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貧乏令嬢と笑わない令息 ~ヴィクトル様、お顔がとっても恐いです~

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「すまない、エメリア。おまえを嫁がせるしか、我がランクロット家に道はない」

 苦渋の決断と、父の顔には書いてあった。
 わたしも頷く。そうすることが唯一の方法だと、自身でも納得していたから。

「大丈夫よ、お父様。今までの恩を返させて。……沢山愛してくれて、本当にありがとう」

 家のために、家族のために、できることはたったひとつ。

「『黒鉄のヴィルワ侯爵』のご令息だって、婚約者をとって食べたりはしないわ、きっとね」

 ランクロット家が生き残る為、その後ろ盾を得る為に、わたしは見知らぬひとへ嫁ぐのだ。





 ヴィルワ領へと向かう馬車の中で、わたしは一人、窓の景色を眺めていた。
 森の間を通る一本道。目にする樹々の種類すら知らないものばかり。見慣れた白樺の街道を懐かしく思うと、自然ため息が漏れる。

(思い出ばかり繰り返してしまう。……お父様、お母様、ランクロット家)

 わたしの生家、ランクロット伯爵家の地位は、下から数えた方がずっと早い。
 同年代の子女にばかにされるくらい、か弱く小さな家系だった。

『エメリア様、ドレスを新調なさってはいかが? 先日も同じものを召していらっしゃったわ』
『ご存じないの? 王都で流行の宝飾細工ですのよ。仕方ないわ、小さな御家にとっては高級品ですものね』

 度々そうして指をさされた。
 それでも幸せに暮らせていたのは、家族の仲がとても良かったから。
 鮮明に思い出す。ある日、項垂れてお茶会から帰った時のことだ。

『エメリア、元気を出して。こんなものしかないけれど……』

 そう言って、振る舞ってくれたのは優しい甘さの、手作りの焼き菓子だった。

 お母様はお菓子作りが上手だった。口に運ぶとじんわり、花が咲くみたいに心が緩む、秘密のレシピを沢山持っていた。
 その時も、一口食べた途端、への字だった口はすぐに持ち上がった。
 お母様も笑顔になって、だけれど切なそうに、苦しそうに言った。

『ごめんなさいね、あなたには辛い思いばかり……』

 小さな声で呟くのを聞いて、胸が痛かった。
 わたしの境遇は自分たちのせいだと、度々瞳を伏せる優しい人だった。
 だから、そんなことないと首を振った。慰めでもなく、本当に心から思うから。

『全然気にしないわ。あの人たちはお母様のお菓子を食べられないんだから、そのぶんかわいそうなくらいだもの』
『でも、エメリア……』
『わたし幸せよ。家族そろって、同じものを食べて、笑いあえたらそれで十分。
 ね、お菓子を食べるならお父様もお呼びしましょう! いまお茶を淹れるわ』

 そうしたらお母様は、無言でわたしを抱きしめてくれた。

 本当に、本当に、幸せだった。
 家族と一緒にいられたら、それでよかった。

(……それでよかった、のに)

 胸がぎゅうっと痛くなる。
 太陽が翳ると共に、柔らかな思い出にもまた、影が差した。

『……ヴィルワ家が、おまえを妻に迎えて下さるそうだ』

 お父様がかすれた声で言った一言――

 優しいお父様。だけれど、伯爵としては優しすぎる人だった。
 激化する貴族同士の勢力争いに巻き込まれたらひとたまりもなかった。いくつもの家が取り潰しになり、我が家もその一歩手前にあった。

 もぎ取った最後のチャンスは、有力貴族との婚約。
 わたしが十八歳、結婚の適齢期を迎えていたこともあり叶った、奇跡のような幸運だった。

『我が家との婚姻を、何故了承してくれたのかは分かりかねる。だがまたとない機会だ。ヴィルワ家と繋がりを持てば、ランクロット家は離散せずに済む……』

 そうしてわたしは、二十歳になるご令息の相手として嫁ぐことになったのだ。

「鉄血の――ヴィクトル様」

 口の中で小さく、わたしはその名前を呟いた。

 現侯爵は黒鉄のヴィルワと呼ばれていて、その名の通り、大変厳しくまた冷徹な方と聞いている。隣国との境界を守護し続けている鉄壁の辺境領主でもある。
 そのご子息も生き写しのようにそっくりで、まさに『鉄血』。
 誰にも心を許さず、にこりとも笑わない。民にも恐れられているらしい。

(……そんな方の妻になるのね)

