浮き世にて

わこ

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4.ご飯とお酒

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「ほんとにいいんですかこんなに。査定の十倍……」
「構いません。これは金額も期限の縛りもない、あくまで個人的なやり取りです。店としての取引にしてしまうと無許可営業になりますのでむしろ私が困ります」
「でも……いや、すみません。次の給料入ったら即行返しに来るんで……」
「お急ぎになる必要はありませんよ。引き取りにいらっしゃるまで、この鏡は私が責任を持ってお預かりいたします」






***






「……すっげえいい人だったんですよ」
「それはなにより。変わり者ですが情に厚いところもある店主ですからね。困っているあなたを見て放っておけなかったのでしょう」
「ほんと、こうやって今飯食えてんのも全部あの人のおかげです」
「そうですか、そうですか。それなら私もこうしてまたお兄さんに会えたのはあれのおかげと言う訳ですね」

 平賀と名乗ったあの店主さんから鏡と交換に金を借り受けてから数日。先日の小料理屋へと仕事帰りにフラリと立ち寄り、前に坂田さんが絡んだあのご老人と顔を合わせた。

 女将さんのいらっしゃいませにペコリと会釈し、俺に気づいておやおやと笑ったおじいさんにもペコリと応じ、手招かれるままその隣に腰掛けた流れで話したのは古物店のことだった。美人な女性店主は存在しなかったが無表情な美男店主ならばいた。

 物腰穏やかで妙に色っぽい男。口調はきわめて淡々としているが縁もゆかりもない赤の他人に金の工面を付けてくれた。
 とてもいい人。俺の月並みな感想にもうんうんと笑顔でうなずくおじいさん。顔見知りだったこともありペラペラ喋るのを聞いてもらっていたが、先日あの店の補足情報を出してくれたのもそもそもはこの人だった。

「やっぱあの店のこと詳しいんですか? 平賀さんとはお知り合いなんですよね……?」

 店主のことをよく知っているような口ぶりだったのを覚えている。尋ねてみればこの人は懐かしむように目元を和らげ、手元のお猪口を口に運んだ。

「そうですねえ。長い付き合いです。あれもなかなか良く育ちました」
「あ、もしかしてご親戚の方とか?」
「いえいえ。縁の深い他人ですよ」

 縁が深いならその時点でもはや他人とは言わないのでは。
 穏やかなその雰囲気は孫の成長を見つめるじいちゃんの姿そのものだ。コテンと首を傾げてみるがおじいさんは愉快そうに笑っただけで、まあいいかと俺もそれきり考えるのはやめることにした。

 あの店主さんのおかげで二週間を生き抜く資金ができた。安くて美味いこの店にも来られた。
 ここの料理は本当に美味しい。筑前煮のごぼう噛みしめた。薄すぎず濃過ぎず、歯ごたえを残しつつも余計な力はいらない柔らかさ。一人暮らし生活の長い俺もそれなりに料理はできるが、どこか懐かしささえ思わせるこの味は一度口にすれば病み付きになる。

 そう広くはない小料理屋だ。程よく賑わい、客も落ち着いて食事を楽しんでいる。和やかな良い店には良い客ばかりが集まるようで、悪酔いして騒ぐ人間や礼儀を欠いた奴など一人もいない。
 おじいさんの隣でカウンター席に座りながら、後方の座敷へと軽く視線を巡らせた。ほっとする店内を眺め、それから再び綺麗な料理を見下ろしてじんわりと満足を得る。すると左手のすぐ横に、すっと女将さんが小さい盃を差し出してきた。隣のご老人の前にあるのと同じ、日本酒に似合いそうな白磁のお猪口だ。

「え……?」

 見上げた女将さんがふふっと笑う。おじいさんへと視線を移せば、とっくりを俺の方へと掲げていた。

「さあさあ、お兄さんも。どうぞお付き合いくださいな」
「あ……はあ、じゃあ、すみません。お言葉に甘えて」

 両手で盃を差しだした。おじいさんにトクトク酒を注がれる。
 小さなそれを軽く顔の前にかざし、頭を下げるとそのまま遠慮なく口へ運んだ。焼かれる喉。後味はいい。ちゃんと美味い酒っていつ振りだろう。
 一気に煽いだ俺ににこにこと笑みを向け、おじいさんは再び酒を注いでくる。
 
