No morals

わこ

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第二部

64.望むべきもの、ほしいものⅠ

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 長い巻き髪。柔らかい体。甘ったるい香水の匂い。
 女の匂いだ。部屋を埋め尽くしている。そのためだけに用意された安っぽいホテルの、デカいベッド。そこのふちに腰掛けたまま足をついているのは、安っぽい絨毯。
 ここまで届くシャワーの音を虚ろな気分で耳にしていた。毛足の短い絨毯を見下ろしたところで、この状況は変わらない。

「…………」

 最低だ。




***




 適当な女を引っ掛けた。引っ掛けたというか、声をかけられた。
 繁華街の裏通りをうろついていたら急に呼び止められ、暇なら遊ばないかと、そう言って。女は明らかに酔っていた。しかし慣れている様子だった。若いとも年増とも判断しかねる。年齢不詳なその女がこれで食っているのは分かった。

 数秒女を観察し、それは向こうも同じだったようだ。俺の顔を見上げているうちにふと何かに気づいたようで、軽く目を見開き、しかし次にはニコリと笑って見せただけでそれ以上は何も言わない。
 心得ていますよ、大丈夫。私はあなたの味方です。そうとでも言いたげな甘ったるい笑みがひどく鼻についたものの、絡みついてきた女の腕は特に拒むこともなく歩いた。

 ホテルに入り、シャワーの音を聞き、激しい後悔に苛まれながら家に戻った時はすでに明け方。
 なんて馬鹿な事をしたのか。裕也は何も悪くない。嫉妬に俺が耐えきれなかった。頭では理解していたのに。
 目にした光景で爆発した。理性だけで衝動は抑えられなかった。
 あいつを殴り、裕也を責めて、誤解だと叫ぶあいつの言葉を遮り、酷いことを言った。殴ろうと、した。

 一度ならず二度までも。そのうえ今回は、裏切った。
 女とホテル。最悪だ。どうしようもねえクソ野郎である自覚くらいは元々あったが、未だにここまで愚かだったとは。裕也がいるのに。選んでくれた。そばに、いてくれる奴なのに。

 部屋の前で鍵穴に鍵を差し込んだが、いつものようにガチャリとは回らない。施錠もせずに飛び出したドアは一晩経ってもそのままだった。
 怒りに我を忘れるというのは完全に夕べの状態だ。置き去りにしてしまったあいつは、どんな顔をしてこの部屋を出たのだろう。
 夕べのあれは酒を言い訳にもできない。この前裕也を痛めつけた時、二度とこんな真似はしないと心に誓ったはずだった。だが短期間で二度目を起こした。結局こうなる。このザマだ。カッと血がのぼり、その怒りをまた、絶対に向けてはいけない奴に向けた。

 手を上げなかったのはまだ幸いか。そんな訳がない。俺はあいつに何を言った。
 酷いことを。本当に、酷いことを。後悔はなんの役にも立たず、重いドアを開けて薄暗い部屋に入った。

 しかし、気づいた。靴がある。そこに。それは俺のものではない。
 見慣れたその一足からゆっくりと視線を上げて、中に目を凝らす。だいぶ暗いが、ベッド前には人影が。

「…………」

 ゆっくり、近付いた。罪悪感しか抱けない。床の上に座り込んで、ベッドの上で組んだ腕に顔を埋めて眠っている。
 ずっとここにいたのか。とっくに帰っているだろうと思った。俺がどこにいるかも知らず、裕也はここで待っていた。

「……裕也」

 小さく、声にならない程度の大きさ。呼びたいのはこいつだけで、抱きしめたいのもこいつだけだ。大事で大事で、たまらないのに、何かというと傷つける。
 腕に顔を伏せているからその表情は分からない。頭に手を伸ばそうとして、俺が触ってもいいのだろうかと、そんな考えが不意に過ぎった。

「ん……」

 そこで微かに裕也が身じろいだ。慌てて手を引っ込める。裕也はゆらっと顔を上げ、呆然としたように前を見ていた。
 そしてすぐに気づいたのだろう。はっとしたように振り向いた。

「竜崎……」

 立ち尽くす俺を見上げるその目。困惑の一色に染まっていた。それを直視する事もできず、目を合わせることすらままならない。
 気まずい思いで窓際に目をやり、腕を伸ばしてカーテンを引いた。昇り始めたばかりの太陽が、部屋の中に朝日を射し入れてくる。
 重苦しい雰囲気に飲まれて俺も裕也も声が出なかった。それに耐えかねたのだろう。裕也は無言のまま立ち上がり、視線を外したまま俺に背を向けた。

「っ裕也……」

 咄嗟に、腕を掴んでいた。ビクッと揺れたのがこの手に伝わる。振り返ったその顔を見て、一気に胸が締め付けられた。

「行くな……っ」

 次にはもう抱きしめていた。考えている余裕はない。こうしたいのも、名前を呼びたいのも、それはたった一人だけだ。
 驚くほどおとなしく、夕べあれだけのことをしたのに裕也は身動き一つしない。しかしそう思ったのは最初だけだった。のろっと、腕の中で力なく、しかしそれでもはっきりと、抵抗の意思を感じて少しだけ力を緩めた。