 震えそうになる肩を、わたしはぐっと押さえつけた。

(覚悟してきたじゃない。お父様にもお母様にも感謝してる。恨む気持ちなんてこれっぽっちもない。ただ、少し怖いだけ)

 とって食べたりしないだろう、なんて笑って見せたけれど、実際はどうだかわからない。どんな扱いをされてもおかしくはない。それくらいの権力差がある。

(構わないわ。だって、本当にいままで幸せだったから)

 お父様もお母様も、最後の見送りまで強く抱きしめてくれた。せめて恋をさせてやりたかった、まっとうな結婚をさせてやりたかったと泣いてくれた。
 その涙で、わたしは十分すぎるほど報われている。

(……だから、エメリア。もう震えるのはやめなさい。
 相手がどんな男性でも、どんな場所に行っても、わたしはランクロット家の娘。お父様とお母様の子なのだから)

ドレスの生地を強く握りしめて、わたしは顔を上げた。
目に飛び込んできた風景に、息を飲んで――それから、覚悟を決める。
馬車はちょうど、堅牢な作りのヴィルワ邸の門を、くぐっていくところだった。





 そして、相対した。
 黒鉄侯爵の息子、ヴィクトル・エル・ヴィルマ様は、

「………」
「………」

 かれこれ十分ほどの間、何一つ言葉を発さなかった。

(婚約の挨拶の場…… で、いいのよね?)

 と、疑いたくなってしまうほど空気が重たい。
 邸内に広がる庭園の一角にあるガゼボは、華やかさこそないが美しい造りで、テーブルに並ぶ茶器やお菓子も、挨拶の場として相応しく整えられている。
 なのに当の婚姻相手、ヴィクトル様が、眉間に深い皺を刻んでわたしを見据えたまま微動だにしない。彼の後ろに控えている執事のおじさまも、口ひげの下に唇を隠して沈黙するばかり。

(こ――)

 こわい。

 正直な感想が、それだった。

(何故、何も仰らないのかしら…… やっぱりわたしの家系にご不満が? 望まない婚約を嫌がっているのかも。お怒りなのかもしれない)

 ぐるぐる考えが頭を巡る。圧に負けて俯く、膝の上で自分の手が固い拳になっていた。

(これが政略結婚だということはお互い分かっているはず。
 親の命令で婚約することは珍しくない。彼もそうだとしたら、わたしを見て難しい顔になるもの当然よ)

 だけれど、もしそうだとしても、わたしはこの道を進むしかない。
 ここで無事ヴィルワ侯爵家に嫁入りすれば、ランクロット家は生き残ることが出来るのだから。

(迎えて頂く立場なのだし、せめて良い印象をもって頂かなくちゃ)

 わたしは悩んだ末に、意を決して口を開いた。

「あの、ヴィクトル様」

 絞り出した声に、凛々しく太い眉がぴくりと動く。
 良かった、とりあえず反応はしてくれるようだった。

「こ――この度は、私めを婚約者として受け入れて頂き、ありがとうございます」

 わたしは背筋を伸ばし、深々と礼をした。

「名高きヴィルワ家に嫁げることを、父に代わりまして、改めて感謝申し上げます」

 口にして当然の挨拶と謝辞。それで間違いないはずだった。
 だけれど、ヴィクトル様は眉間の皺をさらに深くした。貴女は――と、初めてここで、彼の声を聴く。正直、怖さが倍増する、低い低い声だった。

「私め、などと。自らを卑下するのか」
「! いいえ、そのようなことは!」

 わたしはとっさに身を乗り出していた。かちゃんと茶器が触れ合う音が響く。

「わたしはランクロットの娘であることに誇りを持っております! ですが驕りは致しません!」
「驕り?」
「はい。そして卑下ではなく事実です。我が家はしがない小貴族、ヴィルワ家に比べるべくもありません。自らの家を過剰に評価することは、誠実ではありません」

 ヴィクトル様の表情は硬いまま、いや、先ほどよりもさらに険しく見えた。
 怖い。怯みそうになる。逃げだしたくなる身体を押しとどめたのは矜持だ。わたしの中に確かにある父母の教えが、唇を閉じないように勇気をくれる。

「そして、両家の結びつきで利を得るのはランクロット家のみ。御家には何ひとつ益はございません。先ほどの発言は、わたしたちを助けて頂くことに感謝の気持ちをお伝えしたかった、ただそれだけです」
「……」
「わたしがヴィクトル様のお役に立てることがあるならば何なりとお申し付けください。この身でよければいかようにも。援助と引き換えの身、弁えております」

