそ、なんでこんなに慣れてるんだよ……」
慣れている、というのは酒のことかもしれなかったし、ラブホテルの利用かもしれなかった。どちらの意味ととられてもかまわない。健斗は昂汰の問いにきょとりと目を見開いた後ふと遠くを見るような、ぼんやりとしたまなざしで中空へと視線を逸らした。
分かりやすい、言いたくない時の仕種だ。
「うーん、そうだなあ。いろいろあったってこと」
「それじゃ答えになってない」
「聞きたいの?」
「別に、どうだっていいけど」
そんなのはただの強がりだった。本当は気になっていて、でも知ってしまえば傷つくかもしれないのが怖くて。ついつっけんどんな態度を取ってしまった。そんな昂汰に拗ねているような気色を感じたのか、ことさらゆっくりと優しげな手つきで健斗は昂汰の顔にかかった前髪をのけてキスを落とした。なんだか宥められているみたいだ。
「過去とかさ、今は気にしなくてもいいじゃん。大事なのはいまどうするかってことでしょ」
指先が頬を撫で、首筋を辿る。くすぐったさに身を捩りそうになる肩を押さえつける力は、それほど強くないはずなのに跳ね除けることを躊躇わせる。その手が健斗のものだから。
首筋をなぞった指を緩めたネクタイに引っ掛けて、健斗は艶然と笑う。
「ねえ、俺に男の抱き方教えてよ?昂汰さん」
たっぷりと含みを持たせた声でそう呼ばれてカッと耳が熱くなった。
出会った頃はもちろん、年上なのだからさん付けで呼ばれていた。今よりも幾分か幼い顔で、そう呼びながら後ろをついてくる姿が稚くて、年下に懐かれたことがないからくすぐったくて。
甘えられればなんでもしてやりたくなったし、教えられることはなんだって教えた。その頃の、まるで洗濯の仕方を尋ねた時と同じような調子で放たれた問いが、あまりにも当時とかけ離れていて、どこか現実味を欠いていた今の状況が急に生々しいものに思えてきた。そうだ、今から抱かれるのだ。目の前の人間に。あの時の少年に。
「最初は?やっぱりキスがいいの、もういっかいしよっか」
降りてきた唇をやっぱり拒むことができなくて、それを受け入れた。両方の手のひらで頬を包まれて、顔を背けられないように固定される。頤に親指が触れたと思えば、押し下げるようにされて歯列が緩んだ。
「んっ、ふ…っ……」
鼻から抜けるような声に、ちゃんとキスで感じているのが分かる。侵入させた舌先で先程見つけた昂汰の弱いところを重点的に舌先で擦って愛撫すると、昂汰の唇の端からとろりと飲みきれなかった唾液が零れた。
その間にネクタイを緩めて、器用にシャツのボタンをはずしていく。ここまでの手順は普段とそう変わらない。
露わになった痩せぎすの体に、相変わらずちゃんと食べているのか心配になる。少しばかり自分の肉を分けてあげたいくらいだ。肋骨の凹凸をなぞるように撫でると、くすぐったいのか小さく身を捩る。その延長線上でぷっくりと主張したがっている胸の尖りを指で捏ねると、身体に電流でも流されたのかと思う程に体を跳ねさせる。我慢ならないというように頭を振りながら押し殺した声を上げる昂汰に口角が上がるようだった。首筋と、胸元とに舌を這わせながら乳首を弄る。ひどく感じるようで目元を赤く染めながら涙を浮かべてこちらを見る目にどきりと胸が高鳴った。
「下も、触っていい?」
「うん……」
ベルトを外してスラックスを引き下げると中心が貼ったボクサーパンツは体液を吸ってシミを作っていた。
「これだけで、こんな風になっちゃうの」
「うるさい……あんま見んな……」
力なく健斗の額をぺちりと叩きながら睨むけれどまったく迫力が無い。むしろかわいいとすら思ってしまう。
どこもかしこも、きれいだと思う。嘘みたいに、きれいだと思った。
白い首筋は記憶のままで、首から下だって陶器に似た滑らかさ。浮き出た骨の凹凸を包んでいる。
下着を取り払って二、三度手で扱くと完勃ちになった性器が先走りでしとどに濡れる。教えてよ、なんて口では言ったけれど昂汰に自分が恋をしていると自覚してから自分でいろいろと調べてはみたのだ。
けれど、実行するのは初めてでどうしても緊張が伴う。なんでもないふりを装えているだろうか、失敗して無様なところを昂汰に見られるのはなんだか嫌だった。まだまだ危なっかしい子どものように取られてしまうかもしれないから。
