No morals

わこ

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第二部

66.望むべきもの、ほしいものⅢ

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 毎晩二人で歩くようになっていたこの道も、ここしばらくはずっと一人だった。
 昭仁さんと知り合って以来一人で行き来してきた道だ。最初から俺は一人だった。そこに裕也が現れて、二人で歩くようになり、それに慣れた。そこに甘えた。
 当たり前のようにいつも隣を歩き、俺がふざけてちょっかいを掛ければ怒鳴り散らされ殴られて。騒がしく、けれど楽しいと思える。平穏。安らぎ。日常。いつも通り。当てはめられる言葉は色々あるが、全ては無縁だと思っていたもので、それを裕也は俺に与えた。

 たとえば生き物の体のどこかに悪性の腫瘍ができた場合、元の部分を取り除かなければ治療も一時しのぎにしかならない。こうなっている責任はもちろん裕也には一つもなくて、根本というあの男にもなく。俺の中にある癌を切除しない限り何度でもまた繰り返す。
 現にもう、これが二度目だ。またきっとどこかで傷つける。分かっているのに前のめりになって走っているのは、単なるエゴだ。

 取り戻すためにただ走った。裕也の部屋を真っすぐに目指した。
 すでに何度も拒絶されたが、一目だけでも顔を見せてくれるだろうか。少しでも、話しを聞いてくれるだろうか。

 あの晩の俺は裕也の声を聞こうともしなかった。言い訳できない真似をして、怒りのままに理性を捨てた。
 目的地に急ぎながらスマホを取ったが通じない。部屋に押し掛けても先日までは一切の応答がなかった。そこから状況は変わっていない。

 不安を隠すように足を動かし、見慣れた建物が見えてくると徐々にそのペースを落とした。玄関脇。その小窓。光が漏れている。裕也は中にいる。
 擦りガラスは室内の様子を教えてはくれないが、いると分かればそれでいい。ゆっくり呼吸を整えながら、ドアの前で足を止めた。
 開けてくれる見込みはほぼない。インターフォンを一度鳴らしてその場でじっと待ってみれば、思った通り出てこない。ここにいるのが俺だと分かっている。さっきもスマホを鳴らしたばかりだ。

「裕也……俺だ。いるんだろ」

 待つのは諦め、ドアを叩いた。思いのほか控えめなノックになった。
 この関係になる前は、こうするとよく怒られた。近所迷惑だろ。さっさと帰れ。しつこい。そう言って邪険にされたが、今はそれすら懐かしい。

「裕也。頼む……一度でいいから、話したい」

 出てきてくれ。ぽつりと最後に付け足した言葉は情けないを通り越すくらいにか細い。扉越しにこれでは聞こえもしないだろう。拒絶だろうと受け入れるつもりでここまでノコノコやって来たが、いざこの状況に立たされてみると自信のなさが浮き彫りになる。
 そんな権利もないのに溜め息を零し、それからまたインターフォンを鳴らした。何度かボタンを押し続けても怒鳴りつけてくれる奴は出てこない。最終的にはガンガンとドアを叩き、その名前を叫び上げた。

「裕也……っ」

 近所迷惑とはこういう事だ。以前は近所迷惑になる前に裕也が中から出てきてくれた。
 一向に姿を見せない部屋の主を呼びつけるため、ドアに繰り返し叩きつけた手がジンジンと痺れていることに気づいた。
 どうしたらいい。ドアに手をつき、顔は俯く。一目会うことも叶わない。それだけの事をしでかした。

 それでもなお扉を叩くために再び手を握りしめたその時、ふと、ドアの向こうで微かな物音。少ししてガチャリと聞こえた。
 動かせなかったドアノブが勝手に動き、古いドアが重々しく開いた。その中から漏れ出る明かり。それとともに、裕也の顔を見た。見たことのないような無表情だ。

「裕也……」
「入れ」

 怒られもしない。一言だけ投げ落とされ、無言のまま室内に戻った裕也の後に重く続いた。
 一人で部屋の中に入っていき、一人でテーブルの前にドサッと腰を下ろした裕也。その手はテーブルの上で開いてあった本に伸びたきり動かない。視線もその本のページに落ちて、俺には一切目もくれない。部屋に上げてはくれたものの、ここには自分一人きりしか存在していないような振る舞いだった。

