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26.春の休暇
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午後三時。スマホがブーブー鳴った。比内さんからの着信だった。
おやつにちょうどいい時間帯だがおやつを食べる習慣はないため春休みの課題を地道に片づけていたら、鳴った。ので出る。シンプルな第一声。急にすまないとの一言を受け、いいえと返すと静かに言われた。
『確認してきてほしいんだが、書斎の机の上にA4の茶封筒乗ってねえか』
「あ、はい」
そして見に行く。書斎の入り口からひょこっと顔を覗かせた。机の上にそれらしきものを見つけ、足を踏み入れそれに近付く。
「比内さん、ありました。宛名とか何も書いてないやつですよね。封も閉じてないままの」
『……それだ』
忘れ物かな。どことなくげんなりした様子がその一言から伝わってきた。
手に取ればささやかな重みを感じ、書類が入っているのが分かる。
「持っていきましょうか?」
『……悪いがそうしてもらえると助かる』
「分かりました。すぐに出ますね」
タクシー使え。こっちで金渡す。
などと言われ、急ぎだとあれだし、素直にタクシーをマンションに呼んだ。車を使えば事務所にもすぐ着く。
十五分かそこらの乗車時間ののち封筒とともにタクシーを降りると、事務所前で俺を待ち構えていたのは比内さんではなかった。中川さんだ。
「ひなたー、ごめんねー。せっかくの春休みだってのにウチのマヌケな代表弁護士が手間かけさせちゃって」
「いえ、そんな……」
「まあ入って入って。お茶でも飲んでって」
「あ、いえあの俺は……」
丁重にお断りする暇もなくグイグイ腕を引っ張られた。いつも最初に迎えてくれる七瀬さんの姿は見当たらない。あちこちに書類の山を形成しながらパソコンのキーボードを鬼気迫る表情で高速タッチしているのは長谷川さん。
「おー。陽向ぁ。元気かー」
「……どうも。元気です」
片手をヒラヒラ振ってくれたがそう言う長谷川さんは元気じゃなさそう。忙殺。そんな単語が頭に浮かんだ。
忙しくて疲れすぎた結果ハイになっているような状態だ。そんな長谷川さんの後ろを通り過ぎ、中川さんに引っ張られてやってきた比内さんの部屋。
ノックもなくバンッとけたたましくドアを開けた中川さん。机から顔を上げた比内さんは分かりやすくイラッとしていた。
「ほら来てくれたよ。よかったね比内。まったくキミはそそっかしいんだから、情けないったらないよもう。人には普段あれだけえらっそうにモノ言ってるクセして自分は忘れ物とかなんだい」
「黙れ」
「しかもこの時間まで気づかないとか。だっさ。ダッッッッッサ」
「殺すぞ」
現役弁護士による殺害予告。室温は二度くらい低くなったような気がする。中川さんは芝居がかったふうに肩をすくめつつも笑いを隠せていない。
腰を上げた比内さんはさっきの長谷川さん以上にひどい顔だ。中川さんをガン睨みしながら俺の前で足を止めた。
「悪かったな。助かった」
「いえいえ。暇ですし」
茶封筒を手渡し、任務は完了。夕食は元気の出そうなものを作ろう。
朝も見送るときに思ったがものすごく疲れた顔をしている。大丈夫ですか。なんてこのタイミングで聞くのはむしろイヤミっぽいからやめておく。大丈夫じゃなかったとしてもこの人は大丈夫と言いそうだ。
疲れている時はやっぱり肉だろうか。それとも魚。カツオとか。自律神経にいいとかなんとか何かで聞いたような聞かなかったようなふわっとした記憶があったりなかったり。
「じゃあ、俺はこれで」
