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第二部
78.凶暴な猫Ⅰ
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とてもか弱い声だった。縋るような目で見つめられた。それらを振り切り歩き出すまでには相当の時間を費やした。
きっと誰か、他にいい奴が。相応しい人間がすぐに現れる。小さな体を優しく抱き上げ、家に連れ帰ってくれる誰かが。
そう信じて半日待った。帰りに同じ場所を通りかかり、同じようにして箱を覗き込み、そしてその中の、一匹を目にした。
ダメだった。こいつだけ残ってしまった。そんな奴にミャアなんて言われたら。
手を伸ばさずにはいられない。
***
「昭仁さん動物って好き?」
「なんだ急に」
そわそわしそうな気分を抑え、出された酒も目に入らぬまま結局はそわそわ聞いてしまった。
バイト先の連中からの反応はあまり良くなかった。ペット不可の賃貸だったり先住の生き物がいたり、ごめんな力になれそうにないとみんな残念そうな顔をしていた。
隣にいる竜崎もきっとアテにはならない。俺が求めているのは可能なら持ち家のある、でなければペット飼育が可能な賃貸物件の住人だ。
「ネコいらねえ?」
「……ねこ?」
「つーか頼む。もらってくれ」
箱の中でミャアミャア言っていた子猫たち以上に俺は必死だ。懇願の目を昭仁さんに向けると、その横で加賀が言った。
「捨て猫でも拾ったんですか?」
「……ああ」
まさしく。いま俺の部屋には一匹の小さな猫がいる。
昨日のことだ。朝だった。家を出るとアパートの近くでか細く小さな声を聞いた。その方向に目をやれば、電柱の脇だ。ゴミ捨て場。そこに段ボールが置いてあった。
バイト先に行くためにはその前を通ることになる。半端に開いているダンボールの口からチラッと中を覗きこむと、そこには子猫がいた。五匹もいた。
つい、足が止まってしまった。五匹ともすぐさま抱き上げたかった。
しかし俺は安いワンルーム暮らし。当然ながらペットは不可だ。仮にペット可だったとしても、五匹もの毛玉たちをのびのび健やかに育ててやれるほどの金銭的な余裕はない。
幸いにもこの近辺には一軒家やファミリー世帯も多い。捨て猫を拾う人間の一人や二人くらいはそれなりにいるだろう。ダンボールは猫の背丈より倍以上も大きいから勝手に出ていってしまうこともなければ、今日はごみの日でもないため間違って収集される危険性もない。
ごめんな、俺はダメなんだ。後ろ髪を引かれつつもその時はその場を後にした。
ところがその晩、バイト帰りにミオに行ってから帰路につき、そこで通りかかったごみ捨て場にはまだダンボール箱が残されていた。
ゆっくり近づき、開けてみる。五匹いた子猫たちのうち四匹は貰い手がついたのだと分かった。
しかし一匹だけ残っている。みゃぁっと上がったその声は、朝よりも弱々しくなったように思えた。
辺りはもう真っ暗。帰宅時間帯を過ぎたこの近辺は人通りが一気に減る。
どうしよう。連れて行きたい。ものすごく連れて帰りたい。けれど連れていったところで飼ってやる事はできない。無責任に抱き上げて何になる。こいつを幸せにできるのは俺じゃない。
ここでもまた、立ち去ろうとした。猫を見捨てて。こんなに弱々しいのに。
生まれてまだ間もない子猫だ。みんな目はぱっちり開いているから少なくとも生後二週間は経っているだろう。大きさや動き方から言っておそらくはもう少々、一ヵ月かその辺だろうか。それでも一晩もこんなところに放置したら死んでしまうかもしれない。
最後にもう一度だけ箱の中を覗いた。その時、子猫がみゃぁっと言った。か細く思えたのは聞き間違いではなく、生かさなければ。そう思った。
確信した時には抱き上げていて、夜間にも診療している動物病院を探したら一軒だけ見つかった。タクシーなんてものを使ったのは果たして何年ぶりだっただろう。予約もせずに駆け込んだ俺をそこの診療所は受け入れてくれて、子猫には脱水症状が見られたもののすぐに適切な処置を受けた。
そうして俺の部屋に仲間が加わった。期間限定の同居人ではあるが。