「……裕也」
「何時だと思ってんだよ。あとで文句言われんのは俺なんだぞ」
「……ごめん」

 返答をもらえたかと思えば、やはりそこには怒りすら感じない。ただ撥ねつけられただけだ。静かで冷たい物言いは、何よりも強い拒絶だった。
 その視線は一瞬だけチラリとこちらを振り返り、しかしここにいる俺には全く、興味のひとつも示さない。すぐにまた手元に目を落とした。

「なに突っ立ってんだ。用がねえなら帰れ」
「裕也……」

 ポケットから手の中に拾い上げたのは銀色の鍵。それを握りしめながら、少しだけ近付いた。
 控えめに差し出す。そっと。何も言えず。裕也はようやく顔を上げ、その視界に俺を捉えた。
 無言で、きつく睨み付けられる。手の中のこれは合鍵だ。ようやく感情らしい感情を見せられたものの、再び目を逸らされそうになったためその前に、口を開いた。

「やり直したい」
「ッ……」

 バッと、この手が弾かれた。弾みで手から鍵が離れる。部屋の隅に落ちたそれは、カチャンと小さな金属音を鳴らした。
 それと同時か、そんなくらい。バッと胸元に投げつけられた。裕也が開いていた本だ。それがバサリと床に落ち、直後、裕也の唸る声を聞いた。

「っ勝手なこと言ってんじゃねえよ……出てけ……二度と来んじゃねえ……ッ」

 わなわなと声を震わせ、立ち上がるなり肩をドンッと押された。その腕を反射で掴んでしまったが、その瞬間に振り切られている。

「触るなっ」
「裕也……ごめん……こんなこともう今さらだけど、でも俺は……」
「触んなっつってんだろッ……!」

 僅かにでも手を伸ばそうとすればそれより先に威嚇される。一度は躊躇するもしつこく繰り返そうとした時、とうとう胸ぐらをガッと掴み上げられた。
 ギリっとその手に力がこもっている。両手とも怒りで震えていた。気が済むまで殴ればいい。そうしてくれ。そう無言で訴えたつもりが、裕也はそれ以上何もしてこない。
 その程度で許されることではなかった。耐えるように歯を強く食いしばった裕也は、顔を逸らしながらバッと手を離した。

「……出てけ。お前とする話なんかねえよ」

 すぐにまた向けられたその背が、早く帰れと言っている。

「裕也……頼む……」
「消えろ。聞きたくない」
「……裕也……」

 同じことを言った。俺も、この前。裕也には正当な主張があったが、今の俺には何もない。
 感情に流されることなんてこれまでは一度もなかった。仕事だと思えばなんだってできた。ただしそこにあるのは空虚で、それを埋めたのが裕也だった。
 隣にいれば安心できるのに、一緒にいるせいで不安が付きまとう。整理をつけずにいたツケがこれだ。報いを受けている。当然の報いだ。そこに裕也を巻き込んだ。

「裕也……」

 滑稽だ。こんなのエゴどころの騒ぎじゃない。頭ではここまで理解しておいて、それでもなお、手を伸ばす。

「ッ触んな……帰れよ……っ!」
「……やり直したい」
「黙れっ!!」

 怒りか、怯えか、分からない。そんな顔で俺から距離を取る。その顔も徐々に俯かせ、裕也の背後には壁が迫った。そうやって裕也が行き場を失くすと、それ以上は追い詰められずに俺もこの場で立ち尽くした。
 悔やんだってもう遅かった。改めて思い知らされたのは、しでかした事の重大さだけだ。

「……ごめん……こんなことばっかお前にしてる」
「…………」
「結局また……裏切った」
「っ……」

 ギリッと、その手が握りしめられた。それが分かって、ならば殴ってくれればいいのに、それすらもうしてくれない。
 一歩、裕也に近付いた。懲りずに手を伸ばし、肩に触れた。ピクリと揺れたのが伝わってきたが、殴りかかってくるでもなく、ただ黙って床に顔を向けている。

 殴られない。蹴られない。それを受けて済まそうなんて、そんなのはむしが良すぎる。
 裕也は全身で拒んでいた。拒否を表し、こんなことを思う資格こそないがどうしてもそれが寂しくて、思わず俯かせたその顔に、そっと。
 頬に指先を当てた。睨んでも憎んでもなんでもいいから顔を見せてほしくて覗き込もうとすれば、途端にバッと、とうとう弾かれ、そこで見た。裕也の、その顔。

