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1. お隣さんⅠ
あの人は毎晩のように、俺の部屋へとやって来る。
「よう」
「……どうも」
「ケーキ食わねえか」
「食いません」
「駅前にできた店のだから美味いと思う。食ってくれ」
「いえ、結構です」
「まあいいから食え」
グイッと押し付けられた白い箱。強引にそれを持たされ、玄関の外側に立っているその人を鬱陶しい気分で眺めた。
マンションのインターフォンが鳴らされたのはついさっき。午後八時を少し回った頃だった。うんざりした。気も重かった。インターフォンを鳴らしたのが誰であるかは分かっていたから。
宅配が届く予定はない。友達を呼んでいる訳でもない。おそらく、と言うか間違いなく、ドアの向こうにいるその人は隣の部屋のサラリーマン。
そこまで理解していながら自分で玄関のドアを開けた。いい加減こちらも慣れっこだ。案の定と言うべきか、ドアの向こうに立っていたのは隣の部屋の住人だった。
見た目はマジメそうな人だ。平日はいつもスーツを着込んで、ネクタイも必ず締めている。身形のしっかりとした大人の男。とてもちゃんとした人に見える。中身はとんでもなかったが。
毎晩のように人の家のインターフォンを鳴らしては、食い物だとか実用品だとか何がしかを押し付けてくる。
思えばこのマンションに引っ越してきたあの日。あの時に俺は道を誤ったのだろう。今さら悔やんでももう遅い。この人のしつこさに頭を悩ませる毎日を送る事になってしまった。
「瀬名さん……お気持ちは嬉しいんですけど、こういうのホントに困るんです」
「嬉しいと思ってくれているなら良かった」
「都合の悪いとこだけスルーするのやめてもらえませんか」
困る、の所は聞かなかったことにされた。むしろ重要なのはそっちだ。手にしたケーキの箱を見下ろし、それからもう一度目の前にいる瀬名さんに顔を向けた。
玄関の内と外。この人がこれ以上足を踏み入れてきた事はない。しかし油断はできない相手だ。
いつもいつも頼んでもないのに必ず何かを持ってくる。食い物のときもあれば食い物ではないときもある。今夜は食い物の日だったようだ。
たったいま押し付けられたこのケーキは、少し前に駅の近くにオープンした店の商品だそうだ。あそこはフランスに本店を構える本格派の洋菓子店らしい。外観からして高級感が漂っているため俺は入った事がない。
この人はいつもこういう物を持ってくる。いらないと言っても勝手に置いていくから結局は受け取ってしまっている。
食える物なら食ってしまうし、食えない物も全て捨てずにとってある。けれどできればもうこれ以上は、心の底から遠慮したい。
「瀬名さん……」
「そのうち一緒に食事でもしよう」
「いえ、あの……」
「話がしたい。できれば近いうちに、二人きりでじっくり」
「…………」
じっくり話すような事なんて何もない。食事だってこの人とはしたくない。キッパリとそう言ってやる前に、瀬名さんはドアの前から一歩分身を引いた。
会社帰りにどこかの店で何かを買って、自分の家に入る前に俺の部屋を訪れる。買った物を俺に押し付けた後は、ほんの少し言葉を交わすとそれだけですぐに帰る。
今夜もまた瀬名さんはちょっとだけ表情を和らげ、静かに俺と目を合わせた。
「じゃあな。また」
「…………」
瀬名さんが帰るのはお隣。三○二号室。左端に位置するうちのドアから隣のドアに行くまでの距離はそんなに遠い訳でもない。
あの人が自分の家に入る瞬間までを見届けた事はなかった。その背をちらりとだけ盗み見て、それからすぐにドアを閉めた。
バタンと冷たい音が響く。少し後には隣からも似たような物音が微かに聞こえた。手にしたケーキの箱を見て、一つ零した重たい溜め息。
正直なところ甘い物は好きだ。中でもケーキは大好物だ。ここの店の高級ケーキも一度は食べてみたいと思っていた。
思ってはいたが、これをくれたのはあの人。毎晩毎晩なんらかの貢ぎ物をせっせと持ってくるあの男。
「…………」
けれどもまあ、ケーキに罪はないのだし。放っておいても腐らせるだけだし。
自分にそう言い聞かせ、綺麗な白い箱と共に部屋の奥へと引っ込んだ。