まだ学生なのだから、それでもいいのだろう。けれども嫌だった。たとえ昂汰がもう社会人で、自分が学生だったとしても一応成人した大人なのだと思って欲しい。つまらない見栄、虚栄心。こんなものを持っている時点で充分子どもなのだけれど。
ローションを指先で温めながら、様子を窺うと腕で顔を隠すようにしているから、嗜虐心がむくむくと顔を出すのが自分でもわかった。
「ねえ、昂汰。顔、ちゃんと見せて」
「……やだ」
「なんで嫌なの」
恥ずかしい、と消え入りそうな声で呟かれる。なにが恥ずかしいの、と更に問えばそれ以上は言いたくないとばかりに顔を逸らされた。
しかしここで引き下がるのもなんだか癪だ。昂汰の腹の上に馬乗りになって腕を取り払おうとすれば、案の定抵抗された。ほとんど取っ組み合いのようなそれに、なんで今更こんなことをしているんだろうと思うと笑いがこみあげた。
掴んだ腕は驚くほど細い。簡単に指が一蹴してしまうくらいだ。そんなか細い腕での抵抗なんて簡単に捻じ伏せられそうなのに、なかなか決着がつかない。こんなにか弱そうなのに、やっぱり男の力なのだ。
こうなってくるともう体力勝負だ。先に音を上げた方が負け、しかしそんな悠長なことを言っている暇はない。そもそもセックス中に取っ組み合いをしている方がおかしいのだ。これじゃあ強姦と変わらないし、その気のこっちは据え膳をいつまでも待たされているようなものだ。
「ねえお願い、昂汰さん顔見せて?」
「お前……そう言えば俺が言うこと聞くと思って」
「お願い、ね?」
呆れたような溜息が漏れたけれど、やはり素直に甘えれば応じてくれる。そういうところが好ましいと思う。暴れたせいでぐしゃぐしゃになった前髪を払いのけて額に音を立ててキスを落とす。
少し時間を置いてしまったが指先のローションはまだじゅうぶんに潤滑剤の役目を果たしてくれそうだ。健斗を見る昂汰の目は快楽への期待に濡れながら、どこか怯えているように見える。まるで生娘みたいだ。そんなことはないと分かっているのに、優しい気持ちが湧いてくる。
余裕そうな表情を見せているけれど、本当に男を抱くのは初めてなのだ。後ろに指を触れさせると指先が微かに震えているのに気がついて思わず苦笑した。昂汰はいつも健斗のことをかっこいいというけれど、肝心なところでかっこうがつかない。
触れた瞬間、ぴくりと入口がざわめく。はたして昂汰が何度男と経験があるのかは分からないが、明らかにこの先の悦楽を知っているというような、この指を早く奥まで入れてほしいと強請るような動きだ。
「なあ、今まで何人と付き合ったの」
「……さあ」
「言ってよ」
「覚えてないよ、もう」
昂汰が答えないのはまともに付き合ったことのある人間が実はいない、ということからなのだがそんなことを健斗が知る由もない。はぐらかされているのがなんだか面白くなくて、指先で縁をなぞるだけで挿入しないでいると、ねめつけるような視線がこちらを見上げていた。
「なに、やっぱりやるの怖いの?それならいいよ、今ならまだ無かったことにできる」
健斗の戯れを、躊躇と取ったらしい。冷たくて硬質な、突き放すような声で早口に言われたセリフは未だにこの行為に乗り気ではないらしい。
「昂汰は、そうしたいの?」
昂太は答えない。縁を遊ぶようにくるくる撫でるうちに入口がローションでべたべたに濡れていく。すぐにでも指を飲み込んでしまいそうに入口がひくついている。本当は今すぐにも入れてほしい癖に。強がって、いい大人ぶって諭そうとしてくるところが本当に癪に障る。
「ねえ、答えてよ」
「お、俺は……」
充分に緩んだ入口に指を押し当てると、すんなりそこは侵入をゆるした。それどころかもっと奥へと誘うように蠕動する。吸いつくような感触に健斗は内心眉を顰めた。男を何度も受け入れてきた証拠、一年一緒に暮らした自分は知らないのに、名前も顔も知らない他の男が昂汰の痴態を目にしこんなふしだらな身体にしたことが気に食わなかった。
「っ、う……」
「痛い?」
「痛くは、ない」
痛いはずがない。そうでなくては、指一本でも離すまいと絡みついてくる中の反応を説明できない。こんな風に物欲しげに収縮するこの好色な媚肉の感触を他にも知っている男がいるという事実がどうしようもなく健斗を苛立たせる。
性急すぎるかとも思ったが、おもいきってローションを注ぎ足しながら二本目の指を差し入れて、擦るように中を愛撫しながらより感じる箇所を探していく。
「あるんでしょ、男が中で感じるところ。前立腺っていうの、どこ?教えて」
