貢がせて、ハニー!

わこ

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225.遠すぎる背中Ⅳ

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 瀬名さんが細かく指定したという風邪薬はどうやら効いたようだ。朝よりは少し楽になった気がする。夕方くらいだろうか、途中で起きて、水を飲んでそれからまた目を閉じた。

 カーテンは昼に二条さんが来てくれた時から開かれたまま。レースカーテンだけ引いてあるが、次に目を覚ました時にはそこから差し込んでくる光がなかった。
 夜か。いま、何時だろう。壁掛け時計の方に目をやるも分からない。ただ針の音だけ響いて、今こうして目覚めた時に何かの物音を聞いたのを思い出す。

 静かな部屋の中で耳を澄ました。澄ますつもりなどなくても、静かだから。
 しかしその静かな空間に微かな気配を感じ取る。ほとんど分からないくらいの。丁寧で物柔らかな所作と動作は、なじみ深く、そして近づいてくる。

 カチャリと、ゆっくり部屋のドアが外から開かれたのを聞いた。その動作一つにすら気遣いが立ち込めているのに気付き、モゾっと布団の中で動いて、横たわったまま口だけ開いた。

「おかえりなさい……」
「……起こしたか」
「いえ……いま……」

 ドアの向こうの明かりが僅かに入ってくる。その光とともに瀬名さんがこちらへと足を向け、ベッド横のサイドテーブルに手を伸ばした。パッと、控えめに灯ったオレンジのランプ。

「ただいま」
「うん……」
「体はどうだ」
「……朝よりは……」

 首元に軽く触れてくる。気持ちいい。大きなこの手はやはりいつもより冷たく感じる。ゆっくりと瞬きをした。
 その間に瀬名さんの手は額に伸びて、ぬるくなったシートの上から優しく覆った。

「……これ替えとこうな」

 前髪をそっと掻き上げ、貼り付いているシートがゆっくりと剥がされた。
 目を閉じ、カサッと小さな音を聞く。次には額にヒンヤリとした真新しい冷感がきて、メントールの匂いが鼻を掠めた。
 これで熱は下がらないけど、馴染めばすぐに心地よくなる。労わるような手のひらを、スッと頬に感じたから余計に。

「…………あなたの……言う通りです」
「うん?」
「……何も分かってませんでした」

 気だるくまぶたを押し上げた。薄暗い空間で、静かな目はずっと俺を見ている。
 開いた瞬間に視線が合ったから、それに気づいた。気づくなりそっと、頭を控えめに撫でられていた。

「俺の方こそ言い過ぎた」

 枕の上でけだるく、首を横に振った。
 玄関のドアチェーンの外し方が分からなくなって瀬名さんを家の外に閉め出したって、ロールキャベツをいざ食ってみたら全然味が付いていなくたって、血の繋がった妹さんを浮気相手だと本気で勘違いしようと、俺がどんなポカをしても絶対に怒らないこの人に、初めてあんな目を向けられた。

 怒っていた。怒られたのはショックだった。あんな顔を初めて見た。びっくりして、言葉も声も出なくて、しかし、同時に、少しだけ。

「…………ごめんなさい」

 嬉しかった。気づいたから。瀬名さんが怒った意味に。
 それでもこの人はどこまでも瀬名さんだから、一方的に押し通してはこない。

「……キツい言い方したと思う。酷いこと言って悪かった」
「そんなこと……」

 やんわりと頭を撫でてくるその手は優しい。優しいから怒ってくれたこの人は、俺を分かってくる大人でもある。

「焦らなくていい。大丈夫だ」
「…………」
「遥希が頑張ってるのは俺が一番よく知ってる」

 見ていてくれるし、分かってくれる。嫌いになるなんて、あり得ない。考えるまでもない事だ。
 俺を否定したのとは違う。感情的だったわけでもない。あれはただ単にこの大人がずっと、俺と対等でいてくれる証明だった。

