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一話
しおりを挟む人生とは得てしてままならない物である、そう気付いた時には既に二十三年の時間が過ぎていた。
「ッ―――」
窓から見えるこの街の風景を視界いっぱいに捉えて鉛筆を握る、見えている景色と描いている絵はいつも思い通りにならない、けどそこがまた面白くてスケッチブックを取り出してしまう。
「おーい、上に気を付けろ!!」
黙々と鉛筆を書き進めていると隣の部屋から声が聞こえてくる、どうやら引っ越し業者の掛け声らしく、今まで無人であった部屋に住居人ができるらしい。
少しだけ居心地の悪い気がしてがっかりするが、諦める様にスケッチブックを閉じて布団に潜る。
隣が騒がしかろうが寝れてしまうのが私の特技だ。
――目を閉じ、意識は闇にまどろむ。
高校を卒業して就職、二年ほど事務職をしていたがやんごとなき事情で退職、そしてキャバ嬢としてこれまた二年働き円満退社、そして――。
「………、バイトぉ、行くかぁ…」
――コンビニで夜勤をしているフリーターである、決して嫌なわけではないが遅い時間に起きる事だけがたまにキズ、それ以外はまぁ満足して勤めている。
準備をして身なりを整えて部屋を出る、どうやら隣の引っ越し作業は既に終わっているらしい、昨日までと変わりない雰囲気であった。
通り慣れた道を五分もないぐらい歩く、すると職場であるコンビニの明かりが歓迎するように私を照らし出す、やめてくれ、私は出来れば働きたくないのだよ。
「ちぃーす、おはようございます」
「姉御おざーす、今日まじだりーっす…」
出勤早々にやる気ない宣言をしたコイツは大学生の田中、よく徹夜で出勤するのでこのようなやり取りは日常茶飯事である、ちなみに彼女持ちである。
「うげ…今日販促物だらけじゃん、田中任せたわ」
「姉御それはひでぇっすよ…、俺は今日飲料系の在庫整理オーナーに頼まれてんすわ」
面倒な仕事を押し付けようとしたが更に面倒な仕事を請け負っていたので許してやろう、気合を入れてロッカーから制服を取り出して、後ろ髪を束ねる。
夕勤の引継ぎを受け、戦場となるカウンターに出ると気持ちが切り替わる、前職ですっかり板についた仮初の笑顔で接客対応をこなす。
「いらっしゃいませ~」
気が遠くなるほど発した言葉を繰り返す、出入り口の機械音が鳴るたびに呪いめいて染み付いた言葉、もはや勝手に喋るレベルである。
「ありがとうございました~」
気が遠くなるほど発した言葉を繰り返す、微塵も思っていないのに感謝をするのは呪いめいた癖である、もはや勝手に喋るレベルである。
――あれ?この職場呪われてね?
なんて繰り返される作業と感情の起伏を繰り返して今日の仕事を過ごしていく。
季節にもよるが段々と外の光と変わりゆく景色が、時間を急かす様な、帰りの時間を歓迎するような、そんな意味のない思考を巡らせる。
「お疲れー、夜勤組の諸君~」
緩い気さくな声で私たちに声を掛けたのはオーナーその人である、相変わらずの綺麗な顔立ちで疲れを見せない美人である。
「お疲れ様ですオーナー、今日は早いですね」
「おつっすオーナー、在庫整理やっときましたよー、まじ疲れました」
田中よ、少しは口の利き方を改善するように前に言っただろ、いつか社会で痛い目をみるぞ。
「田中君ありがとねー、あとでコーヒーでも奢ろう、助かったよ」
「うぃっすー、あざっす!」
田中よ、そんな事で喜んでいるから無駄に重い飲料の在庫整理を頼まれるのだ、いつか社会で良い様に使われるぞ。
「あぁ、楓くん、仕事終わりに少し時間いいかな?」
「私ですか?大丈夫ですけど…」
楓なんて名前で呼ぶのはオーナーしかいないので、今でも呼ばれるたびに拍子抜けしてしまう。
朝勤の主婦の方々に引き継いで事務所に戻る、制服を着たままパソコンと向き合っているオーナーに声を掛けると、少し微笑んで話題を切り出された。
「早速なんだけどね、来週から夜勤で新しい人が入るのよ」
「新人…ですか、珍しいですね、人員が足りている中で人を採用するのは」
そうである、大手商社の人事部で働いていたオーナーは、人材を見抜く才能がある。
それを実感したのは夜勤に勤めて半年、朝、昼、夜の人たちの人柄や仕事の精度が非常に良かった事である、学生時代にもコンビニで働いていた身としては良質な職場環境と言わざるを得ない。
「でね、採用するにあたってその教育係を楓君にお願いしたいのよ」
