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或ル苦渋
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しおりを挟む男の口から聞き憶えのあった名前を告げられ、僕は思わず目を丸くした。
彼が、イリヤなのか。
話に聞いていた『イリヤ』と、目の前にいる『イリヤ』と何かズレを感じ、少しばかり考えを巡らせる。女装癖、はありそうだな、口調がオネェだし。マッドサイエンティスト……、少なくとも彼がマッドサイエンティストだとは思えない、それは彼がある意味、検体としての被害者だからなのか。もしかして、自分は彼に同情している?考えれば考えるほど自分の脳内はまとまらず、暫く無言を突き通していると、彼が僕の顔を覗き込むようにしてからそっと呟いた。
「……どこかで聞いたかしら?アタシの名前」
「博士が……」
「勘付いちゃったかしら……じゃあ分かったはずよ、ひじりんは貰って行くわ」
「えっ……!?」
「アタシの彼氏を解放するためにひじりんが必要なの」
「ッ、待って下さい!」
「だから言ったじゃない、アンタにとっては悪い人になるかもしれないって」
「でも……!」
「アンタなら分かるでしょう?残された者として希望があれば……手段は選ばないことくらい」
彼から告げられた言葉の意味が飲み込めず、いつの間にか事態は想像を絶するものとなっていた。博士を、貰って行く?先程まで彼が苦しそうに語っていた研究所へと、博士を引き戻すというのか。イリヤは座敷から立ち上がり、御手洗いに向かう廊下を覗き込んだ。小さく「何覗き見してんのよ」と呟いて奥へと入って行ってしまう。
此処が姉が経営する和菓子屋であり、多くの人々が憩いの場として利用している場所だということも忘れ、僕は机に肘をつき、長年恨みに恨んだ白く透けるような髪を頭ごと掴んで歯を軋ませる。
「ッ……嘘だ……」
僕は先程告げられた言葉を信じ切ることができず、むしろ虚言だと信じ込むように何度も脳内で嘘だ嘘だと繰り返す。自分はあれほど人間不信だったというのに。誰の言葉も信じ切れず生きてきたというのに。何故こんな時に限って、自分は信じ難い事実を受け入れようとしているのか。突然込み上げる嗚咽に思わず口を手で覆う。
廊下に消えたイリヤが戻ってきた頃には嗚咽も収まったが、覚束ない足で彼に縋り付く朱鷺と、右手でがしがしと頭を掻く博士を見た途端、堰を切ったように涙が溢れた。
「ッ國弘くん!?」
僕に気付き慌てて駆け寄り、頭を優しく撫でる彼は妙に落ち着きを見せており、自身が研究所に引き戻されることを知っているかのようだった。いや、自ら研究所に向かう覚悟をしたのだろう。僕の涙を拭いながらばつの悪そうな顔をして何か言おうと口を開きかけていたのを遮り、彼に向かって縋るように呟いた。
「嘘ですよね?研究所になんか行きませんよね!僕から……離れたり、しませんよね……」
「……ごめん、」
「ごめんって何ですか!何で、謝るんですか……」
彼は僕と一度も目を合わせずに僕の言葉にごめんと返すばかりである。彼の手を払い除け、視界が定まらないまま机上の湯呑みと博士の残した甘味をぼんやりと見つめていた。
博士はイリヤの方を向いて眉間に皺を寄せ、普段の声色と一変した怒りの混ざったような低い声で彼に言葉を投げ掛ける。
「……つーかイリヤ、どこまで言ったんだよ」
「アンタがこの子に言わなかったこと全部」
「……、」
「明日、迎えに行くわ」
イリヤはそれだけを博士に言ってから、朱鷺を連れてそのまま店から出て行ってしまった。残された博士と僕は、暫く沈黙のまま机を見つめていた。気まずい。しかし僕はそんなことを気に掛けている暇なんてない。まずこの和やかな周囲の雰囲気にそぐなわない行為をしないように、僕は彼に店の外に出ることを促す。姉は忙しそうで殆ど店の奥から出てくることもなく、折角来たのに申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら会計を済ませた。
僕と博士が格子状の扉を引いて外へと出ると、真冬の冷たい空気が肌を撫でる感覚に少しばかり鳥肌が立つ。
「……國弘くん、」
「……、」
「ごめん……」
「……もう聞き飽きました」
「本当にごめん……」
「だから、もう」
「僕はずっと研究所で育ったからまともな人間と喋ったことがない」
彼は突然僕の言葉を遮った。僕は怒り半分呆れ半分で彼の話に耳を傾ける。深く溜息を吐けば、白く濁って空に消えていく。とても寒かった。彼と僕の関係を映しているようで居心地がとても悪い。それを察したような博士は声のトーンを下げ、ぽつりぽつりと語り始めた。
