微熱でさよなら

文字の大きさ
4 / 24

3

しおりを挟む

「俺のつがいになれ」

静かだが、威圧感のある言葉だった。リーヌスはあとずさりしたい足を抑えて、背筋を伸ばす。

「もう僕には婚約者がいます」
「婚約式はまだだろう。俺ならゲートハイルよりも金を出してやれるぞ」
「あなたは……」
「テオフィル・ベルヒェット。商家の平民で、貴族じゃない」

皮肉げな笑みが、ほどよく肉感のある唇にのせられる。

「お前の両親はすでに賛同している」
「僕との結婚で、あなたにどんな利点がある?」
「婿入りすればレーヴェンタール姓で動ける。それから、ゲートハイルより金を出せることを喧伝できる」

テオフィルは質問に簡潔に答え、リーヌスをじろりと睥睨した。

「お前の容貌なら話題もさらえるだろうな。商家の平民が美しい没落貴族を買った、と」
「没落はしていない」
「しているようなものだろうが」

そう言って、懐から金具に鍵の刺さった首輪を取り出すと、テオフィルはレーヴェンタール公爵を振り返った。

「簡易的だが、今から婚約式を行う。結婚式は派手にやるつもりだから、心配するな」

レーヴェンタール公爵は青い顔のまま立ち上がり、リーヌスとテオフィルの横に立った。

「父上……」
「すまないが、理解してくれるな」

長椅子に座ったままの母にも目を遣るが、すぐに逸らされてしまう。
ゲートハイルとの結婚で期待できるのは家を元の財政状態に戻すまでだが、目の前の男と結婚となれば、それ以上が手に入るという。
テオフィルが公爵に首輪を渡すと、公爵は立会人らしく意識したように胸を張った。

「アルファは、首輪の贈与を以て婚約を誓うか」
「誓う」
「オメガは、首輪の拝受を以て婚約を誓うか」

結局金のために結婚するのは、相手がアルブレヒトでも、この男でも変わらない。優しくはなさそうだが、なんだか、もう、どうでもよかった。

「……はい」

投げやりな返事をして、襟飾りを外す。首元をくつろげると、公爵からテオフィルのもとに戻された首輪が、確かな金属音とともに取り付けられた。テオフィルが鍵を抜き取り、懐に仕舞う。
所有の証が冷たく存在を主張する。恐る恐る首輪に触れた。緩くもないが、きついわけでもない。それでも確かに息が詰まった。

「今からこちらの邸に来てもらう。荷物はあとからうちの使用人に回収させる」



目を見張るほど豪勢な馬車に乗ってベルヒェット邸へと向かう道中、リーヌスはテオフィルから首輪の鍵を渡された。

「式の手前俺が預かったが、お前が持っていろ」
「なぜ」
「失くされたいか?」

リーヌスは髪を一つに結えていた紐を解き、鍵に空いた穴に通した。それを左手首に巻きつけ、袖の内に隠す。
オメガに首輪の鍵を渡すアルファなど聞いたこともない。一般的に、鍵は愛の証としてアルファ側が保有する。
所有と相違ないだろう、とリーヌスは思うが、この慣習は喜ばしいものとして世間に広く認められている。
所有の証を易々と手放した目の前の男を、リーヌスはまじまじと見つめた。
この美貌を持つ上、ゲートハイル以上の富豪であるならば、社交の場で噂にならないはずはない。しかしリーヌスは流言や噂に疎かった。公爵の一人息子という立場でありながら、レーヴェンタール家は落ち目な上に、リーヌスの性別はオメガの男である。アルブレヒトとも婚約前である手前、わざわざ話しかけてくる人間はいなかった。
テオフィルが自分との婚約で貴族姓を手に入れれば、いよいよ大手を振って社交界に参加するのだろう。自分のような疎外された者の目にさえ入るほどの輝きをまとって。

「何か?」

問われて、首を振る。それきり会話は途絶えた。
ベルヒェット邸に到着するまで、さして時間はかからなかった。リーヌスがテオフィルの手を借りて馬車を降りると、まるで要塞のような威容を誇る邸宅が聳え立っていた。
邸の前に出揃った使用人たちが腰を折り、主人とその婚約者を迎える。

