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本編
第二夜
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翌朝、塔の扉が開け放たれると、戦々恐々とした面持ちの兵が立っていた。
「っな……⁉︎」
エマが生きていることによほど驚いたのか、兵は腰を抜かしてしまった。
エマはそれに対してどう反応すべきか分からないまま、曖昧に笑う。唇の端が微かに震え、どうしても自然に笑うことができなかった。はだけた服は夜の内に整えていたため、兵からすれば、夜中に何が起こったか分からないはずだ。戦ったり抵抗したりした傷跡もなく、また取り乱すこともなく、ただ静かに佇むエマの様子を不審に思うことだろう。
「――――奇跡だっ‼︎」
しかし、エマの予想に反して、兵は感嘆の声を上げて、「両陛下にご報告せねば」と鼻息が荒い。
てっきり「なぜ生きているのか」と詰め寄られると思っていただけに、エマは目を丸くした。
兵の顔はどこか明るい。難問に対する解を導き出したかのような……あるいは、暗闇に一筋の光を見出したかのような……仰々しいもの。
いや、エマは何もしていない。
むしろ隠れんぼからの鬼ごっこに、手篭めにされる寸前という、訳の分からない事態だったのだから。かと言って、事の子細を話す気にはなれないが。
「あの……」
「はい、何でしょう?」
「お風呂をお願いすることはできるのでしょうか?」
「畏まりました。それでは侍女に言って湯を持って来させますので、引き続きよろしくお願いします」
「……わたしの方こそよろしくお願いします」
エマは気の抜けた声で兵に声をかけた。湯浴みしても良いと王が言っていたことを思い出し、おずおずと切り出してみる。
エマは風呂と言えば公衆浴場しか知らない。金持ちの家だったり、魔法が使えたりする者は、贅沢にも一人でゆったりと風呂に入れるらしいが、田舎者の、それも貧乏人のエマでは、毎日風呂に入ることなどできない。それがエマにとって普通であり、特段不潔だという意識はなかった。
だが、夕べ初めて身体を触られたことに、エマは後になって不快感を覚えた。王子が汚いのではない……なぜか自分が汚い気がしたのだ。自分の髪や身体は臭くなかっただろうか。王子の亡霊……黒い影……黒い王子……相手は確かに異形の物だったはずなのに、エマは的外れにも自分の身なりばかりが気になった。もちろん自分でもおかしいという感覚はある。けれども、我を忘れてしまうほど、あの行為を気持ち良いと感じたことも事実だった。
エマは塔の下に湯を用意してもらうと、人払いをして湯に浸かった。
「はぁ……あったかくて気持ち良い」
温かいお湯に浸かると、昨夜の緊張と疲れが解れていきそうだった。
エマはお湯に浸かったまま、自分の恥部を触ってみる。
――――不思議なことに、それは全然気持ちの良いものではなかった。
初めて感じた名状し難い快感に、黒い王子への恐れが少し緩んでいるのかもしれない。自分はいつの間に淫乱になったのだろうか。エマは自嘲して、王子の棺の守りなど諦めて家に帰るべきかと思案した。瞑目すると頭に浮かぶのは母の顔、そして、
『――――どうか、』
『私を……助けて、ください……エマ……』
訴えかけるようにエマの名を呼ぶ切ない声。
思い出してみると、語尾は微かに震えていた。
――――もしかして、あれは空耳だったのだろうか。つと、エマは自分の名前を呼ぶ声に胸が締め付けられた。
結局、エマは逃げなかった。
当然のことながら、怖い気持ちもある。初めは殺されてしまうのではないかと恐れ慄いたが、昨日の行為からして、あのまま自分の知らない世界へ連れて行かれそうで怖かったのだ。しかし、何度母と恐怖を天秤にかけても、母の方が重たかった。
エマは小さくなった自分の肩を抱いて、ふるふると頭を振る。そして、再び塔の上に登ると、明るい内に隠れ場所を確認することにした。
王子の棺は夜に動いたことが信じられないくらい、何事もなく鎮座している。
柱の影は駄目。王子の棺の中も駄目。それなら単純に台の下に隠れたとしても、すぐバレてしまうに決まっている。第一、隠れるにしても目ぼしい家具など一つもなかった。せめてカーテンでもあれば良かったが……何て殺風景な墓場だろうか。
エマが頭の中でぐるぐる考えていると、不意に、棺の下に不自然な段差を発見した。
「――――‼︎」
塔の上なのに、床下があるようだった。
エマは溜息混じりに、今度こそ逃げ切ってみせるとほくそ笑む。
肩に力を込めてズズズ……と棺を動かし、エマは床下に繋がる階段を見つけた。顔だけ覗けば、そこは光が一切差さない真っ暗闇のようだ。さらに手燭の炎を床下に翳すと、天井の低い地下室に、棺が所狭しと並んでいるのが分かった。
