【完結】胡瓜にくびったけ!

高城蓉理

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第一話 夜更けに沁みる博多うどん

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◆◆◆


「高取さんは、明治通り沿いで いいんだっけ? 」

「ええ。あのっ、福重さん、すみません。ちゃっかり私までタクシーに同乗させて頂いて 」

「別に何も気にする必要はないよ。終電にはフルダッシュしなきゃ間に合わなかったしね。どうせ同じ方向なんだから、一緒に乗った方がいいし 」

「はい。ありがとうございます 」

 その晩、福岡の上空は久し振りの美しい十三夜に恵まれていた。
 美波にとって今日のリモート会議に参加させてもらったのは、スキルを磨く上で素晴らしいプラスになったと思う。だけど自宅を出てからは、既に短針が一周と半分近くの時間が経過していた。終電を逃して疲れ果てていたところに、福重からタクシーの同乗の誘いがあったのは助かったけど、神経も肉体も緊張しっぱなしで心臓がずっとバクバク鳴っているような気がした。

「昨日は挨拶回りで 今日は深夜まで会議って、マネージャーも なかなかのスパルタだよな。久し振りに新卒社員が営業に配属されたんだから、もう少し気を使えばいいのに 」

「ええ。でも今日の会議は私にとっては有意義でした。今はまだコピー機の扱いすら怪しいですけど、少しでも知識は付けていきたいので 」

「まあ、テレビ会議は滅多なことではしないから、確かにそうではあるんだけどね。ただ高取さんって実家通勤だよね? 親御さんとかは毎日帰宅が遅くなることには、心配はしてない? 」

「心配…… はされてなくはないですけど仕事ですし 」

 美波は否定も肯定も し難い内容に閉口すると、福重の表情をチラ見した。福重もさすがに週の初っ端からの長時間拘束に疲れたのか、ネクタイを弛めている。ネオンがぼちぼちと消灯していく中洲の街をタクシーから眺める風景は、自分も少しは大人の仲間入りをしたような気分だった。
  

「……高取さんは、少しは仕事には慣れた? 」

「えっと、そうですね。まだ何が分からないかも、わかってないってのが正直なところで。働いてお金を頂くって大変なんだなって実感してる最中です 」

「まあ、最初は みんなゼロからのスタートだし、特にうちの部は営業だから 一年は流れを体感しないと掴めないところはあるよね。ところで高取さんは、何でうちの会社を志望したの? 」

「動機ですか? 」

 美波は一瞬言葉に詰まると、少し考えるように間を取った。

「……私は地元の企業に就職先を探してたので。昔から明太子が好きなので、それなら食品会社がいいなと思って 」

「そうなんだ。でも高取さんの大学からなら、就職で関西とか東京に出る人も多かったんじゃないの? 」

「ええ、まあ。でも私は福岡が好きなんで、社会人として慣れるまでは地元で生活をしたくて 」

 就職活動をするときに、美波の中では上京という選択肢は浮かばなかった。正臣は好きにしろと言っていたけど、現に彼はこの福岡の地で仕事を持っている。美波が何処かに行けば、正臣は自動的に帯同しなくてはならないし、自分の都合で彼を巻き込むのは適切ではないと思っていた。

