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116.破壊者Ⅷ
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写真は警察署に持って行った。今回最初に対応してくれたのは女性の警察官だった。警察とは言え女性に向けてあんな写真を差し出したくはない。その人には申し訳ないが、さすがに男の人を呼んでもらった。
怖がればいいのか気味悪がればいいのか怒鳴り散らせばいいのかさえももはやよく分からなくなっている。表面上だけでも冷静でいられるのは、瀬名さんの存在があるからだ。
ポスト前のカメラ映像で犯人の顔は識別できなかった。ストーカー被害を受けているという明確な証拠が手に入っただけだ。
つばの深い黒いキャップで目元は全くと言っていいほど見えず、大判のストールが鼻の位置までほとんどすっぽり覆い隠していた。ストールがなかったとしても特定は困難だっただろう。終始俯き加減のままで、明らかにカメラを警戒している。レンズの角度は確認されていたようだ。そうまでして写真を送り付けてきた。
年明けのつもりでいた帰省は予定より少しだけ早めることにした。瀬名さんにそうするようすすめられ、それに俺も頷いた。
実家を出てから二年近く。その間に知り合った誰かのうちに、あの手紙と、あんな写真を、寄越してくる男が交じっているのだろうか。
本当に顔見知りだとするなら、今年に入ってから出会った人物である可能性が高い。執拗に手紙を送りつけてくるような奴だ。もっと前に知り合っていたならとっくにこれが起きていた。
そのため時期を絞るなら今年。さらに範囲を狭めれば夏以降。最初の手紙が届いた頃に焦点を合わせるなら秋の前後か。
イベントスタッフの派遣で顔を合わせてきたのは同じ立場のバイト組の奴らと、至ってまともそうな社員の人たち。普通の人たちだ。みんなちゃんとしていた。多少の会話も時にはあったが、話していて不信感を抱いた相手なら多少は記憶に残るはず。
休憩中に言葉を交わしたバイト仲間は明るそうな人たちだった。日雇い派遣で労働できる人間は法律的に限られているから、単発で雇われているスタッフのほとんどは俺のような学生だ。
指示出しをしていた社員さんもとにかく真面目そうな男性で、グッズ販売のブースで作業していてだいぶ客が捌けた時、うちの近くの飲食チェーンで出していた期間限定メニューの話によって少しばかり空気が和んだ。あのメニュー復活しないですかね。そんなふうにほんのちょっとだけ盛り上がったのを覚えている。
最近のバイト先の人間関係で思いつくのはそれくらい。派遣バイトでも、あとは花屋のバイトも、接客対象の人物となると多数。
その中の男性客だけに絞れば数はだいぶ減るものの、全てを覚えているかと言われれば答えはどうしてもノーになる。何度も顔を合わせている相手でもなければいちいち覚えてなどいられない。
花屋には常連の男性客も数人いるけど、みんな良さそうな人ばかり。なにせ日頃から花を買いに来るくらいだ。多少なりとも精神的な余裕がなければ花など買わない。
あのお客さんだってそう。優しくて物腰柔らかな。あの人も初来店の時以降から頻繁に花を買いにきてくれる。
持ち帰るのはいつも同じ。黄色いガーベラを一本。ラッピング用のリボンはクリーム色。
注文の内容を絶対に変えず、週に一度は必ずやって来る。
「…………」
週に一度は、必ずやって来る。買っていく花を誰に贈るのか俺が知っているはずはない。
人に贈るための花であるのか、それですら俺には知る由もない。
「考えてみたんだけどな」
「え?」
常に気を張り詰めさせていると先に神経の方がやられる。そんな馬鹿げた事態は防ぐべきだと言って瀬名さんが昨日買ってきたのは紅茶。
桃の匂いがする。しかもカフェインレス。今夜もまたその紅茶を淹れたから、ふんわりした香りが部屋には満ちている。
「前に花屋に来る客の話してただろ。三十前後の。ガーベラ買いに来るって言う」
「あ……はい」
ちょうど頭に浮かんでいた人のことを話題にされて、手にしていたカップをテーブルに置いた。
三日前にシフトに入っていた時にもあの人は花を買いに来てくれた。いつものように黄色のガーベラ。いつものようにクリーム色のリボン。
