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返して
しおりを挟むうちのチワワ、「ミルク」は、すごく賢くて、甘えんぼで、わたしにべったりだ。白くてふわふわな毛に、茶色い右耳と、しっぽの付け根が特徴。寝るときも一緒、トイレ行くときもついてきちゃうくらい。だけど――あの夜を境に、ミルクは変わってしまった。
その日、部活の帰りが遅くなって、夜の9時を過ぎていた。秋の風が冷たくて、どこかざわざわする夜だった。家に着いて玄関を開けると、いつもなら真っ先に駆け寄ってくるミルクの姿が見えなかった。
「ミルク?おーい、帰ったよ?」
静かだった。
でも、リビングの奥の方で、カシャッ…カシャッ…と小さな爪の音がした。
わたしがリビングのドアを開けると、そこにミルクがいた。でも、妙だった。
ミルクはじっと、壁の一点を見つめて動かない。呼んでも振り向かない。まるで、そこに“誰か”がいるかのように、低く唸っていた。
「なにしてるの?…誰もいないよ?」
わたしが近づくと、ミルクはビクリと震えて、すごい勢いでわたしの足元に飛びついてきた。しっぽを丸め、ずっとブルブル震えてる。こんなミルク、初めてだった。
その夜、ミルクはわたしのベッドに潜り込んできて、朝まで離れなかった。
けど――夜中の2時すぎだった。わたしがふと目を覚ますと、ミルクがまたあの様子で、じっと壁を見つめていた。
今度はベッドの足元の方、押し入れの横の壁。
暗闇の中で、ミルクの目がわずかに光り、その視線の先に、“何か”がいるような気がして、背筋がゾッとした。
わたしはスマホを取り出してライトをつけた。でも、そこには、ただの壁しかなかった。
翌朝、ママが言った。
「昨日の夜、誰か階段を上がる音がしたのよ。パパもいないのに。…あなたじゃないの?」
「え?わたし、ずっと部屋にいたよ…」
ミルクはその話を聞いてるかのように、わたしの腕にしがみついて、また小さく震えた。
次の日からだった。家の中におかしなことが起こりはじめたのは。
誰もいないはずの部屋から聞こえる物音。閉めたはずのドアが開いている。ミルクが何もない天井を見て吠える。そして――
鏡の中に、わたしじゃない「わたし」が映った。
ほんの一瞬。けど、間違いなかった。
ミルクはその鏡を見た瞬間、狂ったように吠えだした。そして、わたしの手を軽く噛んで、逃げるように廊下を走っていった。
まるで「見るな」って言ってるみたいに。
その夜、夢を見た。
夢の中で、わたしは見知らぬ廃屋にいた。腐った壁、埃だらけの床、割れた鏡。その鏡の前に、白い服を着た少女が立っていた。うつむいていて顔は見えない。
少女の横には、わたしのミルクにそっくりなチワワがいた。でも、よく見ると――目が真っ黒だった。
「かえして…」
少女がそうつぶやいたとき、鏡の中から手が伸びてきた。
目を覚ますと、わたしは床に倒れていた。部屋はぐちゃぐちゃで、窓も開いていた。ミルクは…いなかった。
家中を探しても、ミルクはいない。
まさか、あの夢が――現実とつながってる…?
不安でいっぱいになったとき、部屋の隅から小さな足音が聞こえた。
「ミルク!?」
でも、現れたのは――全身が真っ黒な、ミルクによく似た犬だった。
その犬はにやりと笑った(ように見えた)。
その日から、わたしの世界は少しずつ狂っていった。
誰も、ミルクのことを覚えていない。
家族も、友達も。「犬なんて飼ってなかったでしょ?」って、言うの。
でも、わたしのスマホには、ミルクとの写真が残ってる。部屋にも、ミルクの毛が落ちてる。首輪もある。
「ミルクは…たしかに、ここにいたのに…」
わたしは今日も、鏡に話しかける。
「ねぇ、返してよ。ミルクを…」
鏡の向こうで、白い服の少女が、うっすら笑った気がした。
わたしの後ろでは、黒いチワワが、また壁の一点をじっと見ている。
その視線の先には、きっと――まだ“あの子”がいるのだろう。
そして、囁くような声が聞こえた。
「次は、あなたの番だよ…」
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