おやつの時間帯に夕食のメニューを考えつつも邪魔になってはいけないから早々にこの場を立ち去る。つもりだったのに、後ろからガシッと腕を掴まれた。
「これでじゃないよ、何言ってんのさ。まだお茶もご馳走してないじゃん」
「おい中川」
「いいじゃんいいじゃんちょっとだけ。陽向のおもてなしは俺がするから比内はさっさと仕事戻りな。クライアントもうすぐ来ちゃうよ」
「…………」
怒鳴りつけるだけの活力も残っていないのか比内さんは疲れた溜め息。少々げっそりとした様子で中川さんを睨みつけていた。
「……陽向。そいつがウザかったら蹴り倒していい。俺が許す」
「何を許してんの」
そんなことを許されても俺にあの蹴りはマネできない。
そしてドンドンと背を押され、おもてなししてくれるらしい中川さんに連れられて隣の部屋へ。
比内さんの部屋はとても几帳面に隅から隅まで整っているが、中川さんの仕事部屋はいつもだいたいゴチャッとしている。本もファイルも分厚い辞書も、棚とかテーブルとか色々あちこちに出しっぱなしで開きっぱなしだ。
「紅茶がいい? コーヒーがいい? 砂糖とミルクもあるよ。緑茶もあるよ」
「どうぞお構いなく……」
「もー陽向、俺達の仲じゃん。やめようよそういう他人行儀」
「ははは……」
ソファー前の大きなテーブルの端にバババッと適当に物をよけてから中川さんは紅茶を出してくれた。砂糖とミルクも付けてくれた。
そのうえさらに大量のお茶菓子をどっさり持ってこられて遠い目になる。その大半はこの前朝比奈先生にもらってここにお裾分けしていったやつだ。それをさっそくモリモリ食べはじめる中川さんは完全に休憩モードだった。
「遠慮しないで食べて。飲んで。比内の悪口大会がはじまるよ!」
そんなものを始めるつもりはない。
「……比内さん明らか疲れてますよね。ここんとこ特に」
「ねー。通常だとこの時期は多少落ち着くはずなんだけど」
「そうなんですか?」
「年度が変わる頃は異動やら何やらで裁判所がバタつくんだよ。裁判の日程も若干ゆったりしたペースになるから他よりはちょっと余裕が出やすいんだ」
「へえ……」
「まあ、それが裏目に出たね。今回はちょっとタイミング悪かった。光ちゃんいないとやっぱ仕事回んないわ」
さっきも見当たらなかった七瀬さんは本日不在。本日というか、六日間の休暇中だと中川さんが付け足した。そんな時に限って忙しくなるのは社会人の宿命なのか、長谷川さんもあんな感じで慌ただしくバタバタしている。
他の人達がそういう状況の時に俺は何をしているのだろう。ここ以外の部屋のことを考えると肩身が狭い。
「先週は正人くんに休暇取ってもらってたんだけど、リフレッシュしてきた途端にこれじゃあ休んだ気もしないだろうね。逆に可哀想な事しちゃったよ。アシスタントが一人しかいなくなっちゃうのは小さい事務所でもさすがにキツイ」
まとまった休みを取れるのは今の時期か、夏休みに当たる頃だという。いつも酷使してしまっているからせめて余裕のある時に休暇を。そうやって二人には順番に休んでもらっているのだとか。
だから今回も比内さんは二人に春の休暇を取らせた。それは以前から決めてあって、欠けた人員分の仕事のほとんどは比内さんが自ら処理しているそう。しかし七瀬さんが休みに入った途端、今回はたまたまタイミング悪く依頼が重なりこうなった。
中川さんも今はこうして俺と話し込んでいるが、チラリと仕事机に目を向けてみれば書類があちこちに散乱している。この人も実際暇ではないだろう。あれをこのまま放置していたら比内さんの容赦ない蹴りが飛んでくるに違いない。
「ここは人手が足りてないんですか?」