「……私にですか?オーナー自ら仕事を教えるのがこのお店のルールじゃないですか?」
「それは余裕のある時だけだよ、楓君の知らないとこで今みたいにお願いしているのさ」
そうなのか、てっきりこだわりだと思っていた。
「それに、誰にでもお願いしている訳ではないよ、楓君は人柄も良いし、仕事も人一倍やってくれる」
「あ、ありがとうございます…」
素直に褒められると嬉しさよりも動揺が先に来てしまう、褒められ慣れてないのである。
「まぁ、出来ない事ではないと思うし、これを機に時給も上げようと思う、お願い出来るかな?」
「そんな…、身に余る光栄…、ごにょごにょ…」
あ、しまった、意味わからん日本語を使ってしまったし、最後自分でも何言っているのかまったくわからん。
「……とりあえず、お願いは引き受けます、頑張ってみます」
「ありがとう、楓君が働いてくれて本当に助かっている、これからもよろしく頼む」
改めてお礼を言われて畏まってしまう、自分より目上の人や年上の人が良くしてくれると困惑する、この気持ちが分かる人も多いはず…、多分。
「それでね、夜勤に入る人なんだけどね、君より三つ年上の男性で、とても冷静で良い人だよ」
「年上の男性…ですか」
「うん、なんだっけ…、確か有名な家電メーカーの営業に勤めていてその合間に働きたいんだって」
何故そんな職に勤めていてコンビニの夜勤なんてやるのだろう、率直な感想が先にでた。
「最近転勤でこの辺りに引っ越してきたから、以前までしていた副業を続けたくてここを選んだって、真面目な人だよね」
「な、なるほど…」
きちんと働いていてかつ副業をしているとなると、余程お金に困っているとみた。
「じゃ、来週の週末から彼、黒井君が入るからよろしくね」
「わかりました…、頑張ります」
新しい仕事を頼まれて朝陽が昇る家路につく、不安は無かったが面倒ではあった、仕事内容そのものではなく教える相手が男性という点が面倒だった。
――正直正直言おう、私はモテる、これはもはや謙遜しきれない程に。
確かにそれによって自惚れた時期もあったし、美味しい事もあった、前職ではそれが顕著であった、しかしそれによって嫌な事も多かったのも事実である。
故に面倒、好きだ、嫌いだ、愛だ、恋だとなったらもう面倒、自意識過剰だとも思うし、どれだけ自分に自信があるのだとも思う、だが実際に経験してきたのだからそう考えてしまう。
「来週か…、嫌だなぁ…」
黒井さんなる謎の男性を憂い、部屋に着くなりスケッチブックを取り出す。
「嫌だな…、嫌だなぁ…」
夜勤の皆は奇跡的に穏やかだ、田中はバカで彼女がいるから人間関係が成り立つし、他の面子は女の子が多く、人格が出来ている人ばかり、だが年上の男性はいない。
書き進めている絵が、止まった思考とは真逆に良く進む、考えたくない事があるときはこれに限る。
「ごみ…出しに行かなきゃ…」
夜勤帰りとはいえまだ早朝、帰って早々に絵を描いてしまったが日課のゴミ出しを忘れていた、いそいそとゴミをまとめて部屋を出る。
「―――ぁ…」
同じタイミング、と言っていいだろう、引っ越してきた右隣の住人も一緒に出てきた。
思わず目を伏せ前髪を整えてしまう、なんかよくわからんが緊張してしまったのだ。
「………」
黙ってゴミ出しに行く、挨拶は要らんだろう、今どきのお隣さんなんてこのような関係である。
…しかし一瞬であるが緊張したのには理由がある、くたびれたスーツ姿、寝不足で威嚇するような鋭い目つき、スラっとした体格で上から見下される様な背丈、事務職にいた時に見た偉い人みたいだった。
「よっと…」
重い蓋を開け、ごみを下ろす、と同時に横目でお隣さんを見る。
手帳を広げ歩いているお隣さんが手帳を閉じて懐にしまい、前を向いた瞬間の視線と被ってしまった。
「おはようございます」
「――っぉ、ぉはよう、ごじゃいます…」
――死にたい、噛んだし、声小さいし、挨拶要らないとか思ったけど、お隣さんは自然に当り前のように挨拶したし、人間性の違いを見せられたようだった。
少しだけ固まってその場を去り、部屋に戻ると布団に倒れ、足をばたつかせた。
「―――子供か、私は」
久しぶりに感じた羞恥心に耐えられなくなり、顔を枕に埋めてクールダウン、しばらくうずくまった後、シャワーを浴びて冷静になって一日を終えた。
それからは週末を考える度に胃が痛くなる日々が過ぎた、記憶が曖昧になる錯覚を覚えながら仕事をしていると、時間はあっという間だった。
そして、気付いたら週末だった、早くない?
