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十話
しおりを挟む「――好きです」
響く言葉、それは音の大きさではなく、心に響く声。
「―――っ」
黒井さんは静かに動揺し、口を閉ざす。
その仕草を楓は否定的にも、肯定的にも捉えてしまい落ち着かない。
そんな、時が止まるような静寂を打ち破り、黒井は答える。
「私は―――」
動揺から困惑、そして苦悩の末絞り出す言葉は、酷く、重苦しい。
「私には、誰かと一緒になる資格がありません、恋人なんてもっての他であり、宮原さんにはご迷惑をお掛けしてしまいます…」
「それ、は――」
「貴方のお気持ちはとても嬉しく、私自身も宮原さんには好意的であるのも事実です、しかし、その好意を受け取る事は出来ません…」
よく喋る、こんなに饒舌な黒井さんは初めて見た。
何かを誤魔化す様な、偽るような、そんな意図が見て取れる。
「黒井さん、嘘、ついてない?」
「……何を、いきなり…」
「あたしの答えはこの際どうでもいい、けど、あたしは黒井さんの気持ちが知りたい、何故ダメなのかじゃなくて、どうしたいのか、どう生きたいのか訊きたいよ…」
逃げない、宮原楓は自分の想いに、そして彼の抱える闇から。
彼の拳が強く握られる、怒っているのかもしれない、けれど怯まない。
「黒井さんは…、ずっと逃げているんだよ、自分の気持ちと、他人の気持ちから、だからそんなに傷付いても平気でいられるし、誰かのためにしか生きられない」
「違い、…ます」
「ううん、あたしもそうだったから分かる、何も考えず、ただ生きていれば楽だもん、だからあたしは黒井さんが気になったし、好きになった」
「違うっ」
「人を好きになる気持ちも、信じる気持ちも、黒井さんにはあるはずだよ…だから、逃げないで欲しい…」
「―――違うッ!」
なんて、生意気なのだろう。
こんな年下で、人生の何も分からない小娘が、自分よりも年上の大人に説教し、あまつさえ告白している。
感情をあらわにした黒井は、声を荒げて言葉を遮る。
その顔は今にも泣きそうで、ただ、子供の様な必死さ。
「……ごめんなさい、言い過ぎました…、今日はもう休んでください」
楓は振り返り自室に戻ろうとドアを開け、玄関に入ろうとする。
「俺はッ!!」
瞬間、似合わない口調で黒井は駆け寄り――
――宮原楓を、後ろから抱き締めた。
心臓の鼓動が、聴こえる。
彼は生きている、ちゃんと生きて、人として生きている。
「―――く、くろい…さん?」
暖かな日の光が、徐々に閉まりゆくドアに遮られ、暗く静まる。
そして、音の無くなった二人だけの場所で、黒井は淡々と答える。
「俺は…、確かに逃げていたかもしれません、自分の気持ちと、宮原さんの気持ちに」
「うん…」
「それは、仕事が辛いとか、人が嫌いだからとかじゃなくて、自分自身の過去が怖くてそうしていた」
「過去?」
怯える様な力で抱き締める黒井は、縋るような声で続ける。
「学生の時、両親は事故に遭い亡くなった…、それ以来かな、人が怖くて避けるようになったのは…」
「……」
「家も貧しくなって、必死に生きても楽にはなれず、ただ歯車の様に生きて毎日を生きる、これしか俺には無かった、だから、怖いんだ」
「黒井、さん…」
震える手を楓は優しく触る。
重ねた手のひらは温かく、だがどこか冷たい。
「あたしもね、お母さんとは上手くいってなくて悩んでる、けど、いつか絶対仲良くなれるとも思ってる、それは今、黒井さんがこうしてくれるように人は分かり合えるから」
「分かり…合う?」
「うん、だって黒井さんは今話してくれたでしょ?これって理解しようとしたからだし、分かり合う事だと思うの」
心から、そう願って言う。
彼の手の震えが止まり、代わりに手のひらに涙が落ちる。
「―――あぁ…そうか」
覗き見た彼の顔は、確かに涙で濡れていた。
しかし、清々しい笑顔で、素直な気持ちで、こう続ける。
「――俺は、楓さん、貴方が好きです」
長い時間心を閉ざしていた彼は、ようやく素直に気持ちを吐き出せた。
その枷が外れた様に感情が押し寄せ、ただ涙と、笑顔と、そして穏やかな気持ちで満たされる。
「黒井…さん、黒井洋助さん、あたしも、貴方が好きです」
どこか似た二人、だが近付けずにいた二人。
その交差する点が今交わり、運命は確かに動き出した。
母との離別、社会への不適合、そして誇りであった絵を捨てた少女。
家族を失い、絶望の果てに心を閉ざし、機械となって社会に組み込まれた青年。
両者は今、確かな存在を胸に抱え生きていく。
「恋人として、よろしくお願いします、楓さん」
「洋助さん、こちらこそ…ふふっ、これからはもう、こう呼べないね」
――隣の部屋の社畜さんって。
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