バニートラップ・エレクトラ

浪枝彩佳

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スイーティ・グッド・ホーム

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吉野と適当に一言か二言話したような気がしたが正直何も覚えていない。とにかく、昂汰がどこに行ってしまったのかが気がかりだった。
顔は見えなかったけれど寂しい、という感情が背中からにじみ出ていた。そんな恋人の後を追わない人間がどこに居るだろうか。もしもあんな姿を見せられて、放っておける人間がいるならば自分はそいつを一発殴るだろう。
どこに向かったかは分からないが、とにかく家にいれば帰ってくるだろうとは思ったが探さずにはいられなかった。

だって、二年前別れた時も昂汰は「東京に就職決まったから、ごめん」という言葉と共にあっさりと健斗の私物だけを残して部屋を引き払ってしまったのだから。
だからちゃんと見つけて、手を掴んでいないと雑踏に紛れて消えていってしまいそうだった。そうしたら、もう二度と会えないような気がした。

やっと見つけ出した繋がりを、再び失うのが怖い。その気になれば電話番号だってメールアドレスだって、なにもかも簡単に変えられてしまう。二年前にそうしたように、昂汰がそうしてしまうかもしれないという不安がいつだってあった。

もし、昂汰がこの関係を終わらせようとするなら本気で、痕跡も残さず消えてしまう。そんなことはもう分かりきっていた。分かっているのだ、昂汰のことは。
半分くらい強引に結んだ関係に、不安が無かったわけじゃない。でも、昂汰なら許してくれると思った。二人はいつだってそうだったから。
今よりもずっと子どもだった健斗がなにかバカなことをやらかした時、いつだって昂汰はすっ飛んできてくれて健斗の代わりに頭を下げて怒られてくれた。そうして、帰ろうと手を引いてくれた。
コンビニのチキンを上手に半分に割れなくても、いいよと笑って許してくれた。その延長戦で、この関係だっていつの間にか諦めて乗ってくれると思っていたのだ。

焦りながら何度も電話をかけるも、出る気配は無い。けれどとにかく徒歩だし、そんなに遠くにいくはずはない。そうだとしたら駅の方だろうか、考えを巡らせながら歩き回っている内に、雨まで降って来て健斗は内心歯噛みした。昂汰も自分も傘なんて持っているはずがない。雨に当たって冷たい思いまでしているなんて、早く見つけてやらなければと気持ちばかり逸ってしまう。そうしている内に雨の当たらないところに小さく蹲っている昂汰の姿が遠目に見えた。

「……昂汰!」

雨の音が激しすぎて、声はいとも容易く掻き消されてしまう。それでも呼ばずにはいられなかった。あと百メートルほどの距離、この信号が変ったら走って迎えに行こう。

そう、思った矢先だった。

「――え?」

改札の方から足早に昂汰に一目散に近寄って行く人影に、脚が止まった。傘をさしかけられた瞬間、弾かれた様に顔を上げた昂汰はその男の首に縋りつく様に腕を回す。男の方も噛り付く様に抱きついてきた昂汰のあの細くて華奢な身体をしっかりと抱きとめる。
慣れているかのような一連の動作に、呆気にとられるしかなかった。あの男はだれだ、だって昂太は健斗の気持ちを受け入れると言った時たしかに言った。他の男との関係は全部切るとはっきり言ったはずなのに。
自分の恋人になると言ったはずなのに、どうしてあんな風に他の男と……
はらわたが煮えくり返るようだった。裏切られていたのか、そもそもなんであんな風に自分の元から去った。
問い質したいことはたくさんあるのに、脚は棒にでもなったかのように動かない。ふたりが改札に消えていくのを、ただ見送ることしかできなかった。