「……っ」

 息をのんだ。一瞬だったが、確実に見た。
 怒ってる。とんでもない。今にも壊れそうな表情だ。つらいなんて言葉じゃおさまりきらない。怒りを通り越して痛切に、張り裂けそうなほど歪ませていた。
 追い詰めたんだ、俺が。ここまで。傷付けた。ここしばらく会わずにいた間、裕也はどんなふうに、一人で。

「裕也……」
「……寄るな」

 絞り出すように唸ったその声。頑なな言葉は精一杯の拒絶だ。俺が近づこうとすればその都度、毛を逆立てて威嚇する。

「……ごめん……ごめん、裕也……」
「黙れ」
「……裕也」
「っ黙れよ!!」

 今度こそガッと掴みかかってきた。身構えもせずに受け止めたせいで勢いのまま張り倒された。
 背中にドサッと強い衝撃が来る。続けざま胸ぐらを両手で掴んで勢いのまま引き起こされた。俺の体を膝でまたいで、ギリッときつく睨んでくる。

「聞きたくねえってのが分かんねえのかッ……!?」

 低く呻くように叫ばれる。その手は微かに震えていた。歪んだ表情はあまりにも苦しく、こんな顔をさせたと、ここで知った。

「っ……勝手なことばっか言いいやがって……散々人を振り回しといて今さらなんだよっ、もううんざりだッ……お前の顔なんか二度と見たくない……こんなっ、なんで、俺が……こんな……っ」

 途切れつつ、泣きそうに、ただ俺を睨み落として。

「なんで、こんな……」

 俺の服を掴み上げるその両手は完全に震えていた。睨まれているのに、伝わってくる。苦しいとか、そういうのだけが。

「……お前が俺を疑った」
「…………」
「女と一緒だった……冗談じゃなねえよ、なんでこんなくだらねえことで……」
「…………」
「なんでお前だと、こんな……っ」

 声を張り上げ、しかし続かない。すぐにまた堪えるように眉間を寄せて、ほとんどもう泣く寸前の顔だ。

「疑われることなんて慣れてる……寝る相手だってどうでもいい……」

 わなわなと、声が震えている。下から黙って見上げる俺を、意地だけで見返しているようだった。

「お前とこうなるまではそうだった……なんでお前だと全部ダメなんだよ……っこんな……こんな、どうでもいいことに……いちいちイライラさせられる」

 無理に強めたような目で俺を睨みつけ、再び背中に衝撃がくる。叩きつけるようにダンッと床に押さえられ、俺が無抵抗でいるのさえも許せないような、そんな目で。

「お前なんかのせいでっ……なんでこんな……ッ」

 そこまでが、裕也の限界だった。俺の肩をぐっと掴み、その手からは徐々に力が抜けていく。顔を伏せ、俺から目を逸らした。震えてる。すぐにでも泣きそうに。

「なんでだよ……」

 ポツリと漏らされたその声は、怒りを絞り出そうとして失敗していた。弱々しい。痛々しい。それを隠すように声を出していた。

「……俺じゃない奴にお前が触った。そんなの考えたくなかった」
「…………」
「ここまで、みっともねえ話があるか。こんなつまんねえことで……」
「……裕也……」
「どうしてくれんだよ……」

 その顔がわずかに上がった。微かに赤い、その目元。

「こんなはずじゃ……なかったんだ……」

 裕也が守ってきたプライドだった。それを俺が解放させて、ぶっ壊した。粉々に。

「……裕也」

 腕を伸ばしてももう拒絶がない。引き寄せても、弾かれなかった。縋るように俺の肩を弱々しく掴んでいる。
 躊躇いつつも腕の中に抱き寄せ、その中に裕也はおさまった。

「お前のせいだ……」
「……ごめん」
「お前なんかに……なんで……」
「ごめん。……ごめん」

 プライドを壊して、ボロボロにさせて、自由まで奪ってる。後ろめたさをひた隠しにして、裕也の隣を陣取っている。
 ずっとなんて、あり得ないのに。この先。将来。そういうものが、俺にとってはあってないようなものだ。

 エゴと欲にまみれた男が俺の最も正直な姿だ。大事ならそばにいるべきじゃない。
 傷つけて、壊し続ける。俺にできるのは、それだけだ。
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