***
俺がこのマンションに引っ越してきたのは三ヵ月近く前の事だ。大学に進学するために地元を出て、都会の中心から少し離れたこの土地へとやって来た。
住宅街の一角であるマンションの周辺はとても静か。それでも俺からしてみれば、ここも立派な都会の一部。辺りをぐるりと見渡したところで田んぼもなければ畑もない。
地元は結構など田舎だ。実家の周囲には田畑が多く、家業が農家のダチもたくさん。
ウチは農家ではないけれど、家の庭にはデカくて白くて可愛いアヒルが一羽いる。農家でもなければ農場を営んでいる訳でもない我が家になぜアヒルがいるのかは知らない。死んだじいちゃんが山で取っ捕まえてきたのだったかどっかから貰ってきたのだったかその辺はよく覚えてないけど、とにかくそいつは縁側の向こうで毎日グワグワ言っていた。
そういう環境で育った。田舎生まれの田舎育ちだ。ご近所さんは牛とか豚とか鶏とかを飼っている率が極めて高い。玄関の鍵を閉めもしないで外出するのはどこのお宅でも日常茶飯事。防犯という概念がほとんどないから、玄関の引き戸を年がら年中開け放っている住民の方がどちらかと言えば多かった。
都会とは百八十度かけ離れた住環境。そんな場所で育ったことも原因の一つだと思う。都会での生活をスタートさせて俺が最初に困ったのは、ご近所さんとの距離感だった。
マンションは五階建て。俺の部屋はその三階。角部屋だからお隣さんは右側の一世帯のみ。
右隣は三○二号室。玄関横の表札を確認したところによれば、瀬名さん、という人が住んでいるらしいその一室。
引っ越してきた当日は丸一日を消費して部屋の中をあらかた整えた。そしてその夜のこと。ちょっとした手土産を持って隣の部屋の前で立ち尽くした。
日中にインターフォンを押した時にはどうやら留守のようだった。夜になって再び隣の玄関前まで来たのはいいが、果たして都会に住まう人達は引っ越しの挨拶なんてするのだろうか。
田舎は田舎で閉鎖的だけどご近所同士の付き合いは深い。けれどここは都会のど真ん中。粗品を片手に呼ばれてもいないのにこんばんはと訪れて、不審そうな顔の一つでもされてしまったらどうすれば。
上の階と下の階まで訪れる気はさすがにないけど、せめてお隣さんとは良好な関係を築きたい。最初はそう思っていた。けれどここに来て不安になった。
インターフォンを鳴らすか鳴らさないかで廊下に突っ立ったまま悩みこむ。しかしそんな時、カツッと響いた。硬質な靴音が。
「……うちに何か?」
静かに声をかけられた。階段が設置してある位置は小さなエレベーターの隣で廊下のだいたい真ん中辺り。その方向に顔を向ければ男の人が歩いてくる。背の高い、スーツを着た、身形のしっかりした男性だ。
都会のサラリーマンっぽいその風体に一瞬たじろぐ。不思議そうに首を傾げられ、慌てて自分の姿勢を正した。
「あの、ごめんなさい。瀬名さん……ですか?」
「ああ」
頷かれて体ごと向き直る。部屋の近くまで来たその人に俺もいくらか歩みを寄せた。
「突然すみません。隣に引っ越してきた赤川と申します。一応ご挨拶をと思って。これ、もしよろしければ」
手に持っていた土産を差しだした。俺と一度目を合わせ、その人もすんなりと受け取ってくれる。
中身はただのコーヒーセットだ。嫌いじゃなければいいけれど初対面の人の好みなんて知らない。
会釈程度に軽く頭を下げれば、この人も同じようにして返してくれた。
「わざわざどうも」
「ごめんなさい、こんな夜分に。昼間に伺ったら留守だったようなので」
「ああ、そうか悪いな。日中はいつも空けてる」
ここは単身者向けのマンションだ。この人もたぶん一人で住んでいるのだろう。昼間は仕事であることもその格好を見れば分かった。平日の昼間に遊んでいられる春休み中の学生とは違う。
いかにもデキそうな男の人。そう見える。何も考えずに腑抜けた普段着で出てきてしまったのを少し悔やんだ。自分を比較させてしまうと思わず恥ずかしくなってくるほど、目の前にいるこの人はきちんとしていてカッコイイ。
「それじゃ、俺はこれで。どうぞよろしくお願いします」
帰宅してきたところで長々と引き留めるのも悪い。すぐに自分の部屋へと戻るつもりでそう言った。
けれどそれはできなかった。この人が、俺を引き止めたから。
「下の名前聞いてもいいか」
「え?」
「名前」
パシパシと、瞬きを二回。想定していなかった事を聞かれて少し戸惑う。
