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2026年
Replay 〜君がいた夏〜
しおりを挟む夏休み。いつも会う友達がいた。
「たかしくん、ひさしぶりっ」
はにかむ目の前の少年に、僕は唇を尖らせた。
「……ひかるくん。何の冗談?」
以前会った時の彼は、半袖短パンがデフォの普通の……ちょっと悪ガキ寄りの小学生男子だった。そう、そのはず。
なのにいま彼は、肩くらいまで伸ばした茶色い髪をヘアピンで留めている。そして白いワンピースを着ている。
「ママに着せられちゃってさ。まだスースーしてなれないや」
そう言いながら、彼はスカートの部分をバッサバッサと手ではためかせた。
「ちょ、そういうことは!」
「ははっ。ママみたいなコト言うなよー。オレたち、トモダチだろっ!」
そう言ってひかるは僕の首に腕を回して、抱き寄せてきた。わっ、と慌てる僕。
彼の肌は、とても柔らかくて、すべすべで。
——彼の胸は、わずかに膨らんでいて。
「……ひかる、くん?」
ドキッとした。
そう。僕らは友達。
深呼吸した。甘い匂いがした。
僕のわずかな疑念を裏付けるかのように、ひかるは「えへへ、ばれちゃった、かなぁ」なんて言って笑う。
心臓の動悸が鳴り止まない僕を離して。
ひかるは、告げた。
「オレ……わたし、さ。——女の子になっちゃった」
僕は息をつまらせた。
*
おばさんの話によれば、これは病気なのだとのこと。
春頃にひかるくんのひかるくんが消滅していたことがきっかけで気がついたが、もう時すでに遅し。
TS病という、思春期初期にごくまれに見られる現象だと診断を受けた。なんでも、発症すれば身体が異性のものに近づいてくる上に、嗜好や思考……つまり心まで異性のそれに近づいていってしまうのだとか。
なお、治療法はあるにはあるがリスクがあまりにも大きいので、このまま異性として育てなおすのが一番「マシ」な選択肢なのだという。恐ろしい話だ。
「というわけで、これまで通り接してあげてね、たかしくん」
「は、はぁ」
いや、そう言われましても。
おばさん——ひかるのお母さんの話を、隣でヘラヘラと笑って聞いているひかる。彼……いや、彼女と呼ぶべきか……の顔をまじまじと見ながら少し考える。
……今まで通りに接していい、のか?
いままで、僕と彼とでは幾度も遊びに行った。それこそ、一年生の夏休みの頃から……いや、物心つく前からかもしれない。
いろんなところに「冒険」に出かけては、親父にこっぴどく叱られたっけ。
「——ねえ、聞いてる? たかしくんっ」
ひかるに話しかけられていたことに、僕は遅れて気づく。
「あっ、ごめん」
「もう、ちゃんとしてよぉ」
頬を膨らます彼。……彼女、と呼ぶべきなのかな。
女の子にしか見えない姿の彼に、僕はわざとへらっと笑って見せた。
「で、なに?」
「冒険、行こうよっ」
身を乗り出して告げられて。
——いい匂い、する。
思わず身を引いてしまった僕に、ひかるは不思議そうな顔をした。
ざざぁ、と波の音が耳朶を打つ。
「海に行くんなら、水着を持ってけって」
そう言ったひかる。胸を隠した形のヒラヒラした水着に、僕は思わず目をそらす。
「……男物じゃないんだ」
「友達に選んでもらったんだー」
「わざわざ女物にする意味ないだろ」
唇を尖らせた僕に、ひかるはニヤッとして。
「えー、ドキドキしてるの?」
そう言って近寄ってくる。
「ち、ちがっ」
慌てふためく僕を見て、彼はどこか嬉しそうに目を細めて。
「図星だ」
抱きついた。
「たかしくんは学校の水着なんだね」
「……悪いかよ」
僕だけ上半身裸なの、ちょっと恥ずかしい。
火照った頬。蝉の声。ざざー、と波の音。
「……さっさと行こうよ。冒険」
僕の言葉に、ひかるはわずかに目を細め。
「そうだね」
と返した。
冒険といったって、やることはたかだか砂浜の散歩だ。
近況を話しながら砂浜を歩いているだけで、僕らは時間を潰せた。