「うちの場合は年中そうさ。弁護士が三人もいるのに事務担当が二人だけってのがそもそもおかしい。せめてあと一人くらいはサポート入ってくれるとありがたいんだけど、これがまあなかなか……」
「求人とかは……?」
「広告出せば応募も来るには来るけどね。現実の弁護士なんて映画とかドラマでやってるような華々しい職業じゃないからさ。つーかむしろすげえ地味。下調べしたり書類作ったりで大半はデスクワークだから、勤めてみたらイメージと違ったって思う子もまあまあ多いんだと思うよ」
つまり続かないってことか。
「まあ、ウチはそれ以前に代表があれだし。誰だろうと鬼みたいに厳しくするせいでみんなすぐに辞めてっちゃうんだ。三日で辞めた子もいたなそういや」
「三日……」
「気持ちは分かるよ。あの顔に睨まれたらそりゃあ逃げ出したくもなる」
「…………」
あえて反論はしないけど。
「本当にさあ、こんなブラック事務所で文句も言わずに働いてくれる光ちゃんと正人くんには感謝しかない。いい子たちだよ、気も利くし。仕事も迅速で正確だしね。あの二人にだけはどうか頼むから辞めないでいてほしい」
七瀬さんと長谷川さんは辞める気配どころか比内さん支持派だ。長谷川さんは完全に比内さんを信頼している。七瀬さんに至ってはほとんど心酔気味だと思う。
なんだかんだ言いつつ中川さんもここを離れずにいる訳だから、比内さんと仕事をするのが嫌いな訳じゃないだろう。書類と睨めっこをするのが似合う人には見えないが。机の上にある山積みの紙の束については俺の方が気になって仕方がない。
「あの……やっぱお忙しいようでしたら俺そろそろ帰るので……」
「あー大丈夫大丈夫、遠慮しないで。比内に酷使されてるのはあの二人だけじゃないもん。疲れ切ってる中川くんはただいまブレイクタイムなのです」
「……そうですか」
ここに比内さんがいなかったのは俺にとっても幸運だった。惨たらしいシーンは見たくない。
***
「今日は急に呼び出して悪かった」
「え? あ、いえいえ。全然」
遅くなると思う。先に晩飯食ってろ。俺の分は軽めに頼む。
事務所から出てくる時にそんなような事を端的に言われ、実際に比内さんが帰ってきたのはついさっき。さらに酷い顔になっていた。
軽めに頼むと言っていた相手に疲労回復ばかりを重視してレバーとかニンニクとか激辛系とかはただの嫌がらせでしかないから、遅めの夕食にはカツオのたたきを乗っけた出汁茶漬けを用意してみた。主食に合わせてつまめる程度の副菜も添えてある。
足りなければ足りないでパパッとできるものを作り足そう。そう思っていたが、疲れ切っている比内さんのこの顔を見る限り必要はなさそうだ。並べた分だけでちょうどいいだろう。
席に着くなり謝ってきた比内さんはお椀に手を伸ばし、綺麗な箸の持ち方と所作で出汁茶漬けを口にした。
「うまい……」
「……なら、よかったです」
大丈夫かな。本気で疲れている。
中川さんによれば七瀬さんは今日で休暇四日目だったらしい。あと二日間の辛抱だ。
「足りますか?」
「ああ。ちょうどいい」
「今夜も遅くまで仕事ですよね? 鍋の中にスープ入ってるんで、もしよかったら」
深夜にうっかりお腹が減ったときに何かがあるのと何もないのとでは多少なりとも気分が違う。ここのところ立て込んでいるようなのは聞かなくてもなんとなく分かったから、一昨日に夜食を作っておいたところ比内さんは食ってくれた。なので昨日も作り置いたら今朝もまたそれがなくなっていた。
今夜はミネストローネだ。コトコト煮込んだから味が染み出て数種類の野菜もしっかり摂れる。
カツオをひと切れ飲み込んだ比内さんは一度キッチンに目を向けた。通常よりは確実に弱っている顔で、俺の顔をぼんやり眺めてくる。
