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第一章 天界の花は地上の男と出逢った

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「……はぁ」
 ぷかぷかと湖に浮かびながら、何度目か分からない溜息をついた。近くの木に掛けてある天の衣は風を孕んで、ひらひらと揺れている。目の前に広がる空は、憎らしい程に真っ青だ。
『それじゃあね、桐鈴。何かあったら直ぐに連絡するのよ』
 何度も何度も振り返りながら念を押して、姉さまは帰っていった。また一人になってしまったという寂しさ半分、漸く義兄さまの監視から逃れられる安堵半分……という何とも複雑な気持ちのまま数日が過ぎてしまったので、気晴らしをしようと思って再び地上にやってきたのだ。
「一体あの束縛心はどこから来るのかしら。実家に帰った自分の妻に発信具と盗聴具をつけてるだけでも信じられないのに、その上で毎朝毎晩電話してくるなんて。そんなに電話してくるなら盗聴具いらないじゃないのよ」
 初日はそんな仙具を付けてるなんて知らなかったから、そんなに過保護だなんて義兄さまは姉さまを子供扱いしてるとか許せない等と言ってしまって大層面倒な事態になってしまった。記憶の片鱗が脳裏を掠めただけで気分がどんよりとしてきたので、ざぶんと水の中に潜って底の方へと泳いでいく。
(……水の中は綺麗ね)
 昔から、嫌な事があった時はこうやって湖に潜っていた。仙術を使えば水の中でも呼吸出来るし、体がふわふわと浮いている感覚が心地よくて安心出来たのだ。
 地上は夏だからと思って少し長めに潜っていたが、それでもやはり体が冷えてきた。もうそろそろ上がって帰った方が良いだろう。
「帰ったら洗濯物取り込んで薬草園の水遣りしてから、筆記の方の……え?」
 湖から上がり、木の枝にかけていた天の衣を取ろうとして愕然とした。潜る前までは風に乗って揺れていた天の衣が、影も形も無くなっていたのだ。
「嘘でしょ、そんな!?」
 天の衣には、天界の入口への転移術と通行証となる仙術、そして目的地や自宅への転移術が重ねて掛けられている。だから、それを使うだけで地上の山頂の湖に行く事も、天界の自宅に帰る事も、瞬きの間に行う事が可能なのだ。
「どうしよう……自力で入口に行くって言ったって、どのくらいかかるのか……」
 地上から天の衣を使わずに天界へと帰るには、限られた山の頂にしかない天界への入口を探して、そこの門番に通行許可を得る必要がある。生まれた時から天界で暮らしている仙人や仙女なら許可は簡単に降りるので入口を通る事自体は何ら問題ないが、そもそもその入り口がある山……一定の高さがある山は、この辺りにはなかった筈だ。
 しかも、山の名前や基準となる高さの数値は公表されていないのだ。確か……情報が漏れて地上に広まり、人間が大量に押し寄せてくるのを避けるのが理由だと聞いた事がある。だから、天界から地上に遊びにいく際は、天の衣を使うのが主流なのである。
 予想だにしていなかった事態に直面して、視界がじわりと滲んできた。目尻から涙が溢れそうになるけれど、両手で頬を張って気合いを入れる。
 だって、泣いている場合ではない。私が帰らなければ、父さまの薬草園や自宅が荒れ放題になってしまうし、大事な試験が一か月半後に迫っている。
「天の衣は薄くて軽い生地で作られているから、風で飛ばされてしまったのかもしれないわ。周辺を探してみたら、あるかも」
 先程まで風が吹いていたから、十分考えられる可能性だろう。仙術で服を乾かした後で、湖から見えていた衣のなびき方で風向を割り出し、風下の方へと歩を進めた。
「……ん?」
 歩き始めてしばらく経った頃、進行方向からがさがさという物音が聞こえてきた。もしかして、木か草かに絡まった天の衣が立てている音だろうか。逸る気持ちを抑えながら音がした方へ走っていくと、そこにいたのは一匹の茶色い犬だった。
 その犬はこちらにお尻を向けた状態で、一生懸命穴を掘っている。その際に、耳や尻尾が周りの草に当たって音を立てていたようだ。
「何だ……それじゃ、他の場所をまた探さないと」
 早とちりを恥ずかしく思いながら、くるりと後ろを振り返った瞬間、地面に沿って生えていた木の根に足を取られて派手に転んでしまった。咄嗟に掴んでしまった枝がばきばきと音を立てて折れてしまい、申し訳ない気持ちになる。仙術で治しておこうと思って枝の方を向いた瞬間、殺気を感じて思わず身震いした。
「ぐるるるるるるる……」
 恐る恐る振り返った先にいたのは、先ほど一心不乱に穴を掘っていた犬だった。牙をむき出しにして唸りながら、じりじりと近づいてくる。
「や、やだ……来ないで……」
 鋭い牙が、低い唸り声が、とてもとても恐ろしくて。手に持っていた枝を投げつけ、立ち上がって駈け出した。しかし、慣れない地面に足を取られてうまく走れない。こっちがもたもたしているうちに距離を詰められ、牙を剥き出しにしながら飛びかかってきた。
「きゃああああああああ!!」
 反射的に目を閉じて、腕を顔の前に出し頭を守れるような姿勢をとった。しかし、その後に来るはずの、噛まれた痛みが一向に襲ってこない。
 どういう事かと思ってそっと目を開けると、目の前に現れたのは犬ではなくて一人の男性の背中だった。
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