「へー もしかしてさ、高取さんって彼氏とかいるの? 」

「えっ? 」

「おっと、ごめん。こんなことを聞いたらセクハラだよね。地元を離れたくない理由を邪推しただけだから。悪い、今のは忘れて 」

「……いいえ。気にしないで下さい。私には交際相手はいないので 」

「えっ? いまフリーなの? こんなに可愛いらしいのに? 」

「いや、そんなことはないですけど…… まだまだ卵から羽化もしてないような状態なので、暫くは仕事に邁進しようと思って  」

「そっか。何だかそれはとても勿体ない気がするな 」

「えっ? 」

「高取さんって、凄く魅力的なのに 」

「……気を遣って頂いて、ありがとうございます 」

「別にお世辞じゃないよ 」

「はい? 」

 美波は無意識に顔を真っ赤にすると、言葉を遮るように咳払いをする。

 今、この人は一体何と言った?
 ……困る。
 好意を寄せられたって、こちらには面倒な事情があるから、この手の話は昔から得意でないのだ。
 
「おっと。高取さん、本当にこの辺りで大丈夫? 家の前まで着けても僕は構わないけど 」

「はい。帰りに夕飯…… いえ、コンビニに寄りたいので、大通りの方が都合がいいんです。あの、福重さん。タクシー代は、私も半分払います 」

「別にそれはいいよ。これは必要経費だし、明日の朝、総務に言って清算するから 」

「はあ…… 」

「それより高取さん 」

「はい? 」

「さっきから首の辺りが赤いように見えるけど、怪我でもした? 」

 福重の腕が、こちらに伸びてきたような気がした。美波は突然のことに一瞬硬直したが、直ぐ様 我に返る。そこだけは誰にも触られるわけにも、バレるわけにもいかない。美波は間一髪のところで声を上げると、福重の興味を逸らすことに徹するのだった。

「え゛っ!? それはっッ、気のせいではないですかね? 」

「そう? 」

 美波は取り繕うように首筋を押さえると、ひきつりながらも笑顔を作る。一瞬、滅菌パットを貼り忘れたのかとドキリとしたが、手にはザラっとしたガーゼの感触があった。

「というか、ゴミがくっついてるんだと思います。すみません、車を降りたら取りますので 」

「それなら…… 良いけど。何か怪我をしているように見えたから 」

「ご心配をお掛けしてすみません 」

「そうだ。また今度、繁忙期が落ち着いたタイミングで、飲みにでも行こうよ 」

「へっ? 」

「ほら。会社の連中はおじさん達ばかりで、年も離れてるし。あっ、僕がおっさん呼ばわりしてたのは、マネージャーたちには内緒にしておいてね。僕らは部の中では年齢も近いし情報交換はしておきたいから。じゃあ、また明日 」

「あのっ、今日は朝から本当にありがとうございました。えっと、お休みなさいっ 」

「ああ、おやすみ…… 」

 美波は慌てて首元を髪の毛で覆うと、タクシーを素早く降りる。
 会社の人から、サシで飲みに誘われる…… なんて経験は、今までに一度もない。と言うか、正臣以外の男性と二人きりで食事をしたことすらない。

 これって、まさか口説かれてる? 
 いや、そんなことより……
 もっと深刻なのは首筋のを福重に見られたかもしれないことだ。

 首には きちんとパットを貼ってカモフラージュをしているし、福重の指摘は勘違いか何かだろう。
 美波は首元に髪が掛かっているのを確認すると、ゆっくりとコンビニへと向かう。そして煌々としたお月様を見上げると、少しだけ溜め息を付くのだった。



 美波は口煩い正臣の不在を良いことに、しこたまアイスとカップ麺を買い込むと、とぼとぼと夜道を歩いていた。極度の疲労と気が進まないことは、食べて忘れるしかない。夜中のアイスを口にする楽しみは、背徳感と罪悪感が入り交じる。でもそれくらいしなければ、気持ちを保てそうにないのだ。

 美波は母校の学園都市に歩を向けると「ハア」と再び息を付いた。
 自分が生まれ育った百道ももちの地名は、往来する人々の足跡が東西縦横に交差する様を【百の道】と表し、転じて【百道】となったと言われている。美波のご先祖様は、酒癖の悪さという不名誉の副産物ではあるが、この地で代々 河童と共存しながら、慎ましく暮らしてきたのだ。
 
 自分は新しい世界に飛び込むことを恐れている。だけど逃げてばかりいても、何も始まらない。
 恋をする、という感覚は未だにピント来ない。これから先、ずっと一緒にいたいと思える男性に、出会える日など果たしてあるのか、想像が付かないのだ。
 でも二十二年間、正臣の人生を棒に振ってきたことは事実であって、自分の立場が理解できないほど もう子どもではない。出きることならば早く嫁に行って、正臣を解放してあげなくてならないし、大学まで出させてもらった分、仕事に励みたいなど 悠長なことを言っている時間はないのだ。

 美波はあっという間に昔ながらの古民家に到着すると、暗がりの中 静かに引戸を開いた。
 家の中の電気は全て消えたままで、やっぱりアイツは若松北九州で羽を伸ばしている。まあ、毎日毎日こんな小娘のお守りをしているのだから、たまには憂さ晴らしはしないと 向こうも身が持たないとは思う。だけど美味しいものを食べて、夜の街でけしからんことをしているかと思うと、些か不潔ではないだろうか。
 口煩いところはあるけど、アイツが家にいないのは 面白くない。それにお腹を空かせて帰宅して食べるものが何もないのは、久し振りのことだった。

