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4. 男子会Ⅰ
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「はよー」
「おう」
「あのさあ、ハル」
「んー」
一限目の講義前。室内にはちらほらと学生たちが集まってくる。
軽い挨拶とともに呼び掛けられて、隣の席に腰を下ろした浩太に適当に顔を向けた。
「お前、明日ヒマ?」
「なんで」
「飲み会しねえ?」
「どこで」
「お前んち」
「あ?」
時間潰しに手にしていたスマホを机の上に置いた。もしかしなくても面倒くさそうな話だ。
「ハルの家って一度行ってみたかったんだよ」
「知らねえよ来んなよ」
「冷たいこと言うなって。お前は外にメシとか誘っても来ないじゃん」
「行ったろ」
「四月に一回だけじゃねえかよ」
浩太とはこの大学で知り合った。学部も学科も同じだから受講している講義が被っている事も多い。それもあってここに入学したその月に食事会に誘われて、断るような理由もないからついていったことが一度だけある。同期以外に知らない先輩達もいるような大人数の席だった。
あの時は酷い目に遭った。食事会とはつまり飲み会。年がいくつとかそういう言い訳もああいう席では通用せずに、強制的かつ初めての飲酒行為でビールは苦くて不味いんだと知った。
何があっても二度と酒なんて飲みたくない。そう思った苦い記憶だ。
「なあ、いいだろ。ハルの所なら大学からも近いし」
「お前なんかにウチの場所教えるんじゃなかった」
「ひでえから」
酷いともなんとも思っていないようにカラッと返され、机の上に置いたスマホをついでとばかりに引っ手繰られた。
「なー。ハルってばー」
「ダメ。スマホも返せ」
「頼むって。店入ると高くつくしさ」
「人の部屋を居酒屋代わりにすんじゃねえよ。いいからスマホ返せ」
取られた人質を奪い返した。カバンの中にしまい込んで百パーの拒否を態度で示す。けれどこいつは空気を読まない。
「お願いハルくん。一回だけ。食料はこっちで用意してくよ」
「ヤだ。来んな」
「なんでそこまで嫌がるかなぁ」
「酒キライなのに飲み会しなきゃなんない理由がない。お前来たら絶対騒ぐし」
「今度はもう飲ませねえよ。俺の他には二人しかいないし」
「だれ」
「小宮山と岡崎」
「ダメ」
「大丈夫だって騒がないようにもするから。なあ頼むよ、この通りっ」
パンッと顔の前で両手を合わせ、わざとらしく拝み倒してくる。手を合わせながら時折チラッとこっちを窺ってくるのが鬱陶しい。
小宮山と岡崎も俺達の同期だ。今回のメンバーには年上がいない。だから無理に飲まされる心配もないと言いたいのだろうが不信感は募る。
だって三人ともすげえうるさい。大人しいタイプからはかけ離れている。そんな奴らが寄り集まったら騒ぐなという方が無理な話だ。
「なーハルー」
「…………」
それでもこいつは食い下がってくる。俺が折れるまで諦めそうにない。
古くて狭いあのマンションを思い浮かべた。辛うじて重量鉄骨造だけど隣との壁は石膏ボードで、防音だとか遮音だとかのきちんとした設備なんてそもそも期待できない部屋だ。酒の勢いで大声を上げたら間違いなく隣にも聞こえる。
「……騒いだら追い出すからな」
「騒がない騒がない。約束します」
「ホントかよ」
その約束は初めの五分くらいまでしか守られないような気がする。
半眼になったところで鐘が鳴った。ノートを開きつつ零した俺の溜め息は深い。
***
バイト先は自宅近くの飲食店だ。朝から夜までガッツリ営業している店だがシフトの拘束はきつくない。平日の夜であれば八時前には家に戻れている事がほとんど。遅番が入る事も時にはあるけど。
現在の時刻は二十二時半、少し過ぎ。瀬名さんよりも俺の方が遅くに帰ってきた夜は、必ず玄関のドアノブに紙袋やなんかが引っ掛かっている。そしてその中にはメモの切れ端が。
食え。一言だけそう書いてある。見慣れた几帳面な文字だ。綺麗な文字とは裏腹に、記されている言葉は極端にザツ。
紙袋をドアノブに引っ掛けたのは瀬名さん。文字は綺麗なくせに大雑把な一言を書きやがったのも瀬名さん。これもまあまあ良くあることだ。いまさら驚くわけもない。