「…………助かる」
ダメそうだなこれ。大丈夫じゃないな。
普段は鋭くて隙もなくて威圧感まである切れ長の目が、今は完全に死んでいた。
おやつにちょうどいい時間帯だがおやつを食べる習慣はないため春休みの課題を地道に片づけていたら、鳴った。ので出る。シンプルな第一声。急にすまないとの一言を受け、いいえと返すと静かに言われた。
『確認してきてほしいんだが、書斎の机の上にA4の茶封筒乗ってねえか』
「あ、はい」
そして見に行く。書斎の入り口からひょこっと顔を覗かせた。机の上にそれらしきものを見つけ、足を踏み入れそれに近付く。
「比内さん、ありました。宛名とか何も書いてないやつですよね。封も閉じてないままの」
『……それだ』
忘れ物かな。どことなくげんなりした様子がその一言から伝わってきた。
手に取ればささやかな重みを感じ、書類が入っているのが分かる。
「持っていきましょうか?」
『……悪いがそうしてもらえると助かる』
「分かりました。すぐに出ますね」
タクシー使え。こっちで金渡す。
などと言われ、急ぎだとあれだし、素直にタクシーをマンションに呼んだ。車を使えば事務所にもすぐ着く。
十五分かそこらの乗車時間ののち封筒とともにタクシーを降りると、事務所前で俺を待ち構えていたのは比内さんではなかった。中川さんだ。
「ひなたー、ごめんねー。せっかくの春休みだってのにウチのマヌケな代表弁護士が手間かけさせちゃって」
「いえ、そんな……」
「まあ入って入って。お茶でも飲んでって」
「あ、いえあの俺は……」
丁重にお断りする暇もなくグイグイ腕を引っ張られた。いつも最初に迎えてくれる七瀬さんの姿は見当たらない。あちこちに書類の山を形成しながらパソコンのキーボードを鬼気迫る表情で高速タッチしているのは長谷川さん。
「おー。陽向ぁ。元気かー」
「……どうも。元気です」
片手をヒラヒラ振ってくれたがそう言う長谷川さんは元気じゃなさそう。忙殺。そんな単語が頭に浮かんだ。
忙しくて疲れすぎた結果ハイになっているような状態だ。そんな長谷川さんの後ろを通り過ぎ、中川さんに引っ張られてやってきた比内さんの部屋。
ノックもなくバンッとけたたましくドアを開けた中川さん。机から顔を上げた比内さんは分かりやすくイラッとしていた。
「ほら来てくれたよ。よかったね比内。まったくキミはそそっかしいんだから、情けないったらないよもう。人には普段あれだけえらっそうにモノ言ってるクセして自分は忘れ物とかなんだい」
「黙れ」
「しかもこの時間まで気づかないとか。だっさ。ダッッッッッサ」
「殺すぞ」
現役弁護士による殺害予告。室温は二度くらい低くなったような気がする。中川さんは芝居がかったふうに肩をすくめつつも笑いを隠せていない。
腰を上げた比内さんはさっきの長谷川さん以上にひどい顔だ。中川さんをガン睨みしながら俺の前で足を止めた。
「悪かったな。助かった」
「いえいえ。暇ですし」
茶封筒を手渡し、任務は完了。夕食は元気の出そうなものを作ろう。
朝も見送るときに思ったがものすごく疲れた顔をしている。大丈夫ですか。なんてこのタイミングで聞くのはむしろイヤミっぽいからやめておく。大丈夫じゃなかったとしてもこの人は大丈夫と言いそうだ。
疲れている時はやっぱり肉だろうか。それとも魚。カツオとか。自律神経にいいとかなんとか何かで聞いたような聞かなかったようなふわっとした記憶があったりなかったり。
「じゃあ、俺はこれで」
おやつの時間帯に夕食のメニューを考えつつも邪魔になってはいけないから早々にこの場を立ち去る。つもりだったのに、後ろからガシッと腕を掴まれた。
「これでじゃないよ、何言ってんのさ。まだお茶もご馳走してないじゃん」