「っあ、もっと、手前……こんな、奥じゃなっ」
言われたとおりに指をずらしながら中を解していく。指を動かす度に微弱な快感が走るらしい、漏れる吐息が甘く色づいていく。けれども決定的な快感には遠いようで、もどかしげに腿を擦り合わせる。
先程まであんなに渋っていたのに、快楽には弱いらしい。一度快感を与えればその先を求めて、蕩けた声で先を強請るしどけなさにまんまと乗せられそうだ。自身の感じるところを詳らかに説明させられている羞恥がまた快感を煽るらしい。
その姿に静かに自分の内で興奮が湧きあがって行くのを、健斗は感じていた。
「あっ、そ、こ……!」
「……ここ?」
奥を広げる指はそのままに入口辺りを探っていた人差し指が、固く張ってふくれた箇所に触れた途端、びくりと体を引き攣らせた昂汰が呟くように口にした。知識としては知っていたそこを見つけることができて、好奇心が顔を出す。
執拗にそこを虐めてやると、打ち上げられた魚のように何度も体を跳ねさせて昂汰が身悶える。
「っあ、やっ…、う…あっ…もっ、優しくっ」
「でも、気持ちいいんでしょ?」
恨みがましそうに見つめる瞳は快感に蕩けてまるで説得力が無い。目には涙を滲ませ、上気した頬は元が白いからか鮮やかに染まって、婀娜っぽい。
挿れたい。今すぐに。そんな衝動に突き動かされるけれど、初めてのセックスだから大事にしたい。そんな気持ちもある。
指を開いてみると柔らかく綻んだそこは、すぐにでも健斗を迎え入れる準備ができているように見えた。
「は、あっ…健斗、本当に……?」
「今更何言ってんの。人のこんなんさせておいて」
昂汰の手を掴んで健斗のものに触れさせると、熱した鉄にでも触れたかのようにすぐさま手を引っ込める。ジーンズの硬い布越しでもわかるくらい、そこは熱く猛っていた。
「なんで……」
「なんでって、そりゃあ決まってるでしょ。好きな人のこんなやらしいところ見せられたら」
信じられないものを見るような目で見てくる昂汰に呆れ返ったように答える。にわかに怯えたような表情を浮かべて、譫言のように呟く。
「やっぱ、やっぱダメ……」
「はあ?何言ってんの、今更ここまで来ておいて」
またか、と思いながら手はボトムの留め具を外してジッパーを下ろす。下着ごと取り払って取り出した自身を入口に押し当てながら昂汰の耳元に唇を寄せる。
「嫌ならちゃんと拒めって、さっきも言ったけど、嫌なら止める。でも、ダメなんて言われたら……したくなる」
ここが引き返せる最後のチャンスだと言うのなら、それは健斗にとってではなく昂汰にとってだ。健斗には引き返すつもりなんてない。
だって、好きなんだから。
「けん、と、だめっ、あっ、ああっ……!」
懇願するような声を無視して、一気に腰を進める。奥まで征服した途端憐れっぽく哀願する声は途切れて、快楽にうかされた悲鳴が上がった。
突き入れた中は狭くて熱かった。指を入れた時から予見してはいたが、だいぶ具合が良い。すぐにでも昇りつめそうになるところだった。でもそんなのなんだか情けなくて、息を詰めて堪えた。
しっとりと健斗のものに絡みついてくる秘肉の感触を愉しみながら健斗は得意げに口を開く。
「昂汰、全部入ったよ」
「あ、う……はっ……あ……」
焦点の合っていない瞳と、痙攣しているような肉のざわめき、白い腹に散った白濁を見れば達してしまったのは一目瞭然だ。挿入しただけで絶頂を迎える、感じやすくて淫らな身体。
繋がった部分を指でなぞりながら待っていると、だんだん昂汰の目が健斗の顔に焦点を結ぶ。その顔に映っているのは、絶望、踏み越えてはいけない挿入という最終防衛ラインを踏み越えてしまったこと、あまつさえそれで絶頂してしまったこと。
「あ、あ……」
「昂汰、好きだよ」
ずっと前から昂汰が好きだ。そう言い聞かせながら腰を前後に揺する。その度に甘い啜り泣きが聞こえた。顔を隠している手を引き剥がしてシーツに縫いとめる。涙と鼻水でお世辞にも綺麗とは言えない顔なのに、愛しいという気持ちが生まれてくる。
「昂汰も、気持ちいいんでしょ。腰揺れてる」
「やっ、ちがっ……あ……あっ……」
違う、と繰り返しながらも中は貪欲に中の質量をきゅうきゅうと締めつけてくる。ぎりぎりまで引き抜けば逃すまいと中は狭まり、突き入れれば悦びに震えてもっと奥へと誘うようにうねる。
一度出して萎えた性器は再び熱をもって頭を擡げていた。白く染まったそれはとめどなく溢れる先走りに洗い流されていた。