昔は危険なところに赴いて、そこに何があるのか確かめてみる……なんて本当に冒険じみたこともやっていたけど、小学六年生にもなってそんなことをやろうとはしなかった。
「たのしかったね、たかしくん!」
伸びをするひかるに、僕は「そうだね」と目をそらしつつ答える。
夕焼け。オレンジ色の光に、目を細める僕。
少女の身体は、小麦色に焼けていた。
「ね、こっち向いてよ」
ひかるの言葉に、僕は「なんでさ」となんとなく反抗する。けど、「なんとなく」と言葉が返ってきて、こっちもなんとなくモヤモヤが募り——。
「いいから、こっち向いてよっ」
つん、と彼は僕の頬をついた。
「なんだよっ」
募ったモヤモヤが爆発する。いいよ。見てやるよ。
半ば自棄になって彼の方を向いた。
瞬間、息を呑んだ。
彼は——いや、彼女は、頬を染めていた。
夕暮れの海に反射したオレンジが、彼女の頬を染めて。
「……」
「へへっ」
笑った彼女に、僕も思わず笑った。
なにも言わず夕景を眺め。
不意に、肩に柔らかいものが触れた。
隣を見ると、彼女は僕の肩にもたれていて。
波の音は、なおも響いていた。
*
——子供の頃のことを思いだして、僕はため息をつく。
僕はいま、あの町に来ている。都会から、田舎の小さな町に。
電車で数時間。高校の夏休みを使って。
東京近辺の電車は椅子が固くて、尻が痛くなる。痛む腰をさすって、僕は無人の小さな改札機にICカードをかざした。
駅前にはレンタサイクルがあった。観光には多少力が入っているらしいが、その割に人は居ないらしく、木陰の駐輪場には何台もの自転車が並んでいた。
伸びをして、僕は隣の看板のコードを読み取り、軽い試行錯誤で自転車を借りることに成功する。
そして、それに乗って、ペダルを思いっきり踏んだ。
波の音が聞こえた。
行く先はアイツの家。
——ひかるに、会いに行くため。
国道沿いの海岸はだいぶ削られてしまって、防波堤の真下はテトラポットがごろごろしている。
二車線のまあまあ細い道を自転車で駆け抜けながら、僕は彼女の家へ向かう。
あの頃の記憶をたどりながら。
*
——何年か前、小学六年生の頃。
海岸、二人で夕焼けを眺めたあの日からも、僕らは遊んでいた。
遊んで遊んで、親父に叱られてたまに一緒に勉強したりなんかして。
長い夏休みは、ほんの一瞬で過ぎ去っていった。
「もう帰る日だ」
親父の言葉に、僕は唇を尖らせる。
「えー、もうちょっと居ようよぉ」
「これでもだいぶ引き延ばした方だぞ? もうあさってには学校だろう?」
「まだあさってまであるし!」
「明日は学校の準備があるだろ?」
冷静な突っ込みに、なおも引き下がろうとしない僕。
「……ひかるくんのことかい?」
言われて、僕はなぜだかドキッとした。
「な、んで、急に」
「わかるさ。ずっと見てきたから。まだ遊びたいんだろ?」
「…………」
言い切れない僕に、親父は「ほら、最後の挨拶くらいしてきな。そこにいるから」なんて、車の影からチラチラ僕を覗くひかるを指さした。
彼女は指さされると、顔をますます赤く染め、車の裏に身を隠す。
「ひかるくん」
呼ぶと、彼女はおずおずと顔を出した。
「…………」
黙りつつ、彼女は僕を見つめて——駆けだした。
僕は走ってそれについていった。
ひまわり畑。サマードレスを着た彼女。
すっかり女の子らしくなってしまったひかるに、かけられる言葉なんてなくて。
俯きそうになる僕。不意に、声が聞こえた。
「たかしくんっ」
ひかるの声。はっとして僕は彼女の方を向いた。
「——ッ」
彼女は振り向いて、僕を見ていた。
涙目で、スカートの裾をぎゅっと握りながら、内股で立ちすくむ彼女に、僕は息を詰まらせる。
心臓が、バクバクする。
彼女を直視できない。
——空が、眩しくて。
「あのね、たかしくん」
彼女の言葉を聞き逃しそうになった。
「……好き」
僕は目を見開いた。彼女を直視できないまま。
「ずっと、好きだった。わたし。たかしくんのことが。男の子だった頃から……」
眩しい空。ひまわり畑。原色のコントラストに。
