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覚悟と誓いと

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 ――半目を開く。蛍光灯のまぶしさに一瞬目を閉じて、もう一度目を開く。
「気がついた、にゃ?」
 耳朶を打つのは雨音。そして、静かな声。
 倦怠感が全身を包む。つぅ、と右頬に流れるのは、涙。
 げほっとひとつ咳をして。
「……ごめん。奪われちゃった」
 ぽつりと口にした。
 手元にもう鈴はなかった。
 あったのは、痺れた感覚と――温かさ。
「ごめんじゃないにゃ! ……わたしが、いまどれだけ悲しいか」
「鈴、奪われたから?」
「違うにゃ! それもあるけど……っ、お兄ちゃん今の状況わかってるの!?」
 怒鳴るうるか。反響。……おかしいな、彼女は僕の幻覚なのに。
 どうして鼓膜を震わせる。どうして、僕の右腕は彼女に掴まれている。
 ――僕は失念していた。

「……いまのお兄ちゃん、片腕と片目がないんだよ?」

 鈴を失ったから、うるかとの融合が解けた。彼女は、もう僕の幻覚ではなくなっていた。
 うるかと僕の身体をこねくり回して一つの身体にして、ようやく僕の魂を受け入れていた。そのつなぎの役目を果たしていたのが魔法の鈴。速い話が接着剤。
 ならば、その接着剤が消えてなくなればどうなるか。当然くっついていたものは剥がれてしまう。
 僕の身体はバラバラに砕け散って、うるかは元通り。鈴は狙われ続ける。
 とはいってもすぐに砕けてしまうわけではないらしい。けれど、うるかと融合していたのは「身体の足りない部分を補うため」。すなわち。
 左の方を見ると、肩から先がなくなっていた。
 残った右手で顔を触る。左目には眼帯がつけられていた。
「……保健室の先生曰く、必要最低限で何とか生きてる状態なんだって」
 片側しか聞こえない耳をすまして、聞こえた声は。
「氷見、さん」
 ぼんやりとした頭。少しづつ右だけの視界にも慣れ始めて。
「全部聞いたよ。その、猫の……精霊の、うるかちゃんから。大変だったね」
 他人事のように――彼女にとってはまさしく他人事なのだろうが――告げる彼女。
「……やっぱり、君だったんだ。魔法少女」
 視界の端に見えたその黒い髪に、猫耳の少女を撫でるその細い腕に、僕は。
「あのあと、どうなったの」
 聞かずにはいられなかった。
「……犬将軍さんは鈴をもって、どっかへ行った」
「魔法少女の正体……ぼくのことは?」
「学校中の話題を独占してる。……明日、教室に来たらびっくりするかもね」
「……いつから気付いてたの?」
「二週間くらい前だっけ、教室で堂々と変身してたじゃん。バレてないと思ってた?」
 いたずらに笑った氷見さん。僕は目を伏せる。
「クラスのみんなが知ってて、でも誰も言わなかったんだよ?」
 明日は大変になるね。そう彼女は笑って見せる。
 ――きっとその明日に僕がいないことを、僕とうるかだけは知っている。
 いや、氷見さんももう聞いたはずかな、と少し後になって気がついて、胸が締め付けられる。
 鈴が、僕の命を繋ぎ止めていた。本来、うるかを助けたあの日に死んでいたはずだった。それが、鈴のおかげで今日まで延ばされていたにすぎない。
 一周回って笑えてきた。
 ああ、詰んだ。人生終わりだ。あーあ、何もかも終わりだ。
 やるせなくて、むなしい。
 結局、友達なんてできなかったな。何にも変わりはしなかった。折角のロスタイム、無駄にしちゃったな。……一人きりのままだった。
 首をゆっくりと動かすと、泣いているうるかを見つけた。
 彼女にそっと手を伸ばす。――届くことはない。
 慰めることさえ、僕にはできないのか。
 鈴を取り返そうったって、この身体じゃ無理だ。
 両脚はかろうじて残っているようだが、それでもとても動かす気にはなれない。動かせたところで、犬将軍の居場所がわからない限り取り返しようがない。第一、時間がない。
 僕には、死を待つしか選択肢はなかった。
 ……もうそれでもいいや。
 いなくなったって、誰も困りやしない。誰も僕を愛さない。誰も僕を必要としない。そのはずなんだから。
 そんなやつが友達なんて……遊びたいなんて……一緒に飯食いたいなんて――生きたいだなんて、望むべきじゃなかったんだ。
 息を吐こうとして、ゲホゲホとむせる僕。
「大丈夫!?」と氷見さんは駆けよって、僕の手を取り――僕は弱々しく振り払った。
「どうして……どうして、氷見さんはこんなにも、僕を気にかける」
 節々を軋ませながら動き出す頭脳。かつて左腕があった部分に言い知れぬ違和感を抱き、思わず右手で触れながら。
「僕なんて、いてもいなくても変わらないはずなのに!」
 静かに、しかし情感を込め口にした言葉。
 氷見さんはハッとしたような顔になり、そして悲しげに笑った。
「そうなんだね。君は、そういうふうに思ってたんだ。自分のこと」
 どういうことなのだろう。僕は当たり前のことを言っただけなのに。
 誰も僕を愛さない。誰も僕を必要としない。だからこれでいい。
 ――そう、思っていた。思い込んでいた。
「君への応援も、届いてなかったんだね」
「応援……?」
 疑問。そんなものあったか?
「そう、応援。……あのとき、みんなで声を上げて、がんばれー、負けないでーって応援してたんだ」
「……誰に」
 わかり切っている。でも、確証がない。確証がほしいわけじゃない。
 ――否定してほしかったんだと思う。
「他でもない、君に」
 そう答えられた瞬間、僕は思わず叫んだ。