メモを見ながら袋を手に取り、ガサッと中身を覗いてみれば白い箱。ケーキか。プリンか。三日前にもらったシュークリームも美味かった。
部屋に入って荷物を下ろし、箱を開いてみるとカラフルなマカロンが目に入る。瀬名さんの女子力の高さはどこから来るのか時々謎だ。
箱の中から薄ピンク色のマカロンを一つ取りだした。可愛い女の子のヤワな手が持てばしっくりくるのであろう外観。野郎のこんな骨ばった手がマカロンを摘まみ上げたところで何も可愛いところはない。
透明なフィルムをペリッと破り、カプリと半分ほどかぶりついた。サックリとした軽い食感。独特の歯ごたえ。甘いし、美味い。
あの人は何を思ってこれを選んだのか。男に贈るにはもったいないようなパステルカラーのカワイイお菓子だ。
小さなマカロンを腹に収めて窓までスタスタ足を進めた。ベランダに出る。何も考えずに。考えてしまうと尻込みするから。
そこにいる、この人に。
「よう」
「どうも」
その声はすぐにこっちへと向けられてきた。俺も即座にそれに応じる。
「たった今マカロン食いました」
「美味かったか」
「はい。マカロン食ったの実は人生で二度目です」
ああいうオシャレなお菓子を自分で買う事はまずない。瀬名さんが持ってくるのはいつも大抵オシャレな物だ。プレゼントとして誰かに贈れば必ず喜ばれるような。
「前にバイト先で差し入れにもらったんです。それがはじめてでした。きっと大袈裟って思われますけど、あの時も結構感動したんですよ。なんか食ったことない感じのヤツだし、やたらカラフルで可愛かったから。俺の地元ってすげえ田舎なので近所にマカロン売ってる店なんて一つもなくて……」
取り留めのない話をしながら、ふと気づいて途中で黙った。やめておくんだった。たまに俺から話を始めてみればこうなる。
相手は都会の住人だ。ペラペラとこんな野暮ったい話を聞かせたってなんにもならない。
尻すぼみになった言葉はそのまま置き去りにしてしまった。その次はただ、打ち切るための一言だけを。
「だからどうって話でも……ないんですが」
つまらない話をした。すみませんと小さく付け足せば、やわらかい笑い声が耳に入る。それがじわりと胸に落ちた。
こんな話でもバカにはされない。自然とそう受け入れられる小さな笑い声だった。静かな表情をしたこの人の顔が、自ずと目に浮かんでくる。
「好きか」
「え?」
「マカロン」
「……好きです」
好きだから、そう言った。その後はなぜか少しの沈黙。返事がない事に動揺する。なんで黙った。そこで黙るな。いま黙るなよ。
じわじわと妙な焦りが込み上げてくる中、しばし間を置き、それなら良かったと。いつもと同じような返答を耳にしてようやく胸を撫で下ろす。
「そのうちまた買ってくる」
「……いりません」
「好きなんだろ?」
「すきです、けど……」
なんでそういう、聞き方ばっかり。
「けど?」
「……いえ」
「好き?」
「好きですってば」
やめてほしい。満足げな笑い声をひっそりと聞かされた。ここで何を言い返したって泥沼にハマるのは俺だから、黙ったまま一人むくれる。
無理強いはされない。常にこちらの意思を汲まれる。だけど遠回しにからかわれる事ならたまに。
ジワジワとゆっくり攻め込んでは固められている自覚があるのに、俺は瀬名さんと話してる。もしも俺がカモ科の鳥類ならそろそろネギでも背負い始めるかもしれない。
なぜか。なぜこうなってしまうか。
嫌いじゃないからだ。静かな声と、その喋り方が。俺はこの人が嫌いじゃない。穏やかなこの雰囲気には居心地の良ささえ感じる。
「……瀬名さん」
「ん?」
名前を呼べば応えてくれる。耳を傾けてくれる。その時の、この人の顔が見たいと思う。でも見えないから想像するしかない。
こっちのベランダと向こうのベランダの間にあるチープな仕切りは、とてもありがたいようでいて、ふとした瞬間にもどかしい。じれったさを俺に植え付ける。
持て余した感情だ。こんなのは欲しくないものだ。だから厄介な内心にはずっと気づかない振りをしてきた。なんでもない事を装って、ごまかしながら話をしている。
「……明日の夜ちょっと、うるさいかもしれません」
「何かあるのか」
「いえ、何かって程では。大学の同期が来るだけなので」
「そうか」
瀬名さんからはそれだけだった。そうか、って。それだけ。
