バニートラップ・エレクトラ

浪枝彩佳

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焼肉と苺クレープ

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「……で、流されちゃったわけだ」
 
項垂れる昂汰を前に彼は網の上に肉を放った。肉の焼ける香りと脂がぱちぱちと爆ぜる音が実に食欲をそそる。けれども、なんだか胃の辺りが重くてとても食べる気にはならなかった。

「おい昂汰、ちょっとは嬉しそうな顔しろよ焼肉だぞ焼肉!しかも中條さんのおごりで!」
「はい……」
 
消え入りそうな声の昂汰の返答に、中條は眉を寄せた。昂汰も昼から焼肉など贅沢だとは思うのだが、周囲をちらと見遣って溜息を吐いた。どうしたって、焼肉でも食べながらできる話ではない。

「そういえば、焼肉一緒に食べる男女はセックスしてるっていうよな、まあ俺たちには関係ないけど」
 
関係ない、というのは男同士で来ているという意味だけではなかった。目の前でやたら真剣な顔で肉を焼いている男、中條こそが俊輝の長年のパートナーである。
俊輝とはまた違った意味で面倒見のいい彼は昂汰にとっては気の置けない相談相手のひとりでもあった。
しかし昼日中からこんな風に明け透けな言葉で言われると羞恥心が勝る。

「中條さん、今昼間です」
「だって相談があるんです……って死にそうな声で電話してきたのは昂汰じゃん。その内容話してるだけだし」
 
肉の焼ける音と、昼時の飲食店らしいざわめきで二人の会話を気にしているような人間がいないことがせめてもの救いだ。ちなみに今の昂汰の声真似をしてみせたのは全くと言っていいほど似ていなかった、と思う。

あの後健斗が眠りに落ちたのを確認してから、気怠い身体を叱咤して脱兎のごとく逃げ出した。そうしてそのまま中條に電話をかけたのが今日の朝方。急なことにも関わらず昼にはこうして来てくれる辺り、この男もなかなかのお人好しだとは思うがそれが正直ありがたい。
そうして事の顛末を語って、今のこの状況だった。

「それで、昂汰自身はどうしたいの」
 
焼かれた肉を自分の取り皿の上に乗せながら、中條が問う。今までの軽薄な雰囲気と一転して真面目そのものの表情に、僅かに気圧される。

「まあ俺的にはだよ、昂汰がその子とうまくいったら万々歳なんだけど」
「それは、分かってます。」
 
昂汰が健斗の気持ちを受け入れたら、多分この自慰のような、自傷のような俊輝や他の男たちとの関係を断ち切ることになるだろう。中條からしたら願ってもみなかったチャンスがやって来た、と考えるのが妥当だ。
昂汰自身も、これ以上俊輝と中條の邪魔をしたくはないし、いい機会なのはわかってはいる。

「……流されたってことはさ、してもいいって本心では思ってたからじゃないの」
「――そう、なんですかね」
 
分かっていたことではあった。けれど受け入れたくなかった。「好き」という感情には種類がある。昂汰が健斗に抱いているのは慈愛のような、そんな感情で情愛ではないと思っている。そう思いたかった。健斗から昂汰へ向けられている感情も慕情ではなくて、親愛とかそういった類のものなのだと今でも思いたがっている。
しかしもう思い知らされてしまった。口とか、理性とかでそうやっていくら言い訳を重ねても本能と体は嘘が吐けない。健斗に抱かれて体は素直に悦んでいた。抱いてもらえて嬉しかった。健斗だってあのとおり、昂汰に対して欲情していたじゃないかと軽率な部分が囁いてくる。
 
昂汰にとって恋とは憧憬することと同義だった。元から同性愛者で、好きになった気持ちを受け入れられることが絶望的だったために自分の心に張った防衛線。恋しい人の手がこの手に触れなくても良いとずっと思ってきた。ただ見つめるだけで満たされるもの、決して手に入らないものに焦がれることを恋と呼んでいた。
好きな男に抱かれることだけはできた。けれど、好きな男で好きだと言って抱いてくれたのは健斗が初めてだった。ずっと好きになった人に好かれることは一生ないと思っていたのに。
 
だから、すごく嬉しかったし幸せだった。
 
でもやっぱり、理性が背後にぴたりとくっついて言い聞かせるのだ。こんな幸せは一瞬に過ぎないと。元は異性愛者だということも、年下のまだ学生で未来なんていくらでも選べることも、あの手をいつか手放してやらなければならないと諭す。
その時どれほどの痛みを負うことになるのか、昂汰には予想がつかない。あの宝物を手放してまた一人で生きていくことができることができるかが分からない。好意を受け止められる心地よさを失って、生きていける自信が無い。