「嘘だ……っ!」

 肺の機能まで弱くなっているらしい。弱々しい叫びとともにゲホゲホとむせて、ひくっとしゃくりあげ。
「嘘じゃないよ」
 そんな甘言に騙されるものかと、唇を噛んだ。
「……わたしは聞いてたにゃ。彼の中から」
 目を伏せ話し出すうるか。
「この一か月半、ずっと一緒にいたからわかるにゃ。ずっとずっと、クラスのみんなから気にされてたにゃん。……まさか聞こえてなかったなんて、思わなかったにゃ」
 嘘だろうと言いたかった。冗談だろうと言いたかった。
 けど、否定したくてもできなかった。
 いつも軽々しい冗談ばかりのうるかの真剣な声音が、そうさせてくれなかった。
「話が通じないのも当然にゃ。だって聞いてないんだもの」
 ――僕は、いままで「周りから孤立させられている」と思っていた。
「君とずっと話したかった。実は一年生の頃から。偶然話せたあの日まで。……いつも逃げるんだもん。ほかの人とも、誰ともしゃべろうとしなくて」
 確かにそうだった。氷見さんの言うとおりだ。
 ようやく気付いた。気付かされた。
 僕は孤立させられてたんじゃない。

「まるで、一人でいたかったみたいに」

 ――自分から、孤立してたんだ。

 誰も僕を愛さない。誰も僕を必要としない。その反証。
 みんな――そのみんなが誰を指すのか、見当がつかないけれども――大勢が「僕」を見ていた。愛していた。……必要としていた。
「……はじめて君が挨拶してくれたあの日、何があったのってみんなびっくりしてたよ」
 過去を言い訳にして、見て見ぬふりをしていたんだ。
「いつも何考えてるかわかんないからさ」
 何も言わず、ただ殻に閉じこもってばっかりで。
「今日だって、クラスのみんなが……先生も、魔法少女を応援してた人たちまで、いろんな人に頼まれてここに来たんだよ……?」
 逃げて、逃げて、そっぽを向いて、無視して。
「……わたしも、とっても心配で……!」
 暗い信念を育てることに夢中になって、耳をふさいで目を閉じて、何も言わずに。
 ただ、負の思想の無限ループを加速させていたんだ。
 そうしてグロテスクなほどに育ち切った強い思い込みが、固まった信念が、歪み切った認知が、いままさに崩壊していく音がする。
 だから、向き合わなきゃいけない。負の思想を壊すために。誰かに愛されるために。必要とされるために。

「死なないで。生きて、帰ってきてよ! 魔法少女(ゆう)くん!」
 ――祈るような、その泣き叫びに。

 このまま、逃げたまま勝手に消えるなんて虫のいいこと――彼女が、僕を応援してくれた人たちが、許すわけがない。新しい僕が、許さない。
 誰も悲しむことのないハッピーエンド。その道筋を、ようやく見つけ出したから。
 僕は起き上がる。ずっと伏せてたベッドから。
 軋むベッド。片腕を器用に使って、どうにか床に足をつける。
「大丈夫、にゃ?」
「うん。僕はもう平気さ……っとと」
 よろめき、倒れそうになるけど、どうにか持ち直し。
「行かなきゃ」
 ぽつりと、僕はつぶやく。
「どこに?」
 氷見さんに問われる。
 すう、はあ。深呼吸して。
 覚悟をもって、宣言した。