おねがい、ゆるしてと啜り泣きながら懇願する唇を塞ぐ。くぐもった喘ぎ声しかもう聞こえない。
「んっ、んんっ、ん……!」
「んっ、は、あ……気持ちいい。昂汰の中、すっごく気持ちいい」
「あっ、あ……だめ、だめ……っ」
「またそうやってダメって言う、何がダメなの?」
「イク、イっちゃう、の……!あっ、あっ」
「いいよ、イこっか」
ぐっと奥深くに押し当てた途端、昂汰の体が弓なりにしなる。
「あっ、ああっ、ああっ!」
一際大きい声を上げた途端に、弾けたそこから白濁が噴出した。きつく目を瞑って頑としてこちらを見ようともしないところは気に食わなかったけれど、はじめて好きな男を抱いて絶頂を与えられて少しだけ充足感があった。
ぐったりと脱力した昂汰の髪を指で梳きながら、健斗は思い返した。
――最初は勘違いだと思った。兄、というより最早母親のように何くれと世話を焼いてくれる昂汰への親愛の情だと思った。
けれどもそれにある日突然、劣情が加わった。隣で眠る昂太の、白くて細い首筋に、微かに開いた唇から覗く赤い舌に、どうしようもなく興奮して自慰をした夏の夜。ひどく罪悪感を覚えながらも興奮は増すばかりだったのを、今でも覚えている。
出会って間もない頃、男に肩を抱かれて雑踏に消えて行った昂汰をこっそり追いかけた先がラブホテルだったのを思い出したのだ、その時に。どちらかは知らないけれど、昂汰は男同士の経験がある。それは健斗の気持ちが同性であるから、という理由で拒絶されることはないと言う希望ではあった。しかしそれと同時に昂汰は他の男と関係があるという絶望も同時に味わうことになる。
悶々と過ごした半年後、昂汰が就職するから上京すると言った時、正直言ってほっとした。このままゆっくりと時が経つのにつれて、忘れていくことができると思った。
思ったのに、離れてしまえば恋しくて仕方が無かった。逃げられてしまった、と見当違いな恨み言さえ言いたくなった。隣で眠る息遣いが聞こえない。ふたりで顔を突き合わせて食べた安っぽいスーパーの弁当は、あの時はやたら美味く感じたのに味気なくてしかたなかった。一年経てば、慣れると思った。慣れなかった。
どうしてこんなに未練がましくなってしまっているのか考えた。そうしてたどり着いた答えは、自分の気持ちを告げていないからこんなにも苦しいままなのだということ。一年離れても、消えなかった昂汰が好きだと言う気持ちを、伝えたいと思った。だからほとんど通っていなかった高校最後の時間を取り戻すために必死で勉強して東京の大学に合格してみせた。両親は初めは訝っていたものの今までのことも社会勉強、と許してくれてすんなりと受け入れ、大学に合格した時は大喜びだった。
しかし上京までしてから大変なことに気がついた。一緒に住んで、四六時中一緒にいたから連絡先を交換するなんてことすっかり気にもとめなかったのだ。別れた後に連絡先をあれ以外に知らないことに気がついた。こちらでの人間関係を清算でもしたかったのか、昂汰は唯一ふたりが繋がっていたソーシャルネットワークから退会していた。たった一つのか細いつながりは、簡単に途切れてしまった。
だから、この再会に運命めいたものを感じずにはいられなかった。天の後押しのようなものを感じて急いてしまった。
やっと、手の届くところに戻ってきた。くったりと脱力して、瞼を閉じたままの昂汰の額に一つ口づけを落とすと、健斗はふっと軽く笑んだ。
「ちゃんと、責任は取るから」
健斗のてのひらはこんなに大きかっただろうか。こんな接触の仕方をした覚えはなかったから、分からない。
覚束ない足取りで半ば引きずられるように歩きながら、戸惑わずにはいられなかった。
――するのだろうか、本当に。
弟のようにかわいがっていたこの男と。そんなことをしてしまってもいいのだろうか。本当の家族でないにしろ、家族のように過ごした相手と性的な関係を結ぶことにどうしても躊躇いが先行してしまう。
一歩歩みを進めるごとに、二度と戻れない場所に踏み出しているようだった。一歩踏み出すごとに背後の足場が音もなく崩れ去って行ってしまって、振り返ってみれば帰るための道が無くなっている、そんな感覚。
エントランスを抜けて、手慣れたようにチェックインを済ませる健斗の横顔がどこか大人びて見える。本当にいつの間にこんなことを覚えてしまったのだろう。どうせならもっとあたふたしているところに、仕方がないといった顔で導いてやりたかった。そうしてきたはずだった。どこで、どんな人とこういうところに来たのだろう。