いつまでもその期間を引き延ばす訳にはいかないからここで昭仁さんに相談している。
「竜崎にタダ酒くれてやるより猫養った方が絶対楽しいから。可愛いし」
「猫と俺を比べんなっての。つーか俺の方が可愛いだろ」
「本気で言ってんなら今すぐ病院行け」
口を挟んできた可愛くない生き物を退け昭仁さんに懇願する。こんなヘビースモーカーに預けるのもあれだが宿なしの猫になるよりはマシだ。
バイト先の近くにペットホテルがあるのは知っていたから調べてみたが、生後半年以前の犬猫を預ける事はできないようだった。本来なら母猫の保護下にある時期の子猫に留守番させるのは最善でないものの、仕方がない。資源ごみに出すはずだった大きめのダンボールを組み立て直し、タオルやクッションをフカフカに敷き詰めて簡易的な寝床を作った。
獣医に指示されたミルクと離乳食を用意し、翌朝に部屋を出る前には危険予測のし過ぎという弊害によって俺が死にかけ、掛け持ちしているバイトを一つ切り上げたあとは次に行く前に一度家に戻り、ここに来る前にもまた家に戻って子猫の様子を確認してきた。
夕べは本当に死んでしまうのではと心配だったがちゃんと元気だ。俺が帰ってきたのが分かると、ダンボール越しにみゃあみゃあ言いながらヨタヨタと寄ってくる。
賢いうえにめちゃくちゃ可愛い。そんな毛玉が毎日一緒にいたらこの店主も長生きするに決まっている。
「ウチだと飼えねえんだよ。管理会社にバレたら一発で追い出される」
「そうだなぁ……もらってやりてえとこなんだけどよ……」
ここは酒場だ。しかもあの副業だ。
頼みの綱でもあった反面、この反応も半ば予想はしていた。
「だよな……。悪い。変なこと頼んだ」
「すまねえ。アテはあるのか?」
「……探してみる」
とは言ってもどこを探せばいいのか。量販店社員の森田さんは奥さんが猫アレルギーだそうで、橘と瀬戸内はあんな感じで、引き取り手がいないか周りに声をかけてみると言ってくれた奴らもいたがその辺が確定する見込みは薄い。
見つからなかったらどうしよう。いざとなれば俺が引っ越すか。引っ越し費用をすぐに捻出できる程度の蓄えならばギリギリなんとか。しばらくはもやしと卵で切り詰めればその後の生活もどうにかなるだろう。
思いつつも項垂れて腰を上げ、飲んでいない酒代をカウンターに置いた。
ここに来なければ猫のためのおやつもそこそこいいのを調達してやれる。
「もう帰るんですか?」
「ちょっと寄っただけだから。部屋に猫置いてきちまってるし」
俺が部屋を出てくる前に離乳食を食べて満腹になったらスヤスヤと眠ってしまったのだが一刻も早く帰りたい。
そわそわと扉を目指した俺に、知り合いにも声をかけておくと昭仁さんが付け足した。
「むしろお前が手放せなくなったりしてな。今もすでにベタ惚れだろ」
「まだ小せぇし誰だって心配になるだろ。貰い手さえ見つかればすぐに引き渡す」
ミルクを飲む姿もヨタヨタ歩く姿も眠りに就く姿も可愛くてたまらないが。ちょっと抱き上げただけで目に入れても痛くないという言葉の意味を完全に理解したが。
いくら情が移ったとしても俺に子猫の世話は無理だ。溜め息交じりに竜崎の後ろを通り過ぎたら、なぜかそこでこいつも腰を上げた。
「じゃ、俺も帰ろうかな」
「あ? お前はさっき来たとこじゃねえのかよ」
「猫気になるんだろ?」
「俺はな」
当然のように隣に来た竜崎を横目でチラ見。なんでついてくんだこいつ。
お構いなしに人の肩に腕を回し、ドアへと力任せに押し進めてくる。
「まだ飲んでろっての」
「いいからいいから。ほら、行くぞ」
「行くぞじゃねえよ。なんで付いてこようとしてんだ」
「俺も猫見たい」
うそつけよ。
カウンターから二人に見送られつつ、竜崎の手によって強引に外へと押し出された。背後でバタンと閉まったドア。こいつの手は払いのけたが、やむを得ずそのまま歩いて行く。
「……お前が来たって役に立たねえんだよ。アパートだし貧乏だしロクでもねえししょうもねえし」
「そこまで全否定する? 俺もバイト先で頼んどくからさ」
「アテになんねえ……」