「お兄さんもいける口ですかな。お若い方の飲みっぷりは見ていて気持ちがいいものです」

 さあさあさあ。そう言って徳利を差し出してくれるが、人の酒である手前いささか躊躇う。けれども笑顔で勧められ、促されるまま酒を喉へと通していった。
 合間に交わす言葉は他愛のないものばかり。しかし不思議と心地良い。このご老人の雰囲気が穏やかで落ち着くからか。この人だったら妻を裏切りよその女に量産されたコンパクトをプレゼントしようなどと不届きなことは思わないだろう。



「あ、じゃあその料理人さんとずっと二人で?」
「ええ、そうなんです。彼の料理が皆様方から好評なのでなんとか切り盛りできています」

 謙遜する女将さんも交えて三人で話し込む。この店は目の前にいる直子さんと、調理場にいる男の人の二人だけで営んでいるらしい。
 確か、イチヤ君。と言ったか。先日ここを訪れた時に女将さんが調理場に向けてそう名前を呼んでいた。
 夫婦で営んでいるのだろうか。思ったままを素直に訊ねてみると、女将さんはクスクスと笑った。

「違うんですか?」
「そうですねえ。弟みたいなものでしょうか」
「弟……」

 照れ隠しでもなんでもなく素のままに返される。その言葉と表情通り、家族への愛情のような雰囲気を感じた。

「元は私一人で始めたのですが、彼が調理場に就いてくれてからお客様も増えましてね。本当に働き者のいい子なんです。いちや君には感謝しかありません。もちろん、彼を紹介してくださった美山さんにも」
「いえいえ。直子さんのお役に立てたなら何よりです。あれも昔から手先は器用でしたからねえ」

 美山と呼ばれたおじいさんは穏やかに笑ってうなずいた。この人が厨房にいる料理上手なイチヤ君を連れて来たのか。

 どうにも不思議なご老人だ。女将さんと言葉を交わすその横顔をそっと眺めた。
 優しげな目元には年齢を思わせる皺がある。けれども背筋はピンと張り、全体的に上品な雰囲気は人と成りを表しているように思えた。
 気品漂う美山さんの隣で箸を伸ばしたのは出し撒き卵。たったいま出されたひと品だ。ふんわりと箸が通り、口にすれば出汁の旨味と程好い触感に味覚が包まれた。

 いちや君は腕のいい料理人。欲を言うなら、女の子だったらな。仮に女性だったとしてもだからなんだという話ではあるが。
 微妙に切ない心地でふかふかの卵を噛みしめながら、一人しみじみ煩悩を頭の外へと追いやった。その横では美山さんがカラカラと徳利を振っている。

「おやおや。直子さん、同じもの追加してくれますか。お兄さんは他にお好みがありますかな?」
「え? いえいえっ、そんな……」
「どうぞ遠慮なさらず。これも縁でしょう。お若い人とご一緒できるのは年寄りにとって嬉しいものなんです」

 おじいさんは笑顔を崩さず。それを見ている女将さんはうふふとなんだか楽しげだ。二人とも優しい。店の雰囲気も落ち着く。ヘコヘコしているうちに結局は流され、トクトクと注がれるままに酒を次々仰いでいった。

 メシは美味いし酒は進むし、ほぼ初対面に近い美山老人の話は掴み所がないもののなぜだかとても惹き込まれる。
「ご家族は?」と聞けば「それなりに」などと返ってきて、「ご結婚は?」と訊ねれば「していたような記憶もありますねえ」と。

 ふざけているのかはぐらかされているのか。それは分からないがニコニコと淀みなく笑顔を絶やさない美山さんの表情は決して嫌なものではない。

「あ、じゃあ……お孫さんとかは……?」
「似たようなのがチョロチョロいましたねえ。過去に数人ほどでしょうか」
「…………」

 謎だ。さっぱり意味が分からない。全くもって不思議な人だ。

 応答一つに対して一注ぎ返ってくるこの状況。美山さんは人に酒を飲ませるのが上手い。
 そもそも俺はそこまで無茶な飲み方をする気質でもないのだが、この時ばかりはいつの間にか、自覚も危うい中で飲み続けていた。
 金が入った。二週間を無事に生きられる。それでホッとしたのも多分にあった。

 そうしてどれほど時間が経ったか。辛うじて呂律を保ってはいるが、いくら目玉をひん剥いていてもその先で焦点は合ってくれない。
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