あいさつ程度の言葉を交わすのもこれまで通り何も変わらず。いつも必ず礼儀正しい人だ。相手がバイトでも腰が低い。
けれど三日前のその時は、少しばかり、視線を感じた。そんなように思えた。ラッピング中にチラリと顔を上げれば思い過ごしではなくパチリと目が合い、一瞬焦ったふうの顔をしてあの人は困ったように笑った。
そのあとに、聞かれた。大丈夫ですかと。なぜなのかそんなことを聞かれた。
どうしてそう聞かれたのかは分からなかったが、大丈夫ですと俺が答えたら控えめな笑顔で返された。
大丈夫ですか。何がだろう。なんであの人は、あんなことを。
その時は深く考えなかったけれど今になって少しずつ、ささやかだった疑問が大きくなっていく。その疑問を補強するかのように、瀬名さんはいくらか厳しい顔で言った。
「怖がらせたい訳じゃねえが、少しおかしいと思わねえか。ガーベラ一本だけ買い続けるってのも」
「え……いえでも、あの人は……」
「考えすぎかもしれないってのは一旦頭から消した方がいい」
「…………」
それは確かに、その通りだ。何せ俺は相手の顔を知らず、男という以外の手がかりもなく、右か左か、後ろか前なのか、どこに注意を払えばいいかさえいまだに分からないままでいる。
「犯人がどういう奴かは分からない。少しでもおかしいと思うものにはなんだろうと警戒しておけ」
「…………はい。そうですよね」
カップには手だけを添えた。指先をジワリと温める。ふんわりとした香りのおかげで大げさな動揺は見せずに済んだ。
そういえばあのお客さんは少し前に、何かを言いかけていたことがあった。
あれはいつだったか。そんなに前のことではなかったはず。そう。そうだ。あの時だ。鉢植えのポットマムを俺が売り逃してしまった日。
普段から温和そうな人があの日はより一層穏やかで、しかしどことなくそわそわとして、それでなぜか、嬉しそうだった。
何を言おうとしていたのだろう。実は。そう言って、何かを言いたそうにしていた。けれどもあの人は途中で止めて、照れたような気恥ずかしいようなそんな笑顔と共に去っていった。
はにかんだ表情に俺には見えた。だが人の笑顔が意味するところを、外から完全に読み取れるだろうか。
「…………」
あの時俺に何を、言おうとした。
怖がればいいのか気味悪がればいいのか怒鳴り散らせばいいのかさえももはやよく分からなくなっている。表面上だけでも冷静でいられるのは、瀬名さんの存在があるからだ。
ポスト前のカメラ映像で犯人の顔は識別できなかった。ストーカー被害を受けているという明確な証拠が手に入っただけだ。
つばの深い黒いキャップで目元は全くと言っていいほど見えず、大判のストールが鼻の位置までほとんどすっぽり覆い隠していた。ストールがなかったとしても特定は困難だっただろう。終始俯き加減のままで、明らかにカメラを警戒している。レンズの角度は確認されていたようだ。そうまでして写真を送り付けてきた。
年明けのつもりでいた帰省は予定より少しだけ早めることにした。瀬名さんにそうするようすすめられ、それに俺も頷いた。
実家を出てから二年近く。その間に知り合った誰かのうちに、あの手紙と、あんな写真を、寄越してくる男が交じっているのだろうか。
本当に顔見知りだとするなら、今年に入ってから出会った人物である可能性が高い。執拗に手紙を送りつけてくるような奴だ。もっと前に知り合っていたならとっくにこれが起きていた。
そのため時期を絞るなら今年。さらに範囲を狭めれば夏以降。最初の手紙が届いた頃に焦点を合わせるなら秋の前後か。
イベントスタッフの派遣で顔を合わせてきたのは同じ立場のバイト組の奴らと、至ってまともそうな社員の人たち。普通の人たちだ。みんなちゃんとしていた。多少の会話も時にはあったが、話していて不信感を抱いた相手なら多少は記憶に残るはず。
休憩中に言葉を交わしたバイト仲間は明るそうな人たちだった。日雇い派遣で労働できる人間は法律的に限られているから、単発で雇われているスタッフのほとんどは俺のような学生だ。
指示出しをしていた社員さんもとにかく真面目そうな男性で、グッズ販売のブースで作業していてだいぶ客が捌けた時、うちの近くの飲食チェーンで出していた期間限定メニューの話によって少しばかり空気が和んだ。あのメニュー復活しないですかね。そんなふうにほんのちょっとだけ盛り上がったのを覚えている。