「式までの五日間、こいつを部屋から出すな」

テオフィルは一言言い残すと、再び馬車に戻っていった。
わかっていたことだが、言葉にされると気持ちが沈んだ。オメガの身に自由はない。テオフィルにとって、首輪の鍵の所有権など瑣末な問題でしかないのだろう。

「ご案内いたします」

使用人の一人に連れられて玄関の円形の広間に入る。誰の目にも豪華な装飾がまばゆい。二又に別れて両側の壁に沿った階段を右側から上っていく。二階にたどり着くと、両開きの大きな扉がリーヌスを迎えた。

「こちらは大広間です。次の社交期、ここで披露宴を行います」

玄関よりさらに豪奢な装飾を施された広間が、開かれた扉の中に見えた。頷くと、再び扉が閉じられる。

「結婚式は中庭で行います。雨天の場合は大広間を使いますが、いまは乾季なのでご安心ください」

回廊を進み、もう一度階段を登った先にリーヌスの居室はあった。調度品はどれも繊細な意匠だが、華美すぎるわけではない。落ち着いた部屋だった。
レーヴェンタール邸の自室は、そもそも物が少なかった。家具やら調度品やら、不要なものはとにかく売っていたせいだ。そんな飾り気のなさは似ているが、もの寂しい部屋という感じはしない。

「素敵な部屋だ」
「今後はこちらでお過ごしください。必要なものは何でも準備いたします」
「ありがとう」

居室群を案内される。衣装部屋や応接室は当然のごとく存在したが、驚くべきことに風呂と閑所まで備え付けられていた。上下水道が通されているらしい。
最近作られる邸宅では水道が採用されているようだが、とにかく設備に金がかかると聞く。金が足りなければ設置を諦めるところもあるだろう。
案内を終えた使用人が下がると、リーヌスは寝台に突っ伏した。
今日まで会ったこともない男と婚約して、自分はここにいる。まるで信じられなかった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です

ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」 「では、契約結婚といたしましょう」 そうして今の夫と結婚したシドローネ。 夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。 彼には愛するひとがいる。 それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?

愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない

了承
BL
卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

番解除した僕等の末路【完結済・短編】

藍生らぱん
BL
都市伝説だと思っていた「運命の番」に出逢った。 番になって数日後、「番解除」された事を悟った。 「番解除」されたΩは、二度と他のαと番になることができない。 けれど余命宣告を受けていた僕にとっては都合が良かった。

執着

紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。

借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる

水凪しおん
BL
名家の次男として生まれたΩ(オメガ)の青年、藍沢伊織。彼はある日突然、家の負債の肩代わりとして、二十歳も年上のα(アルファ)である実業家、久遠征四郎の屋敷へと送られる。事実上の政略結婚。しかし伊織を待ち受けていたのは、愛のない契約だった。 「一年間、俺の『鳥』としてこの屋敷で静かに暮らせ。そうすれば君の家族は救おう」 過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。 ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。 孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。

バイト先に元カレがいるんだが、どうすりゃいい?

cheeery
BL
サークルに一人暮らしと、完璧なキャンパスライフが始まった俺……広瀬 陽(ひろせ あき) ひとつ問題があるとすれば金欠であるということだけ。 「そうだ、バイトをしよう!」 一人暮らしをしている近くのカフェでバイトをすることが決まり、初めてのバイトの日。 教育係として現れたのは……なんと高二の冬に俺を振った元カレ、三上 隼人(みかみ はやと)だった! なんで元カレがここにいるんだよ! 俺の気持ちを弄んでフッた最低な元カレだったのに……。 「あんまり隙見せない方がいいよ。遠慮なくつけこむから」 「ねぇ、今どっちにドキドキしてる?」 なんか、俺……ずっと心臓が落ち着かねぇ! もう一度期待したら、また傷つく? あの時、俺たちが別れた本当の理由は──? 「そろそろ我慢の限界かも」

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

処理中です...