「なんで、なんで……」

俊輝のマンションに連れ込まれるなり、中條が目を丸くしてそれから慌ただしくバスルームに走るとバスタオルを手に戻ってきた。
ああ、また邪魔してしまった。罪悪感が滓のように胸の奥底に沈殿していく。やっぱり来るべきじゃなかった。俊輝と中條の円満さを見せつけられるたびに溜まって行くそれも自業自得なのに、今それを見せつけられるのは毒にしかならない。
乱暴な手つきで、それでいて優しく頭から水分を拭き取られる。虚ろな目でされるがままになっている昂汰を覗き込んだ中條の瞳にばつが悪くなって目を逸らした。

「昂汰?どうした、今にも世界なんてぶち壊してやるみたいな顔しとるけど」
「……別にいつもこんな顔です」
「いやいや、ふだんはもうちょっとぼけーっとした顔してるって」
 
剣呑な雰囲気を纏ってみても中條は意に介した風もなく絡んでくる。中條の強い所であり、昂汰の苦手なところだ。照りつける太陽に似ている、全てを暴き立てる光だ。自分の醜い所を白日の下に晒す、そんな。
ふと玄関に備え付けの全身鏡を見れば、ぐしゃぐしゃに撫で乱された髪の毛のせいで洗われた犬のようだった。なんてみすぼらしいんだろう。

「俊輝が血相変えて飛び出してったから何かと思った。まあ、昂汰だと思ったけど」
「おいお前らいつまでそんなところでじゃれてんだよ、昂汰中に入れてやれって」
 
俊輝の呆れたような声すら無視して、中條は昂汰の髪を拭きつづける。よし、という一言にようやく終わった。と思った瞬間強い力で抱きしめられる。

「……中條さん……?」
「なにがあったか知らんけど、そんな顔されたらみんなこうしたくなっちゃうって」
 
胡乱な目をする昂汰の頭を一つ撫でると中條はその手を引いて部屋の中へと導いた。既にソファに座っている俊輝と中條を交互に見遣って、身体もまだ濡れていることだしと床に座ろうとした昂汰を二人が無理やりソファに引きずり込む。

「えっ、ちょっと濡れますって」
「いいの」
「いいんだよ」
 
二人に同時に言われて怯む。為されるがままに腰を下ろしたのは二人の間。もはや熟年夫婦といっても過言ではないようなふたりの間に挟まれて昂汰は居心地悪く視線をさまよわせる。いくら昂汰が骨と皮ばかりの体だったとしても、中條が細身だったとしても成人男性三人が並んで座るのは狭苦しい。なんなんだろう、この微妙な位置。針山の台座にでもされた気分だ。

「あの、」
「とりあえず何があったか説明しなさい」
「はい……」
 
やはり床に座らせてほしいと申し出る前に中條に遮られて昂汰はすごすごと引き下がった。威圧感はないが、有無を言わせない声音だった。
肩をすぼめて小さくなりながら、途中何度か言葉に詰まりながら話した。健斗の気持ちを受け入れてみようと思ってこの二か月過ごしたこと。自分からはどうしても好きだと言えなかったこと。今日、同級生の女の子と話しているのを見たらどうしようもなく苦しくなって逃げ出したこと。
言葉に、口にしてみると心の中がすっきりと整理されていく。すると自分がどうしようもなく卑怯で、不誠実な人間のような気がする。実際そうなのだけれど。矮小すぎる人間性に頭を抱えたくなる。

「バカじゃん」
「バカかお前」
 
話し終えるといたたまれない気持ちからいつの間にかソファの上で膝を抱えていた。そして同時に飛んできた容赦のない二人の言葉にさらに小さく身を屈める。こんなときに無駄に息の合ったところを見せられても困る。バカの二重奏に委縮するばかりだ。突き刺さる言葉が痛すぎて剣山の下のクッションの気持ちが今なら分かる気がする。

「だからお前は勝手に一人で考え込むなっていつも言ってるだろ」
 
次いで落とされた俊輝の諭すような声に、膝の上からそうっと頭を持ち上げる。見下ろす視線は呆れ返っているのに突き放すようなものではない。いつもそうだ。面倒なやつだと口にはしても決して見放そうとはしない俊輝の甘さ。ぬるい水に揺蕩っているような感覚。