最近のバイト先の人間関係で思いつくのはそれくらい。派遣バイトでも、あとは花屋のバイトも、接客対象の人物となると多数。
その中の男性客だけに絞れば数はだいぶ減るものの、全てを覚えているかと言われれば答えはどうしてもノーになる。何度も顔を合わせている相手でもなければいちいち覚えてなどいられない。
花屋には常連の男性客も数人いるけど、みんな良さそうな人ばかり。なにせ日頃から花を買いに来るくらいだ。多少なりとも精神的な余裕がなければ花など買わない。
あのお客さんだってそう。優しくて物腰柔らかな。あの人も初来店の時以降から頻繁に花を買いにきてくれる。
持ち帰るのはいつも同じ。黄色いガーベラを一本。ラッピング用のリボンはクリーム色。
注文の内容を絶対に変えず、週に一度は必ずやって来る。
「…………」
週に一度は、必ずやって来る。買っていく花を誰に贈るのか俺が知っているはずはない。
人に贈るための花であるのか、それですら俺には知る由もない。
「考えてみたんだけどな」
「え?」
常に気を張り詰めさせていると先に神経の方がやられる。そんな馬鹿げた事態は防ぐべきだと言って瀬名さんが昨日買ってきたのは紅茶。
桃の匂いがする。しかもカフェインレス。今夜もまたその紅茶を淹れたから、ふんわりした香りが部屋には満ちている。
「前に花屋に来る客の話してただろ。三十前後の。ガーベラ買いに来るって言う」
「あ……はい」
ちょうど頭に浮かんでいた人のことを話題にされて、手にしていたカップをテーブルに置いた。
三日前にシフトに入っていた時にもあの人は花を買いに来てくれた。いつものように黄色のガーベラ。いつものようにクリーム色のリボン。
あいさつ程度の言葉を交わすのもこれまで通り何も変わらず。いつも必ず礼儀正しい人だ。相手がバイトでも腰が低い。
けれど三日前のその時は、少しばかり、視線を感じた。そんなように思えた。ラッピング中にチラリと顔を上げれば思い過ごしではなくパチリと目が合い、一瞬焦ったふうの顔をしてあの人は困ったように笑った。
そのあとに、聞かれた。大丈夫ですかと。なぜなのかそんなことを聞かれた。
どうしてそう聞かれたのかは分からなかったが、大丈夫ですと俺が答えたら控えめな笑顔で返された。
大丈夫ですか。何がだろう。なんであの人は、あんなことを。
その時は深く考えなかったけれど今になって少しずつ、ささやかだった疑問が大きくなっていく。その疑問を補強するかのように、瀬名さんはいくらか厳しい顔で言った。
「怖がらせたい訳じゃねえが、少しおかしいと思わねえか。ガーベラ一本だけ買い続けるってのも」
「え……いえでも、あの人は……」
「考えすぎかもしれないってのは一旦頭から消した方がいい」
「…………」
それは確かに、その通りだ。何せ俺は相手の顔を知らず、男という以外の手がかりもなく、右か左か、後ろか前なのか、どこに注意を払えばいいかさえいまだに分からないままでいる。
「犯人がどういう奴かは分からない。少しでもおかしいと思うものにはなんだろうと警戒しておけ」
「…………はい。そうですよね」
カップには手だけを添えた。指先をジワリと温める。ふんわりとした香りのおかげで大げさな動揺は見せずに済んだ。
そういえばあのお客さんは少し前に、何かを言いかけていたことがあった。
あれはいつだったか。そんなに前のことではなかったはず。そう。そうだ。あの時だ。鉢植えのポットマムを俺が売り逃してしまった日。
普段から温和そうな人があの日はより一層穏やかで、しかしどことなくそわそわとして、それでなぜか、嬉しそうだった。
何を言おうとしていたのだろう。実は。そう言って、何かを言いたそうにしていた。けれどもあの人は途中で止めて、照れたような気恥ずかしいようなそんな笑顔と共に去っていった。
はにかんだ表情に俺には見えた。だが人の笑顔が意味するところを、外から完全に読み取れるだろうか。
「…………」
あの時俺に何を、言おうとした。
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