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優しい人
しおりを挟む「僕と一緒に来るかい?」
初めて会った時、この人は優しい人だと直感的に分かった。柔らかい笑顔には気品のようなものがあって、週に何度かやって来るのをいつも心待ちにしていた。
誰にでも親切。穏やかな口調はとても丁寧だ。いつも優しげに笑っていて、その表情はほとんど崩されつこともない。
そばにいてもらえると不思議と温かくなる。そんなあの人と会える事が一番の楽しみだった。
出会った頃より少しだけ成長した今でも、それは決して変わらない。
「君がもし良ければだけどね」
「……え」
「家族にならないか?」
「……家族」
十五の誕生日を迎えたその日、あの人は俺を迎えに来てくれた。
家族になろうと。望むなら、これからを一緒に過ごそうと。
それを断る理由なんて。
「僕じゃダメかな……?」
「…………」
どこにもなかった。
***
「瑞貴さん……瑞貴さん、起きて下さいって…………ミズキさんっ!」
「っん……?」
耳元で怒鳴るとようやくその目がパチッと開いた。近い距離から俺の顔を視界に収め、すぐ後には寝起きにも関わらずに優しげな笑みを向けてくる。
「ああ、おはよう。どうかしたの? 怒った顔して」
「どうかしたのじゃないです。来てますよ井上さん。すげえカンカン」
言われていても尚、急ぐ気配も見当たらない。ゆっくり上体を起こしてマイペースに頭上へと両腕を伸ばしている。
そんな人の部屋でせかせかと動き、クローゼットから適当にスーツを選んで取り出した。作った朝食は取っている時間もないだろう。
はやく顔を洗ってきてと急かしつつ、ベッドの上に服を置いて慌ただしくドアへと向かった。
「急いでください、会議なんでしょ? 言ってくれれば起こしたのに」
「え?」
返ってきた、そのすっとぼけた声。
「…………早朝会議って……言ってますけど。井上さん」
「……あー……うん。大丈夫」
大丈夫じゃない。この人、絶対に忘れてた。
ガックリと肩を落とした。吐き出せるものは溜息意外にありそうもない。もう一度早くするようにだけ念押ししてから俺は一人部屋を後にした。
大豪邸。そう言っても全く過言ではない広々としたこの家。
家主である瑞貴さんの部屋では、この手のやり取りが週に一度は繰り広げられている。津嶋コーポレーション社長にして世間から富豪と称されるこの人だけれど、外で見せるヤリ手経営者の顔と、内で見せるダメな大人の顔との差は異常に激しかった。
今日もこうして、有能な秘書を玄関で待たせながら呑気に身支度を整えている。その秘書の怒りを察しつつ、急ぎ足に階段を降りて玄関に向かった。
「井上さん……」
「起きた?」
「いや、あの……すみません、あと少しかかるかと……」
ダメなあの人には若干のナルシスト気質が入っている。会議に遅れそうともなればそこまで悠長に身構えはしないだろうが、急いでいる成人男性の身支度にしてはいささか時間を要するのだった。
俺があそこで服を用意せずに自分で選ばせていたら、きっと三十分はタイムロスを招く事になった。俺が選んだ物なら否定しないあの人の性格は唯一の救いだ。
「上がって待っててください。ほんとスミマセン、いつもいつも」
「キミが謝る事じゃない。どっちが保護者だか分からないなあの男は……」
若社長に手を焼く、これまた年若い秘書。俺がここで世話になるようになった半年前、初めて井上さんに会った時にこの二人の関係性は理解できた。
毎度のごとく、いかにもうんざりした様子の井上さんには苦笑で返した。ここで待たせるのも心苦しいからと、長い廊下の先にあるリビングへと誘う。
「なんなら朝食代わりに食いません? どうせ瑞貴さんにそんな時間ないんで」