頭を抱えて唸る昂汰に中條は溜息を一つ落とすと、施しのように昂汰の取り皿にも一枚肉を置いた。奢るとは言いながらも昂汰が手を付けなければ全部自分で食べつくす心づもりだっただろうに、そういうところが優しい。包み込むような優しさが俊輝なら、背中を押してくれる優しさを持っているのが中條だと思う。
 
そんな中、ふと携帯がメッセージの受信を告げた。正直言って確認したくない。なんとなく健斗な気がしてならなかったから。

「何も言わずに出てきたんだろ?その子からじゃない?」
「……だから見たくないんですよ、あー怖い」
 
頭を抱えて唸る昂汰に中條は早く携帯を確認しろと言わんばかりにトングをカチカチと鳴らす。その威嚇音に怯えながらおそるおそる携帯の画面を見ると、案の定健斗からだった。せめてと思ってホテル代と食事代は置いて行ったはずだけれど、やはり何も言わずに帰ったことを少しだけ怒っていた。そして、最後に一言付け足されている「さっき責任は取るって言ったけど、ごめんなさい。本当は責任取りたいから抱きました」
強引な手段に出たことを詫びる素直な言葉に苦笑と、あたたかい気持ちが顔を出した。この文章を打ちながら、一体どんな顔をしていたのだろう。勝手にいなくなった昂汰に憮然としながら、頭を掻いて懸命に言葉を選んだのだろう。なんだか微笑ましい気持ちになる。

「昂汰はさ、難しく考えすぎなんだよ。俺なんか何も考えずに目の前の事必死にやってたらこうなってたんだから」
 
画面から目を上げれば対面の中條が僅かに緩んだ昂汰の頬をつついて笑む。眦の下がった、溶けたような人好きのする笑顔だ。

「先のことなんて誰にも分かんないし、後悔とか反省が一切無い人間なんていないぜ?だったら、今楽しいとか幸せだって思う方を選ぶ方が後悔は少なくなると俺は思うけどな」
 
中條の言葉は不思議と軽いのに重みがある。それは俊輝との長い付き合いで酸いも甘いも噛み分けたからこその重みなのだと、思う。自分みたいに寂しさにかまけてふらふらして得た経験とは違う。大切な人を愛し、愛されてき信頼関係を築くことの経験値の差。

「昂汰はもっと楽しい事に寛容になりなよ、真面目で一生懸命なのが良い所なのは分かってるけど、がんばってるんだからご褒美くらいあげなさいって」
 
すとんと胸に落ちてきた言葉に一つ頷くと昂太は目の前の皿を見つめる。意を決したように肉を口に運んだ。嚙みしめる度に甘辛いタレの味と肉汁が溢れ出す。
今の幸福を追う、その決心を固めるために咀嚼する。食という意味で目の前の快楽を享受する。

「……美味しいです」
「だろ?なんてったって中條さんの金で食う肉だからな!」
 
快活に笑ってみせた中條に、昂汰もぎこちなく笑みを返した。
 
健斗に、なんて返事をしたらいいだろう。まず手始めに、こちらこそ今朝のことを謝らなければ。


*** 


まるで二年前に戻ったかのようだった。あの頃と違うのは昂汰の社会人ゆえの時間のなさと、経済的余裕くらいなものか。距離感も言葉を交わすテンポも、一緒に時間を過ごすにつれてすぐに昔のように戻って行った。
昂汰が仕事に行くのを健斗は見送ってから大学に行く。仕事から帰れば健斗が家で待っていて、夜になるとバイトに出ていく健斗を昂汰が見送った。すれ違いのような生活を送っているような部分もあるけれど、同じ部屋で時間を過ごす心地よさが戻ってきた。
小さな部屋の中で膝を突き合わせて食事を摂って、一緒に眠る。そこにセックスが加わった。そんな感じだ。

「最近、紅音ちゃんぐっときれいになったわね。恋でも、した?」
 
ある週末の夜、櫻子の言葉に酔い覚ましに飲んでいたミネラルウォーターを思わず噴き出しかけて、すんでのところで堪えた。本当に、この人に隠し事はできない。最近の浮ついた気持ちを改めて指摘されると急に頬が熱くなってくる。