「ただいまー って、誰もいないか 」

 美波は独り言を呟きながら 玄関で靴や鞄を脱ぎ散らかすと、ストッキングに手を掛ける。正臣がいないのなら、こちらも自由にやらせてもらうと開き直りの境地だ。つーか、こういう微妙な気分のときほど、従者は主人を支えるもんでしょ。それなのに今日に限って留守にするなんて、タイミングが悪過ぎるっッ。
 美波は廊下に着ていた服を放りながら、タンクトップとガードル一枚になると、台所へと向かう。可動域の狭いシャツやら、タイトスカートを脱げば、気持ちも幾らかは軽くなるものだ。幸い明日は午後出勤だし、少し溶け気味なメロンアイスは冷やしてから頂こう。それから取り敢えずはビールとカップ麺でも啜ろうか。

 でも、不思議なことに…… 
 キッチンに進むにつれて、何だか品のいい出汁の香りが鼻を掠める。奥の方からは リズムよくネギを刻むような音がするし、それにその響きの向こうには、何かを揚げているのかパチパチと甲高い音が響いていた。

「えっ? もしかして…… 正臣? 」

「ああ。美波。お帰り……って、オ゛イっッ! お前、何て格好をしてるんだよっッ 」

「はい? んっ? ……あ゛っッー! 」

 美波は時間差で自らの醜態に気付くと、慌てて障子の裏に隠れる。正臣は珍しくシャツとスラックス姿のまま台所に立っていたようで、余程驚いたのか貝杓子おたまを抱えたまま目を丸くしていた。

「オイっッ。お前、とうとう疲れすぎて、頭がおかしくなったのか? 」

「違っ! だって正臣は泊まりで出張って言ってたし、家に誰もいないと思って 」

「アホ。そうだとしても、その格好は無防備過ぎるだろ。昼間だったら、宅配便とか書留だって来るのに、お前は痴女にでもなりたいのか? ったく、さっさと服を着てこいっッ。しかも何か海の匂いがするんだけど、お前 一体どんな仕事をしてるの? 」

「なっ。何よ、その言い方っ。仕方ないでしょ? 毎日 水産加工物に囲まれて、仕事をしてるんだから。っていうか、もしかして…… 私の下着姿に興奮したんでしょ? 」

「アホ。こっちはお前が生まれたときから、ずっと面倒をみてるんだよ。ガキ相手に、今さら発情するかっッ 」

「なっッ…… 何もそこまで言わなくてもいいでしょ? デリカシー無さすぎ! こっちだってただの冗談のつもりなのに、言い過ぎよ 」

「そうかよ。じゃあ、美波はそんなデリカシーのない奴が作った  ごぼ天うどんは、勿論食べないってことでオーケーなんだな? 」

「えっ? うどん?  」

「ああ。俺の主人は本当はどうしようもない我が儘娘だけど、今は精一杯ネコを被って社会人を頑張ってるみたいだから。それなら夜食でも作ってやろうって、仕事を巻いて北九州から帰ってきたんだけどな 」

「はい? あの、正臣? それって…… 」

「そのままの意味だよ。どうすんだ、美波。食うのか? 食わないのか? 」

「……食べる 」

「じゃあ、いつまでも半裸でなくて、着替えてこい。発情はしないけど、普通に目のやり場には困るから 」

「……はい 」

 美波は渋々返事をすると、Tシャツと短パンに着替える。そして恐る恐るダイニングへと戻ると、再び顔を出すのだった。
 薄明かりだけが点いている食卓には、美波が好きな【ごぼ天うどん】の湯気が立ち込める。しっかり魚介の風味が香るお出汁は透き通り、いりこやあご飛魚や煮干し、昆布の合わさった芳醇な香りがする。博多でもうどんの味付けには、関西と同じく薄口醤油を使うので、つゆの色は薄い。砂糖やみりんを入れて、少しだけ甘めの味付けにしてあるのは、美波の好みに合わせてのものだ。

「熱いから、火傷しないように気を付けろよ 」

「うん 」

 美波は器に口を付けると、ゆっくりと汁を啜る。鼻に抜けるお出汁の香りはいつもと同じで、ごぼうの天麩羅から染み出した油分が、食欲をそそる。コシをなくすように柔らかく茹でられた麺は、汁を吸って旨味すら感じられた。