離れていた時間について思い知らされるようで、ちくりと胸に刺すような痛みが走ったけれど、昂汰が口を出せる領分ではない。だってふたりはあの頃恋人同士でもなかったし、今だってそうだ。これは一夜の過ち、そう言い聞かせる。
キーに示された番号の部屋へ入ると、丁重にベッドまで誘導された。ベッドに腰を下ろして手が離された瞬間、身体がぱたんと仰向けに倒れた。ぽすんと軽い音を立てて布団に受け止められた体を起こすのは、気持ち的にも体的にも困難そうだ。健斗は指一本触れていない。これほど、こんな風に酔ったのは初めてだ。
そんな昂汰を見下ろしながら健斗は愉快そうに笑った。
「ほんとに弱いなあ、そんなんでよく社会人やれてるな」
「そっちこそ、なんでこんなに慣れてるんだよ……」
慣れている、というのは酒のことかもしれなかったし、ラブホテルの利用かもしれなかった。どちらの意味ととられてもかまわない。健斗は昂汰の問いにきょとりと目を見開いた後ふと遠くを見るような、ぼんやりとしたまなざしで中空へと視線を逸らした。
分かりやすい、言いたくない時の仕種だ。
「うーん、そうだなあ。いろいろあったってこと」
「それじゃ答えになってない」
「聞きたいの?」
「別に、どうだっていいけど」
そんなのはただの強がりだった。本当は気になっていて、でも知ってしまえば傷つくかもしれないのが怖くて。ついつっけんどんな態度を取ってしまった。そんな昂汰に拗ねているような気色を感じたのか、ことさらゆっくりと優しげな手つきで健斗は昂汰の顔にかかった前髪をのけてキスを落とした。なんだか宥められているみたいだ。
「過去とかさ、今は気にしなくてもいいじゃん。大事なのはいまどうするかってことでしょ」
指先が頬を撫で、首筋を辿る。くすぐったさに身を捩りそうになる肩を押さえつける力は、それほど強くないはずなのに跳ね除けることを躊躇わせる。その手が健斗のものだから。
首筋をなぞった指を緩めたネクタイに引っ掛けて、健斗は艶然と笑う。
「ねえ、俺に男の抱き方教えてよ?昂汰さん」
たっぷりと含みを持たせた声でそう呼ばれてカッと耳が熱くなった。
出会った頃はもちろん、年上なのだからさん付けで呼ばれていた。今よりも幾分か幼い顔で、そう呼びながら後ろをついてくる姿が稚くて、年下に懐かれたことがないからくすぐったくて。
甘えられればなんでもしてやりたくなったし、教えられることはなんだって教えた。その頃の、まるで洗濯の仕方を尋ねた時と同じような調子で放たれた問いが、あまりにも当時とかけ離れていて、どこか現実味を欠いていた今の状況が急に生々しいものに思えてきた。そうだ、今から抱かれるのだ。目の前の人間に。あの時の少年に。
「最初は?やっぱりキスがいいの、もういっかいしよっか」
降りてきた唇をやっぱり拒むことができなくて、それを受け入れた。両方の手のひらで頬を包まれて、顔を背けられないように固定される。頤に親指が触れたと思えば、押し下げるようにされて歯列が緩んだ。
「んっ、ふ…っ……」
鼻から抜けるような声に、ちゃんとキスで感じているのが分かる。侵入させた舌先で先程見つけた昂汰の弱いところを重点的に舌先で擦って愛撫すると、昂汰の唇の端からとろりと飲みきれなかった唾液が零れた。
その間にネクタイを緩めて、器用にシャツのボタンをはずしていく。ここまでの手順は普段とそう変わらない。
露わになった痩せぎすの体に、相変わらずちゃんと食べているのか心配になる。少しばかり自分の肉を分けてあげたいくらいだ。肋骨の凹凸をなぞるように撫でると、くすぐったいのか小さく身を捩る。その延長線上でぷっくりと主張したがっている胸の尖りを指で捏ねると、身体に電流でも流されたのかと思う程に体を跳ねさせる。我慢ならないというように頭を振りながら押し殺した声を上げる昂汰に口角が上がるようだった。首筋と、胸元とに舌を這わせながら乳首を弄る。ひどく感じるようで目元を赤く染めながら涙を浮かべてこちらを見る目にどきりと胸が高鳴った。
「下も、触っていい?」
「うん……」
ベルトを外してスラックスを引き下げると中心が貼ったボクサーパンツは体液を吸ってシミを作っていた。
「これだけで、こんな風になっちゃうの」
「うるさい……あんま見んな……」
力なく健斗の額をぺちりと叩きながら睨むけれどまったく迫力が無い。むしろかわいいとすら思ってしまう。