「だからイリヤが礼央さん……彼の恋人の為にそこまでするのもあまり分からない、けど……君を好きになって分かったんだ」
「…………、」
「僕が礼央さんで君がイリヤだとしたら……君はどうする?」
「……できることなら、何だってやります」
「…………それと同じだと思うんだ」
「それとこれとじゃ話が違う」
僕はきっと彼を睨み付け、普段よりも随分低い声で彼に叩きつけるように言った。面喰らったように僕の顔を見つめる彼の頬を思いっきり平手で叩く。乾いた音が空間に虚しく響く。困惑して目をぱちくりし、痛々しいほど赤くなる博士の頬を何度も叩いた。感情に任せて拳を握り締めて彼の顔を殴ろうとした時、彼自身の右手にそれを遮られ、やっと我に返ったのだ。
「ッ、くにひろくん、まって……痛ッ、」
「……自ら地獄へと足を踏み入れる意味はあるんですか、」
「……きっと、あるよ」
「…………あなた、頭脳がスパコン並みとはいえ人の心は分からないんですね」
「ッ……!?」
彼の顔をまともに見ることをせず、胸倉を掴んで見上げる。彼の黒目がこちらに向いた時、涙が零れるのも気にせず僕は必死に叫んでいた。
「……博士は何も分かってない!僕の痛みも、誰の痛みも……自己犠牲が全てを救うとでも思ってんですか!!」
「……、國弘く」
「僕は人を信じられません……今だにあなたのことだって信じ切れない……」
「……」
「けど……僕はもう、大切な人を失いたくないんです……」
「……、」
「あなたの顔をいくら叩こうが殴ろうが分かるはずがない……僕の痛みなんて、分かるはずがない……大切な人を失う苦痛なんて、分かるはずがない!!」
「ッ……、確かに……分からないよ」
「……、」
「けど、信じなくてもいい……」
彼は僕の赤くじんじんと痛む手を優しく撫でて両の手で包み込む。そして、自分が今迄聞いたことのない、つらく苦しそうな声で僕にこう言ったのだ。
「必ず戻るから」
ふと見上げた彼の目は潤み、つうと一筋の涙が伝うのが分かった。彼の涙の意味は分からない。しかし、僕の掌を優しく握る彼の手は震えているのだ。
「確かに僕は君の痛みが分からない……こんなに真っ赤な掌が感じる痛みも分からないんだ、けど……君が殴った頬の痛みなら、少しは分かるよ」
「……、ごめんなさい」
「いいよ……これも愛なんだな~って」
「……ばかなんじゃないですか」
「馬鹿じゃないよ!まったく……君に逢ってから今迄言われたことなかった事を言われまくりだよ……」
「知りませんよそんなこと……」
今だに赤い掌を博士のコートにずぼっと押し込まれ、そのまま帰路につく。先程の寒く冷え切った空気からは一変、他愛もない話をし、彼のあたたかみを一身に受ける。途中で更に寒くなり、雪がちらついたところで彼がキスを強請った。やれやれと言わんばかりに、僕は背伸びをして彼の頬に唇を当てる。それだけで充分に喜んだ彼の単純さに呆れつつ、いつの間にか着いていた自宅の扉を開き、コートの雪を落とした。
「寒かったね~國弘くん」
「そうですね、って博士寒さ感じるんですか?」
「いやー中の機械が冷たいなーってのと顔が寒いとかで分かる感じかな」
「顔が寒いって悪口みたいですね」
「僕の顔は寒くないよ!」
「……先にお風呂頂きますね」
「ちょっ無視された!僕も入る!」
「博士は別に後でもいいでしょう?」
「國弘くんと入りたいの!」
頬を膨らませてごねる博士を宥めつつ、僕は着替えを準備してさっさと浴室へと向かった。鍵をかけようとした途端、猛ダッシュで博士が滑り込んできて結局二人で入る羽目になった。
身体を洗い、浴槽にゆったりと浸かる。彼の股の間に無理やり座らされているのは不服だが。アレが腰に当たってるし。
「……バレンタイン近いね~」
「博士バレンタイン知ってるんですか」
「いやもう失礼だな!知ってるよ!研究室にチョコレートが入らないくらい貰うからねー」
「……沈め」
「うわわわわ!ちょっあああ身体に水入るやめてやめて!冗談だって冗談!」
「…………」
「やっぱり好きな子から貰うチョコレートが一番嬉しいよ、ねっ」
「……博士って食べ物あんまり食べられないって訊いたんですけど」
「えっ……イリヤに?」
「はい」
「あーあれ嘘だよ、僕少食なだけだから」
「なら早く言って下さいよ!ご飯いつもたくさん作ってるのに!言ってくれたら配慮するのに……」
「いやーだって國弘くんのご飯美味しいからさァ……つい食べ過ぎちゃうんだよねー、あとイリヤの前で食事摂ったことないから物食べれないと思われてんじゃないかな」
「ならいいんですけど、ちゃんと言って下さいよ?」
「うん、大丈夫……ところでさ、國弘くん」
「何ですか」