聞かないんだ。それ以上。こっちの生活には絶対に干渉してこない。
「……男です。全員」
「うん?」
「明日来る奴ら。男ばっかで集まろうって。その、大学からうちが一番近くて」
瀬名さんからはまた、そうかと。冷たい物言いでは決してないが、肩透かしを食らったような気分にはなっている。
「みんな金ないから。どっか店入ると、無駄に高くつくし……」
聞かれてもいないのに言い訳をしている。なんのための言い訳なのかは、できればはっきりさせたくない。
「騒がしかったらごめんなさい」
「気にしなくていい」
「…………」
気にしなくていい。この人の優しい一言によって、ほっとできるはずもなく。
「……すみません」
瀬名さんはすごく、静かに生活をする人だ。騒音トラブルの加害者側には何があってもならないような人。そこからはこの大人の落ち着いた所作が連想させられる。
慌ただしく騒ぐことはあり得ない。とにかく丁寧で穏やかな人。物静かで冷静で、だから俺も気を付けている。荒っぽい動作なんてしないように。この人のようにはたぶん、できていないのだろうけれど。
この部屋に同期を呼んだら想定できる事態は一つだ。間違いなく騒がしくなる、ギャアギャア喚く奴も出る。そうなればこの人からうるさい学生だと思われてもおかしくない。やっぱガキだって、所詮はガキだと、そう思われてしまうかもしれない。
瀬名さんとはただでさえ埋まらない格差があるのに、これ以上子供だとは思われたくない。だから浩太から頼まれた時もすぐに了承できなかった。頭に浮かんだから。瀬名さんのことが。けれど物静かなこの人は、優しい態度を崩さない。
「今のうちだ」
「はい……?」
「バカみてえにはしゃいでいられる時期なんて学生の頃までだろ。つってもまあ、下の階から苦情が来ない程度にな」
最後はほんのちょっとだけ諭すみたいに。
優しい口調で言われて頷く。頷いたところで、見えもしないのに。
「瀬名さんって……」
「ああ」
「……怒る事とか、あんまりなさそうですよね」
俺がどんなに失礼な態度を取っても笑うだけ。バカな学生が隣で騒ごうとしていても気安く受け入れる。
これを寛容と言うのだろう。理解ある大人なのだろう。でも瀬名さんはうんとは言わない。
「そうでもねえよ。仕事中は割とカリカリしてる」
本人の口から出てきた一面。仕事でカリカリしている瀬名さん。
「怒鳴ったりとか……?」
「そこまでじゃねえが近いものはある」
「……なんか意外です」
「お前も十年後にはそうなってるぞ」
「嫌な予言しないでください」
言い返せばクスクスとおかしげに笑われた。こんなに穏やかな人でも仕事をしている時には変わるのか。
イメージしようとしたが失敗に終わる。いつもの優しげな目元くらいしかどう頑張っても浮かんでこない。
「……やっぱ怒ってる瀬名さんは想像つきませんよ」
「お前には好印象残したくて必死だからな」
「反応しにくいこと言わないでもらえますか」
「惚れてる奴に自分の嫌なところなんか見せたくねえだろ」
自然にサラリと混ぜ込んでくる。むず痒い。この手の不意打ちにはいつまでも慣れない。
「相手がお前だからこうしてる。会社の若い奴らには口うるせえ上司だとでも思われてんだろうよ」
「それ自分でバラしちゃったら意味なくないですか」
「見せたくねえってだけで無理に隠すつもりはない」
「正直なんですね」
「惚れるか?」
「惚れません」
一蹴し、笑われる。俺がどう返答してもこの人は静かに笑う。
瀬名さんには部下がいるらしい。その人達には口うるさい事を言うそうだ。
いかにも真っ当なはずの大人の男が、同性のガキに惚れただのなんだの。しかもそれを本気だなんて。そのくせ時々は冗談めかして俺のことをからかってくる。冗談にできてしまえるように、あえて茶化しているのだろう。
気付けてしまう。これは全て俺のためなのかもしれないと。これはこの人なりの気遣いで、俺に与えられているのは自由に行き来できる逃げ道。いざというとき俺はいつでもその逃げ道に身を隠せる。この人から少し距離を取れる。そうできるようにしてくれている。
優しくされればされるだけ、ズルいように思えてくる。無条件で優しい人に威嚇を向け続けられるほど、俺だって人間性を欠いてはいない。
この男はどこまで分かってやっているのか。俺はいつまで逃げ道を振り返るのか。