「……遥希、ですが……」
俺が名乗るとこの人は微かに頷いた。興味深げにこちらを眺め、そして更に聞いてくる。
「学生か?」
「ええ、はい」
「年は。十八くらいか」
「……はい。そうですね」
「このあと食事でもどうだろう」
「…………はい?」
肯定でも了承でもなく疑問で返した。
アヒルと一緒に育った俺にもこれくらいはさすがに分かる。会って間もない人間を、この流れでいきなり食事に誘ってみる人はそうそういない。サラリーマンが男子学生を相手にしているとなればなおさら。
「えっと……」
「腹減ってないか」
「……いえ。特に」
「そうか。残念だ」
なにが。
仕事ができそうな都会のカッコイイお兄さん。ほんの数十秒前にはそんなイメージをこの人に抱いた。今は少しずつ不可解な印象にすり替わってきている。
「あの、瀬名さん……」
「恭吾」
「え?」
「俺の名前」
「……そうですか」
だからなんだ。そう呼べって話か。なんでだ。
困惑しつつ押し黙っていると、瀬名さんは一歩足を踏み出してさらにこっちへ近づいた。思わず身を引く。だがすぐに埋まる。俺が下がったその分だけ瀬名さんが距離を詰めてくる。
「機会があったら食事をしたい。ぜひ、二人で」
「……え」
食事がしたいらしい。俺と二人で。
二人で、のところをいささか強調された気もする。
「……あの」
「好きな食い物は?」
「は……」
「何が好きか教えてほしい」
「え……あ……ケーキ、とか……」
「……なるほど」
肉でも魚でも寿司でもステーキでもなく、チビッ子が言うようなお菓子の名前を弾みでうっかり挙げてしまった。なんで答えちゃったんだろう。後悔したけどもう遅かった。
この翌日の夜からだ。瀬名さんによるプレゼント攻撃が始まったのは。
毎晩飽きずに多種多様な贈り物を持ってくる。その贈り物は食い物であることが最も多い。特に甘い物をよく選んでくる。中でもケーキが頻発するのは、あの時の俺の返答が原因だとしか思えない。
隣人との距離感に悩む必要は初めからなかった。都会のマンションで一人孤独に膝を抱える余裕もない。
なんと言うかこの人はかなり、グイグイくるお隣さんだ。
「よう」
「……どうも」
「ケーキ食わねえか」
「食いません」
「駅前にできた店のだから美味いと思う。食ってくれ」
「いえ、結構です」
「まあいいから食え」
グイッと押し付けられた白い箱。強引にそれを持たされ、玄関の外側に立っているその人を鬱陶しい気分で眺めた。
マンションのインターフォンが鳴らされたのはついさっき。午後八時を少し回った頃だった。うんざりした。気も重かった。インターフォンを鳴らしたのが誰であるかは分かっていたから。
宅配が届く予定はない。友達を呼んでいる訳でもない。おそらく、と言うか間違いなく、ドアの向こうにいるその人は隣の部屋のサラリーマン。
そこまで理解していながら自分で玄関のドアを開けた。いい加減こちらも慣れっこだ。案の定と言うべきか、ドアの向こうに立っていたのは隣の部屋の住人だった。
見た目はマジメそうな人だ。平日はいつもスーツを着込んで、ネクタイも必ず締めている。身形のしっかりとした大人の男。とてもちゃんとした人に見える。中身はとんでもなかったが。
毎晩のように人の家のインターフォンを鳴らしては、食い物だとか実用品だとか何がしかを押し付けてくる。
思えばこのマンションに引っ越してきたあの日。あの時に俺は道を誤ったのだろう。今さら悔やんでももう遅い。この人のしつこさに頭を悩ませる毎日を送る事になってしまった。
「瀬名さん……お気持ちは嬉しいんですけど、こういうのホントに困るんです」
「嬉しいと思ってくれているなら良かった」
「都合の悪いとこだけスルーするのやめてもらえませんか」
困る、の所は聞かなかったことにされた。むしろ重要なのはそっちだ。手にしたケーキの箱を見下ろし、それからもう一度目の前にいる瀬名さんに顔を向けた。
玄関の内と外。この人がこれ以上足を踏み入れてきた事はない。しかし油断はできない相手だ。
いつもいつも頼んでもないのに必ず何かを持ってくる。食い物のときもあれば食い物ではないときもある。今夜は食い物の日だったようだ。