むわっと立ち込める血の臭いにエマは顔を顰める。きっと死んだばかりの死体が納められているのだろう。エマは床下から顔を出して、ますます顔を歪めた。何となく……あの棺の中身の正体が、今まで王子の守りを名乗り出て殺されてきた者達なのだろうと察した。
「わたしは…………」
しかしながら、現状エマは死んでいないではないか。むしろ股を開かされて…… そこまで考えが及ぶと、エマはまた訳が分からなくなり、顔が熱くなった。
正直なところ、また抱かれたいかと問われれば答えは否だ。情事には興味があるのは事実だし、気持ち良いことも好きだ。けれども、やはりそれは愛し合った行為であるべきだと……エマは思う。
…………
…………
…………
日没後。
エマは意を決して床下に入り込んだ。王子の棺と違って死臭に噎せそうにりながら、エマは一番奥の棺の蓋を開け、かつて魔法使いだった思われる魔法衣を着たドロドロの死体と一緒に横たわる。風呂に入ったのが悔やまれるが、それ以上に臭すぎて死にそうだった。エマは目を閉じて、胃酸が逆流しそうになるのを必死に堪える。
やがて午前零時の鐘の音が鳴ってしばらくすると、カツカツと足音が近付いて来た。
「……エ、マ……」
「――――っ‼︎‼︎」
昨日聞いた、幻聴にも思えた、あの切ない声がした。
王子は何としてでもエマを見つけたいらしい。
物音から王子が棺を一つ一つ開けているのが分かり、エマは震え上がると同時に、なぜか胸がきゅうっと苦しくなった。よくよく考えてみれば、次見つかったときに絶対に殺されないとは限らない。もしかすると隣の魔法使いのように、血みどろに殺されるのかもしれないのに……エマ自身もっと怖がらなければならないのに……
「……エマ……エマ……」
助けて、と声は消え入りそうで、まるで泣いているようだった。
そして、遂にエマのいる棺の蓋が開かれてしまう。
目の前に飛び込んでくる、黒い影こと黒い王子。
ただ昨日と明らかに違うのは、涙をぽろぽろと流していることだった。目も鼻も口も真っ黒だと言うのに、目からは闇に溶け込むような透明な涙が降ってくる。
エマは黒い王子を凝視し、息を呑んだ。もはや悲鳴さえ上がらない。エマはいつの間にか恐怖が消し飛んで、王子の涙に自分まで苦しくなった。
『天使のエマ』『お人好しのエマ』と人は勝手なことを言うけれど……
「…………助けてくれ……エマ……」
黒い影から一際大粒の涙が零れたとき、エマは王子に向かって手を伸ばしていた。
途端に鳴り響く鐘の音――――
エマの手は黒い王子に届くことなく、宙を切った。
――――二日目の午前一時がやってきたのだ。
「っな……⁉︎」
エマが生きていることによほど驚いたのか、兵は腰を抜かしてしまった。
エマはそれに対してどう反応すべきか分からないまま、曖昧に笑う。唇の端が微かに震え、どうしても自然に笑うことができなかった。はだけた服は夜の内に整えていたため、兵からすれば、夜中に何が起こったか分からないはずだ。戦ったり抵抗したりした傷跡もなく、また取り乱すこともなく、ただ静かに佇むエマの様子を不審に思うことだろう。
「――――奇跡だっ‼︎」
しかし、エマの予想に反して、兵は感嘆の声を上げて、「両陛下にご報告せねば」と鼻息が荒い。
てっきり「なぜ生きているのか」と詰め寄られると思っていただけに、エマは目を丸くした。
兵の顔はどこか明るい。難問に対する解を導き出したかのような……あるいは、暗闇に一筋の光を見出したかのような……仰々しいもの。
いや、エマは何もしていない。
むしろ隠れんぼからの鬼ごっこに、手篭めにされる寸前という、訳の分からない事態だったのだから。かと言って、事の子細を話す気にはなれないが。
「あの……」
「はい、何でしょう?」
「お風呂をお願いすることはできるのでしょうか?」
「畏まりました。それでは侍女に言って湯を持って来させますので、引き続きよろしくお願いします」
「……わたしの方こそよろしくお願いします」
エマは気の抜けた声で兵に声をかけた。湯浴みしても良いと王が言っていたことを思い出し、おずおずと切り出してみる。
エマは風呂と言えば公衆浴場しか知らない。金持ちの家だったり、魔法が使えたりする者は、贅沢にも一人でゆったりと風呂に入れるらしいが、田舎者の、それも貧乏人のエマでは、毎日風呂に入ることなどできない。それがエマにとって普通であり、特段不潔だという意識はなかった。
だが、夕べ初めて身体を触られたことに、エマは後になって不快感を覚えた。王子が汚いのではない……なぜか自分が汚い気がしたのだ。自分の髪や身体は臭くなかっただろうか。王子の亡霊……黒い影……黒い王子……相手は確かに異形の物だったはずなのに、エマは的外れにも自分の身なりばかりが気になった。もちろん自分でもおかしいという感覚はある。けれども、我を忘れてしまうほど、あの行為を気持ち良いと感じたことも事実だった。
エマは塔の下に湯を用意してもらうと、人払いをして湯に浸かった。