瀬名さんは本当にどうしようもないくらい、ずるい大人だと思う。
「おう」
「あのさあ、ハル」
「んー」
一限目の講義前。室内にはちらほらと学生たちが集まってくる。
軽い挨拶とともに呼び掛けられて、隣の席に腰を下ろした浩太に適当に顔を向けた。
「お前、明日ヒマ?」
「なんで」
「飲み会しねえ?」
「どこで」
「お前んち」
「あ?」
時間潰しに手にしていたスマホを机の上に置いた。もしかしなくても面倒くさそうな話だ。
「ハルの家って一度行ってみたかったんだよ」
「知らねえよ来んなよ」
「冷たいこと言うなって。お前は外にメシとか誘っても来ないじゃん」
「行ったろ」
「四月に一回だけじゃねえかよ」
浩太とはこの大学で知り合った。学部も学科も同じだから受講している講義が被っている事も多い。それもあってここに入学したその月に食事会に誘われて、断るような理由もないからついていったことが一度だけある。同期以外に知らない先輩達もいるような大人数の席だった。
あの時は酷い目に遭った。食事会とはつまり飲み会。年がいくつとかそういう言い訳もああいう席では通用せずに、強制的かつ初めての飲酒行為でビールは苦くて不味いんだと知った。
何があっても二度と酒なんて飲みたくない。そう思った苦い記憶だ。
「なあ、いいだろ。ハルの所なら大学からも近いし」
「お前なんかにウチの場所教えるんじゃなかった」
「ひでえから」
酷いともなんとも思っていないようにカラッと返され、机の上に置いたスマホをついでとばかりに引っ手繰られた。
「なー。ハルってばー」
「ダメ。スマホも返せ」
「頼むって。店入ると高くつくしさ」
「人の部屋を居酒屋代わりにすんじゃねえよ。いいからスマホ返せ」
取られた人質を奪い返した。カバンの中にしまい込んで百パーの拒否を態度で示す。けれどこいつは空気を読まない。
「お願いハルくん。一回だけ。食料はこっちで用意してくよ」
「ヤだ。来んな」
「なんでそこまで嫌がるかなぁ」
「酒キライなのに飲み会しなきゃなんない理由がない。お前来たら絶対騒ぐし」
「今度はもう飲ませねえよ。俺の他には二人しかいないし」
「だれ」
「小宮山と岡崎」
「ダメ」
「大丈夫だって騒がないようにもするから。なあ頼むよ、この通りっ」
パンッと顔の前で両手を合わせ、わざとらしく拝み倒してくる。手を合わせながら時折チラッとこっちを窺ってくるのが鬱陶しい。
小宮山と岡崎も俺達の同期だ。今回のメンバーには年上がいない。だから無理に飲まされる心配もないと言いたいのだろうが不信感は募る。
だって三人ともすげえうるさい。大人しいタイプからはかけ離れている。そんな奴らが寄り集まったら騒ぐなという方が無理な話だ。
「なーハルー」
「…………」
それでもこいつは食い下がってくる。俺が折れるまで諦めそうにない。
古くて狭いあのマンションを思い浮かべた。辛うじて重量鉄骨造だけど隣との壁は石膏ボードで、防音だとか遮音だとかのきちんとした設備なんてそもそも期待できない部屋だ。酒の勢いで大声を上げたら間違いなく隣にも聞こえる。
「……騒いだら追い出すからな」
「騒がない騒がない。約束します」
「ホントかよ」
その約束は初めの五分くらいまでしか守られないような気がする。
半眼になったところで鐘が鳴った。ノートを開きつつ零した俺の溜め息は深い。
***
バイト先は自宅近くの飲食店だ。朝から夜までガッツリ営業している店だがシフトの拘束はきつくない。平日の夜であれば八時前には家に戻れている事がほとんど。遅番が入る事も時にはあるけど。
現在の時刻は二十二時半、少し過ぎ。瀬名さんよりも俺の方が遅くに帰ってきた夜は、必ず玄関のドアノブに紙袋やなんかが引っ掛かっている。そしてその中にはメモの切れ端が。
食え。一言だけそう書いてある。見慣れた几帳面な文字だ。綺麗な文字とは裏腹に、記されている言葉は極端にザツ。
紙袋をドアノブに引っ掛けたのは瀬名さん。文字は綺麗なくせに大雑把な一言を書きやがったのも瀬名さん。これもまあまあ良くあることだ。いまさら驚くわけもない。
メモを見ながら袋を手に取り、ガサッと中身を覗いてみれば白い箱。ケーキか。プリンか。三日前にもらったシュークリームも美味かった。
部屋に入って荷物を下ろし、箱を開いてみるとカラフルなマカロンが目に入る。瀬名さんの女子力の高さはどこから来るのか時々謎だ。