「おい中川」
「いいじゃんいいじゃんちょっとだけ。陽向のおもてなしは俺がするから比内はさっさと仕事戻りな。クライアントもうすぐ来ちゃうよ」
「…………」
怒鳴りつけるだけの活力も残っていないのか比内さんは疲れた溜め息。少々げっそりとした様子で中川さんを睨みつけていた。
「……陽向。そいつがウザかったら蹴り倒していい。俺が許す」
「何を許してんの」
そんなことを許されても俺にあの蹴りはマネできない。
そしてドンドンと背を押され、おもてなししてくれるらしい中川さんに連れられて隣の部屋へ。
比内さんの部屋はとても几帳面に隅から隅まで整っているが、中川さんの仕事部屋はいつもだいたいゴチャッとしている。本もファイルも分厚い辞書も、棚とかテーブルとか色々あちこちに出しっぱなしで開きっぱなしだ。
「紅茶がいい? コーヒーがいい? 砂糖とミルクもあるよ。緑茶もあるよ」
「どうぞお構いなく……」
「もー陽向、俺達の仲じゃん。やめようよそういう他人行儀」
「ははは……」
ソファー前の大きなテーブルの端にバババッと適当に物をよけてから中川さんは紅茶を出してくれた。砂糖とミルクも付けてくれた。
そのうえさらに大量のお茶菓子をどっさり持ってこられて遠い目になる。その大半はこの前朝比奈先生にもらってここにお裾分けしていったやつだ。それをさっそくモリモリ食べはじめる中川さんは完全に休憩モードだった。
「遠慮しないで食べて。飲んで。比内の悪口大会がはじまるよ!」
そんなものを始めるつもりはない。
「……比内さん明らか疲れてますよね。ここんとこ特に」
「ねー。通常だとこの時期は多少落ち着くはずなんだけど」
「そうなんですか?」
「年度が変わる頃は異動やら何やらで裁判所がバタつくんだよ。裁判の日程も若干ゆったりしたペースになるから他よりはちょっと余裕が出やすいんだ」
「へえ……」
「まあ、それが裏目に出たね。今回はちょっとタイミング悪かった。光ちゃんいないとやっぱ仕事回んないわ」
さっきも見当たらなかった七瀬さんは本日不在。本日というか、六日間の休暇中だと中川さんが付け足した。そんな時に限って忙しくなるのは社会人の宿命なのか、長谷川さんもあんな感じで慌ただしくバタバタしている。
他の人達がそういう状況の時に俺は何をしているのだろう。ここ以外の部屋のことを考えると肩身が狭い。
「先週は正人くんに休暇取ってもらってたんだけど、リフレッシュしてきた途端にこれじゃあ休んだ気もしないだろうね。逆に可哀想な事しちゃったよ。アシスタントが一人しかいなくなっちゃうのは小さい事務所でもさすがにキツイ」
まとまった休みを取れるのは今の時期か、夏休みに当たる頃だという。いつも酷使してしまっているからせめて余裕のある時に休暇を。そうやって二人には順番に休んでもらっているのだとか。
だから今回も比内さんは二人に春の休暇を取らせた。それは以前から決めてあって、欠けた人員分の仕事のほとんどは比内さんが自ら処理しているそう。しかし七瀬さんが休みに入った途端、今回はたまたまタイミング悪く依頼が重なりこうなった。
中川さんも今はこうして俺と話し込んでいるが、チラリと仕事机に目を向けてみれば書類があちこちに散乱している。この人も実際暇ではないだろう。あれをこのまま放置していたら比内さんの容赦ない蹴りが飛んでくるに違いない。
「ここは人手が足りてないんですか?」
「うちの場合は年中そうさ。弁護士が三人もいるのに事務担当が二人だけってのがそもそもおかしい。せめてあと一人くらいはサポート入ってくれるとありがたいんだけど、これがまあなかなか……」
「求人とかは……?」