「いや、折角だけど車に戻ってるよ。会社にも連絡しておかないと」
「……すみません」
再度気まずく詫びると小さく笑いながら頭にポンと手を置かれた。顔を上げればおかしげに笑いを零す表情が目に入る。
「いい子だねキミは。あいつが羨ましいよ」
「そんなこと……」
「慣れた? ここでの暮らしには」
「あ、はい。やっぱ瑞貴さん優しいですし。めちゃくちゃ甘やかされるんで逆に困ります」
気遣うように聞かれてすぐに応えた。養護施設から瑞貴さんに引き取られて約半年、不自由な思いをするどころか与えられるものが多すぎてむしろ困惑させられている。
この家に迎え入れてくれた瑞貴さんは、かつて俺が失ったはずのものを全て取り戻してくれた。
十五の子供には勿体ないような大きな部屋もそうだし、平均よりほんの少しだけ体重が低いと言うだけで、何かに付けては与えられそうになる豪華な食事の数々もそうだ。
服も、娯楽品も、毎日の生活の中のあらゆるものも。そして何より、家族の愛情と言われるのだろう温かさも。
なんであろうと惜しみなく俺のために用意してくれる瑞貴さんには、どこまでもひたすら、ただただ大切にされているのが分かる。
これ以上ないくらいに最大限尽くしてもらっている。なのに俺が瑞貴さんに返せるものなんてない。
地位もあって裕福で、なんだかんだ言いつつ周りからの信頼も厚いあの人は、俺に対して何かを求めてくる事なんてない。
だから辛うじて俺に出来る事があるとすれば、朝に弱い瑞貴さんよりも早くに起きて、こうして食事の用意をしておく事くらいだ。なんの力もない子供の俺が、唯一瑞貴さんの役に立てる事。
「あの、じゃあすいませんけどちょっと待っててもらえますか? サンドイッチくらいならすぐ詰められるんで包んできます」
井上さんが立ち去る前に一言断り引き止めた。作ったそのままにしてある朝食は一人で片づけるには多すぎる。無駄にするくらいなら持たせてしまえと大雑把に思っての事だが、目の前の井上さんから向けられているのは微笑ましい眼差しだ。
「ほんとに瑞貴が羨ましいな。七斗君みたいに気の利くいい子なら俺も息子に欲しいよ」
「いや……捨てんのも勿体ないですし……」
恥ずかしい。目線を外すとまたも頭を撫でられた。
瑞貴さんも井上さんも、ここの大人二人は良く俺の頭を撫でてくる。一回り以上年下の子供とは言え俺だって来年には高校生になるのに。
十五の男に対して取るにはいささか甘やかし方が際立つ行動は、やられる身としては慣れない事もあって居た堪れない。
手を放されると控えめに引き下がった。待っててくださいと、そうもう一度断ってからリビングへと小走りで駆け込んだ。
この広いキッチンにも初めこそ戸惑ったが半年も経てばさすがに慣れた。せかせかと動きながら、リビングの壁に懸けてある時計を目に映す。
瑞貴さんを部屋に残して来てからまださほど時間は立っていない。仕立てのいいスーツを完璧に着こなしたがるあの人は、あと何分で準備ができるだろうか。
部屋にいる瑞貴さんを思い浮かべ、いささか呆れながら作ったばかりの朝食をぱっぱと容器に詰めていく。施設にいた時は料理も掃除も洗濯も全て分担制だったから、一通りの家事ができるようになっていたのは幸いだ。
ここまで広い豪邸であるのに、週ごとに掃ハウスクリーニングを頼むくらいで家政婦の類が常勤した事はないらしい。しかしかと言って瑞貴さんは家事が得意かと言えばそんな事もない。
本当に、ただ広いだけの家だった。俺がここで暮らす事になった当初からきちんと片付いた家ではあったが、元より生活感のないこの空間は瑞貴さんが寝に帰るだけの場所だった。
名の知れた会社を背負っている人だから忙しいのは仕方がない。毎日毎日休日も何もあったものでは無いような働き方をしていたと、そう教えてくれたのは井上さんだった。