「——ヘンだよね。…………わたし、男だったのに」
目を細めた。
胸が締め付けられたような気がして。
彼女を見ることが出来ないまま。
僕はなにも言わず——言えずに。
そのひまわり畑を、ふたたび見ることはできなかった。
*
——レンタサイクルを降りると、目の前には一面の黄色が広がっていた。
海沿いの通りから一本入った山の中に、そのひまわり畑はある。
管理が緩いのかわざと解放しているのかは知らないが、夏場に美しく咲き誇る一面のひまわりの中にある道は誰でも立ち入れるようになっている。昔はよくその中で遊んでいた。
ひまわりに囲まれたほどほどに細くて長い坂道を上がると——そこが、彼女の実家だった。
山の中に堂々と鎮座する立派な瓦葺きの一軒家。その玄関を叩くと、すぐに「はーい」と声がした。
ガラッと開いた玄関。開けたのは、あの頃からずいぶんとしわの増えたご婦人。
「お久しぶりです。おばさん」
そう挨拶すると、「アンタ誰だっけ?」と返される。僕はなるべく警戒されないように微笑み、答えた。
「僕です。——孝史です」
そう挨拶すると、おばさんは「あら、久しぶりねぇ」と笑顔を見せる。
「浩志さんは元気?」
その浩志とは父さんのことで。
「元気です」と伝えると、「よかったわぁ」と笑う。
僕はこれ以上話が長くなる前に、単刀直入に告げた。
「ひかるは……元気ですか?」
直接会いたいなんて言うのも少し気が引けて、言い方を変える。けど。
その瞬間、おばさんの顔がわずかに暗くなったことに気づき、僕は少しだけ後悔した。
しばしの間をおいて、彼女は告げた。
「あの子……一昨日から行方不明なのよ」
目をしばたかせた。
*
自転車はガラガラと音を立てる。
息を切らして僕は、海岸線を駆け抜ける。
過ぎ去っていく風景の中で——僕は彼女の影を探す。
何処だ。何処だ。
渋滞で停車する車の列を追い抜いて。
おばさんの話も聞かず、僕は自転車を駆った。国道を走り抜け、がむしゃらに。
探す。探す。探す。
身体にまとう海風が、やけに重たくて。
息を吐いた。
道の駅。漁港に併設されたその駐輪場で、僕は息を吐いた。
町の明かりはとっくに失せていて、真っ暗闇の中でぼくは一人立ち尽くしていた。
田舎の夜は、暗い。重く、暗い。何も見えなくなるほどに。
冷たい潮風が——まるで、心まで冷やしていくようで。
じりじりと鳴く虫の声に、一人のため息が混じった。
そのときだった。カッと漁港のライトが光ったのは。
目がくらむほどの眩い光に思わず目を細める僕。知らない男の声が聞こえた。
「女の子だ! 女の子が……揚がったぞー!」
水揚げされた女の子は、すぐさま病院に担ぎ込まれた。
——彼女は、ひかるだった。
*
人は簡単には死なない。
結局一日もかからず退院させられたらしいひかる。父親の車で自宅まで送り届けられた彼女を、僕は迎える。
「おかえり」
「……え?」
ちゃぶ台に並べられていたおかずを前にして自前のよくわからないキャラクターが描かれたTシャツを着てあぐらかいて待っていた僕。それを見て、彼女は目を丸くした。
「え、待って待って。なんでここにたかしくんが」
「言ってなかったっけ。今日ここに泊めさせてもらうこと」
「聞いてないし!」
驚愕したひかるを「まあ細かいことはいいから」となだめる僕。「いや細かくはないでしょ!」
ひかるはため息をついた。
「はぁ……もうサイアク。血も採られたし、すっごく疲れたのに……なんでこんなときにたかしくんまで……」
泣きそうになりながら俯く彼女。
「…………」
僕は少し考えて。
「……行こう」
思わず言葉を投げかけた。
「どこ、へ?」
涙目で尋ねる彼女。……そんなこと言われても。考えてないなんて言えやしないし。
けど、放ってなんかおけなくて。
しょげている彼女の手を握って、少し強引に引き、叫ぶように告げた。
「冒険、行こうよ!」
彼女は目を見開いた。
*
自転車。二人乗り。背中から伝わる彼女の温もりに少し心音を早めつつ。