どこもかしこも、きれいだと思う。嘘みたいに、きれいだと思った。
白い首筋は記憶のままで、首から下だって陶器に似た滑らかさ。浮き出た骨の凹凸を包んでいる。
下着を取り払って二、三度手で扱くと完勃ちになった性器が先走りでしとどに濡れる。教えてよ、なんて口では言ったけれど昂汰に自分が恋をしていると自覚してから自分でいろいろと調べてはみたのだ。
けれど、実行するのは初めてでどうしても緊張が伴う。なんでもないふりを装えているだろうか、失敗して無様なところを昂汰に見られるのはなんだか嫌だった。まだまだ危なっかしい子どものように取られてしまうかもしれないから。
まだ学生なのだから、それでもいいのだろう。けれども嫌だった。たとえ昂汰がもう社会人で、自分が学生だったとしても一応成人した大人なのだと思って欲しい。つまらない見栄、虚栄心。こんなものを持っている時点で充分子どもなのだけれど。
ローションを指先で温めながら、様子を窺うと腕で顔を隠すようにしているから、嗜虐心がむくむくと顔を出すのが自分でもわかった。
「ねえ、昂汰。顔、ちゃんと見せて」
「……やだ」
「なんで嫌なの」
恥ずかしい、と消え入りそうな声で呟かれる。なにが恥ずかしいの、と更に問えばそれ以上は言いたくないとばかりに顔を逸らされた。
しかしここで引き下がるのもなんだか癪だ。昂汰の腹の上に馬乗りになって腕を取り払おうとすれば、案の定抵抗された。ほとんど取っ組み合いのようなそれに、なんで今更こんなことをしているんだろうと思うと笑いがこみあげた。
掴んだ腕は驚くほど細い。簡単に指が一蹴してしまうくらいだ。そんなか細い腕での抵抗なんて簡単に捻じ伏せられそうなのに、なかなか決着がつかない。こんなにか弱そうなのに、やっぱり男の力なのだ。
こうなってくるともう体力勝負だ。先に音を上げた方が負け、しかしそんな悠長なことを言っている暇はない。そもそもセックス中に取っ組み合いをしている方がおかしいのだ。これじゃあ強姦と変わらないし、その気のこっちは据え膳をいつまでも待たされているようなものだ。
「ねえお願い、昂汰さん顔見せて?」
「お前……そう言えば俺が言うこと聞くと思って」
「お願い、ね?」
呆れたような溜息が漏れたけれど、やはり素直に甘えれば応じてくれる。そういうところが好ましいと思う。暴れたせいでぐしゃぐしゃになった前髪を払いのけて額に音を立ててキスを落とす。
少し時間を置いてしまったが指先のローションはまだじゅうぶんに潤滑剤の役目を果たしてくれそうだ。健斗を見る昂汰の目は快楽への期待に濡れながら、どこか怯えているように見える。まるで生娘みたいだ。そんなことはないと分かっているのに、優しい気持ちが湧いてくる。
余裕そうな表情を見せているけれど、本当に男を抱くのは初めてなのだ。後ろに指を触れさせると指先が微かに震えているのに気がついて思わず苦笑した。昂汰はいつも健斗のことをかっこいいというけれど、肝心なところでかっこうがつかない。
触れた瞬間、ぴくりと入口がざわめく。はたして昂汰が何度男と経験があるのかは分からないが、明らかにこの先の悦楽を知っているというような、この指を早く奥まで入れてほしいと強請るような動きだ。
「なあ、今まで何人と付き合ったの」
「……さあ」
「言ってよ」
「覚えてないよ、もう」
昂汰が答えないのはまともに付き合ったことのある人間が実はいない、ということからなのだがそんなことを健斗が知る由もない。はぐらかされているのがなんだか面白くなくて、指先で縁をなぞるだけで挿入しないでいると、ねめつけるような視線がこちらを見上げていた。
「なに、やっぱりやるの怖いの?それならいいよ、今ならまだ無かったことにできる」
健斗の戯れを、躊躇と取ったらしい。冷たくて硬質な、突き放すような声で早口に言われたセリフは未だにこの行為に乗り気ではないらしい。
「昂汰は、そうしたいの?」
昂太は答えない。縁を遊ぶようにくるくる撫でるうちに入口がローションでべたべたに濡れていく。すぐにでも指を飲み込んでしまいそうに入口がひくついている。本当は今すぐにも入れてほしい癖に。強がって、いい大人ぶって諭そうとしてくるところが本当に癪に障る。
「ねえ、答えてよ」
「お、俺は……」