だがそれでも俺がここに来てからは、出来る限りの時間を一緒に過ごしてくれるようになった。
俺のためだ。決して自惚れなんかじゃない。全ては俺のために。俺が寂しくないようにと。
だから瑞貴さんがほんの少しでも暮らしやすくなるようにできればと思った。何か一つでも、あの人の役に立ちたいと考えた。
あれをやれともこれをやれとも瑞貴さんから命じられたことは一度もない。だけど同時に、俺が勝手にやり始めた事なら何だって許してくれる。
掃除も洗濯も毎日の食事も、別にそう大した事はできないけれど、瑞貴さんはどんな些細な事だろうとにこにこしながら褒めてくる。
気恥しさに素っ気なく応える一方、小さな子供に帰ったかのように嬉しくなってくるのも密かな事実だ。
瑞貴さんは本当に優しい。何の見返りもない、そもそも見返りになるような物を持ってもいない子供のためになんでもしてくれる。
「家政婦さん頼もうか?」と。俺を引き取った時に瑞貴さんはそう言ってくれた。だけどそれを断ったのは俺。
瑞貴さんが毎日帰ってきて、傍にいてくれれば他には何もいらない。俺にはこの人さえいればそれでいいし、ほんの小さな事でも自分にできる事があるならなんだってしたかった。
少しでもいい。ちょっとでも必要とされたくて。
俺達は義理の家族。紙の上での関係は、言葉にするとひどく冷たい。
気づけばこうも依存している。恩人であると同時に、保護者でもある瑞貴さんに。
俺を大事にしてくれる瑞貴さんの傍にいられるのは幸せな事に違いはないけど、ある意味では痛いくらいに辛い事だ。
「…………」
皿の上に出してあった朝食を包み終え、自分のこの手に目を落とした。女の子のように華奢ではないけど、瑞貴さんと比べると大きくもないこの手。
俺はまだまだ子供で、だからこそ瑞貴さんの心配も絶えない。俺の将来の事とか、ここでの生活の事とか、いつだって気にかけてくれるそれは甘やかすと言う行動に表れる。
前はこんな事を思わなかった。だけど今ではいつも、早く大人になりたいとそればかり願っている。
大切にされるのは嬉しい。でも重荷になるのはそれ以上に嫌だ。
「お待たせしました。ちょっと多めに包んだんでもし良かったら井上さんも」
「ああ悪いね、ありがとう。助かるよ。あいつ最近キミが作ったものじゃないと不満垂れるから」
リビングから急ぎ戻って紙袋を手渡すと、井上さんの口からはそんな話が出てきた。さすがに子供じゃないんだから食事にケチは付けないだろう。
そう思って愛想笑いで応えたところ、しかしどうやら脚色を加えた訳では無いようだ。微妙な反応をされて俺も顔を顰めた。
「そうなんですか? そんな大したもの出してませんけど……」
「作ったのが七斗君って事に意味があるんだろ。実際、美味しいしねキミの料理は。あいつはいつも暇さえあればキミの話ばっかりしてるよ」
「…………」
なんとなく目に浮かんだ。あの人の場合は溺愛の域を超えるところがある。
自覚できるほど微妙な顔をする俺に笑いかけ、井上さんは玄関扉に手をかけた。
「それじゃあ俺は戻ってるね。車外に付けてるから、瑞貴が来たら門まで走れって伝えてくれる?」
そう言う井上さんは笑顔だけど目が笑っていない。内心の怒りを察し、ぎこちなく笑みを返しつつも俺はこくこくと頷いた。
この玄関から敷地を囲む家の門まではざっと百メートルほど。広い家もいい事ばかりじゃない。
「またね」
「はい。行ってらっしゃい」
軽く会釈を返すと、それを受けてから井上さんは家を出て行った。
プライベートでは割とダメな瑞貴さんとは対照的に、あの人はオンだろうとオフだろうと常に隙がない。
なんでも幼馴染だという二人は、傍から見ていてもおそらく良きパートナーと言われる間柄なのだろう。