 そこから抜け出た裕也の顔は、さっきとは違い、呆然と。疑わしく探るような目つきをしながら俺を見て、徐々に表れる。驚愕だ。愕然と、言うべきか。
 表情を険しくさせた裕也は、静かにぽつりと呟いた。

「……今まで……どこにいた」
「え……?」

 今度は俺が、はっとする番だ。それで確信に変えたのだろう。厳しかった裕也の顔つきには一瞬で軽蔑が込められた。

「……人に説教垂れといて自分はなんだ」
「裕也……」
「それは……俺への当てつけか……?」

 躊躇いつつもそっと手を伸ばそうとすれば、パシリと弾かれ、低く、一言。

「下品な匂い染みつけやがって」

 忌々しく吐き捨てられて背筋が凍りつくように感じた。
 そうか。そうだ。気づかないはずだない。裕也も良く知っているはずだ。女の匂いを。あいつらがどういう香りをまとうか。抱きしめた瞬間に気づいたのだろう。言い訳なんて、しようもない。

 裕也は拳を握りしめていた。しかし殴り掛かってはこない。胸ぐらさえ掴まれず、怒鳴り散らされる訳でもない。
 ただじっと、一人で堪えていた。俯き、俺の顔は視界から除外していた。見たくもない。聞きたくもない。そうとでも言うように。それでつい一歩前に出ていて、手を伸ばした。

「裕也……」
「ッ……」

 パシッと、また弾かれた。今度こそそこには剥き出しの敵意が。しかしそんな激しい拒絶より、裕也の顔を見て言葉を失くした。
 怒っているのは当然で、それ以上に、歪んでいた。苦痛だ。今にも泣きそうな。それを必死で堪えながら、ただ俺を睨みつけていた。

 初めて見る顔だった。そんな顔を、させてしまった。突如腕を振り上げた裕也は俺に向かって何かを投げつけ、カチャンと床で音が立つ。落ちたそれ。銀色の、鍵。
 すぐに気づく。ここの部屋の合鍵だった。俺が裕也に、渡した鍵だ。

「……ほんとだな。お前の言った通りだった」

 淡々と落とされる。そんな声に体が冷えた。
 動けないままその顔を見ていたが、裕也がすぐに視線を下げた。

「全部間違いだった」
「……裕也」
「ッお前は……」

 触れようとする俺を許さない。遮られ、そして睨まれた。
 忌々しそうな顔をして、それでも泣きそうなのはそのまま、ギリッと強く噛みしめた口をゆっくりと重々しく開いた。

「お前は……俺が信じられねえんだろ。俺だってお前にそんな顔させるためにお前とこうなった訳じゃない。女がいいならそうすりゃいいじゃねえかよ。俺達のこれは……間違いだ」

 淡々と冷静に、怒りよりも、辛辣に。

「…………うぬぼれてた俺が悪い」
「裕也……」
「終わりだ。二度と会わない」

 俺を通り過ぎて歩いていく。振り返ってくれることはない。

「裕也……待ってくれ……頼む」

 後を追い、引き止めようとするも、指先が触れる寸前でまたもや鋭く弾かれた。拒絶しか示さないその後ろ姿は、俺を見ることすら拒否している。
 無情にもドアはバタンと閉まった。部屋に残ったのは俺と、この鍵。無様にもポツンと佇み、呆然とドアを眺めた。

 こんなことで。それは俺が言っていい事では決してないが、こうもあっけなく、あっさりと、終わってしまうものなのか。
 最初から俺には矛盾しかなかった。それくらいの自覚だけはあった。手放すのがどうしても嫌でガキのように駄々をこね、少しでも長く留めておくために裕也を縛り付けてきた。

 裕也にあんな顔をさせてしまった。俺がさせた。きっとあいつには一番似合わない顔つきだった。
 足下に転がる鍵を見つめ、のろのろと愚鈍に拾い上げた。いらないとあいつは言ったが俺が無理やりに突きつけた鍵だ。本人の宣言通り今まで一度も使われることはなく、裕也の部屋の中の片隅で忘れ去られているのだろうと。そう思っていたのに。思い違いだった。裕也は持っていた。おそらく、いつも。

「裕也……」

 口に出した名前は空しく響いた。今なら追いかければ間に合うだろう。引き止めてそれで、何を言う。何を言おうともあいつが俺に返すのは一つだけ。拒絶だ。

 鉄みたいに重い足を引きずるようにして洗面台の前に立った。水をジャージャーと垂れ流し、洗い流すために水をかぶった。
 全てを捨ててここに来た。金もなければ仕事もなくて守るべきものなど何もない。この状態ならいつ死んだとしても未練は一つも残らないだろうと、投げやりな感情しか持っていなかった。
 大事なものができてしまって、それを今、失った。どうすればいい。分からない。水の音だけが耳に入る。水浸しの顔を上げ、鏡に映った情けないツラ。

 服に染み込んだ香水の匂いは洗ってしまえば落ちるけれど、このツラだけは剥ぎ取れない。俺には、落ち込む権利がない。
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