普段ならここで押し問答になるが今はさっさと帰りたい。隣から話しかけてくる竜崎の言葉はほとんど聞き流し、足早に部屋へと向かう俺の心はここになかった。
きっと誰か、他にいい奴が。相応しい人間がすぐに現れる。小さな体を優しく抱き上げ、家に連れ帰ってくれる誰かが。
そう信じて半日待った。帰りに同じ場所を通りかかり、同じようにして箱を覗き込み、そしてその中の、一匹を目にした。
ダメだった。こいつだけ残ってしまった。そんな奴にミャアなんて言われたら。
手を伸ばさずにはいられない。
***
「昭仁さん動物って好き?」
「なんだ急に」
そわそわしそうな気分を抑え、出された酒も目に入らぬまま結局はそわそわ聞いてしまった。
バイト先の連中からの反応はあまり良くなかった。ペット不可の賃貸だったり先住の生き物がいたり、ごめんな力になれそうにないとみんな残念そうな顔をしていた。
隣にいる竜崎もきっとアテにはならない。俺が求めているのは可能なら持ち家のある、でなければペット飼育が可能な賃貸物件の住人だ。
「ネコいらねえ?」
「……ねこ?」
「つーか頼む。もらってくれ」
箱の中でミャアミャア言っていた子猫たち以上に俺は必死だ。懇願の目を昭仁さんに向けると、その横で加賀が言った。
「捨て猫でも拾ったんですか?」
「……ああ」
まさしく。いま俺の部屋には一匹の小さな猫がいる。
昨日のことだ。朝だった。家を出るとアパートの近くでか細く小さな声を聞いた。その方向に目をやれば、電柱の脇だ。ゴミ捨て場。そこに段ボールが置いてあった。
バイト先に行くためにはその前を通ることになる。半端に開いているダンボールの口からチラッと中を覗きこむと、そこには子猫がいた。五匹もいた。
つい、足が止まってしまった。五匹ともすぐさま抱き上げたかった。
しかし俺は安いワンルーム暮らし。当然ながらペットは不可だ。仮にペット可だったとしても、五匹もの毛玉たちをのびのび健やかに育ててやれるほどの金銭的な余裕はない。
幸いにもこの近辺には一軒家やファミリー世帯も多い。捨て猫を拾う人間の一人や二人くらいはそれなりにいるだろう。ダンボールは猫の背丈より倍以上も大きいから勝手に出ていってしまうこともなければ、今日はごみの日でもないため間違って収集される危険性もない。
ごめんな、俺はダメなんだ。後ろ髪を引かれつつもその時はその場を後にした。
ところがその晩、バイト帰りにミオに行ってから帰路につき、そこで通りかかったごみ捨て場にはまだダンボール箱が残されていた。
ゆっくり近づき、開けてみる。五匹いた子猫たちのうち四匹は貰い手がついたのだと分かった。
しかし一匹だけ残っている。みゃぁっと上がったその声は、朝よりも弱々しくなったように思えた。
辺りはもう真っ暗。帰宅時間帯を過ぎたこの近辺は人通りが一気に減る。
どうしよう。連れて行きたい。ものすごく連れて帰りたい。けれど連れていったところで飼ってやる事はできない。無責任に抱き上げて何になる。こいつを幸せにできるのは俺じゃない。
ここでもまた、立ち去ろうとした。猫を見捨てて。こんなに弱々しいのに。
生まれてまだ間もない子猫だ。みんな目はぱっちり開いているから少なくとも生後二週間は経っているだろう。大きさや動き方から言っておそらくはもう少々、一ヵ月かその辺だろうか。それでも一晩もこんなところに放置したら死んでしまうかもしれない。
最後にもう一度だけ箱の中を覗いた。その時、子猫がみゃぁっと言った。か細く思えたのは聞き間違いではなく、生かさなければ。そう思った。
確信した時には抱き上げていて、夜間にも診療している動物病院を探したら一軒だけ見つかった。タクシーなんてものを使ったのは果たして何年ぶりだっただろう。予約もせずに駆け込んだ俺をそこの診療所は受け入れてくれて、子猫には脱水症状が見られたもののすぐに適切な処置を受けた。
そうして俺の部屋に仲間が加わった。期間限定の同居人ではあるが。
いつまでもその期間を引き延ばす訳にはいかないからここで昭仁さんに相談している。
「竜崎にタダ酒くれてやるより猫養った方が絶対楽しいから。可愛いし」
「猫と俺を比べんなっての。つーか俺の方が可愛いだろ」