 そう、言い切ったところで。
 わたしははっとした。立ち上がって熱く拳を揮う娘を、彼はどう思うだろうか。

「あっ……」 

 難しい顔のままじっと見つめられて、慌てて椅子に戻る。
 頬が熱かった。つい、むきになって言い返してしまった――失敗を後悔しても、遅い。

「っ、申し訳ありません、過ぎたことを申しました」
「……いや」

 口を大きな、硬そうな手でもって覆って、ヴィクトル様はくぐもった声を漏らす。

「此方こそ、言い方を誤った。詫びる」
「いいえ、そんな、わたしの方が、はしたない真似を」
「謝る必要はない。それに、今のは……」

 と、ヴィクトル様が口ごもる。

「今のは、何です?」
「……」
「ヴィクトル様?」
「…… いッ」

 突然、ヴィクトル様が低く唸った。い? とわたしは首をかしげる。

「どうかされましたか? お加減でも」
「失礼、何でもない」

 それは一瞬のことで、すぐに彼はもとの、難しい表情に戻った。
 わたしの言葉に気分を害した風ではないように見える。顔つきがほぼ変化しないので分かりづらいのだけれど、どちらかというと気まずいだとか、どうしようとか、そういった空気を感じた。

 また沈黙が二人の間に広がってしまう。
 もう一度喋りかけようにも、わたしはやらかしてしまった後で、どう切り出していいか困惑した。手持無沙汰にティーカップに口をつける。それを見たヴィクトル様の金色の瞳が、きら、と光ったように見えた。

「茶は」
「はい?」
「茶は、口に合うか」

 気を遣ってくれたのだろうか。
 思いがけない質問だった。わたしは改めてカップを見、飲み下した味を思う。緊張しすぎて、意識して飲んでいなかった。

 改めて味わってみると、家で愛飲していた紅茶よりも風味が強い。以前はたっぷりの砂糖で甘く仕上げていたのだけれど、この紅茶にはそういったものは含まれていなかった。それなのに苦くも渋くも感じない。むしろ、心が引き締まるようなすがすがしい味わいに思えた。

「とてもおいしいです。茶葉の香りが強くて、初めていただくお味でした」

 思った通りを口にする。すると、ヴィクトル様は小さく顎を引いた。頷いたようだった。

「ゼム海峡を挟んだ東国から仕入れている茶葉だ。
 我が国では希少だが、あちらでは日常的に飲まれている。興味深い文化を持つ国で、数種のスパイスと共にミルクで煮出すのが一般的だと。だが人を選ぶ味ゆえ、今回は用意しなかった。興味があれば―― だっ」

「だ?」

 またしても彼は、妙な声をあげて身をよじった。今回は、先ほどよりも大きな声だった。
 一瞬後ろを見たヴィクトル様は、首を傾げたまま戻せないわたしに再び、失礼、と手を上げて見せる。一体何なのだろう。問いたいけれど、とてもできる空気ではない。

「その、つまり…… この茶は、甘い菓子と共に飲むと良い、らしい。クロフ」

 と、執事――クロフさんというらしいおじさまを促すと、テーブルの上にあった銀のクローシュが取り去らわれた。

「まあ……!」

 思わず声が出てしまった。
 そこにあったのは、きれいで可愛らしいお菓子。
 黄金色のシュー生地にたっぷりのクリームと色とりどりの飾り切りされたフルーツ、そして、見事な白鳥の飴細工が乗ったエクレールがあった。

(すごい…… なんて美味しそうなの!)

 お母様の焼き菓子。そこから端を発したわたしの甘いもの好きは、自分でも摂生を心掛けなければならないほど強い。甘さとはすなわち幸せの味なのだと身体が覚えてしまっている。

(いけない、唾を飲むなんてはしたない。我慢我慢、がまん……!)