「ええ、はい。まあ……」
「いいわねえ、紅音ちゃんだってまだ若いものねえ。それに、いい恋愛みたい」

しどろもどろになりながら答える昂汰に指先で口元を押さえながら愉しそうに櫻子が笑う。二人のやりとりにそういえば、と同僚たちも色めき立って取り囲んでくるものだから昂汰は思わず身を縮めた。人の恋愛の話を聞くのは大好きだし、好奇心も湧くがその主役がいざ自分となるとどうしようもなく恥ずかしい。

「お店には連れて来ないの?私たちも紅音ちゃんのカレシ、会ってみたいわ」
「いや、ダメです。あいつまだガキなんでこういうところはまだ早いです」
「え、なに?未成年?紅音ちゃんそれは犯罪よ?」
「いや一応成人はしてますけど!まだ学生なんでっ」
 
ムキになる昂汰に同僚たちもまた愉しげに囃し立ててくる。なんというか消えてなくなりたい、今すぐこの場から逃げ出したい。

「あら、紅音ちゃんだってその歳にはこの仕事してたんだからいいじゃない。ねえ」
「うう……あの、ほんともう勘弁してください……あいつ顔が良いからここ来たら誰かに取られそうで嫌なんですぅ……」
 
半分本音を混ぜた言い訳を言葉尻を濁すといよいよ耐えられなくなってきた。熱くなった頬にグラスを押し当てながらきゅっと目を瞑る。同僚たちの軽やかな笑い声が耳を撫でていく。

「嫌ねえ、だれも人のもの盗ったりなんてなんてしないわよ。向こうから来たならともかく」
「……でも、良かった」
 
だれかがしみじみとそう零したのに昂汰はえ、と呟いて僅かに重い瞼を持ち上げた。

「紅音ちゃん、ちゃんと愛されて。だれかに取られたくないなんて思う人に出会えたのね。今までの紅音ちゃんて、なんか、そういう感じじゃなかったから」
「そうそう、ちゃんと愛されると人ってぐっと魅力的になっちゃうのよね」
 
嬉しそうに顔を見合わせるみんなに、どうしようもなく違う、と言いたかった。本当は健斗をここに連れて来たくない本当の理由は、自分のこの姿を見せる勇気がまだ持てないでいるから。受け入れてもらえないかもしれないという恐怖を未だに抱えているから。そんなのは共に働くみんなへの侮辱のように思えて、口にできなかった。
こんな風に、昂汰の幸せを心から願ってくれる人がたくさんいるのに。自分はなんてずるくて不誠実な人間なのだろう。健斗に対してだってそうだ、実は副業をしているとは言ったが隠し続けるのは良くない。こんな自分に愛される幸せなんて、幸福を感じるなんてどこか後ろめたかった。
最近どんどん分からなくなる。昼間のしょうもない自分と、こうして楽しく生きている自分の境界がだんだんと。健斗と過ごす幸福と合わせて、生活の半分以上が楽しいに埋め尽くされて時々境界を見失いそうになってしまう。
けれどこんなこと、だれにも相談できなかった。キャスト仲間はみんなこちらの仕事を専門にしている者ばかりだ。常連の客の中には昼の仕事をしている人だっているが、その人たちにそんなことを話せるわけがない。昂汰は「紅音」として彼らに夢を見せるのが仕事なのだ。生々しいプライベートを語る必要などない。
押し黙ってしまった昂汰の挙動を、照れだと誤認しているのかそうでなくて鋭いこの人たちに見透かされているのかは定かではないが、最後にもう一度お幸せにねとだれかが言い残してそれぞれめいめいに後片付けへと戻って行く。それを漫然と眺めながら、昂汰も帰り支度を始めた。

同居人と家主、友人から恋人へと名前が変わった関係。蜜月と呼ぶのに相応しい時間に面映ゆさでくすぐったくてしょうがない。
日の殆どを昂汰の家で過ごす健斗に家に帰らなくていいのか、と尋ねると弟と同居しているから家賃は無駄になっていないと笑っていたが、それでいいのだろうか。けれども一度、この状況を甘受すると決めた途端この居心地の良さに溺れることを辞められなくなってしまった。身体だけでなく、精神的にも快楽に弱いのだ。だからずっと自分を律していた分、際限なく溺れてしまう。
でも、惜しみなく好意を振りまいて愛の言葉を告げてくる健斗に「俺も好きだよ」の一言だけが、どうしても言えない。その言葉を言ってしまえば、いよいよ戻れなくなる気がするから。
 