「おはようございまーす」
店内に入り、カウンターの夕勤に向かって挨拶をする。
いつも通りに高過ぎず低すぎないテンションで事務所の扉を開けると、見慣れたオーナーがにっこり笑いながらデスクに座っていた。
しかし、その対面には見知らぬはずである後ろ姿がある、恐らく黒井さんなる人物であろう。
「ああ、おはよう楓君、今日から話していた黒井君が出勤する、色々教えてあげてくれ」
「ぁ、はい、頑張ります」
間の抜けた返事をして姿勢を正す、それもそのはず、見知らぬはずだった後ろ姿は、振り向いた時には見知った人の顔だったのだから。
「初めまして、これからお世話になる黒井と申します、至らない点が多いと思いますがよろしくお願い致します」
鋭い目つき、スラっとした体格、見下されるぐらいの身長、思い当たる姿どころかそれは見たことのある姿、お隣さんだった。
「は、……はじめまして…、夜勤で黒井さんにお仕事を教える宮原楓です、よろしくお願い致します」
反射的に嘘をつく、知っているのにその場の雰囲気に合わせてしまった。
「ん?君たちお隣さんなのに顔見知りじゃないの?」
「「え?」」
声が重なる、私の声色は動揺、黒井さんは驚き、異なる意味合いが発せられた時、その答えはあっさりとオーナーから告げられた。
「何を驚いている、私は雇用主だぞ?住所ぐらい確認しているさ」
そりゃそうだ、知っているはずだ、至極当り前の事だった。
「黒井君を雇った理由は確かにその人格と能力が大きいが、楓君のお隣さんと言うこともある」
「何か関係あるのですか?」
理由を訊いたのは黒井さん、確かに気になる事ではある。
「簡単な事さ、楓君が帰宅する際のボディーガードをして欲しいのさ、帰る場所が同じだしね」
「私の…ですか?」
思いがけない理由で動揺する、それを見透かされたようにオーナーが説明を続ける。
「実はね黒井くん、楓くんは過去にストーカーまがいの被害に遭っていて、結果として問題は解決したが、雇用主としては今後も心配でね、せめて黒井君が出勤する日ぐらいは安全に帰宅させたいのさ」
また懐かしい話を引っ張り出す、働きだしてすぐの事、確かに帰宅途中にコンビニ利用者に後を付けられた事がある、気味が悪かったので問い詰めてやめるように話したら怯んで逃げ帰ったが。
その話を面白話と思い語ったら、田中や夜勤組には姉御と呼ばれ、オーナーには本気で心配され諭された。
「――なるほど、確かに帰りの道が同じであれば自然と一人にはなりませんね、宮原さんさえよければできる限り見張りましょう」
「とのことだが…、構わないかな?楓君?」
断る理由は無かった、確かに後を付けられた時は怖かったし、腹が立った、故に二つ返事ではいと答えるべきなのだが、感情が上手く整理出来なかった。
「えと…、帰宅する際の件はこちらからもお願いします、迷惑をかけるかもですがお願いします」
「こちらこそ力不足ですが精一杯務めさせて頂きます」
あぁ…、何故うまく感情が整わないのか理由が分かった、年上で、目上で、社会的地位や人としての出来が絶対的に黒井さんの方が上なのに、その人に敬語を使われ、敬われられ、あまつさえ仕事を教えようとしているのだ、複雑な気持ちにもなる。
「ちぃっすー、よろしくしやぁーす」
馬鹿みたいな、というか馬鹿な声と共に扉を開けて入ってきた田中を見て、人間の差とは残酷だと思い田中と黒井さんを見比べる、それはとても埋まらない差であった。
田中と黒井さんが挨拶をしているのを横目に、意識はぐるぐると宙に浮く、これからの事、仕事の事、お隣どうしであること。
交錯する思考の中で、今日の仕事は忙しくなると気合を入れて、いつものように髪を後ろに束ねるのであった――。
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