 これ以上の醜態は見せられない。わたしは大きく息を吸って吐いて、にっこり、しとやかに、頑張って、淑女らしい笑みを浮かべて見せた。

「とてもすてきなエクレールですね。お茶にぴったり」

 と、なんとか欲望を押さえ切ったわたしに、ヴィクトル様は唸るような声で相槌をうった。

「領内で特に人気だ。連日、長蛇の列が出来ている。私には理解出来んが」
「ヴィクトル様は、甘いものはお召しにならないのですか?」
「好かん。故にその菓子の事も良く知らなかった」

 そうですか、と、わたしは少しだけ項垂れた。
 何かひとつ、共通する好みがあればと思ったのだ。理解出来ない、好かない――嫌い、と言っているようなものだ。

 お菓子には、作り手の愛情や願いが込められているのもだと、わたしは思う。
 幸せになってもらいたい、食べて笑ってほしい、そんな想いがきっと込められている。そういった感情すらもどうでもいいと言われた気がして、悲しく感じるのを止められなかった。

「列が出来るということは、それだけ多くの人が、このエクレールを素敵だと思っているからだと思います。
 ご興味のないことでしょうが、わたしはそういうお菓子が大好きなんです……」

 つい、しおれた声が出てしまった。
 ヴィクトル様が驚いた顔をして、わたしを見る。そしてエクレールを見る。口が開いて、何か言おうとして、閉じる。
 また大きな手で、彼は口を覆った。小さな声でしまったと言ったのが聞こえた気がした。

「その菓子が――人気があるということは私も分かっている」

 口調は焦っているようだった。不思議に思い、わたしは首を傾げる。
 目が合うと、視線が泳いだ。慌てている。初めて見る顔だった。

「ヴィクトル様? どうかなさって……」
「甘味に興味が無いのは真実だが、蔑ろにした心算はない。ただ私は味について詳しくは無く、貴女の口に合うかどうかは確実性に欠ける」
「? とってもおいしそうですけれども……」

 なんだか様子が変だ。ヴィクトル様は言い淀みながら、返事になっていない言葉を続けた。

「人気とは即ち、多くの人々が優良であると判断した証拠だ。であればと選んだ。事実それも最後の一個だった」
「へ?」

 傾げた首をもとに戻せない。
 今何て? 最後の一個?

「ひょっとして……ご自身でお買い上げになられたのですか?」
「ああ」
「列に並ばれて?」
「……ああ」

 耳を疑った。
 彼の顔を見る。険しい表情、短い黒髪、鋭い金色の瞳にがっしりした身体。
 どこからどう見ても立派すぎる青年貴族。
 そんな人が、このエクレールを。
 人気のパティスリーに並んで、エクレールを。

 そんな、そんなの――

「ふ、ふふっ」
「!」

 ああ、駄目なのに我慢できない!

 ヴィクトル様が目を見開く。
 わたしは込み上げた声を飲み込むことが出来なかった。唇の端から、音を漏らして――笑って、しまった。

「ご、ごめんなさい、失礼を。ああでも、ふふ、おかしくて」
「――」
「そんなにお背が高くていらっしゃるのに、お、お菓子のことも、よくご存じないとおっしゃったのに、かわいらしいお店に並ばれて―― わたしなどの為に、御自らご用意下さったのだと思ったら、おかしくて、嬉しくて」

 駄目だ、涙まで出てきてしまった。
 ずっと緊張でこわばっていた部分が爆発して、わたしは震える笑いを零し続けた。
 もちろんそれは、きっと目立って仕方がないだろうこのご令息の並ぶさまを想像して、微笑ましさに笑ってしまったのだけれど、それだけじゃない。

「本当に、嬉しかったんです、ごめんなさい……!」

 表情が読めない、何を考えているのかわからない方なのに、わたしをもてなそうとしてくれた行動が一番お喋りに感じられる。

(だってそんなの、さっきの一生懸命な説明だって!)

 下を向いたわたしに、そうじゃないと言ったあの言葉の意味がようやく分かった。勘違いを察して、正そうとしてくれていたのだ。

『どうでもいいなんて思っていない、自分なりに選んで買ってきたんだ、口に合うか分からないが、気に入ってくれたら嬉しい』

 多分彼は、そう言いたかったに違いない。
 なんだか泣けて、嬉しくてたまらなくて、わたしは目元を拭った。

「もっ、しわけ、ありません失礼を、でも、ちょっとお待ちください、いま止めますからっ……ふふ」

 笑うわたしを、ヴィクトル様は無表情――ではなく、明らかに、驚いた顔で見つめていた。
 そして一言、呟いた。


「……った」


「へ?」
「笑った」

 言うなり、音が立つほど激しく立ち上がって、ヴィクトル様は大声で言った。

「笑ったな、エメリア嬢!」
「え、え、ええ!?」
「笑ったぞクロフ、見たか、彼女は笑った!!」

 そして、びっくりして涙も笑いも吹き飛んだわたし――ではなく、クロフさんに向かって勢いよく振り返った。

「どうだ、これで文句はあるまいな!?」
「左様で。しかし文句などとはずいぶんなおっしゃりようで。わたくしめは旦那様のお言いつけ通り、判定役をおつとめ申し上げただけですよ」
「ならば父上に伝えておけ! 私は自らの花嫁から笑顔を頂戴したと!」