後ろから声がかかった。
「——今更冒険だなんて子供じみたこと言わないでよ」
そんなことを言われたって。僕らの合言葉はそれでお決まりなのだから、今更変えられようもない。
「じゃあ、どんな呼び方がいいかな」
冗談半分で尋ねてみるが、何も返ってきやしない。
「てかたかしくん、自転車乗れるようになったんだ」
「まあね」
「ふーん、あの怖がりで臆病で、自転車も補助輪無しでは乗れなかったたかしくんがねー」
後ろからせせら笑うひかるに、僕は「うっさい」と唇を尖らせ。
「——なんで、こっちに来たの」
自転車の風に乗って、そんな声が聞こえた。
「……」
「答えてよ。気になる。……私が飛び降りた理由も教えるから、さ」
言いながら、彼女は僕に肌をくっつけて。
「ね、教えてよ」
耳にかかる吐息に、僕は息を呑み。
「——落ち着けるところ、探そうか」
駆け抜ける国道沿い。うつむき加減でしばらく走った。
車のガスのにおいとべたつく潮風が、なんだか少し苦しくて。
しばらく走ると、古びたトイレがあった。
その周辺は少しだけ開けていて、自転車くらいなら止められそうだった。
この辺りが海水浴場だった頃の名残であろうそこに重たい自転車を止め、僕らはもう少しだけ歩いた。
かすかに残る砂浜には草が生い茂り、海藻や流木がゴロゴロしている。長らく管理されていないことがうかがえた。
「……ここ、座ろうか」
コンクリートの防波堤を指さした僕。ひかるは頷いた。
腰を下ろした僕は、隣に座るひかるを改めて見つめる。
……綺麗だ。それが「彼女」に対する印象だった。
端正で美人。どこかあどけなさを残す顔立ちを、あの頃よりさらに明るくなったストレートの茶髪が引き立てる。
フリルのついた白いシャツ、というかTシャツのようなトップスに、黒くて短いフリルのスカート。
高校生にしては幼めだが可愛らしい服装は、けれどアイドルグループに混じっていても不思議じゃないほど可憐な彼女にひどく似合っていて。
「……何見てんの」
「ごめん、可愛くて。つい」
目をそらしても網膜に焼き付いてしまった彼女の姿に、僕の心臓は高鳴り。
「ありがと」
「どーいたしまして」
——けれど「あの頃」の「彼」の面影がないことに、少し胸が苦しくなって。
横目で見た彼女は、遠い目をしていた。
……つい、見蕩れてしまう。
月夜。遠く月だけが見える空。遠く、海の向こうに見える工業地帯の明かり。それが僕らを照らしていた。
「ね。……どうしてこんなとこ来たの?」
その質問に、僕は俯いて目を逸らした。
こんなとこって……まあ、ド田舎だからわからないこともない。思い出も結構ある街だけど。
いやいや、そんなことじゃなくて。……恥ずかしいのを振り絞って、かろうじて答えた。
「……ひかるくんに、会いたくて」
一言で答えた僕に、彼女は「ありがと」と告げる。
しばしの沈黙の後。
「次はひかるくんの番」
言い淀む彼女を、促した。
「いやいや、早くない?」
「早くないって」
「一言だけじゃわかんないっての」
「……恥ずかしいし」
「童貞だー」
「悪いか。そういうお前も処女だろ」
「デリカシーとかないの?」
「そこになければないですね」
「百均の店員?」
そんな他愛もないやり取り。その続きに「でも約束だろ?」と言ってみると、彼女は軽く伸びをした。
「仕方ないなぁ。……他言、しないでよ?」
「約束するよ」
彼女は、また遠くを見た。
「私さ、東京に行きたくて」
「うん」
「東京湾なら泳いで渡れるかなって思って」
「うん?」
「飛び込んだら意外と泳げなくって」
「う、うん?」
「気を失って、気づいたら病院だった」
「バカなの?」
なんというか、悪ガキ時代のひかるならやりそう。
「えーっと、電車とかフェリーとかを使う選択肢は?」
「お金ないし。あと都会の電車って何処連れてかれるかわかんないって言うじゃん。てかフェリーってなに?」
「……車は?」
「免許ないし。あと一人で行きたかったし」
「…………」
だからって泳いで渡るのもアホすぎないか?