結局自分は恐いのだ。自分の好意を手放しで受け入れられたことがなかったから、その幸福の先になにか不幸が待ち受けているのではという猜疑心が背後から忍び寄ってくる。例えば、この先に確実に待っているであろう離別を。もう二度と手放したくない、手放すくらいならいっそ手にしない方が良い。そんな諦念が苔のようにこびり付いている。

「……昂汰?」
「えっ?ああ……なんだっけ」

考え事に没頭すると周りが見えなくなるのは悪い癖だ。気づけば手にしたクレープの生クリームも溶けかけている。

あの頃とは違ってお互い金銭的にも余裕があるからデートでもしてみようか、と健斗が言い出して休日の昼日中に街に繰り出したのだった。昂汰の私服のバリエーションの無さとダサさに軽快に笑った健斗が流行りのショップで服を見繕って、昂汰が好きな甘いものを食べて。大人と子どもの中間のようなそれが、無性に楽しく感じた。
そんな楽しみの間に、こうして無粋に不安が忍び寄ってくるのだった。どうがんばっても逃れられない。中條にも俊輝にもああ言われて吹っ切れたつもりだったけれど、やはり自分は根が暗いのだと思う。

「うーん、別になんでもない。なんか難しそうな顔してたからどうしたのかなって」
「あー……ごめん。やっぱチョコバナナよりストロベリースペシャルの方が良かったかなと」
「なにそれ、かわいいんだけど」

誤魔化すように言った言葉に健斗は目を細めて笑う。まるで慈しむように、愛しさを隠せないような顔で。向けられた柔らかいはずの感情が昂汰の心を包み込んでぎちぎちと締め上げる。

「これ食べたらどこ行こうか?」
 
それ以上その微笑を見ていられなくて、視線を逸らして問う。ちらりと盗み見た横顔はそうだなあ、と呟き考え込む素振りを見せた。あの笑みが消えたことに内心安堵して手元のクレープを齧った。
甘ったるい。健斗の笑顔みたいだ。あながち先程の嘘も嘘ではなかった。いちごの酸味があれば良かった。もそもそと口を動かす度にバナナのもったりとした触感と甘さが舌の上に広がる。

「――あれ、水原くん?」
 
鈴の音を転がすような声に、自分の名を呼ばれたわけでもないのに昂太はのっそりと首を持ち上げた。昂汰の名ではないが、健斗の名ではある。
見れば明るい茶髪の少女がこちらに向かって高いヒールを鳴らしながらやって来るところだった。小さい歩幅は彼女がこちらへ距離を詰める時間をやたら引き延ばす。健斗も立ちあがって彼女の方に近づいて行った。

「吉野さん、奇遇だね。一人?」
「ううん、和夏たちと待ち合わせ。水原君こそこういうとこ来るんだね。……その人、お友達?」
 
怪訝そうに尋ねる声にクレープの最後の一口を押し込むように口内に詰め込んで、カフェオレで流し込むと昂太は立ち上がった。勢いづきすぎて椅子を倒すところだった。はりきりすぎたしゃかりきな小学生でもあるまいし。口を開こうとした健斗も唖然としている。

「……ちょっと、用事思い出した」
 
顔も上げずに口早に一息で言うと、脇目もふらず一直線に店を出た。健斗の顔なんか見れるはずもない、あの吉野とかいう女の子の顔も。健斗が呼び止める声は遠い。

聞きたくなかった。昂汰が自分の事を何と説明するのかなんて。友人だと誤魔化されたら辛い、かと言って正直に恋人なのだと言ってしまったら。
少しずつ寛容になってきてはいるけれど世間の目は未だ同性同士の関係に冷たい。健斗は元々異性愛者なのに、そんな目で見られるかもしれないのは我慢ならなかった。何よりも胸に刺さったのは、彼女が健斗を見る目だった。
黒い縁取りのコンタクトで一回り大きくした彼女の目は、明らかに狩人のそれであった。健斗に恋い焦がれる目、隙あらば彼女の座に納まろうとする鋭い目だった。
彼女の目に自分がどんなふうに映っていたかなんて考えたくもない。人目を引く華やかな容貌の健斗の隣にいるには凡庸すぎて霞むどころの話じゃない。ヒールの高い靴でも健斗より小さな身体、流行りの服に身を包んだ華やかな少女。顔の良しあしはよく確認できなかったけれど、並べばそれなりの絵になるだろう。
 
