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第二章 春休み(夢子の場合)

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 私が彼をお兄ちゃんと呼ぶのは、私にとっての処世術だった。



 誰か一人、信じてもいい男の人が欲しかった。これからお父さんになる洋祐さんもいたが、あの人はお母さんの物だ。ならば私は、他に人を探さなければならない。



 別に誰でもよかったわけじゃない。同じ年の男の子はみんな子供に見えたし、なによりお母さんを捨てたあいつがお母さんよりも年下だったから、その選択肢だけはあり得なかった。



 年上で、優しくて、もし私が襲われたとき守ってくれるような、そんな人が良かったのに。まさか思い描いていた理想の男の人が義兄になるとは思ってもみなかった。……年上なのは、当たり前か。



 同じ屋根の下で暮らしているうちに分かった。きっと、私はこの人を好きになってしまう、と。



 だからこそ、私が彼を名前で呼ぶわけにはいかなかった。



 ただ他の人よりも関わる時間が長くて、それでいて優しかったから。甘え方が分からずに大人ぶった私の態度を知ってか知らずか、お兄ちゃんは全て肯定してくれたから。中学生二年生が恋に落ちる理由なんて、それで十分すぎるだろう。



 兄でいようとする彼の行動を、私は特別なものだと思い込んでいた。もっと言えば、兄は私を女として好きなのだと勝手に脳内変換して、時々従わせるような言い方をしたこともあった。



 ……妹というポジションは、どうしてこうも居心地がよく、そして残酷なのだろう。



 私は、お兄ちゃんと呼ぶことで自分の心を殺していたのだ。義兄に恋をしてしまうことが異常だという事は理解していたし、それ以前にお兄ちゃんが私を女として見ていない事も理解していた。(異性扱いしていたら、きっと恋に落ちてなんていなかっただろうけど)



 何とか誤魔化して、誤魔化して、誤魔化し続けた日常の中、一つの事件が起こった。



 お兄ちゃんに、恋人が出来たのだ。



 相手は同じ学校の、年下の子だったらしい。二人が歩いているときたまたまお母さんが出くわしたようで、その日の夜ごはんの時、興味津々にお母さんがお兄ちゃんに訊いていたのを、今でも覚えてる。



 信じられなかったし、信じたくなかった。



 よりによって年下。見た目も若干私と似てたみたいだし。そんなのってあり得ない。だって私の方がずっとお兄ちゃんと一緒にいたのに。



 その時だ。私が決定的に、お兄ちゃんを好きなのだと気が付いたのは。



 それからしばらくして、私は中学を、お兄ちゃんは高校を卒業することになった。



 卒業式の日、私は四人の男の子から校舎の裏に呼び出された。みんな、私のことが好きだったらしい。(もちろん、一人ずつだった)



 私が優しいから好きなのだと、全員が言っていた。私はそれを言われるたびに、優しいから好きになる事はおかしくないのだと、むしろ優しくすることで好きにさせた方が悪いのだと開き直った。つまり、ここで悪いのは私だ。



 だから、私は彼らを虜にしてしまった責任として、彼らの告白を断った。食い下がってくる子は、一人もいなかった。



 そう、優しくしてしまった方が悪い。だから私がお兄ちゃんを好きなのは、何も変な事じゃない。



 ……荒唐無稽にも程がある。論点がズレてしまっている。お兄ちゃんが私に優しいのは私が妹だからであって、私が心を殺していたのは妹だからなのに。



 ともあれ、自分の気持ちに嘘が付けなくなってしまった私だったが、そんな時に洋祐さんとお母さんが新婚旅行に出かけて行ってしまった。

 出かける前のお母さんのはしゃぎっぷりと言えば、まるで初めて人を好きになったかのようなものだった。あんなお母さんだから、私の性格は大人ぶったものになってしまったのかもしれない。



 そして今日、私たちは夕飯の買い物に、二人で家の近くにあるスーパーへ来ていた。



 「お兄ちゃん、夕飯はなにがいい?」



 私が訊く。



 「マグロ」



 また作り甲斐の無いような事を言う。



 お兄ちゃんの食欲とその味覚は、はっきり言って異常だ。きっと正常な感覚はどこかへ置いてきてしまったのだろう。一度だけ、お兄ちゃんが作った鉄火丼の味を試したことがある。あれはもはや、ワサビと醤油の味しかわからない別の何かだ。ごはんからは醤油が滴って、緑色がかかっていない箇所のない赤身は、むせ返るほど鮮烈な辛味で支配されていた。思い出すだけで辛くなってきた。



 他にないのかと訊くと、焼きそばというリクエストが帰ってきた。相変わらず手間のかからない料理ばかり言う。きっとお兄ちゃんの事だから手抜きをできるよう気を使っているのだろう。

 余計な心配だったが、食べたいものを聞いたのは私だ。従うことにしよう。



 お兄ちゃんが押すカートに食材を入れて歩く。途中、お兄ちゃんがこっそりオールレーズンを入れたのが見えたが、私は少しつぶやいただけでそれを承諾した。なぜかと言えば、私はこのお菓子が大好きだからだ。パンなのかビスケットなのかよくわからない食べ応えがたまらない。



 買い物を終えて、帰り道を往く。夕日に照らされて、背の高い影が私たちの足元に伸びていた。



 手を伸ばすと、影が手を繋いでいるように見えて、私はそれがうれしかった。お兄ちゃんは下を向いて歩いている。きっと気が付いているのだろう。



 「考え事?」



 ふいにお兄ちゃんが訊く。夢中になっていたせいで、お兄ちゃんが隣にいることに気が付かなかった。



 「違うよ、何でもない」



 追い越して、そしてふと思った。胸中を明かすチャンスなんじゃないかと。



 決意を固めるのに、さほど時間はかからなかった。私はとっくに開き直っている。だから。



 「お兄ちゃん。やっぱりなんでもある。少し話があるの」
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