箱の中から薄ピンク色のマカロンを一つ取りだした。可愛い女の子のヤワな手が持てばしっくりくるのであろう外観。野郎のこんな骨ばった手がマカロンを摘まみ上げたところで何も可愛いところはない。
透明なフィルムをペリッと破り、カプリと半分ほどかぶりついた。サックリとした軽い食感。独特の歯ごたえ。甘いし、美味い。
あの人は何を思ってこれを選んだのか。男に贈るにはもったいないようなパステルカラーのカワイイお菓子だ。
小さなマカロンを腹に収めて窓までスタスタ足を進めた。ベランダに出る。何も考えずに。考えてしまうと尻込みするから。
そこにいる、この人に。
「よう」
「どうも」
その声はすぐにこっちへと向けられてきた。俺も即座にそれに応じる。
「たった今マカロン食いました」
「美味かったか」
「はい。マカロン食ったの実は人生で二度目です」
ああいうオシャレなお菓子を自分で買う事はまずない。瀬名さんが持ってくるのはいつも大抵オシャレな物だ。プレゼントとして誰かに贈れば必ず喜ばれるような。
「前にバイト先で差し入れにもらったんです。それがはじめてでした。きっと大袈裟って思われますけど、あの時も結構感動したんですよ。なんか食ったことない感じのヤツだし、やたらカラフルで可愛かったから。俺の地元ってすげえ田舎なので近所にマカロン売ってる店なんて一つもなくて……」
取り留めのない話をしながら、ふと気づいて途中で黙った。やめておくんだった。たまに俺から話を始めてみればこうなる。
相手は都会の住人だ。ペラペラとこんな野暮ったい話を聞かせたってなんにもならない。
尻すぼみになった言葉はそのまま置き去りにしてしまった。その次はただ、打ち切るための一言だけを。
「だからどうって話でも……ないんですが」
つまらない話をした。すみませんと小さく付け足せば、やわらかい笑い声が耳に入る。それがじわりと胸に落ちた。
こんな話でもバカにはされない。自然とそう受け入れられる小さな笑い声だった。静かな表情をしたこの人の顔が、自ずと目に浮かんでくる。
「好きか」
「え?」
「マカロン」
「……好きです」
好きだから、そう言った。その後はなぜか少しの沈黙。返事がない事に動揺する。なんで黙った。そこで黙るな。いま黙るなよ。
じわじわと妙な焦りが込み上げてくる中、しばし間を置き、それなら良かったと。いつもと同じような返答を耳にしてようやく胸を撫で下ろす。
「そのうちまた買ってくる」
「……いりません」
「好きなんだろ?」
「すきです、けど……」
なんでそういう、聞き方ばっかり。
「けど?」
「……いえ」
「好き?」
「好きですってば」
やめてほしい。満足げな笑い声をひっそりと聞かされた。ここで何を言い返したって泥沼にハマるのは俺だから、黙ったまま一人むくれる。
無理強いはされない。常にこちらの意思を汲まれる。だけど遠回しにからかわれる事ならたまに。
ジワジワとゆっくり攻め込んでは固められている自覚があるのに、俺は瀬名さんと話してる。もしも俺がカモ科の鳥類ならそろそろネギでも背負い始めるかもしれない。
なぜか。なぜこうなってしまうか。
嫌いじゃないからだ。静かな声と、その喋り方が。俺はこの人が嫌いじゃない。穏やかなこの雰囲気には居心地の良ささえ感じる。
「……瀬名さん」
「ん?」
名前を呼べば応えてくれる。耳を傾けてくれる。その時の、この人の顔が見たいと思う。でも見えないから想像するしかない。
こっちのベランダと向こうのベランダの間にあるチープな仕切りは、とてもありがたいようでいて、ふとした瞬間にもどかしい。じれったさを俺に植え付ける。
持て余した感情だ。こんなのは欲しくないものだ。だから厄介な内心にはずっと気づかない振りをしてきた。なんでもない事を装って、ごまかしながら話をしている。
「……明日の夜ちょっと、うるさいかもしれません」
「何かあるのか」
「いえ、何かって程では。大学の同期が来るだけなので」
「そうか」
瀬名さんからはそれだけだった。そうか、って。それだけ。
聞かないんだ。それ以上。こっちの生活には絶対に干渉してこない。
「……男です。全員」
「うん?」
「明日来る奴ら。男ばっかで集まろうって。その、大学からうちが一番近くて」