やっぱり根は変わってないような気がして、少し安心したような気がする。
少しの沈黙。間が空いて。
「……えっと、そもそも……どうして、そんなに東京なんて行きたかったんだ?」
尋ねてみると、彼女はもじもじしだした。
「…………」
目をそらし——。
「えっと、トイレなら向こうだぞ?」
緊張した空気感に耐えられなくて呟いた一言に、彼女は叫んだ。
「ばか!」
僕は目を見開いて——彼女は、真剣な眼差しをしていて。
悟ってしまった。——バカみたいだと笑ったその行動は、きっと彼女にとってはすごく真面目なことだった。
「……その、ごめん。茶化して」
小さく謝った僕に、彼女は「いいの。べつに」とつぶやき。
「けど……聞かせてほしい。なんで、東京に来ようとしたのか——」
なかば叫ぶように尋ねた言葉に「きみと同じ!」被せるように、彼女は叫んだ。
「きみに——たかしくんに、会いたかったのっ!」
背後からクラクションが聞こえた。
辺りがしんと静まりかえった。
「……一応聞くけど、なんで?」
「——言う必要、ある?」
遠くからの明かりでも、染まった頬の赤みがわかって。
「…………ごめん」
思わず口をついて謝罪が出る僕に、彼女は。
「ほんと、変わってないんだね」
そう言って笑った。
蝉が鳴いている。白波が立って、彼女の髪がなびいた。
言い出せない言葉。彼女は目を細めたまま、告げた。
「いまでも、変わってないから。わたしは、ずっと」
海を渡ろうとするほどに、ひかるは僕を想っていた。
それだけでも、僕は——充分だった。
「ありがとう」
おかげで、ようやく言える。あの日言えなかった一言を。
ひときわ大きな風が吹いて。
彼女にそっと、口づけをした。
「————」
波音が、声をかき消す。風が、吐息を消して。
それでも、この暑さは。鼓動は。息苦しさは。切なさは——いつまでも、消え去りはしなかった。
*
かくして、ひと夏の冒険は幕を閉じた。
東京。コンクリートジャングルの残暑。
ハンディ扇風機を片手に、僕はアスファルトの地面をひとり歩いていた。
じわじわと蝉の声が聞こえた。
お盆が終わって、僕らはなにもないただの日常に戻っていった。
「あの日」の忘れ物を取りに行く、そんな旅も終わって——何の憂いも無しに、僕は東京の夏に帰還した。夏休みも終盤だ。
——なのに、登校日があるなんて。
制服のワイシャツを汗で濡らしながら、坂を上ろうとして。
「ねぇ」
ふと、風が吹いた。
声の方に、顔を上げた。
坂の上。僕はまぶしさに目を細めて——しばたかせた。
「どうして——」
「たかしくんっ」
名前を呼ばれて、胸が苦しくなる。
「……ひかる。どうして……ここに?」
彼女は、白いワンピースを翻し、はにかんだ。
「会いたかったから。来ちゃった」
「いや、いやいやいや。旅行か?」
「ううん。こっちに住むの。これから学校の手続きなんだ」
「え、家は?」
「たかしくんちに居候。さっきお母さんにも挨拶してきたところだよ?」
「そんな……まさか」
真夏が見せた蜃気楼か。いや、でも目をこすっても、首を振っても、深呼吸しても——彼女の姿は、はっきりと見えて。
「……ひかる。千葉に住み続けるんじゃ」
「そんなこと言ってないけど?」
「…………はぁ」
遠距離恋愛を続けるんじゃなかったのか。——いや、こっちが勝手に前提を作ってただけだった、のか?
口を半開きにする僕。その視界にはっきりと映っていた彼女の目は——どう見ても、本気で。
「これからは、ずっと一緒だね」
はにかむ彼女。空はまるであの日のように、眩しかった。
僕は目を細めて、息を吐いた。
「……これから、よろしく。ひかる」
「こっちこそっ! たかしくんっ」
あの夏は、まだ僕らを離してはくれないようだ。
Fin.
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