「いったい、どういう事でしょうか……?」

 と、呟いても答えはない。
 あの無表情なヴィクトル様が、別人と疑うほどに破顔して、両手を振り上げんばかりに喜んでいる様子を――わたしはただ、ぽかんと眺めているしかなかった。





「驚かせてすまなかった。これには事情がある」

 こほんと喉を鳴らしたヴィクトル様は、もう元のきりりとした顔に戻っていた。

 クロフさんが入れなおしてくれた東方の紅茶で喉を潤し、場を整えてから、彼は言う。そうしなければならなかったのだ、と。

「当家の家訓だ。妻を娶るのなら、まず笑顔を得てからと。
 そのくらい出来なければ、迎えたとて妻を幸せになど出来ようはずもない。誠心誠意、心を尽くし、その女性に笑いかけられて初めて、男は求婚の権利を得る」
「権利、ですか」
「そうだ。父上もそうして結ばれた。正しい家訓と思っている。
 だが…… 察していると思うが、私はそういったことに疎い。クロフにも心配をかけた」
「あっ、では先ほど、幾度か不思議な動きをしていらしたのは……」

 はっとしてクロフさんを見る。おじさまはにっこり、目を線にして笑いかけてくれた。ばつが悪そうにヴィクトル様は頷く。

「不甲斐なさ故、活を入れられていた。背中を二度ほど抓られた」
「二度で済んでよろしゅうございました」

 悪びれもせず、気心が知れた風にクロフさんは言う。

「旦那様の時分にも、わたくしめが判定を務めました。ヴィクトル様はお早くていらっしゃいますよ」
「父上は、母上が笑いかけてくれるまで、ひと月を要したと言うからな」
「ひと月!? そんなに……」
「通い詰めて色々工夫を凝らしたらしい。……貴女がすぐに笑ってくれて良かった」
「どうして、そこまでして……?」

 一通りの説明をうけても、わたしは疑問を拭えない。
 どうしてそこまでする必要があるのか。彼はヴィルワ家のご令息なのに――

「そのようなことをなさらなくても、ヴィクトル様との婚約を望む方は大勢いらっしゃいます。わたしでなくとも……」
「それは違う。貴女でなくてはならなかった」

 前のめりになるわたしを遮って、ヴィクトル様は首を振った。
 そして、ふっと遠い目をする。獅子を思わせる金色の瞳が、微かに優しく揺らいだように見えた。

「記憶にはないだろうが、私達は一度会っている」

 懐かしむ口調で、彼は言った。

「ある伯爵夫人主催のパーティだった。貴女は他の子女が結婚相手を探すことに夢中になっている中、一人だけ、出された茶菓子に夢中になっていた」

「!? そ、それは…… あ、分かりました、デネル夫人の! 違いますっ、あれは珍しいお菓子なんですよと勧められただけで! 夢中になんか!」

 言われて思い出した。確か二年くらい前のことだ。
 社交が苦手なわたしがパーティに参加したのは、デネル夫人がとてもお菓子好きで、わたしのことを珍しく良く思ってくれている人だったからだ。

 そんな彼女に勧められて、確かにそのときは…… ああ、正直に言えば、そこに誰がいたかなんて覚えていない。ヴィクトル様が同席していたとしても、きっとわたしは挨拶もそこそこに、お菓子をむさぼり食べていたに違いないのだ!

「どうしてそんな…… 恥ずかしいことを……!」

 これ以上頬が熱くなるなんてことはあるだろうか。
 羞恥心で身体中が燃えてしまいそうだった。両手で顔を覆って俯くわたしのつむじに、くくく、と、少し意地悪そうな笑い声が聞こえた。なんと、ヴィクトル様が声を上げて笑っていた。

「忘れられない光景だ。貴女は蕩けるような笑みを浮かべ、菓子を堪能していた。
 その表情に、私は目を奪われた。
 だから――エメリア嬢の笑顔を得るならば、菓子をと。安直だが、良い選択だったようだ」

 お菓子大好きっぷりをさらけ出した後だ、何も言い訳できない。
 せめて小さな声で言った。母が作ってくれたお菓子が好きなんです、と。

「甘いお菓子は…… 幸せな気持ちになれるんです。味も、作ってくれる人も、好きです……」
「では私は、買いに行くのではなく調理方法を学ぶべきだったか。そうすれば並ぶ事はなかった。……だがそれでは貴方の笑顔を得られなかったかもしれん。難しいものだな」