瀬名さんからはまた、そうかと。冷たい物言いでは決してないが、肩透かしを食らったような気分にはなっている。
「みんな金ないから。どっか店入ると、無駄に高くつくし……」
聞かれてもいないのに言い訳をしている。なんのための言い訳なのかは、できればはっきりさせたくない。
「騒がしかったらごめんなさい」
「気にしなくていい」
「…………」
気にしなくていい。この人の優しい一言によって、ほっとできるはずもなく。
「……すみません」
瀬名さんはすごく、静かに生活をする人だ。騒音トラブルの加害者側には何があってもならないような人。そこからはこの大人の落ち着いた所作が連想させられる。
慌ただしく騒ぐことはあり得ない。とにかく丁寧で穏やかな人。物静かで冷静で、だから俺も気を付けている。荒っぽい動作なんてしないように。この人のようにはたぶん、できていないのだろうけれど。
この部屋に同期を呼んだら想定できる事態は一つだ。間違いなく騒がしくなる、ギャアギャア喚く奴も出る。そうなればこの人からうるさい学生だと思われてもおかしくない。やっぱガキだって、所詮はガキだと、そう思われてしまうかもしれない。
瀬名さんとはただでさえ埋まらない格差があるのに、これ以上子供だとは思われたくない。だから浩太から頼まれた時もすぐに了承できなかった。頭に浮かんだから。瀬名さんのことが。けれど物静かなこの人は、優しい態度を崩さない。
「今のうちだ」
「はい……?」
「バカみてえにはしゃいでいられる時期なんて学生の頃までだろ。つってもまあ、下の階から苦情が来ない程度にな」
最後はほんのちょっとだけ諭すみたいに。
優しい口調で言われて頷く。頷いたところで、見えもしないのに。
「瀬名さんって……」
「ああ」
「……怒る事とか、あんまりなさそうですよね」
俺がどんなに失礼な態度を取っても笑うだけ。バカな学生が隣で騒ごうとしていても気安く受け入れる。
これを寛容と言うのだろう。理解ある大人なのだろう。でも瀬名さんはうんとは言わない。
「そうでもねえよ。仕事中は割とカリカリしてる」
本人の口から出てきた一面。仕事でカリカリしている瀬名さん。
「怒鳴ったりとか……?」
「そこまでじゃねえが近いものはある」
「……なんか意外です」
「お前も十年後にはそうなってるぞ」
「嫌な予言しないでください」
言い返せばクスクスとおかしげに笑われた。こんなに穏やかな人でも仕事をしている時には変わるのか。
イメージしようとしたが失敗に終わる。いつもの優しげな目元くらいしかどう頑張っても浮かんでこない。
「……やっぱ怒ってる瀬名さんは想像つきませんよ」
「お前には好印象残したくて必死だからな」
「反応しにくいこと言わないでもらえますか」
「惚れてる奴に自分の嫌なところなんか見せたくねえだろ」
自然にサラリと混ぜ込んでくる。むず痒い。この手の不意打ちにはいつまでも慣れない。
「相手がお前だからこうしてる。会社の若い奴らには口うるせえ上司だとでも思われてんだろうよ」
「それ自分でバラしちゃったら意味なくないですか」
「見せたくねえってだけで無理に隠すつもりはない」
「正直なんですね」
「惚れるか?」
「惚れません」
一蹴し、笑われる。俺がどう返答してもこの人は静かに笑う。
瀬名さんには部下がいるらしい。その人達には口うるさい事を言うそうだ。
いかにも真っ当なはずの大人の男が、同性のガキに惚れただのなんだの。しかもそれを本気だなんて。そのくせ時々は冗談めかして俺のことをからかってくる。冗談にできてしまえるように、あえて茶化しているのだろう。
気付けてしまう。これは全て俺のためなのかもしれないと。これはこの人なりの気遣いで、俺に与えられているのは自由に行き来できる逃げ道。いざというとき俺はいつでもその逃げ道に身を隠せる。この人から少し距離を取れる。そうできるようにしてくれている。
優しくされればされるだけ、ズルいように思えてくる。無条件で優しい人に威嚇を向け続けられるほど、俺だって人間性を欠いてはいない。
この男はどこまで分かってやっているのか。俺はいつまで逃げ道を振り返るのか。
瀬名さんは本当にどうしようもないくらい、ずるい大人だと思う。
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