たったいま押し付けられたこのケーキは、少し前に駅の近くにオープンした店の商品だそうだ。あそこはフランスに本店を構える本格派の洋菓子店らしい。外観からして高級感が漂っているため俺は入った事がない。
この人はいつもこういう物を持ってくる。いらないと言っても勝手に置いていくから結局は受け取ってしまっている。
食える物なら食ってしまうし、食えない物も全て捨てずにとってある。けれどできればもうこれ以上は、心の底から遠慮したい。
「瀬名さん……」
「そのうち一緒に食事でもしよう」
「いえ、あの……」
「話がしたい。できれば近いうちに、二人きりでじっくり」
「…………」
じっくり話すような事なんて何もない。食事だってこの人とはしたくない。キッパリとそう言ってやる前に、瀬名さんはドアの前から一歩分身を引いた。
会社帰りにどこかの店で何かを買って、自分の家に入る前に俺の部屋を訪れる。買った物を俺に押し付けた後は、ほんの少し言葉を交わすとそれだけですぐに帰る。
今夜もまた瀬名さんはちょっとだけ表情を和らげ、静かに俺と目を合わせた。
「じゃあな。また」
「…………」
瀬名さんが帰るのはお隣。三○二号室。左端に位置するうちのドアから隣のドアに行くまでの距離はそんなに遠い訳でもない。
あの人が自分の家に入る瞬間までを見届けた事はなかった。その背をちらりとだけ盗み見て、それからすぐにドアを閉めた。
バタンと冷たい音が響く。少し後には隣からも似たような物音が微かに聞こえた。手にしたケーキの箱を見て、一つ零した重たい溜め息。
正直なところ甘い物は好きだ。中でもケーキは大好物だ。ここの店の高級ケーキも一度は食べてみたいと思っていた。
思ってはいたが、これをくれたのはあの人。毎晩毎晩なんらかの貢ぎ物をせっせと持ってくるあの男。
「…………」
けれどもまあ、ケーキに罪はないのだし。放っておいても腐らせるだけだし。
自分にそう言い聞かせ、綺麗な白い箱と共に部屋の奥へと引っ込んだ。
***
俺がこのマンションに引っ越してきたのは三ヵ月近く前の事だ。大学に進学するために地元を出て、都会の中心から少し離れたこの土地へとやって来た。
住宅街の一角であるマンションの周辺はとても静か。それでも俺からしてみれば、ここも立派な都会の一部。辺りをぐるりと見渡したところで田んぼもなければ畑もない。
地元は結構など田舎だ。実家の周囲には田畑が多く、家業が農家のダチもたくさん。
ウチは農家ではないけれど、家の庭にはデカくて白くて可愛いアヒルが一羽いる。農家でもなければ農場を営んでいる訳でもない我が家になぜアヒルがいるのかは知らない。死んだじいちゃんが山で取っ捕まえてきたのだったかどっかから貰ってきたのだったかその辺はよく覚えてないけど、とにかくそいつは縁側の向こうで毎日グワグワ言っていた。
そういう環境で育った。田舎生まれの田舎育ちだ。ご近所さんは牛とか豚とか鶏とかを飼っている率が極めて高い。玄関の鍵を閉めもしないで外出するのはどこのお宅でも日常茶飯事。防犯という概念がほとんどないから、玄関の引き戸を年がら年中開け放っている住民の方がどちらかと言えば多かった。
都会とは百八十度かけ離れた住環境。そんな場所で育ったことも原因の一つだと思う。都会での生活をスタートさせて俺が最初に困ったのは、ご近所さんとの距離感だった。
マンションは五階建て。俺の部屋はその三階。角部屋だからお隣さんは右側の一世帯のみ。
右隣は三○二号室。玄関横の表札を確認したところによれば、瀬名さん、という人が住んでいるらしいその一室。
引っ越してきた当日は丸一日を消費して部屋の中をあらかた整えた。そしてその夜のこと。ちょっとした手土産を持って隣の部屋の前で立ち尽くした。
日中にインターフォンを押した時にはどうやら留守のようだった。夜になって再び隣の玄関前まで来たのはいいが、果たして都会に住まう人達は引っ越しの挨拶なんてするのだろうか。
田舎は田舎で閉鎖的だけどご近所同士の付き合いは深い。けれどここは都会のど真ん中。粗品を片手に呼ばれてもいないのにこんばんはと訪れて、不審そうな顔の一つでもされてしまったらどうすれば。
上の階と下の階まで訪れる気はさすがにないけど、せめてお隣さんとは良好な関係を築きたい。最初はそう思っていた。けれどここに来て不安になった。
