貢がせて、ハニー!

わこ

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224.遠すぎる背中Ⅲ

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 同じ男としての嫉妬心より、眩しい方が遥かに勝る。
 それが瀬名恭吾という人だ。大人の男で、なんでもできて、自立していて、どこにも隙がない。俺が見ているのはいつもあの人の背中。隣になんて、並べるはずがない。





 物音がした。ほんの小さく。初めの数秒はいくらか警戒したが、微かなその様子には気を使った動作が窺い知れて、カサッと袋の音を聞いてようやくゆっくり目を開けた。

 やっぱり誰かいた。気づかなかった。だぶん、だいぶ長いこと。
 最初に目を向けたのはベッド横の小さなテーブル。そこで見たのはゼリーみたいな容器。すぐそばには人影も。

「あ、起きた?」

 目に映ったのは、誰か。マスクで顔半分を覆われていたけど、ボヤけた頭でも認識はできた。

「……二条さん?」
「新居に勝手にお邪魔してごめんよ。具合はどうだい?」
「……なんで……」
「あ、いいよいいよそのままで寝てて。恭吾の奴が朝っぱらから電話してきてさ。ポストの暗証番号聞いたんだ」

 引っ越し先を探していた時、瀬名さんは集合ポストの仕様にもこだわった。
 閉めると自動ロックがかかって開けるときはボタンを押すだけ。入居者が暗証番号を自由に設定できる可変プッシュ式であることも条件の一つだった。
 どれもこれも俺のためだ。俺が安全に暮らせるためだった。セキュリティレベルが高く利便性にも優れたポストの中に、瀬名さんは鍵を入れて出かけたのだろう。

「……すみません……こんな、色々……」
「俺は言われたようにやっただけだよ。これも全部あいつから送られてきたリスト通りに買い出ししてきたやつだから」

 袋からはまだ少々出てくる。テーブルの上に並べられたそれら。
 保存のきく食料品に、市販の薬に、体温計も見えた。その横にはおそらく冷却シート。小さなテーブルがわんさかしている。

 冷却シートのフィルムをペリッと剥がした二条さん。前髪を適当にかき上げられて、直後にヒタリと、頭の奥にまで伝わるような冷たさが、その箇所にだけ。

「今日が水曜でよかった。ゼリーとか色々ここ置いとくね。半分は冷蔵庫入れてあるから冷たいの欲しくなったらそっち食べて。プリンもあるよ。デコのシートも一緒にブッ込んである」
「どうも……すみません……」
「風邪薬はこっちね。これもあいつがクソ細かく指定してきたメーカーのだから合わなかったら恭吾を恨んで」

 笑いたいけどその元気がない。中途半端に口を開けただけで終わった。
 二条さんはそれには何も触れず、テーブルの奥の、見覚えのないカバーみたいな何かを指さした。

「あと薬飲む前はなるべく何か腹に入れろって恭吾が」

 お母さんか。

「あの……来てもらっといてあれなんですけど、風邪うつすかもしれないんで……」
「うん大丈夫、すぐ帰るから。俺がいると寝づらいだろうしね」

 目元しか見えなくてもにこやかなのは伝わってくる。初対面の時はチャラそうなお兄さんだと思ったが、二条さんはこうも温厚。
 指さされたそのカバーの下は食べ物なのだろう。それの上部をポンポンと軽く叩きながら、こっちに向けてくる目はやはり優しい。

「これの中身おかゆね。今ちゃちゃっと作ってみたんだけど食べられそうな時に食べて。この保温カバーうちから持ってきたんだけどさ、見た目より優秀だからちょっとくらい経ってもあったかいんだ」
「……本当に何から何まで……ごめんなさい、お店お休みの日に」
「何言ってんだい、こういうときこそ頼りな。せっかくご近所さんなんだから」

 以前のマンションもご近所ではあったが、こっちに移っても直線距離はさほど変わらない。
 今度こそ隆仁の野郎の避難所にだけはさせねえ。瀬名さんがそんな事を言っていたけど、さっそく迷惑をかけているのは俺だ。

「恭吾が心配してた」

 何気なく落とされたその一言。それでちょっと、奥が、チリッと。

「喧嘩したんだって?」
「……いえ。喧嘩、っていうか……」
「電話でショボくれてたよあいつ。絶対ハルくんに嫌われたって」
「え……」

 ふっと思わず視線が上がる。おおらかな顔にぶつかって、それでまたぎこちなく下げた。

「瀬名さんは、何も……俺が……」

 どこまでもガキだってだけの話だ。

 全部瀬名さんの言う通りだった。あの人は何も間違っていない。一昨日の夜からずっと。
 この状態じゃお節介なダチ連中に心配してもらうために大学へ行くようなものだっただろう。花屋に行ったって役には立たない。フラフラと店に立っていたとこころで、周りを困らせるだけだったはず。
 そんなことも自分じゃ分からなかった。所詮はバイト、そんなふうに言って。瀬名さんにあんな事を、言わせてしまった。

 失望させたか。呆れさせたか。軽蔑されてしまっただろうか。そういう目だったから、怖かった。
 たかがバイト。口をついて出た。言ってもどうせ俺はバイト。咄嗟にそう言ってしまった俺を、瀬名さんは怒ってくれた。
 軽蔑する相手に対して、あの大人ならきっと、何も言わない。

「……あの人は、カッコ良すぎるんです」

 かっこいい。それにすごく優しい。聞き過ごした方がよっぽど簡単なのに、俺には厳しい目を向けた。

「いつも全然、追いつけません……」

 元々ずっと先にいる人だ。俺は背中ばっかり見ている。ちょっとでも追いつきたいと思って全力疾走してみたはいいが、その果てにこれじゃ追いつくどころじゃない。こうも無様なだけのガキを、無視しないでいてくれるのがあの大人。
 そんな人を嫌うなんて、まさか。

 ボソボソと呟いて、その先はもう続かない。何も言えなくなった俺の代わりに、二条さんが明るくニカッと笑った。

「いいねえ。輝く若者の悩み聞いてると干からびた心が潤ってくる」

 そして茶化された。急に恥ずかしい。

「…………聞かなかったことにしてください」
「なんでさ、恭吾にも同じこと言ってやりなよ。泣いて喜ぶだろうから」

 想像した。今のを瀬名さんに。
 そこで二条さんと交わった視線。

「……絶対言わない」
「うん、ゴメンそれがいい。あいつはショボくれてるくらいがお似合いだ」




 それから二条さんはバイバイと手を振って帰っていった。鍵はポストに落としていってくれるそう。瀬名さんにも連絡は入れるだろうが、さっきの話は二条さんと俺との秘密だ。

 幸いなことに食欲はまあある。普段通りの食い気は湧いてこなくとも、保温カバーをゴソゴソさせる意欲くらいはちゃんとあった。出した土鍋の蓋をパカッと僅かに開いてみれば、栄養の匂いを感知している。
 まだ温かいおかゆを見下ろした。梅とネギ。あとは生姜かな。どうやら鼻は利くようだ。

 さっぱり食えそうな、おいしいゴハン。さすが二条さん。病人食にも手を抜かない。
 俺にこういうご飯を作ってくれる人を、瀬名さんは真っ先に頼ってくれた。

「…………」

 急いで走って転ばなくたって、ちゃんと待っていてくれるのに。
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