「はぁ……あったかくて気持ち良い」
温かいお湯に浸かると、昨夜の緊張と疲れが解れていきそうだった。
エマはお湯に浸かったまま、自分の恥部を触ってみる。
――――不思議なことに、それは全然気持ちの良いものではなかった。
初めて感じた名状し難い快感に、黒い王子への恐れが少し緩んでいるのかもしれない。自分はいつの間に淫乱になったのだろうか。エマは自嘲して、王子の棺の守りなど諦めて家に帰るべきかと思案した。瞑目すると頭に浮かぶのは母の顔、そして、
『――――どうか、』
『私を……助けて、ください……エマ……』
訴えかけるようにエマの名を呼ぶ切ない声。
思い出してみると、語尾は微かに震えていた。
――――もしかして、あれは空耳だったのだろうか。つと、エマは自分の名前を呼ぶ声に胸が締め付けられた。
結局、エマは逃げなかった。
当然のことながら、怖い気持ちもある。初めは殺されてしまうのではないかと恐れ慄いたが、昨日の行為からして、あのまま自分の知らない世界へ連れて行かれそうで怖かったのだ。しかし、何度母と恐怖を天秤にかけても、母の方が重たかった。
エマは小さくなった自分の肩を抱いて、ふるふると頭を振る。そして、再び塔の上に登ると、明るい内に隠れ場所を確認することにした。
王子の棺は夜に動いたことが信じられないくらい、何事もなく鎮座している。
柱の影は駄目。王子の棺の中も駄目。それなら単純に台の下に隠れたとしても、すぐバレてしまうに決まっている。第一、隠れるにしても目ぼしい家具など一つもなかった。せめてカーテンでもあれば良かったが……何て殺風景な墓場だろうか。
エマが頭の中でぐるぐる考えていると、不意に、棺の下に不自然な段差を発見した。
「――――‼︎」
塔の上なのに、床下があるようだった。
エマは溜息混じりに、今度こそ逃げ切ってみせるとほくそ笑む。
肩に力を込めてズズズ……と棺を動かし、エマは床下に繋がる階段を見つけた。顔だけ覗けば、そこは光が一切差さない真っ暗闇のようだ。さらに手燭の炎を床下に翳すと、天井の低い地下室に、棺が所狭しと並んでいるのが分かった。
むわっと立ち込める血の臭いにエマは顔を顰める。きっと死んだばかりの死体が納められているのだろう。エマは床下から顔を出して、ますます顔を歪めた。何となく……あの棺の中身の正体が、今まで王子の守りを名乗り出て殺されてきた者達なのだろうと察した。
「わたしは…………」
しかしながら、現状エマは死んでいないではないか。むしろ股を開かされて…… そこまで考えが及ぶと、エマはまた訳が分からなくなり、顔が熱くなった。
正直なところ、また抱かれたいかと問われれば答えは否だ。情事には興味があるのは事実だし、気持ち良いことも好きだ。けれども、やはりそれは愛し合った行為であるべきだと……エマは思う。
…………
…………
…………
日没後。
エマは意を決して床下に入り込んだ。王子の棺と違って死臭に噎せそうにりながら、エマは一番奥の棺の蓋を開け、かつて魔法使いだった思われる魔法衣を着たドロドロの死体と一緒に横たわる。風呂に入ったのが悔やまれるが、それ以上に臭すぎて死にそうだった。エマは目を閉じて、胃酸が逆流しそうになるのを必死に堪える。
やがて午前零時の鐘の音が鳴ってしばらくすると、カツカツと足音が近付いて来た。
「……エ、マ……」
「――――っ‼︎‼︎」
昨日聞いた、幻聴にも思えた、あの切ない声がした。
王子は何としてでもエマを見つけたいらしい。
物音から王子が棺を一つ一つ開けているのが分かり、エマは震え上がると同時に、なぜか胸がきゅうっと苦しくなった。よくよく考えてみれば、次見つかったときに絶対に殺されないとは限らない。もしかすると隣の魔法使いのように、血みどろに殺されるのかもしれないのに……エマ自身もっと怖がらなければならないのに……
「……エマ……エマ……」
助けて、と声は消え入りそうで、まるで泣いているようだった。
そして、遂にエマのいる棺の蓋が開かれてしまう。
目の前に飛び込んでくる、黒い影こと黒い王子。
ただ昨日と明らかに違うのは、涙をぽろぽろと流していることだった。目も鼻も口も真っ黒だと言うのに、目からは闇に溶け込むような透明な涙が降ってくる。
エマは黒い王子を凝視し、息を呑んだ。もはや悲鳴さえ上がらない。エマはいつの間にか恐怖が消し飛んで、王子の涙に自分まで苦しくなった。
『天使のエマ』『お人好しのエマ』と人は勝手なことを言うけれど……
「…………助けてくれ……エマ……」
黒い影から一際大粒の涙が零れたとき、エマは王子に向かって手を伸ばしていた。
途端に鳴り響く鐘の音――――
エマの手は黒い王子に届くことなく、宙を切った。
――――二日目の午前一時がやってきたのだ。
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