インターフォンを鳴らすか鳴らさないかで廊下に突っ立ったまま悩みこむ。しかしそんな時、カツッと響いた。硬質な靴音が。
「……うちに何か?」
静かに声をかけられた。階段が設置してある位置は小さなエレベーターの隣で廊下のだいたい真ん中辺り。その方向に顔を向ければ男の人が歩いてくる。背の高い、スーツを着た、身形のしっかりした男性だ。
都会のサラリーマンっぽいその風体に一瞬たじろぐ。不思議そうに首を傾げられ、慌てて自分の姿勢を正した。
「あの、ごめんなさい。瀬名さん……ですか?」
「ああ」
頷かれて体ごと向き直る。部屋の近くまで来たその人に俺もいくらか歩みを寄せた。
「突然すみません。隣に引っ越してきた赤川と申します。一応ご挨拶をと思って。これ、もしよろしければ」
手に持っていた土産を差しだした。俺と一度目を合わせ、その人もすんなりと受け取ってくれる。
中身はただのコーヒーセットだ。嫌いじゃなければいいけれど初対面の人の好みなんて知らない。
会釈程度に軽く頭を下げれば、この人も同じようにして返してくれた。
「わざわざどうも」
「ごめんなさい、こんな夜分に。昼間に伺ったら留守だったようなので」
「ああ、そうか悪いな。日中はいつも空けてる」
ここは単身者向けのマンションだ。この人もたぶん一人で住んでいるのだろう。昼間は仕事であることもその格好を見れば分かった。平日の昼間に遊んでいられる春休み中の学生とは違う。
いかにもデキそうな男の人。そう見える。何も考えずに腑抜けた普段着で出てきてしまったのを少し悔やんだ。自分を比較させてしまうと思わず恥ずかしくなってくるほど、目の前にいるこの人はきちんとしていてカッコイイ。
「それじゃ、俺はこれで。どうぞよろしくお願いします」
帰宅してきたところで長々と引き留めるのも悪い。すぐに自分の部屋へと戻るつもりでそう言った。
けれどそれはできなかった。この人が、俺を引き止めたから。
「下の名前聞いてもいいか」
「え?」
「名前」
パシパシと、瞬きを二回。想定していなかった事を聞かれて少し戸惑う。
「……遥希、ですが……」
俺が名乗るとこの人は微かに頷いた。興味深げにこちらを眺め、そして更に聞いてくる。
「学生か?」
「ええ、はい」
「年は。十八くらいか」
「……はい。そうですね」
「このあと食事でもどうだろう」
「…………はい?」
肯定でも了承でもなく疑問で返した。
アヒルと一緒に育った俺にもこれくらいはさすがに分かる。会って間もない人間を、この流れでいきなり食事に誘ってみる人はそうそういない。サラリーマンが男子学生を相手にしているとなればなおさら。
「えっと……」
「腹減ってないか」
「……いえ。特に」
「そうか。残念だ」
なにが。
仕事ができそうな都会のカッコイイお兄さん。ほんの数十秒前にはそんなイメージをこの人に抱いた。今は少しずつ不可解な印象にすり替わってきている。
「あの、瀬名さん……」
「恭吾」
「え?」
「俺の名前」
「……そうですか」
だからなんだ。そう呼べって話か。なんでだ。
困惑しつつ押し黙っていると、瀬名さんは一歩足を踏み出してさらにこっちへ近づいた。思わず身を引く。だがすぐに埋まる。俺が下がったその分だけ瀬名さんが距離を詰めてくる。
「機会があったら食事をしたい。ぜひ、二人で」
「……え」
食事がしたいらしい。俺と二人で。
二人で、のところをいささか強調された気もする。
「……あの」
「好きな食い物は?」
「は……」
「何が好きか教えてほしい」
「え……あ……ケーキ、とか……」
「……なるほど」
肉でも魚でも寿司でもステーキでもなく、チビッ子が言うようなお菓子の名前を弾みでうっかり挙げてしまった。なんで答えちゃったんだろう。後悔したけどもう遅かった。
この翌日の夜からだ。瀬名さんによるプレゼント攻撃が始まったのは。
毎晩飽きずに多種多様な贈り物を持ってくる。その贈り物は食い物であることが最も多い。特に甘い物をよく選んでくる。中でもケーキが頻発するのは、あの時の俺の返答が原因だとしか思えない。
隣人との距離感に悩む必要は初めからなかった。都会のマンションで一人孤独に膝を抱える余裕もない。
なんと言うかこの人はかなり、グイグイくるお隣さんだ。
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