「勃ったからさ……もうやっちゃわない?」
「……」
僕の首筋に顔をうずめ、股間のそれを擦り当てる彼の顔に裏拳を食らわせて、彼の腕が緩んだところで浴槽から出る。ううっと唸る彼を上から見下げるように一瞥する。
「寝言は寝てから言え」
「……すいません」
「僕はお腹が空いてるんです、するなら一人でシコってて下さいよ」
「それはやだよォ」
「……、じゃあご飯食べてからで」
「ふふ、楽しみにしてる」
そう言って微笑む彼の顔があまりにも美しくて愛おしいから、先程までのことを全て許してしまいそうになる。手早く身体を拭き、着替えを済ませて夕食を作っていく。途中でデートに行っていた真理亜さんが帰宅し、彼女の手伝いもあって早目に食卓に食事を並べることが出来た。三人で食卓を囲み、各々が舌鼓を打つ。
全員が食事を済ませ、食器を洗って戸締りをして、歯を磨いてから就寝の準備をしていたら博士が突然僕を自室へと連れ込んだ。
「……國弘くん、」
「……するんですか?」
「ううん、とりあえず添い寝してほしい」
「……、分かりました」
いつも盛んな彼にしては随分と落ち着いたな、そう思いながら僕は彼のベッドに潜り込んだ。散らかった部屋の床には鉄屑やネジが沢山落ちており、机には束になった紙が乱雑に積まれている。今にも倒れそうなそれは絶妙なバランスを保ち、彼の机の上にしっかりと位置していた。そんな机の前で作業をしている彼の大きな背中を見て、自分自身の小ささを改めて噛み締める。この大きさだからいいんだよとわけのわからないことを言う博士の笑顔や頭を撫でる仕草を思い出して笑みが零れた。
「……國弘くん、どうしたの?」
「いや、何でもありません」
「……、ちょっと待ってね……できた!」
「……?」
「これね、國弘くんにあげる」
博士は寝ていた僕の手にそっと小さなマスコットのようなものを置いた。手のひら大のぬいぐるみのようなそれを天に掲げ、光に透かして見たりする。一見すると耳の先が黒く染まり、真っ赤な目をした白ウサギのキーホルダーだ。二本足で腰掛け、両の前足を前に突き出した可愛らしいウサギだ。女の子にはとても人気のありそうなフォルムのそれだが、一体これはどんなものであり、彼は何故これを作ったのだろうか。
「……何ですか?これ」
「ウサギのキーホルダー」
「いや本気で訊いてるんですけど」
「ごめんごめん怖い顔しないで、えーとね……このウサギの目に人間を映したら、その人間を察知して携帯に情報を送り込めるの、あと録音機能もついていて、予め登録した人間の声によって誰の声かを分けることができるんだ……他にも」
「……訳がわからないんですが」
「まぁ使ってみてよ、あと他にも……」
「……?」
「僕の記憶が入ってる」
「記憶……!?」
彼が渡してきたハイテクすぎるウサギのキーホルダーに何故博士の記憶が。僕はウサギの触り心地の良い腹をふにふにと親指で押しながら彼に問うた。
「研究所独自の技術だよ、人の記憶をデータ化して保存ができるんだ、物理的に壊せばやっぱりなくなっちゃうんだけどデータさえあればいつでも取り出せる……どう使うかは君次第だよ」
「何で……こんなものを、」
「僕がいつでも見てる……って感じかな?」
「言い方どうにかならなかったんですかね」
「だって最初は國弘くん専用のGPS兼盗聴器だったからね、それじゃさすがにもったいなくてね~」
「明らかに変態じゃないですか!」
「いやーだって僕國弘くんのオナニーとかも見たいし」
「ぶん殴りますよ」
「やだーやめてよォ、あっあと実験的にだけど……人工知能も入れてみた」
「え!?もう意味分かんないんですけどこのウサギ!!」
「話しかけると喋るよ!今は電源切ってるけど……あ、電源切れたら充電させてあげてね」
「何かわけわかんないですね……ドラ○もんみたいな感じですか?」
「ちょっとあんな青いタヌキと一緒にされると不快だけど……まぁそんな感じでいいと思うよ」
そう言って博士は白衣を脱ぎ、ベッドに潜り込んだ。このハイテクウサギはやたら触り心地がよく、ふにふにとしたお腹を親指で押すととても気持ちが良いのだ。そうやってふにふにし続けていると、博士がさっきのウサギを取り上げて机に置いてしまう。思わずあっと声を上げてしまうが、そんなのお構い無しと言わんばかりに彼は僕にぎゅうっと抱き着き、掛け布団にくるまってそのまま瞼を閉じてしまう。やはり、綺麗に伸びる睫毛やすっと通った鼻筋が美しくて思わず見惚れる。自分も精神的にも体力的にも疲れてしまったのでうとうとと微睡んだ。
目を覚ませば、彼はもういないというのに。
-END-
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