二人でいる時や俺の前では立場も何もあったものではないけれど、この家を一歩出れば井上さんは瑞貴さんを社長としか呼ばない。瑞貴さんがそうであるように、井上さんだって瑞貴さんの事を信頼していて、だからこそ秘書と言う立場でサポートに徹している。
井上さんは瑞貴さんに必要とされて、瑞貴さんの一番近くで働ける人だ。
あの二人を傍で見ているといつも思わされる。こんな事、俺が思っていい事じゃないけど。それでもやっぱり羨ましいと、そう思わずにはいられない。
「あれ、もう行っちゃった? せっかちだなあ、あいつは」
「瑞貴さんがマイペース過ぎるんです。早くしてください。門までダッシュしないとほんとにキレられますよ」
井上さんを見送ったすぐ後、この玄関に向かってバルコニーから声を落とされ顔を上げた。しっかり身だしなみを整えた瑞貴さんが螺旋状の階段をスタスタと下りてくる。井上さんから伝言を頼まれた脅しをさり気なく含めても、相変わらずのほほんとしていて一切の危機感も見当たらないままだ。
「朝メシ井上さんに持ってってもらったんで。車の中ででも食って下さい」
俺の隣に来た瑞貴さんを見上げ、そう言いながらさっき井上さんから聞かされた話を思い出した。
俺の作ったものでないと……。そう言われて悪い気なんてしない。けれど崩れそうな表情はすぐさま引き締めた。
「嬉しいなあ、ありがとう。優しいね七斗君は」
「……いいから早くしてくださいよ。これ以上待たせちゃ井上さんに悪いです」
にこにこと微笑まれ、少しだけ俯いて下げた目線。俺が何を作っても瑞貴さんは過剰に誉めてくるが、本当に気に入ってもらえていたのならそれは単純に嬉しい。
はずなのに。俺が返すのはこんな反応。この人が相手だとなかなか素直にモノを言えなくなるのは今に始まった事ではなかった。
上り口を下りて一度俺を振り返った瑞貴さん。一段下から顔を合わせられても、まだ少しだけ目線の位置は対等に及ばない。
溜息をつきそうな内心をひた隠しに、穏やかな顔を真正面から目に映す。スッと上がったその腕は、何のためらいもなく俺の頭に伸ばされた。
「じゃあ行って来るよ。七斗君も学校遅刻しないようにね」
「あなたと一緒にしないでください」
「手厳しいなあ」
満足気に笑いながら、ポンポンと頭を撫でられる。子ども扱いでしかない毎日の習慣。
十五も開いた年の差が、一切の疑問なく瑞貴さんにこの行動を取らせる。
嫌な訳じゃない。いい加減、中三にもなって卒業すべき事と分かってはいても、この人から可愛がられてイヤだとは思えそうにない。
だけどひた隠しにしている貪欲で我儘な俺は、心の中でこれ以上を求めて叫んでいる。
「瑞貴さん……」
「うん?」
喉まで出かかったこの言葉がなんなのか、知らないふりをしておきたいのに目は逸らせない。
しっかりと呑み込んで、外に出て行かないように注意深く監視して、そこまでしてようやく瑞貴さんの顔を直視できる。
「……玄関出たらとりあえず走ってください。井上さんにはまず最初に詫びて下さい」
「キミはちょっとしっかりし過ぎじゃない?」
困ったような笑みを浮かべ、冗談交じりに言ってくる。ひらひらと手を振って玄関から出て行く彼は、この家を一歩出れば俺の知らない津嶋瑞貴になる。
いつもいつも、バタンとドアの閉まるこの音で体の中心が沈む。広い家に取り残された気分で、見送った後姿が脳裏に焼き付いた。
あの人は、大きな会社と大勢の従業員を背負っている立派な大人。少し前までみなしごだった俺は、なんの取り柄もないようなただのガキ。
この差をどうにか埋めたいと望んでも、どうにかできるようになるには俺はまだまだ子供でしかなかった。
「……いってらっしゃい」
届かない言葉を呟き、空虚な心地からはそっと目を逸らした。
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