「僕の命を、取り返しに」

「足、震えてるよ」
「……武者震いさ」
「ふふ、かっこつけてるにゃ」
「う、うるさい!」
 照れくさくなってそっぽを向いて。
 ……おかしくなって、やがて氷見さんが笑い出した。
 うるかも笑いだして、僕もついつられて笑った。
 心が、すっと軽くなった気がした。
 人と接するって、案外楽しいものなのかもしれない。
 呪いが解けていくような感覚だ。
 長く抱いてきた「どうせ誰ともまともに話せるわけがない」という学習性無気力の呪いが、ぽろぽろと崩れ壊れていく。
 不意に涙が出た。
 こらえてきたけどだめだ。溢れてくる。情緒不安定だ。
「今度はどうしたの」と優しく聞く氷見さんに、僕はただ。
「ありがとう……ごめん……ありがと……」
 わけもなく呻くように告げたのだった。

「落ち着いたにゃ?」
「うん……ぐすっ、もう、だいじょうぶ」
 軽くしゃくりあげながら、僕は深呼吸して。
「それにしても、犬将軍の居場所の算段はついてるのかにゃ?」
 ……僕は深呼吸して。
「ごめん、わかんない」
 深呼吸でごまかしながら、告げた。
「わからないのに言ってたんだ……」
 呆れる氷見さん。まあそりゃそうだよな……。
「でも、精霊世界の入り口ならちょっと心当たりがある」
「……もしかしてあそこにゃ?」
「うん。うるかもわかるはず」
 僕はこくりと頷いて、頭にある場所を口に出した。

『学校裏手の神社!』

 ――だいたい一か月くらい前だろうか。大型連休前のこと。
 その時戦ったプードルの犬人間。それが学校裏手にある小さな無人の神社、その手入れされていなさそうなボロボロの社殿の裏で、忽然と姿を消した。
「いま思い返すと、あの犬人間はきっと犬将軍の元に逃げたんだと思う。とすれば、あの神社はもしかすると――」
「犬将軍さんのところに繋がってる……ってこと!?」
 そういうことだった。氷見さんの言葉に、うるかが続ける。
「本来、精霊世界への出入り口――仮に『ゲート』と呼ぶけど、それは結構いろんなところに存在するにゃ。この町にも結構多く存在してるにゃん。けどにゃ、犬人間の国に行けそうなゲートは今までなかった」
 そう説明して、しかしうるかは淡々と、僕を見据えて告げた。
「……いけるとしたら、あそこが一番可能性が高いにゃ」
「そうか。……なら、話は早い」
 僕は首を縦に振って、告げた。
「そのゲートに飛び込む。それで、どうにかして魔法の鈴を奪い返す」
 言葉に、うるかは。
「……そんなの無茶にゃ」
 僕の目を見つめながら。
「ゲートに入ったとき、肉の器は逆に邪魔になる。精霊の世界は精神生命に都合がいいように作られている」
 僕の、なくなった腕と眼帯に包まれた目を、満身創痍で息をする僕を見ながら。
「……しかも、このボロボロな体……どうなるか、わからないにゃん」
 心配そうに、あるいは諭すように口にした。
「でも、どちらにしろ行かなきゃ死ぬから――」
 そうやって説明しようとしたのもつかの間。
「やだ!」
 うるかは、僕に抱き着いてきた。
「もう大事なひとを失いたくない!」
 少女は叫ぶ。
「鈴、なら……わたしが奪ってくるから……! それでお兄ちゃんが戻ってくるなら……なんだってできる、にゃ、わたし」
 泣きながら訴えるうるか。
「だから――」
 縋るように、囁いた。

「――いかないでよ、お兄ちゃん」

 悲痛な叫びに、胸が締め付けられる。
「でも、行く」
「なんで?」
 僕に抱き着きながらうるかは、泣きそうな声で尋ねた。
 ――深呼吸して。

「……これは、僕の試練だから」

 きっと、神様は僕を試してるんだと思う。
「僕がやらなきゃ、きっとできない気がするんだ」
 根拠のない、そんな確信だけが脳内を渦巻いていた。
「でも……でも……!」
 涙を流して、しかし言い返せないうるかに。
「……でも、一人じゃ心細いから」
 僕は目を細めた。
「一緒についてきてくれないか。僕の半身として」
 彼女のその温かい体温に、ふかふかな体毛に触れた。
 ゆっくりと撫でた彼女の頭。
 すっと呼吸音。細くなって、すぐに大きくなる瞳孔。リラックスしたかのように、息を吐いて。
「……仕方ない、にゃ」
 少女は優しく微笑んだ。
「お兄ちゃんは絶対に死なせない、にゃん!」
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