「本気で言ってんなら今すぐ病院行け」
口を挟んできた可愛くない生き物を退け昭仁さんに懇願する。こんなヘビースモーカーに預けるのもあれだが宿なしの猫になるよりはマシだ。
バイト先の近くにペットホテルがあるのは知っていたから調べてみたが、生後半年以前の犬猫を預ける事はできないようだった。本来なら母猫の保護下にある時期の子猫に留守番させるのは最善でないものの、仕方がない。資源ごみに出すはずだった大きめのダンボールを組み立て直し、タオルやクッションをフカフカに敷き詰めて簡易的な寝床を作った。
獣医に指示されたミルクと離乳食を用意し、翌朝に部屋を出る前には危険予測のし過ぎという弊害によって俺が死にかけ、掛け持ちしているバイトを一つ切り上げたあとは次に行く前に一度家に戻り、ここに来る前にもまた家に戻って子猫の様子を確認してきた。
夕べは本当に死んでしまうのではと心配だったがちゃんと元気だ。俺が帰ってきたのが分かると、ダンボール越しにみゃあみゃあ言いながらヨタヨタと寄ってくる。
賢いうえにめちゃくちゃ可愛い。そんな毛玉が毎日一緒にいたらこの店主も長生きするに決まっている。
「ウチだと飼えねえんだよ。管理会社にバレたら一発で追い出される」
「そうだなぁ……もらってやりてえとこなんだけどよ……」
ここは酒場だ。しかもあの副業だ。
頼みの綱でもあった反面、この反応も半ば予想はしていた。
「だよな……。悪い。変なこと頼んだ」
「すまねえ。アテはあるのか?」
「……探してみる」
とは言ってもどこを探せばいいのか。量販店社員の森田さんは奥さんが猫アレルギーだそうで、橘と瀬戸内はあんな感じで、引き取り手がいないか周りに声をかけてみると言ってくれた奴らもいたがその辺が確定する見込みは薄い。
見つからなかったらどうしよう。いざとなれば俺が引っ越すか。引っ越し費用をすぐに捻出できる程度の蓄えならばギリギリなんとか。しばらくはもやしと卵で切り詰めればその後の生活もどうにかなるだろう。
思いつつも項垂れて腰を上げ、飲んでいない酒代をカウンターに置いた。
ここに来なければ猫のためのおやつもそこそこいいのを調達してやれる。
「もう帰るんですか?」
「ちょっと寄っただけだから。部屋に猫置いてきちまってるし」
俺が部屋を出てくる前に離乳食を食べて満腹になったらスヤスヤと眠ってしまったのだが一刻も早く帰りたい。
そわそわと扉を目指した俺に、知り合いにも声をかけておくと昭仁さんが付け足した。
「むしろお前が手放せなくなったりしてな。今もすでにベタ惚れだろ」
「まだ小せぇし誰だって心配になるだろ。貰い手さえ見つかればすぐに引き渡す」
ミルクを飲む姿もヨタヨタ歩く姿も眠りに就く姿も可愛くてたまらないが。ちょっと抱き上げただけで目に入れても痛くないという言葉の意味を完全に理解したが。
いくら情が移ったとしても俺に子猫の世話は無理だ。溜め息交じりに竜崎の後ろを通り過ぎたら、なぜかそこでこいつも腰を上げた。
「じゃ、俺も帰ろうかな」
「あ? お前はさっき来たとこじゃねえのかよ」
「猫気になるんだろ?」
「俺はな」
当然のように隣に来た竜崎を横目でチラ見。なんでついてくんだこいつ。
お構いなしに人の肩に腕を回し、ドアへと力任せに押し進めてくる。
「まだ飲んでろっての」
「いいからいいから。ほら、行くぞ」
「行くぞじゃねえよ。なんで付いてこようとしてんだ」
「俺も猫見たい」
うそつけよ。
カウンターから二人に見送られつつ、竜崎の手によって強引に外へと押し出された。背後でバタンと閉まったドア。こいつの手は払いのけたが、やむを得ずそのまま歩いて行く。
「……お前が来たって役に立たねえんだよ。アパートだし貧乏だしロクでもねえししょうもねえし」
「そこまで全否定する? 俺もバイト先で頼んどくからさ」
「アテになんねえ……」
普段ならここで押し問答になるが今はさっさと帰りたい。隣から話しかけてくる竜崎の言葉はほとんど聞き流し、足早に部屋へと向かう俺の心はここになかった。
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