 真面目な顔でヴィクトル様は、顎に手を置いて言った。
 冗談なのか本気なのか分からない。ふふ、と、クロフさんが笑った。

「ヴィクトル様は、お忍びでパティスリーに参られたのですが、途中でばれまして。領民の方が、最後のひとつを譲って下さったのですよ」

 クロフさんの言葉は穏やかだった。そうなのですか、と、呟くわたしの声は蚊の鳴くそれだ。まだ羞恥心が抜けきらない。

「そうですよ。他領からは鉄血と呼ばれておいでですが、民は皆存じております。ヴィクトル様には暖かい血が流れていらっしゃる。愛しい娘が出来れば必死に笑顔を得ようと努力もなさる、お優しい方だと」
「買い被り過ぎだ。私はつまらん人間だよ、クロフ。皆が善良なだけだ」

「そ、そんなことはありません!!」

 思わずわたしは声を上げていた。
 自嘲にも聞こえる、ヴィクトル様の声に言葉に、頷けるわけもなかった。クロフさんの言うとおり、彼が優しい人なのはわたしにだって分かる。分かりすぎるくらいだ。

「ヴィクトル様は優しいです! でなければわたしにこんなこと…… それに、昔のことだって! に、二年前からなんて、そんなっ……」
「エメリア嬢……」
「そんな―― 昔から、わたしのことを、知って下さっていたなんて……」

 わたしは――
 誰かにこんな風に、想われたことはない。

 愛してくれるのも、愛しているのも家族だけだった。年頃になったら誰もが興味を持つだろう、男性とのおつきあいにも興味がなかった。
 だからこそ、愛し合わなくても結婚が出来ると思った。
 家族のことを思えば、それで十分だと思っていたから。

 だけど、彼は。

 ヴィクトル様は、わたしが彼を知らないのに、ずっと想ってくれていた……

「っ……わたし、どうしたら、いいか……」

 気持ちが興奮して、もうぐちゃぐちゃだった。
 驚いて、恥ずかしくて、声を上げて、また恥ずかしくて。
 嬉しくて――こういう時、どういう顔をしたらいいのかわからない。

 あんなに勢いよく声を上げたのに、しおしおとすぼんでいくわたしを見て、ヴィクトル様は席を立った。
 そして、傍らに膝をついて、手を取って、静かな声で言う。

「貴女はこの婚約を、愛のない政略結婚だと思っているだろうが」

 声は、静かな海に似ていた。
 怖いと思ったのが嘘のようだった。胸の奥にまで、聞き惚れてしまうくらいに深く響く。

「私にとっては千載一遇の好機だった。ランクロット家が後ろ盾を欲していると知った時、名乗りを上げたのはあの時の、愛らしい笑顔を浮かべた貴女を手に入れたいと強く願ったからだ。それに」
「そ、それに……?」
「血を誇り、しかし驕らない。貴女の誠実さは笑顔と同じほどに美しい。在り来りな言い方しか出来ないが、惚れ直した」
「え、あ…… あんな、淑女らしくない、物言いなんか……」
「そんな貴女が好ましいのだ。エメリア嬢」

 しどろもどろ、目を泳がせるわたしを見つめるヴィクトル様は、もう何ひとつ迷っていない様子だった。
 別の意味で身体が熱くなってくる。取られた手が特に、融けてしまうのではと思うほどに熱い。

「ご両親にも感謝を述べたい。このように育て上げられた手腕と愛に。
 それほどまでに、貴女は素敵だ」

 金の瞳に見つめられて、息が止まるほどどきどきしていた。
 こういう時、年頃の貴族子女がどう振る舞うべきなのか、勉強してこなかった報いだ。ただ爆発しそうな胸を押さえることに必死で、まともに言葉が出てこない。

 「ヴィクトルさま……」

 弱り切ったわたしの声に、彼はまじめな顔で、言った。

「改めて希う。どうか、我がヴィルワ家の一員となって頂きたい。
 私の妻になってはくれまいか」


 ――ああ、ああ、お父様!!


 わたしは、心の中で思いきり、大きな声で、大好きなお父様に叫んでいた。

(エメリアは、幸せになれなくてもいいと思っていたけれど、そのつもりで家を出たけれど――)


「っ……、はい、喜んで!!!」


 無口でちょっと不器用だけれど、とびきり優しいヴィクトル様のもとで、
 ずっと笑顔でいられそうです!
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