 額からは一筋の汗が流れている。
 でも、温かい……
 湿気を吹き飛ばすように扇風機が回る室内で、熱い液体が喉元を過ぎていく感覚は 何とも言えない贅沢さが感じられるのだった。

「ごぼ天がサクサクしてて美味しい。それに麺もくたっとしてて、柔くて安心する 」

「それは、どうもお粗末様なことで。今日は時間がなかったから、うどんは冷凍麺を重曹で茹でただけだし、出汁もパックを使っているから、あんまり手間は掛かってはないけど 」

「うん 」

 美波はごぼうの天麩羅とネギしか乗っていないうどんを、丁寧に啜っていた。正臣はいつもごぼうを薄く斜め切りにして、かき揚げのように天麩羅を作ってくれる。正臣は殆ど人間の食べ物は口にはしないのに、その手が作る料理の味はとても繊細で優しいのだ。
 

「ねえ、正臣…… 」

「何だ? 」

「正臣はどうやって家まで帰ってきたの? もう特急は終わってたんじゃない? 」

「……玄界灘を泳いで帰ってきた 」

「はいっッ? 」

「嘘だよ。用事もないのに、若松に留まっても仕方がないだろ。後輩の車に乗せて貰ったんだよ 」

「そっか。でも正臣も、たまには ゆっくりしてきても良かったのに 」

「ハア? 急にどうしたんだ? お前さん、もしかして熱でもある? 」

「違っっ。いや、その…… 正臣は毎日 自分の仕事をしながら、私の面倒まで押し付けられてる訳だから。悪いなと思って。それに正臣だってお年頃なのに 」

「……別に嫌じゃないよ 」

「えっ? 」

「お前の従者をやるのは、面倒なことばっかりだけど、メリットもあったからな。里に居たままだったら、進学もしなかっただろうし。やりたいことは、やってるよ。俺にとってはウィンウィンだから気にしなくていい。まあ、まさかお前に そんな心配される日が来るとは思ってなかったけど 」

「…… 」

 美波は正臣の意外な返答に、言葉が浮かばなかった。自分だったら、こんな迷惑事ばかりの じゃじゃ馬娘の世話をするなんて真っ平ごめんだと思っていたからだ。

「お前さんこそ、こんな時間に帰ってきたってことは、家まではタクシーで帰ってきたのか? いい身分なことだな 」

「なっ、違うっ。確かにタクシーでは帰ってきたけど。 会社のお金だし、先輩と同乗だから 」

「……先輩って、そいつは男か? 」

「そうだけど? あっ、でも言っとくけど全然そういうのじゃないからね。年が近いから、お世話になってるだけだし。すぐに交際とかに結びつけないで 」

「これくらい日常会話の範疇だろ? 」

「なっ…… じゃあ私が過剰反応だって言うの? 」

 美波は頬を膨らましながら正臣を一蹴すると、プンスカしながら うどんを啜る。正臣はそんな美波の態度に一瞬吹き出しそうになったが、深追いはしないことにした。

「……美波 」

「なに? 」

「もう今晩はうどんを食ったことだし、夜中にアイスは止めとけよ。糖質は程々にしておくんだな。あと風呂は一応沸かしてあるから、ぬるかったら適当に追い焚きして。じゃあ俺は明日が朝早いから、もう寝るわ 」

「わかった 」

「なんだ? 今度は急に素直じゃないか? 」

「いつも通りよ 」

「朝は起こしてやれないから、目覚ましはかけて寝ろよ 」

 正臣は欠伸を飲み込むような仕草を見せると、障子に手を掛ける。

 何故だろう……
 やっぱり今日は正臣の背中が、少しだけ優しく見えるような気がした。
 
「ねえ、正臣 」

「何? 」

「ありがとう 」

「……どういたしまして 」

 正臣は美波の感謝の言葉を、静かに受け止めると 自室へと去っていく。美波はその後ろ姿を見送ると、再び ごぼ天うどんを見つめるのだった。

 自立の二文字が、頭の中を巡るような気がしていた。
 いつまでも 正臣に頼っていてはいけないし、もっと信用が得られるくらいの大人になりたい。美波はそう心に決めると、今日までは 温かいうどんの優しさに甘えることにした。






 
 
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