充分に緩んだ入口に指を押し当てると、すんなりそこは侵入をゆるした。それどころかもっと奥へと誘うように蠕動する。吸いつくような感触に健斗は内心眉を顰めた。男を何度も受け入れてきた証拠、一年一緒に暮らした自分は知らないのに、名前も顔も知らない他の男が昂汰の痴態を目にしこんなふしだらな身体にしたことが気に食わなかった。
「っ、う……」
「痛い?」
「痛くは、ない」
痛いはずがない。そうでなくては、指一本でも離すまいと絡みついてくる中の反応を説明できない。こんな風に物欲しげに収縮するこの好色な媚肉の感触を他にも知っている男がいるという事実がどうしようもなく健斗を苛立たせる。
性急すぎるかとも思ったが、おもいきってローションを注ぎ足しながら二本目の指を差し入れて、擦るように中を愛撫しながらより感じる箇所を探していく。
「あるんでしょ、男が中で感じるところ。前立腺っていうの、どこ?教えて」
「っあ、もっと、手前……こんな、奥じゃなっ」
言われたとおりに指をずらしながら中を解していく。指を動かす度に微弱な快感が走るらしい、漏れる吐息が甘く色づいていく。けれども決定的な快感には遠いようで、もどかしげに腿を擦り合わせる。
先程まであんなに渋っていたのに、快楽には弱いらしい。一度快感を与えればその先を求めて、蕩けた声で先を強請るしどけなさにまんまと乗せられそうだ。自身の感じるところを詳らかに説明させられている羞恥がまた快感を煽るらしい。
その姿に静かに自分の内で興奮が湧きあがって行くのを、健斗は感じていた。
「あっ、そ、こ……!」
「……ここ?」
奥を広げる指はそのままに入口辺りを探っていた人差し指が、固く張ってふくれた箇所に触れた途端、びくりと体を引き攣らせた昂汰が呟くように口にした。知識としては知っていたそこを見つけることができて、好奇心が顔を出す。
執拗にそこを虐めてやると、打ち上げられた魚のように何度も体を跳ねさせて昂汰が身悶える。
「っあ、やっ…、う…あっ…もっ、優しくっ」
「でも、気持ちいいんでしょ?」
恨みがましそうに見つめる瞳は快感に蕩けてまるで説得力が無い。目には涙を滲ませ、上気した頬は元が白いからか鮮やかに染まって、婀娜っぽい。
挿れたい。今すぐに。そんな衝動に突き動かされるけれど、初めてのセックスだから大事にしたい。そんな気持ちもある。
指を開いてみると柔らかく綻んだそこは、すぐにでも健斗を迎え入れる準備ができているように見えた。
「は、あっ…健斗、本当に……?」
「今更何言ってんの。人のこんなんさせておいて」
昂汰の手を掴んで健斗のものに触れさせると、熱した鉄にでも触れたかのようにすぐさま手を引っ込める。ジーンズの硬い布越しでもわかるくらい、そこは熱く猛っていた。
「なんで……」
「なんでって、そりゃあ決まってるでしょ。好きな人のこんなやらしいところ見せられたら」
信じられないものを見るような目で見てくる昂汰に呆れ返ったように答える。にわかに怯えたような表情を浮かべて、譫言のように呟く。
「やっぱ、やっぱダメ……」
「はあ?何言ってんの、今更ここまで来ておいて」
またか、と思いながら手はボトムの留め具を外してジッパーを下ろす。下着ごと取り払って取り出した自身を入口に押し当てながら昂汰の耳元に唇を寄せる。
「嫌ならちゃんと拒めって、さっきも言ったけど、嫌なら止める。でも、ダメなんて言われたら……したくなる」
ここが引き返せる最後のチャンスだと言うのなら、それは健斗にとってではなく昂汰にとってだ。健斗には引き返すつもりなんてない。
だって、好きなんだから。
「けん、と、だめっ、あっ、ああっ……!」
懇願するような声を無視して、一気に腰を進める。奥まで征服した途端憐れっぽく哀願する声は途切れて、快楽にうかされた悲鳴が上がった。
突き入れた中は狭くて熱かった。指を入れた時から予見してはいたが、だいぶ具合が良い。すぐにでも昇りつめそうになるところだった。でもそんなのなんだか情けなくて、息を詰めて堪えた。
しっとりと健斗のものに絡みついてくる秘肉の感触を愉しみながら健斗は得意げに口を開く。
「昂汰、全部入ったよ」
「あ、う……はっ……あ……」
焦点の合っていない瞳と、痙攣しているような肉のざわめき、白い腹に散った白濁を見れば達してしまったのは一目瞭然だ。挿入しただけで絶頂を迎える、感じやすくて淫らな身体。
繋がった部分を指でなぞりながら待っていると、だんだん昂汰の目が健斗の顔に焦点を結ぶ。その顔に映っているのは、絶望、踏み越えてはいけない挿入という最終防衛ラインを踏み越えてしまったこと、あまつさえそれで絶頂してしまったこと。