「広告出せば応募も来るには来るけどね。現実の弁護士なんて映画とかドラマでやってるような華々しい職業じゃないからさ。つーかむしろすげえ地味。下調べしたり書類作ったりで大半はデスクワークだから、勤めてみたらイメージと違ったって思う子もまあまあ多いんだと思うよ」
つまり続かないってことか。
「まあ、ウチはそれ以前に代表があれだし。誰だろうと鬼みたいに厳しくするせいでみんなすぐに辞めてっちゃうんだ。三日で辞めた子もいたなそういや」
「三日……」
「気持ちは分かるよ。あの顔に睨まれたらそりゃあ逃げ出したくもなる」
「…………」
あえて反論はしないけど。
「本当にさあ、こんなブラック事務所で文句も言わずに働いてくれる光ちゃんと正人くんには感謝しかない。いい子たちだよ、気も利くし。仕事も迅速で正確だしね。あの二人にだけはどうか頼むから辞めないでいてほしい」
七瀬さんと長谷川さんは辞める気配どころか比内さん支持派だ。長谷川さんは完全に比内さんを信頼している。七瀬さんに至ってはほとんど心酔気味だと思う。
なんだかんだ言いつつ中川さんもここを離れずにいる訳だから、比内さんと仕事をするのが嫌いな訳じゃないだろう。書類と睨めっこをするのが似合う人には見えないが。机の上にある山積みの紙の束については俺の方が気になって仕方がない。
「あの……やっぱお忙しいようでしたら俺そろそろ帰るので……」
「あー大丈夫大丈夫、遠慮しないで。比内に酷使されてるのはあの二人だけじゃないもん。疲れ切ってる中川くんはただいまブレイクタイムなのです」
「……そうですか」
ここに比内さんがいなかったのは俺にとっても幸運だった。惨たらしいシーンは見たくない。
***
「今日は急に呼び出して悪かった」
「え? あ、いえいえ。全然」
遅くなると思う。先に晩飯食ってろ。俺の分は軽めに頼む。
事務所から出てくる時にそんなような事を端的に言われ、実際に比内さんが帰ってきたのはついさっき。さらに酷い顔になっていた。
軽めに頼むと言っていた相手に疲労回復ばかりを重視してレバーとかニンニクとか激辛系とかはただの嫌がらせでしかないから、遅めの夕食にはカツオのたたきを乗っけた出汁茶漬けを用意してみた。主食に合わせてつまめる程度の副菜も添えてある。
足りなければ足りないでパパッとできるものを作り足そう。そう思っていたが、疲れ切っている比内さんのこの顔を見る限り必要はなさそうだ。並べた分だけでちょうどいいだろう。
席に着くなり謝ってきた比内さんはお椀に手を伸ばし、綺麗な箸の持ち方と所作で出汁茶漬けを口にした。
「うまい……」
「……なら、よかったです」
大丈夫かな。本気で疲れている。
中川さんによれば七瀬さんは今日で休暇四日目だったらしい。あと二日間の辛抱だ。
「足りますか?」
「ああ。ちょうどいい」
「今夜も遅くまで仕事ですよね? 鍋の中にスープ入ってるんで、もしよかったら」
深夜にうっかりお腹が減ったときに何かがあるのと何もないのとでは多少なりとも気分が違う。ここのところ立て込んでいるようなのは聞かなくてもなんとなく分かったから、一昨日に夜食を作っておいたところ比内さんは食ってくれた。なので昨日も作り置いたら今朝もまたそれがなくなっていた。
今夜はミネストローネだ。コトコト煮込んだから味が染み出て数種類の野菜もしっかり摂れる。
カツオをひと切れ飲み込んだ比内さんは一度キッチンに目を向けた。通常よりは確実に弱っている顔で、俺の顔をぼんやり眺めてくる。
「…………助かる」
ダメそうだなこれ。大丈夫じゃないな。
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