「だからあんな言い方はすべきじゃなかった」
「……ううん……ありがとう」

 驚いた。でも嬉しかった。瀬名さんは迷わず俺を叱った。たかがバイトであるのだと、言ってしまった事を、怒ってくれた。

 どこまでも誠実で、傲慢さなんてどこにもなくて、年齢も立場も気にする理由がこの人にはそもそもないから、だから瀬名さんはああやって言える。
 間違っていると言ってくれた。間違いなのだと思ってくれた。ただ対等に、俺を見た。

「今は休め。急に生活が変わって疲れが出たんだ」
「うん……」
「……一緒にいたのに何も気づけなかった。ごめんな」
「そんな……」
「ここに来てから一人でずっと浮かれてる」
「…………」

 ここしばらくのうちに色々あった。色々あったけどこうなれた。
 浮かれていたのは俺だって同じだ。本当は、俺の方がずっと。

「薬飲んだか」
「まだ……」
「腹は。食えそうか?」
「いえ……今は……もうちょっと経ったら」
「ん」

 お腹はそんなに減ってない。今はまだいっぱいいっぱいだ。
 それにもう一つ聞いてほしい。たぶん今日じゃないと、言えない。

「瀬名さん……」
「うん?」
「俺……」

 なんの接点もないはずの人だった。引っ越しの挨拶の、無難なだけで一切の面白味もないコーヒーセットを渡すだけ。それで終わるはずだった。
 その後も顔を合わせれば会釈くらいはしただろう。ガキ相手にも丁寧で礼儀正しい人だから、おはようだとかこんばんはとか、声を掛け合う仲にはなれたかもしれない。それでもきっとそれだけだ。それ以上なんてありえない。

 仕事のできそうな都会のお兄さんを俺はただ毎日見上げる。一方的に、ここから見上げる。
 本当なら見上げることしかできないような大人の男と、どういうわけかこうなってしまった。

 見れば見るほど、知れば知るほど、そばにいればそれだけ、遠くなる気がした。強くなるから。この感情が。誰にも見られたくないような、カッコ悪いだけの気持ちが。焦りが。
 近いのに、かえって遠くなる。俺が一緒にいたいと思うこの人は、いつも俺よりずっと前にいる。

 こういうのを人は、憧れと呼ぶんだ。

「……あなたみたいになりたいんです」

 初めて会った時からそうだった。かっこよくて、こっちまで背筋が伸びた。最初に抱いたその印象は、覆るどころかより深くなっていった。
 鼻にかけない、ひけらかしもしない、人から憧れられる側にいる人。そんな大人は驚いた顔をした。はっと、微かに見開かれたその目。

 こんなの、熱でもなければ言えない。絶対に伝える気などなかった。言い訳にするなと言われた熱を盾にして、それを本人の目の前で呟いた。
 しかし明確にぶつければ、途端にその視線は落ち着きなく揺らぎ、逸れた。そしてフイッと、伏せられたその目。

「まだ、ちょっと……寝てろ。お前かなり熱がある」

 急にぎこちなく気まずそうな、居心地の悪そうな。そんな顔と声だった。怠いし頭は重いけど、この目と耳ははっきりと捉えた。
 瀬名さんは自分の首の後ろへと不自然に手を当てた。こういう顔も初めて見たかもしれない。薄暗いのが残念だ。これは今年一番の、収穫だ。

 困ったような顔ごと俺から無理やりに逸らし、それでも離れていくことだけはなかった。
 布団の中にはこの人の手が差し入れられた。そっと探るように手首に触れて、ぎゅっと手を握られる。あったかい。本当は握り返したいけど、どうにか堪えて力は込めない。

「部屋……行ってください。うつすといけないので」
「ここにいる」
「でも……」
「一緒にいる」

 強引に絡められた指先。一本ずつ強くつながって、とうとう少しだけ力を込めた。それでいいとでも言うみたいに、優しく握り返してくる。

「はやく治せ」
「…………うん」

 誰よりも憧れるこの人を、好きになるのは当然だった。
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