――自分よりは、遥かに。
 
まざまざと思い知らされた。やはり健斗と自分では釣り合わない。容姿端麗で、愛嬌もあってこれからいくらだって輝かしい未来が待っているはずの健斗を、自分なんかにしばりつけておくべきではない。
自分だって化粧をして、衣装を纏えばそれなりに美しいと称賛される。けれどもそれは所詮、紛い物の美しさだし極限まで作りこんだもの。自分が元々持ち合わせている性を極限まで押し込んだ上に上書きしたテクスチャにすぎないのだと、気がついてしまった。彼女のような自然な愛らしさなんて持ち合わせていない。そんなどうしようもない事に、激しく嫉妬した。無様だし、みっともなさ過ぎていっそ笑えてきた。

足早に当て所なく進む内に視界がぐにゃりと湾曲する。なにかと思って目元に触れれば涙が滲んでいた。

馬鹿らしい。こんなの、初めから分かりきっていたはずのことなのに。一瞬の幸福に浮かれていただけだった、こんな日が来ることを願っていたのではなかったのか。覚悟していたのではなかったか。自分の甘さに頭が痛くなる。
「好き」という感情には種類がある――自分の健斗へのそれは年下の少年に対する慈しみのようだった。そんなのは嘘だ。言い訳だった。昂汰のそれはそんな優しい感情ではない。執着とか、依存とかそういう類のどろどろした感情に切り替わりそうな危うさがあった。だから二年前、この感情が醜悪さを孕む前に手放そうとした。なのに、やっぱり再び会えて嬉しかった。好きだと言われて、このまま死んでもいいと思った。
感情の向かう先は、もう二度と手放したくないと言う独占欲に瞬く間に成長した。予想した通りに。でも大人だから我慢できると思った。なのに、できなかった。当たり前のことなのに健斗には健斗の付き合いがあることが許容できなかった。女の子だったからではない、そうじゃなくても健斗が他の人間に自分を紹介する瞬間がとてつもなく怖かった。
ぼろぼろと涙を零しながら歩くいい歳の男の姿にすれ違った人々がぎょっとして道を開ける。それもまた惨めさに拍車をかけた。みっともない。
運悪く雨すら降り出した。そんな予報は無かったはずなのに。ゲリラ豪雨というやつだろうか。雨の勢いは激しい、瞬きをする間もなくすぐにびしょ濡れになってしまった。どれだけみすぼらしい姿にさせれば気が済むのか。悲しみを通り越して怒りが湧いてくる。
震える手で携帯を取り出して、慣れた番号を呼び出す。濡れた手と画面では液晶の反応が悪くて何度も舌打ちが出た。

『――おう、昂汰。久しぶりだ、』
「……俊輝さん、助けて」
 
何度もコールしない内に聞こえた懐かしくて、安心する声に昂太は絞り出すように呟いた。呻き声に近かったかもしれない。

『おい、昂汰?昂汰!どうした、なにかあったか?』
 
電話口の異様な雰囲気に、俊輝も焦ったように問いかける。ここ暫く顔を見せてもいなかったのに、こんなに優しい。瞼を閉じると冷たい雨に混じって、熱い雫が頬を伝う。

「っ、う……俊輝さん、俊輝さんっ……!」
『おい昂汰落ち着けって……今どこにいる?』
 
掠れた声で新宿駅、とだけ答える。ゆっくり新宿駅のどこか尋ねられて昂汰はぽつりと東口、とだけ答えた。

『分かった、東口だな?今から行くから待ってろ』
 
俊輝が来てくれるらしい。こんな雨なのに自分のために。そう思ったらなんだかとても安心してしまって、脚から力が抜けてずるずるとその場に座り込んでしまった。あんな大雑把な話じゃ昂汰の姿を見つけるのは困難だろうに。
同時に、健斗からも何度か着信が来ていた。当たり前だ、あんな不自然極まりないことをしたのだから。でも正直言って今は顔を見るどころか声を聞くのも心が耐えられない。思い切って電源を切ると、目を閉じて深く息を吐いた。
煙草が欲しい。とにかくこのぐしゃぐしゃな気持ちをどうにかしたい――

両のてのひらで顔を覆うとまた涙が滲み出てくる。どうして泣き止めないのだろう、情けなさが余計に拍車をかけるのに気付かないまま啜り泣きながら、雨に濡れ続けた。

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