「恋愛ってさ、恋も愛も相手がいるから生まれるものでしょ。なのに勝手に一人で結論づけるのはよくない。相手のこと、ちゃんと一人の人間として認めてないようなもんじゃん」
「返す言葉もございません……」
 
ジェットコースター並に上げられては下げられる。二人がそれぞれ述べているのは純然たる事実だ。昂汰は一人で抱え込んで考え込んで、抱えきれなくなっては爆発して取り返しがつかないことになる。
健斗に対しての態度も中條に言われたとおりだ。まだ学生だから、というのを理由に一端の大人扱いをしなかった。いつまでも自分が庇護しなければならない子どもだと勝手に結論づけていた。体はゆるしても心をゆるさなかった残酷さを自覚する。

昂汰にとっては恋も愛も、一方通行のものでしかなかった。自分が好きなだけだから、自分が大切にしたいだけだから。今までずっとそれでいいと思ってきた。自分の抱く感情は報われないものだと思い込んで、決めつけて。相手からも好意を向けられることが初めてでどうしたらいいのか分からなかった。
だから理由をつけて、言い訳をして正面から健斗の気持ちを受け止めようとはしなかった。あの小さな部屋から抜け出せないのは昂汰だけだったのだ。
項垂れる昂汰の両脇からそれぞれ手が伸びてきて、ぐしゃぐしゃと撫でまわされた。どちらの手からも指先に染みついた煙草のにおいがしてなんだかほっとしてしまう。これも二人なりに昂汰を慮ってのことだ。こうされていると、守られているようだった。初めて会った時から俊輝も、中條も昂汰に厳しいことも言うけれど根底には甘やかそうとする気持ちというか、厚意がだだ漏れだった。片方が厳しいことを言えば、もう片方が優しい言葉をかける。飴と鞭が交互に入れ替わって混乱させられることもよくあったけれど、それがこのふたりの「らしさ」なのだと思う。お互いがお互いをうまく補い合っている、理想の関係。

「……俊輝さんと中條さん、俺の親みたい」
 
ぽろりとこぼれた言葉に二人が目を丸くして昂太はあ、失敗した。と思った。この人たちの前だとつい言葉の注ぎ口が大きくなってしまう。けれどすぐに破顔した中條に怯えはするすると氷解していった。

「お、いいね。昂汰、うちの子になる?」
「こんなでけえ子どもいるかよ……せめて弟だろ」
 
さっきまであんなに息の合ったところを見せつけてきたのに、今度は全く正反対の反応を見せるふたりに昂汰は軽やかな笑い声を漏らした。そう、これが俊輝と中條と一緒にいる時に感じる安心感だ。今までけっこうただれた関係だったけれど、これからは少しはまともな、良い関係に変わって行ければいいと思う。

はあ、と息を吐いて昂太は立ち上がった。まだ人を挟んで顔を突き合わせてやいのやいの言っていた二人が虚を突かれたように昂汰を見上げる。そのタイミングの息の合いっぷりといったら、シンクロナイズドスイミングも斯くや、といったところか。

「じゃあ、帰ります。健斗とちゃんと話しに」
「おう、帰れ帰れ。そして二度と来るな」
「またまたそんなこと言っちゃってー、来なくなったら寂しい癖に。お・と・う・さ・ん?」
「だまらっしゃい!」
「ってー!ひどい、ひどい俊輝ってばねえちょっと昂汰助けて、笑うなんてさいってーだぞお前!」
 
おどける中條の脳天に俊輝の張り手が炸裂する様に笑い転げる。このふたりみたいに恋とか愛に、信頼が加わった関係になれるだろうか。なれたらいい。共に過ごす時間が長ければ、自ずとこうなっていくのだろうか。分からないことだらけだけれど、まずはこの気持ちとちゃんと向き合うところから始めよう。話はまずそれからだ。

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