「あ、あ……」
「昂汰、好きだよ」
ずっと前から昂汰が好きだ。そう言い聞かせながら腰を前後に揺する。その度に甘い啜り泣きが聞こえた。顔を隠している手を引き剥がしてシーツに縫いとめる。涙と鼻水でお世辞にも綺麗とは言えない顔なのに、愛しいという気持ちが生まれてくる。
「昂汰も、気持ちいいんでしょ。腰揺れてる」
「やっ、ちがっ……あ……あっ……」
違う、と繰り返しながらも中は貪欲に中の質量をきゅうきゅうと締めつけてくる。ぎりぎりまで引き抜けば逃すまいと中は狭まり、突き入れれば悦びに震えてもっと奥へと誘うようにうねる。
一度出して萎えた性器は再び熱をもって頭を擡げていた。白く染まったそれはとめどなく溢れる先走りに洗い流されていた。
おねがい、ゆるしてと啜り泣きながら懇願する唇を塞ぐ。くぐもった喘ぎ声しかもう聞こえない。
「んっ、んんっ、ん……!」
「んっ、は、あ……気持ちいい。昂汰の中、すっごく気持ちいい」
「あっ、あ……だめ、だめ……っ」
「またそうやってダメって言う、何がダメなの?」
「イク、イっちゃう、の……!あっ、あっ」
「いいよ、イこっか」
ぐっと奥深くに押し当てた途端、昂汰の体が弓なりにしなる。
「あっ、ああっ、ああっ!」
一際大きい声を上げた途端に、弾けたそこから白濁が噴出した。きつく目を瞑って頑としてこちらを見ようともしないところは気に食わなかったけれど、はじめて好きな男を抱いて絶頂を与えられて少しだけ充足感があった。
ぐったりと脱力した昂汰の髪を指で梳きながら、健斗は思い返した。
――最初は勘違いだと思った。兄、というより最早母親のように何くれと世話を焼いてくれる昂汰への親愛の情だと思った。
けれどもそれにある日突然、劣情が加わった。隣で眠る昂太の、白くて細い首筋に、微かに開いた唇から覗く赤い舌に、どうしようもなく興奮して自慰をした夏の夜。ひどく罪悪感を覚えながらも興奮は増すばかりだったのを、今でも覚えている。
出会って間もない頃、男に肩を抱かれて雑踏に消えて行った昂汰をこっそり追いかけた先がラブホテルだったのを思い出したのだ、その時に。どちらかは知らないけれど、昂汰は男同士の経験がある。それは健斗の気持ちが同性であるから、という理由で拒絶されることはないと言う希望ではあった。しかしそれと同時に昂汰は他の男と関係があるという絶望も同時に味わうことになる。
悶々と過ごした半年後、昂汰が就職するから上京すると言った時、正直言ってほっとした。このままゆっくりと時が経つのにつれて、忘れていくことができると思った。
思ったのに、離れてしまえば恋しくて仕方が無かった。逃げられてしまった、と見当違いな恨み言さえ言いたくなった。隣で眠る息遣いが聞こえない。ふたりで顔を突き合わせて食べた安っぽいスーパーの弁当は、あの時はやたら美味く感じたのに味気なくてしかたなかった。一年経てば、慣れると思った。慣れなかった。
どうしてこんなに未練がましくなってしまっているのか考えた。そうしてたどり着いた答えは、自分の気持ちを告げていないからこんなにも苦しいままなのだということ。一年離れても、消えなかった昂汰が好きだと言う気持ちを、伝えたいと思った。だからほとんど通っていなかった高校最後の時間を取り戻すために必死で勉強して東京の大学に合格してみせた。両親は初めは訝っていたものの今までのことも社会勉強、と許してくれてすんなりと受け入れ、大学に合格した時は大喜びだった。
しかし上京までしてから大変なことに気がついた。一緒に住んで、四六時中一緒にいたから連絡先を交換するなんてことすっかり気にもとめなかったのだ。別れた後に連絡先をあれ以外に知らないことに気がついた。こちらでの人間関係を清算でもしたかったのか、昂汰は唯一ふたりが繋がっていたソーシャルネットワークから退会していた。たった一つのか細いつながりは、簡単に途切れてしまった。
だから、この再会に運命めいたものを感じずにはいられなかった。天の後押しのようなものを感じて急いてしまった。
やっと、手の届くところに戻ってきた。くったりと脱力して、瞼を閉じたままの昂汰の額に一つ口づけを落とすと、健斗はふっと軽く笑んだ。
「ちゃんと、責任は取るから」
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